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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

一 近代絵画と南画の全盛

 どこの国、いずれの時代も、革命戦乱の時は、美術など精神文化の衰退は古今東西皆同じである。日本における幕末・明治の動乱もその例外ではない。桃山以来三百年にわたり、日本絵画最大の画流として繁栄を続けた狩野派の末路は特にあわれである。全国各藩から選ばれた俊英数百の門弟たちも順次離散し、結局だれもいなくなり、広い画塾もついに空き家同然となり、閑古鳥の鳴く有り様。当時最も隆盛を誇った木挽町狩野の塾頭で、後の明治画壇の大御所狩野芳崖でさえ、フェノロサに見いだされるまで長屋住まいをし、妻の営む八百屋で生計を支え、同門の橋本雅邦も製図工となっていたという。したがって、各藩絵師の困窮振りもほぼ想像に難くない。廃藩とかかわりない新興画流円山・四条の画家でさえ、路頭に迷い転職、流浪続出という。ともあれ、明治初頭は日本美術の暗黒時代であり、極度な衰微・荒廃の時である。
 ところが、その暗黒といわれる時代に、意外にも、ただ一つの例外がある。それは南画の隆盛である。幕末から明治にかけ、日本南画は全盛期を迎える。俳聖正岡子規は、同郷の洋画家下村為山に、「南画にあらずんば絵にあらず」といい、南画礼賛論で為山と激しい論争を展開する。その論争は結局子規の負けとなり、彼もやがて洋画礼賛論者となるわけだが、幕末・明治の南画全盛期には、絵心あるものはだれもがそれを習い、子規のいう「南画にあらずんば絵にあらず」の風潮は、単に愛媛県下だけでなく、全国津々浦々に普及していた時代思潮といえよう。
 一体、なぜ南画がそれほど普及し、一般に親しまれてきたのであろうか。中国における北宗・院体、日本の狩野・大和絵が常に支配階層の専有であるに対し、南画はあくまで在野の絵、その清新自由なアマチュア精神、庶民感覚の大衆性によるといえよう。明治維新を成し遂げた憂国の志士たち、また新政の要路にたった顕官たちは、みな漢詩・漢文により育てられた悲憤懐慨の士であり、いわば体制への反逆者である。したがって、伝統絵画の優美華麗さより、彼等の感懐を端的に表す豪放洒脱な南画を歓迎したのも至極当然ともいえよう。そうした新政顕官たちの支援も得て爆発的な盛況を呈すのが、南画隆盛の要因でもあろう。
 ところが、明治も中ごろになると、文明開化の波に乗り、西欧リアリズムの洗礼を受けた新日本画の台頭や洋画の進出が目立ち、これまで時流に乗ってきた南画も、次第に画壇の表舞台から姿を消していく。従来の床の間芸術をそのままに公開の会場に持ち込んだ南画は、新時代の覚醒に乏しく、近代絵画としての脆弱さも目立ち、旧派といわれ次第に主流の座から追い落とされる。南画・文人画は、元来素人の絵である。その大衆性が基盤となり大発展をとげることとなったが、やがてそれが裏目に出て、いわゆる「つぐねいも山水」の汚名とともに凋落の一途をたどることとなる。だが、それは日本南画の一般傾向であり、愛媛県における根強さはまた格別といえよう。当地における最後の南画家といわれる三好藍石・野田青石らの活躍は昭和初期まで続き、主流の座は容易にゆるがない。

1 中予の南画家

天野方壷

 方壷は文政一一年(一八二八)三津の富商天野家に生まれる。名は俊、通称を大吉、方壷と号し、他に雲眠・壷道人・白雲・景山・葛竹城など別号も多い。若くして、同郷四条派の町絵師森田樵眠の指導を受け、上洛して当時京都画壇の大御所中林竹洞(一七七六~一八五三)門下で南画を学ぶ。竹洞の没後、彼三〇歳のころ中国に渡り、明・清文人画最後の大家といわれる胡公寿に師事する。後に東都の南画を風靡する安田老山はそのころの同門であり、同じく彼と共に愛媛画壇の双璧とうたわれる続木君樵も少し遅れて同門に学ぶ。彼は、その後も引き続き数回中国に遊学、多くの文人と交友を深めるとともに、各派の名画に接し、スケールの大きい独自の画風を形成する。帰朝後は京都に定住、田能村直入・富岡鉄斎・中林竹渓・日根山対山・中西耕石等とも交友厚く、中央画壇で活躍するとともに全国各地を歴遊、明治二七年(一八九四)六七歳岐阜で没し、墓は京都市下鴨霊厳寺にあるという。
 彼の人物・経歴につき断片的な資料をつき合わせると以上のようだが、幕末、明治の激動期、若くして郷里を飛び出し、京都に定住したとはいえ、中国並びに日本各地を絵筆一本で渡り歩き、旅先で没したいわば遍歴の画人であり、その詳細はわからない。だが、彼の遺墨は、県内はもとより全国各地に散在し、熱狂的な支持者により今も多く珍重・秘蔵されている。
 それらの作は、山水・花鳥・人物いずれも俗塵を離れ、気宇広大で自在の境を行き、四条派の修練も経ているだけに確かな写実に裏付けられ、いわゆる文人画の域を脱し、本格的な専門画人であることを十分示している。中国で彼と同門の安田老山は、帰朝後東都の南画を風靡し、純中国風を鼓吹し「いやしくも和臭あるものは絵にあらず」といっているが、さすがに同門、俗塵離れをした方壷の作風は、当時南画の尖端を行く作家にふさわしい貫禄を示している。
 天野方壷と続木君樵は明治初頭における愛媛画壇の双璧という。彼等は、ともに当時の南画人あこがれの中国大家胡公寿の門下生であり、また若くして郷里を離れ全国を渡り歩いた遍歴の画人ということもよく似ており、当時の伊予画人中では抜群の存在で、確かに双璧というにふさわしい。だが、君樵は、帰朝後郷里に落ちつき、作画を楽しみながら画塾を開き後進を指導、そこに育った三好藍石ら多くの門弟たちは、やがて以後の愛媛画壇を風靡するに至る。一方、方壷は、郷土を離れ全国各地を歴遊、中央画壇で華々しい活躍をするが、一人の門弟ももたず、専らおのが画業に専念する。その間、どれほど郷里に滞在し、どれだけの影響力を持ち得たのか。その点資料が乏しく推測の域を出ないが、彼は、専ら作品により郷土人士の心をとらえ、その作風で愛媛画壇を風扉したのではなかろうか。今に残る多くの遺墨によっても、それを裏付けるに十分といえよう。

その他

中神靄外

 (一八五九~一九四一) 松山の人。武智五友に漢学、名草逸峰に南画を学び、山水・花鳥を得意とする。


藤田三友

 (一八六九~一九四七) 松山の画人中川秋星の次男に生まれ、名は次平、三友と号し、藤田家を継ぐ。明治六年父と共に鉄斎と知友となり、その画風を当地に伝え、「藤田鉄斎」とも呼ばれる。

手島石泉

 (一八五二~一九四七) 越智郡上浦町瀬戸に生まれる。名は正誼、松山藩士。明治四年、廃藩置県後官界に入り、丸亀警察署長を経て宇摩郡長となる。在任中、三好藍石に師事し、藍石に上阪をすすめ、師を大成させるきっかけを作る。田能村竹村とも交友し、淡黄色の着彩山水を得意とする。晩年は松山に住み後進の指導に努めた。

2 東予の南画家

村上鏑邨

 鏑邨は諱を春哲、字を子保、通称十郎、村上安之亟春忠の五男として文政五年(一八二二)宇摩郡土居町蕪崎に生まれる。別号を鏑村、二名洲漁夫、愛涯墨雲ともいう。村上家は建武のころ尊氏に味方し播州地方守護を勤めた家柄、三百年前当地に郷居した名門で、旧藩から「庄屋被仰付」「上下御免」「苗字帯刀御免」といわれ、父春忠は里正を勤めていた。彼は、幼少より書画を好み、若くして京に上り中西耕石について南画を学ぶ。一方、勤皇の画家であり天誅組の首領藤原鉄石と血盟を結び、また同じく勤皇の志士、頼山陽を助けた儒者篠崎小竹とも親交あり討幕運動に加わり、明治維新までは志士として奔走するが、維新達成後は専ら画道に専念する。
 彼の絵は、師の耕石よりも藤本鉄石・篠崎小竹・貫名海屋らの影響を受け、池大雅・田能村竹田・中国の沈石田・米芾・文徴明らの絵に傾倒し、南画の正統に忠実で格調は高いが自らの個性確立にはまだしの感もある。明治一〇年代、彼五〇余歳ころの巷間番付によれば、竹田・海屋ら一五七名中四七位にランクされ、伊予の双璧とうたわれた続木君樵・天野方壷らより上位であり、当時の世評はかなり高かったようである。彼も晩年は旅に明け暮れ、全国各地を遍歴、自ら「畳の上では死ねない」といっていたようだが、その通り、明治二六年(一八九三)旅先の但馬国美方郡浜坂町の旅館で病死する。六八歳であった。

続木君樵

 方壷とともに愛媛画壇の双璧とうたわれた君樵も、幕末・明治の激動期を、ほとんど全国各地の遍歴に明け暮れ、晩年郷里に落ちついたとはいえ、それもわずかに数年間で、その足跡はやはり不明な点が多い。
 彼は天保六年(一八三五)宇摩郡土居町野田の旧庄屋の家系続木雅智の次男に生まれた。諱は雅直、字は寿民、通称を宇多三、君樵はその号で、六宣道人ともいう。幼少より書画を好み、嘉永二年一五歳で九州に遊学、豊後南画の本拠でつぶさに修業、三〇歳前後は長崎に滞在、当地の大家木下逸雲、僧鉄翁について学び、明治二年三五歳で一応郷里に帰
る。さらに二年後、三七歳から二年間山陰地方を歴遊、明治七年、四〇歳で中国に渡り、方壷と同じく胡公寿門下で二年間修業。帰朝後は郷里に定住、作画のかたわら画塾を開き後進の指導に当たる。だが、その後も土佐・出雲地方を遍歴、明治一六年七月一六日旅先の出雲で没す。
 終生を旅に明け暮れた遍歴のせいか、彼の遺墨は郷里にも少ない。四九歳という若さで没し、円熟境の落ちつきをもち得なかったのかも知れないが、それにしても、当時の名声に比し余りにも少ない。方壷の才気煥発、あらゆる技法を駆使しての多彩な画風に対し、彼は清楚で一筆一筆誠実にかくおだやかさである。その少ない遺作にも、激動の世に世俗の欲を一切捨てた画人のひたむきな求道の姿勢がうかがわれる。
 彼の短い生涯でもう一つ特筆すべきは、画塾による後進の指導である。そこに集まる村上鏑邨・三好鉄香・三好藍石らは同年輩で門弟というより友人というべきであろうが、彼の息吹をよく伝え、やがて愛媛の南画を風靡するに至るのも、彼の愛媛画壇に及ぼした影響の大きさを物語るものである。

三好藍石

 彼は天保九年(一八三八)徳島県池田町に生まれ、川之江の素封家三好家に迎えられ養子となる。名は信、字は小貞、通称を旦三といい、藍石は号であり、金江・螺翁・河江翁ともいう。三好家は、代々酒造業を営む近郷きっての素封家であり、彼も詩文・書画を好む学識高い文化人であった。当家は文人墨客の出入りが絶えず、当地における文化交流の一大サロンの役を果たしていた。近くに住む続木君樵もその常連であり、彼の画業に大きい影響を及ぼすこととなる。そうした環境で悠々と文人気どりの彼は、明治初年の激動期、郷党に推され県会議員となり政界に乗り出す。さらに時代の要請で産業開発にも関心を示し、製陶・海運・養豚にまで手を出す。だが、元来は無欲恬淡の文人ゆえ、政治や実業が性に合わずすべてが失敗に終わって、さしもの名家も破産という破局を迎えることとなる。
 彼が、いわゆる文人画家から脱却、専門画人としての道を選ぶのはそのころのようである。先祖から受け継いだ栄誉・資財の一切を失い、人の世のはかなさ、みにくさをつぶさに味わい、彼は六〇歳を過ぎ一流浪の画人として大阪へ出て行く。その大阪行きをすすめ、奔走したのは当時宇摩郡長を勤める門人の手島石泉ら多くの門弟たちだという。以後、彼は在阪二〇年、各地の画人と交流、研鑽を深め、多くの名作を残し、当地南画界の雄として、彼の生涯で最も充実した画人生活を送る。
 大阪南画壇で盛名をはせた彼は、八〇歳を過ぎ、郷党や門人に迎えられ郷里川之江に帰り、城山山麓の小画禅堂(清風明月草堂)に落ちつき、画禅三昧の老境を過ごし、大正一二年(一九二三)一〇月二〇日、八六歳で没す。川之江城山の中腹、彼の寓居小画禅堂のほど近くに、格調高い石文の「藍石翁寿蔵碑」が門人たちにより生前に建てられ、また、没後二年の三回忌記念に『藍翁芳跡』の見事な画集が出版され、彼の遺墨とともにその画業追慕の層の厚さを示している。
 彼の遺墨は、川之江地方を中心に各地に散在し、その数は随分多い。それらのうち、彼五四歳作シカゴにおけるコロンブス記念博覧会出品の「寒霞渓秋景之図」翌年作「祖谷山蔓橋真景」、大正天皇御大典記念に献納の「老松亀鶴之図」、同じく天覧の栄に浴した「一品当朝之図」などがよく知られ、代表作といわれる。彼の描く山水は、あくまで南画の伝統描法にのっとり、一筆一筆を誠実に、また巧みな雲姻による緊密な構成で生々しい現実感をもりながら超現実の神仙境を描出する。その卓抜の画技は、長年にわたる彼の厳しい求道・修練の賜物であり、いつまでも郷土人士の心をとらえて離さない。
 藍石の影響を受けた同郷の画人に、次に記す大西黙堂・安藤正楽がおり、また東の藍石、西の青石と称された八幡浜の野田青石がいる。

大西黙堂

 同じ川之江の画人に藍石より少し若い大西黙堂がいる。彼は、嘉永四年(一八五一)生まれ、本名を為一、黙堂はその号で、また黙仙ともいう。大西家は代々質商・精糖を営む古い家柄であり、いわば恵まれた家系であるが、彼は生来の唖者、号もそれによるという。音のない世界はどういうところか、また、絵との関係はどうなのか、彼が画人として立ち行けたのは、母親駒の献身的な愛育によるという。
 明治初年京都に上り、南画家浅井柳糖に師事。以後、師とともに一〇年にわたる全国各地の写生行脚をする。明治九年、二六歳で東洋絵画共進会で三等賞を受賞。三四年全国南画共進会で三等賞受賞で画人としての地歩を確保。晩年は郷里川之江に帰り、三好藍石・田能村直入ら各地の画人とも交友を重ね、悠々と作画三昧。時計、篆刻、象眼等にも興味を示し、多芸多能の人である。大正一〇年、七一歳で没す。
 代表作「赤穂浪士討入之図」六曲一双屏風始め、繊細華麗な花鳥・人物など彼の遺作は多彩であるが、いずれもおおらかで自由、音の世界から隔離のせいか、透徹・明快、確かな構成で見るものの心を絵の世界に引き入れる特異な魅力をそなえている。

安藤正楽

 正楽は、慶応二年(一八六六)宇摩郡土居町中村の郷士の家に生まれ、幼名を岸蔵、呼び名を鬼子太郎、後に正楽と改める。幼少より学問・音楽を好み、福沢諭吉の『学問ノスヽメ』を読み発奮、明治法律学校(のちの明治大学)へ入学。卒業後、京都相国寺管長荻野独園のもとに参禅。同郷の南画家続木君樵、村上鏑邨、三好藍石らの影響を受け絵を描き始める。
 明治三六年、三八歳で県会議員となり、部落解放・反戦運動にも挺身し、明治四〇年までつとめる。翌年上京し、古代史の研究に没頭、『日本紀年修正考』をまとめる。大正四年帰郷、『伊予石器時代遺跡考』、『土器図譜』、『金銀銅鉄器図譜』、『埴輪図譜』『石器時代図文綜観』、『古墳時代の支那・朝鮮』等の出版に取り組む。大正九年、銀婚式記念に村の水道工事を起こし、これを寄贈。大正一二年より伊予美術展へ水墨画・油絵など連年出品。昭和九年農村不況救済のため窯を築き、「小富士人形」の試作をするが失敗に終わる。昭和二〇年の敗戦により長年の非戦・平和の願いがかない、戦没遺族の援助に全力を尽くし、昭和二八年七月二八日、八八歳で没す。
 彼は学者、政治家、非戦論者、人道主義者、かつ画家という多芸多能の士である。日露の戦勝記念碑に堂々と「忠君愛国の四字を滅すべし」と書き、「王よ剣を捨てよ」と叫ぶ。今の時代思潮からは至極当然のようだが、当時それを叫ぶことはまさに命がけである。そのため逮捕拘留され、危険人物としてたえず官憲につけ狙われる。だが、それにも屈せず古代史の研究に取り組み、日本紀元の誤謬を確かめ、主張し続ける。その悲願はついに敗戦によりかなえられるが、その痛手は大きく、彼は終戦の玉音に泣き、「大観す仮死五十年、反魂八十一春」と賦す。
 彼の絵は、その長い仮死五〇年の悲しみ、怒りの表出であり、その痛切さはみる人の心をゆさぶる。ただ、その多芸多能・多情多恨はすべてを集約、純化し、絵に完全昇華を欠く面もあるが、その鮮烈さは伊予の画人にも比類を見ない。

その他

高 秋田

 (一八三九~一八九三)京都に生まれ、日根山対山に師事、西条・大洲など県内滞在はわずか五年であるが、多くの優品を残し、郷土人士に大きい影響を与える。

鱸 亀峰

 (一八五七~一九〇二)今治の人、諱は栄運、亀峰と号す。名草逸峰に南画を学び、人物、山水、花鳥いずれも巧み、また書・彫刻・三絃・料理に至るまで多能多芸、父素堂も能書をもって知られる。四六歳にて没す。

矢野圭洲

 (一八三八~一九一五)東予市円海寺の保内八幡神社々家に生まれ、京都の南画家上田公圭に師事、人物・花鳥を得意とする。広島にて没す。七八歳。

3 南予の南画家

野田青石

 青石は、万延元年(一八六〇)、八幡浜市矢野町の旧庄屋野田斉の長男として生まれる。通称を純太郎、諱を真淳、字を士粋、青石と号し、別に孤雲・雪如・養神窟ともいう。幼少より絵を好み、上甲振洋に漢字・書を学び、荒木鉄操に付き絵を習う。明治九年、一七歳で東宇和郡宇和町の小学校教師となり、二年後に退職。明治一一年一九歳で画家を志し、南画の本拠豊後に渡る。田能村竹田の高弟帆足杏雨の指導を受け五年間修業。その後、大阪の藤沢南岳について漢学・漢文を学び、大法寺の和尚西山禾山に付き禅学を修業。また全国各地の名勝を訪ね、名士と交友、ひたすら画業に精励する。
 明治二六年三四歳のとき、シカゴにおけるコロンブス記念世界博覧会に「桃源図」を出品し奨励賞を受賞。引き続き大阪・京都の各種展覧会に連年出品し、三等賞二回、二等賞一回、一等賞一回を受賞し、中央画壇でも名声を博した彼は一家挙げての上洛を決意する。ところが、ちょうどそのころ、思いがけない重病と分かり勇途は挫折、悶々のうちに長い療養生活を送ることとなる。そのころ、禅学の師禾山和尚にすすめられ、療養を兼ね京都相国寺荻野独園師のもとに参禅、雪如の居士号を受ける。四六歳のころ、ようやく病気回復、以降は上洛も断念、郷党に支援され郷里で画家に専念、昭和五年三月二日、七一歳で没す。
 彼の遺墨は八幡浜を中心に随分多い。それらの作には近代洋画の影響も濃く感じられるが、全体を貫くものは竹田・杏雨を主軸とする豊後南画の正統を行き、一種憂愁感を伴う細やかな神経、温和で気品に満ちた作が多く、青石自身の人柄をそのままに表している。彼の生きた世代は南画の凋落期であり、洋画の台頭、明治新日本画の隆盛におされ、画壇の主流からは転落、南画は時流に取り残された姿となる。そうした時代に愛媛の地で彼はあくまで南画の正統を守り、それを貫ぎ通した最後の南画家というべきであろう。

白井雨山

 雨山は元治元年(一八六四)宇和町米穀商の四男に生まれ、名を保次郎、諱を保、字を子真という。雨山は号であり、また真城、晩翠軒ともいう。幼少より書画を好み、学業成績抜群で神童といわれ、二二歳で青雲の志を抱き上京する。明治二二年東京美術学校開設に当たり、その第一期生とし横山大観らとともに入学、彫刻科に学び高村光雲の指導を受け、二六年に卒業。石川県工業学校彫刻教師となり、三年後母校東京美術学校に迎えられ、以後二四年間教鞭をとる。彼の生きた時代はちょうど日本近代彫刻草創期に当たり、同校塑造科新設に心血をそそぐ。また多くの英才を育て、文展審査員も務めるなど、日本近代彫刻育ての親として後進から慕われながら、大正九年五七歳で退官する。その功績、人柄を慕う門弟たちにより、今も構内に彼の銅像が立てられている。
 彼は、東京美術学校入学前より絵も得意で、四条派の望月玉泉に学ぶなど、絵に対する執念はずっと持ち続ける。退官の数年前、大村西崖らと文人画復興を目指す「又玄社」を結成しており、本来の彫刻よりも絵の方に傾斜する。退官後は大阪に居を移し、専ら水墨画に没頭する。
 日本近代彫刻の父といわれ、彼が切り開いた道を、大勢の門弟たちはまっしぐらに進んでいく。その中で、張本人の彼はその本職を捨て、いわば余技ともいうべき絵の方に没入していく。なぜそうしなければならなかったのか、定年を待たずの勇退にもいろいろ事情はあるようだが、結局彼が自ら選んだ道である。
 だが、雨山には何の後ろだてもなく、清貧の中で糟糠の妻には先だたれ、子宝もなく、肉親にも死に別れ、天涯孤独で我が道を切り開く。そうした中で会得したものは、結局、西欧リアリズムの現実肯定ではなく、その奥底にひそむ東洋古来の反俗超脱の思念ではなかろうか。ともあれ、彼の描く水墨山水は、一切の虚飾を振り捨て、大自然の骨組みをそのままに、点苔もなければ点景の人物もない、全く荒涼・孤絶の境を行き、彼のひたむきな探求の姿が痛々しいまでに迫ってくる。彼は、その画業なかばで、昭和三年五月六日狭心症のため突然没す。六五歳である。

村上天心

 天心は、明治一〇年(一八七七)宇和島に生まれ、本名を孝義という。家業は豆腐屋。貧窮のため学校にも行けず、独学で絵画・彫刻・漢学・禅を学び、各分野に卓抜の才能を発揮する。彼の人物につき、明治四〇年一二月二一日の大阪朝日新聞に「珍物画伝」と題し、次のような記事が掲載されている。「当年三〇歳。母一人子一人水入らずで豆腐屋渡世。棟割長屋のわび住まひ。破れタタミの上に身を横たへ暇さえあれば経書の耽読に余念なき仙人風の小男。その器用なことは全く天才で絵画・彫刻その他なに一つできないことはなく、大小の人形、舞楽の仮面などことに妙。絵は四歳のときからはじめ七歳の頃には絵師も舌を巻くほど。仏画でござれ何んでもかんでも気の向くままに書き散らし寺のふすまなど見事に描いてゐる。生来読書を好み、漢学の力すこぶる豊か、近来は仏典を渉猟してゐる」と。
 彼は、六歳のころ吉田の飯淵櫟堂に文人画と書を習い、一〇歳のころ大隆寺の(稲の禾へんが韋)谷老師に禅学、一一歳のころ白井雨山に彫刻、一八歳のころ金剛山葛原空庵に仏典、儒学、漢学を学ぶ。以後二八歳までに独学で雪舟・北斎・狩野・土佐・四条各派の画技を習得、独自の画風を生み出す。明治四三年彼三三歳の時、長年住みなれた宇和島を離れ明浜町に寄寓。大正三年三七歳で大分県杵築にうつり、当地安住寺の住職矢野玄道師の知遇を受け、以後、病没まで約四〇年間をその地で過ごす。
 彼の遺作は南予地方にかなり多いが、そのうち特によく知られ、地方人士の心に焼きついているのが、西江禅寺の「閻魔大王画像」の大作である。杵築の安住寺には、晩年の力作二〇〇余点が保存され、寺内の庭園には天心自身の建立になる開山堂、また天心を慕う壇信徒により建立された天心堂があり、彼の絵画・彫刻・建築など、天心芸術の全容を伝える記念館となっている。
 彼のそうした遺作に接するものはだれもがその途方もないスケール、デッサン力の確かさに驚き、ルネッサンスの巨匠を思わせるというものもある。一体その精気・強烈な個性はどこからくるのであろうか。学歴もなく、正規の師ももたない彼の、その天衣無縫の天性によることはもちろんだが、その彼を育てた南予の風土、その土俗的トッポ性からくるというべきか、ともあれ、彼の芸術は、とかく文化という名で忘れ去られようとする土俗の活力を呼びさまし、そこに根ざした生の歓喜の絶唱ともいうべきであり、郷土美術の在り方を示す一典型ともいうべきであろう。
 彼は生涯名利を求めず、妻もめとらず、無欲恬淡、現代の仙人といわれ、昭和二八年一〇月二二日、多くの壇信徒に慕われながら安住寺で没す。七五歳であった。