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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

第四節 新神学その他

 1 普及福音新教伝道会

 明治中期、日本プロテスタント教会の中に起こった自由主義的神学思想を、新神学と呼んだが、それには二つの大きな流れがあった。その一つは、明治一七年(一八八四)、ドイツ及びスイスの自由主義者によって結成された普及福音新教伝道会(Allgemeiner Evangelisch Protestantischer Missionsverein)である。
 その中心は、W・シュピンナーやオットー・シュミーデルらで、日本を第一伝道区として、翌一八年、シュピンナーが、二〇年シュミーデルが来日した。そして、シュピンナーによって受洗した者が教会を建て、機関紙「真理」を刊行して伝道し、教勢を拡張した。
 彼らは、キリスト教が永年の歴史の中で種々の教義を形作ってゆき、そのため学術と抵触しイエス・キリストの真正の精神と齟齬して来ていると主張する。そこで「此等奇異なる形状即ち甘味ある核仁を被色する苦味ある堅殼」(「真理」一八八九・一〇)が、どうして出来て来たかを自由に考究し、甘味ある核仁即ち正しき観念を示す務めがある。聖書は神の超自然的啓示の書というより、人間の宗教的な記録であり、キリスト教は諸宗教のうちで宗教の本質をとらえた最高のものであるというのである。
 松山出身で正岡子規とは従兄弟半の間柄であった三並良は、子規とは竹馬の友であり学友でもあったが、明治一五年上京して東京独逸学協会学校・新教神学校に学び、普及福音協会の牧師となった。同四一年、第一高等学校教授、大王八年に創設された松山局等学校に招かれて一三年病気退職まで、教頭を務めた。その間、万国自由宗教大会に出席し、流暢なドイツ語と深い学識とをもって一般社会に貢献したが、晩年の一八年間は半身不随の生活であった。しかし、「信仰の真理」なる月刊個人雑誌を出版し続けた。

 2 ユニテリアン

 新神学のもう一つの流れに、ユニテリアンがある。明治二〇年(一八八七)、米国ユニテリアン協会(The AmericanUniterian Association)のA・M・ナップが来日、福沢諭吉を始め加藤弘之、中村正直らに迎えられ、同二三年「ゆにてりあん」(のちに「宗教」と改名)という雑誌第一号を出した。教会を作らず、唯一館(Unity Hall)を設けて学術、倫理社会問題について研究発表した。ユニテリアンは、文字通り神の唯一性を信ずるので、神・キリスト、聖霊なる三位一体の教説は否定する。神はキリストを通じてではなく、かの万有引力の法則のような形で自らを啓示し、人間は理性・良心・宗教心を通してそれを認知するのである。キリストは神の子たる人間の中で最も神に近いもの、われわれに神聖な生活、真の生き方を示してくれた一大人間教師であるとする。
  村井知至(八二五頁参照)は、松山市の出身、同志社を出て今治教会、東京本郷教会で伝道したが、渡米してアイオワ大学で社会学を学んでよりユニテリアン協会に転じ、同時に社会主義研究会に入った。伝統的なキリスト教よりも自由な信仰と学術的な社会主義思想に傾いた。三並良・村井知至ともに新神学の立場を受け入れたクリスチャン学究であったといえよう。しかも、新神学二つの流れの代表的人物として存在したことは興味深い。この二つは、戦後、ともに日本自由宗教連盟に合体している。(資料編九三七頁)

 3無教会主義

 内村鑑三に始まり、その門下生によって受け継がれているキリスト教信仰と主張であって、よく無教会派といわれるが、無教会主義といったほうがよい。というのは、彼らは聖書の教会を否定するのではなく、儀式、典礼信条や形としての教会堂など、制度となり過ぎている教会は教会でなくそこに救いはない、無教会とはいわゆる教会のない者の教会であり、「無」は「無にする、無視する」の無ではなく「ない」と読むべきであるというのである。
 内村は自宅を開放し聖書研究会を続け、また、雑誌「聖書之研究」を発行、あるいは、各地に講演会を開き、外国伝道会や他人の援助を求めず、自主独立の信仰を説いた。それは、矢内原忠雄らに受け継がれた。矢内原は今治市松木の出身、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、英国留学などののち母校東京大学教授となり、総長を二期務めた。新渡戸稲造・内村鑑三の影響を受け、聖書の信仰に基づいて時代を批判し、そのため東大を追われたこともあったが、学術研究とともに一貫した信仰をもって日曜集会や「通信」「嘉信」などの雑誌によって聖書研究に立つ伝道をなし、預言者的立場を貫いた。無教会グループは、全国に四三数えられる。(資料編九六二頁)
 愛媛県では、矢内原忠雄が住友在職中、住友家後継者の養育係を務めていた黒崎幸吉とともに、住友教友会を指導し盛んな活動をしていた。また松山では昭和一〇年三月一七日、王井斌・井上徹朗らが始めた聖書集会が現在もなお、松山市民会館を借りて続けられている。