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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

第二節 ハリストス正教会

 カトリック(旧教)、プロテスタント(新教)と並び、もう一つの大きなキリスト教の流れ(旧教系)がある。東ローマ帝国に栄えたギリシャ正教が北進し、ロシアに入って普及したハリストス正教会である。スラブ語ではキリストをハリストスと発音する。
 東京駿河台のニコライ堂で有名なニコライ(一八三六~一九一二)は、名をイオン・ディミトリウィチ・カサーツキンといい、日本への来航を希望していたところ、函館ロシア領事館の司祭の募集があったのに応じ、修道士となってニコライと改め、文久元年(一八六一)来日し、正教を伝えた。同志社を開いた新島襄がアメリカへの脱出を計画したとき、ニコライは彼を自宅にかくまい、その渡航を援助したこともある。
 その後、東京へ移りそこを本拠として全国に布教の手を広げたが、日露戦争によるロシア人捕虜(将校)四三八名、下上及び兵七万五二五名)が、全国二七か所に収容されたのを機に、捕虜たちの精神的慰安と日本で死去した捕虜を慰霊し記念するため、聖堂を建立した。その中の一つに松山があり、明治四〇年(一九〇七)一一月、松山市一番町に起工、翌年八月一八日に成聖式を挙げた。松山ハリストス正教会聖ニコライ聖堂という。明治四五年の松山古地図には、はっきりと名前が載っており、それによると現在の裁判所斜前、村善旅館辺りでぱないかと思う。この建築費はモスクワの慈善家キヤユヤ・フェオドロウナ・コレスニコワ夫人一人によって献金され、総額一二二万五九〇一円であった。
 戦争中、ハリストス正教会は、敵国ロシアの教会であるため、司教らの日本滞在と伝道は苦難に満ちたものであったが、正教会が彼ら捕虜の面倒をよく見、日本政府もまた人道的に優遇したので、その博愛の心は大いに世界的名声を得た。聖堂にある鐘楼から流れる鐘の音は、まことに美しいものであったという。
 その後、関東人震災の時焼失した東京ニコライ堂再建のため、大正一三年(一九二四)四月、松山の聖堂を解体し、東京へ運び境内に新築するとともに、松山の地所を売却してニコライ堂再建の資金とした。
 そのため、昭和二年(一九二七)七月をもって、正教会の松山での伝道は終わった。移された聖堂は、祈とう所として用いられていたが、それも老朽化して昭和三九年に解体した。その時松山より持っていっていた聖障は、大阪聖堂に、多燭灯は曲田聖堂に移され今も現存している。一説に、ニコライ堂再建のときの鐘は松山にあったものを持っていったというが、その事実はなく函館の鐘を移したものである。