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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

四 展覧会時代

 明治四〇年、わが国最初の官展といわれる文部省主催の美術展覧会が開かれる。その文展は新鋭作家の登龍門として日本美術の発展に画期的な役割を果たし、以後を展覧会時代ともいう。県内にもそうした総合美術展開設の要望が次第に高まり、ついにそれが実現するのは関東大震災後の第一回伊予美術展覧会である。愛媛の美術もこの時から華々しい社会現象として注目され、展覧会とともに大きく流れが変わることとなる。

1 伊予美術展覧会

 第一回伊予美術展覧会は、大正一二年一〇月一二日から一九日まで、松山市一番町の県公会堂(商品陳列所)で開催、入場料一〇銭、毎日五、六百名の鑑賞者があり盛会であったという。出品点数は日本画六九点(屏風・軸物を含めると百余点)、洋画四七点、工芸一〇点、ほかに、伊予人ならびに縁故者所蔵の書画・工芸作品が二百余点。無鑑査制で行われる。
 この第一回展は会長が県内務部長百済文輔、その会長が、顧問・幹事・委員を委嘱し、顧問に仲田伝之ジョウほか一八名。幹事長安岡正光、幹事に西園寺源透ほか五名、委員に藤木紫香、長谷川竹友、矢野翠鳳、山本皓堂、ほか一二名である。出品依頼、収集には県商品陳列所長以下の当局者が当たり、顧問・幹事はもちろん委員も、少なからず地元の政財界の有力者や素封家によって占められ、極めて官展臭の強いものであった。
 そのことに対し開会前から批判が多く、洋画グループのうちには、中央展における二科会の独立のごとく、伊予美術展に反抗し、松山洋画展覧会を別に開催の動きがあり、牧田嘉一郎、三好計加を中心に、玉井恒孝、高木久次郎、古木昌幸の赤光社と八束清、長島操、窪田明朝の草丘社が反対の気勢をあげる。
 草丘社の一人は次のようにいっている。「伊予美術展など問題にしない。だいいも、主宰がわれわれ美術家と没交渉な内務部長であったり、出品者が伊予縁故者など漠然としたもので、委員の中には骨董屋さんやその他利益を主眼とするものらがいる。われわれが真剣な製作品を展覧するには余りにも不純であり、芸術の本質を度外視した展覧会は、いかに先輩連大家の作品と同席するにしても、われわれの芸術的良心に忍び得ないことである。かかる不純なものが、今後、伊予を代表するとすれば、われわれは戦うべきで、松山の洋画家のみで一つの旗揚げをすることになった。」と。これら青年美術家たちは、湊町の米周呉服店で対抗展を開く手はずを整えたが、結局、説得されて、それもやめ、伊予美術展会場に一区画を与えられ、そこに出品することとなる。このことに対し、当時の新聞は「一度反抗の気勢を示し、主宰者に強いショックを与えたが、それを妥協するとは芸術家にとり恐るべき街気であり自己の良心をまげる事」と非難している。また、多くの新聞は筆をそろえ、「伊予史談会や骨董屋さんブルジョアの所持品が飾られ」と報道記事に論評をつけ、連載で大きくスペースを割き、「伊予美術展・見たまま聞いたまま」の作品評をのせ「清純な青年美術家は芸術戦線に立って美の創造のため勇敢に闘はれんことを祈る」など、さまざまな問題点をとりあげ、にぎやかに報道し、県下最初の総合美術展生みの苦しみを伝えている。こうして、いろいろ問題は多かったが、初回としては予想外の好成績ということで、将来は、毎年開催ということとなる。

第二回展

 大正一三年六月一日から一四日までの二週間、前年と同じ県公会堂で開かれる。「第一回展は官展臭が強く、作家の不満、社会の批判も多かったが、今回は作家側の一大奮起により面目を一新、真の郷土芸術のために画家自身の展覧会を開催することになった。選ばれた委員も当地在住の真摯な作家のみで、経済面では商陳の村上所長を顧問とし堂々たる郷土美術の旗揚げをするはずである。その衝にあたる委員も、官吏となんら関係のない日本画の藤木紫香、手島石泉、長谷川竹友、藤田三友、矢野翠鳳、二神清逸、中神需外。洋画の平井為成、牧田嘉一郎、三好計加、谷山藤四郎、越智恒孝、牧野菱江らである。」と新聞も昨年と打って変わった筆調である。
 こうして幕を開けた第二回伊予美術展は、梅雨期にもかかわらず盛況で、出品点数は日本画九〇点、洋画五九点、彫刻八点である。第二回展は初回の不評を挽回すべく、新聞も大いに力を入れ、連日、作品評、論評などを掲載する。その論調は、おおよそつぎのようで、「第一回展より本質的な改変を加えただけに内容は確かに一進歩を見せている。だが、まだマンネリ色の色彩が濃厚。日本画における著しい玉石混淆と彫刻一部の無意味等、委員の鑑査が必要であろう。出品作家の中には既に美術協会なる純作家団体をも創設せんとしているが、この恵まれた郷土にあって、生命芸術の為に戦わんとする勇ましき芸術人の上に栄光あらんことを祈って妄評の筆をおく。」とも結んでいる。

第三回展

 大正一三年一一月一日から八日まで、同じく県公会堂で開かれる。出品点数は日本画六二点、洋画七〇点、彫刻一点、計一三三点である。この三回展で日本画洋画の出品点数が逆転し、以後、次第に洋画が多くなる。会期中の入場者数三五二六人という。
 閉会後の役員会で、明年は会期を一〇月とし、東・南予の出品をうながすため、会場に、松山のほか今治・宇和島の二か所を加え、また大山祇神社の国宝館竣工の機会に同神社で開催することを決める。しかし、それはついに実現せず、伊予美術展はこの三回で終わっている。その後、昭和五年愛媛美術工芸展の開かれるまで総合展の空白期を迎えることとなる。
 大正末年から昭和初期にかけ、日本の美術は大きい転換期を迎える。関東大震災をさかいに大正の甘美な個性主義に歯止めがかけられ、社会意識への自覚、傾斜が美術にも表れて、前衛的な動きが激しくなり、中央画壇も分裂離合が繰り返される。愛媛の画壇も、そのあおりを直接または間接に受け大きくゆれ動き、しばらく混沌の状況が続く。
 昭和二年春、国鉄予讃線の松山開通記念の産業博覧会に、道後公園東側グラウンドにバラックの仮設美術館を作り、現代美術展が開かれる。これは、全県美術家の大同団結を企図した催しであったが、かえってそのため分裂抗争を強める結果を招き、以後昭和五年の第一回愛媛美術工芸展の開催まで主流のないまま、小グループ分立抗争が続く。

2 愛媛美術工芸展覧会

 そうした混迷が続いていた県美術家の間にも、やがて一体感を求め、ぜひ総合美術展をとの声が高まり、それが県当局を動かし、当時の赤士内務部長を会長に、第一回愛媛美術工芸展が開かれる。昭和五年一〇月一五日から五日間、会場は県公会堂である。運営委員は日本画の矢野翠鳳、藤田三友、藤木紫香、手島石泉、中神靄外、武信範山、矢野翠堂。彫刻の山本八十蔵、工芸の藤井清、洋画の藤谷庸夫、松原一、越智恒孝、秋葉鎌三郎、牧田嘉一郎、三好計加、牧野龍二、筒井昇ら、のち県画壇の中核をなす作家たちである。
 形式的にはまだ官展色は消えないものの、これで久しくジグザグしていた愛媛美術界もやっと統一展をもつ運びにこぎつけ、「飢えの地方画壇に一脈の光明を与えたもの」と新聞は伝えている。この第一回展は無鑑査方式で、作風も広くポピュラーな作品が多く集まる。日本画一〇〇点、洋画一五〇点、工芸三四〇点、写真四〇点、彫刻四七点、合計六七七点である。
 それに対し地元新聞は各紙各様の報道をしており、会の中心人物の作にも、かなり厳しい批判を加えている。とくに洋画壇の二つの時流にふれ、「最近嬉しいことの一つは由来松山洋画壇には二つの時流があって、それも芸術上の理論的闘争でなく、感情上の疎隔から事毎に暗闘を繰返し、郷土画壇のため災ひしてゐた。然るに今回愛媛美術工芸アンデパンダンの画期的な壮挙に、従来の感情を放棄し、欣然融合握手して参加されたことは欣快この上もない」といっているのが目をひく。
 第二回展は昭和六年一〇月一六日から五日間、昨年同様県公会堂で開かれる。出品点数、日本画一二○点、洋画一三〇点、彫刻二五点、写真六〇点、工芸二二〇点。県内作家のほとんどを網羅し、県外在住作家の初出品も多く、質量ともに一段と向上したという。
 第三回展、昭和七年一〇月二〇日から五日間、同じく県公会堂で開催、入場者は五千余人といい、主催者も驚くほどの盛況という。出品点数も前回を上回り、日本画一三〇点、洋画一五〇点、工芸一八〇点、彫刻三〇点、写真八〇点である。
 第四回展、昭和八一〇月二〇日から五日間、県公会堂、出品点数は日本画一二〇点、洋画一二〇点、工芸一五〇点、写真五〇点である。
 第五回展、昭和九年一一月一日から五日間、県公会堂。初めて形式的な鑑査制を採り入れる。これまでの無鑑査制にはいろいろな利点もあったが、また弊害も多く、模倣の乱作洪水といわれ、各部門の出品を日本画一二〇点、洋画一三〇点、工芸一五〇点、彫刻二五点、写真二五点に制限する。
 この時も各新聞はそれぞれの視点で作品評を掲載しているが、中には次のように相当しんらつな指摘もある。「なお洋画についてはゲップがでる。食傷気味になって会場を逃げ出したくなった。これが愛媛美工展の洋画部門かと思ふと一部の人には気の毒だが、事実さう思ふより仕方があるまい。駄菓子屋の陳列みたいに飾ったのでは子供は喜ぶかも知れんが大人は見向きもすまい。もっと厳選が望ましい。こんなに洋画をやる人があるんだぞとおどかすより、質でいってくれといひたくなる。」
 第六回展は昭和一〇年一一月一日~五日、県公会堂。今回から正式に鑑査制をとり、日本画四八点、洋画九一点、工芸五四点、彫刻一五点、写真七点の入選を決定。このほか無鑑査が日本画一八名、洋画八名、彫刻二名、工芸三名である。
 初めての試みである鑑査制だけに、激論二時間のすえ一点をパスさせたという話も伝わり、好評のようである。審査基準は「洋画、日本画はいわゆる画の体をなしているもの、個性が現れているものを尊重」ということである。新聞の一般批評は「全般的に、鑑査制となったため一応粒選りが揃ってゐる。だが、日本画に依然として隠居じみた楽しみにかくといったものが多く、美術的、研究的な力強い作品が少ない。未完成ながら若い人の作に一寸面白いものもある」、「洋画は一般に普及している関係上よいものも多いが、人目を引くためコケオドシ的作品がまだまだ多く、無名の手になる作にかへってよい作品がある」など。

3 青年美術家集団の旗揚げ

 昭和一一年、愛媛美工展も回を重ねること第七回、前年に引き続き鑑査制をとり、一一月一日から五日間、例年通り県公会堂で開かれる。鑑査制については一部にアカデミックな官展的雰囲気をつくるものとの批判もあったが、会場施設からやむを得ないということになる。
 ところが、この年県美術界にとって特筆すべき事態が持ちあがる。かねて愛媛美術工芸展に官僚臭さがあると同会を脱退し、「青年美術家集団」を組織していた作家たちが対抗して独自の展覧会を開く。どちらも声明書や芸術論をもち出し論議のすえ、時を同じくし、しかも県公会堂と向かい合った愛媛会館(愛媛新報社三階)で開展となる。
 正統を誇る県美工展は日本画一一〇点、洋画一五〇点、彫刻一九点、写真四〇点。総合展であるだけに、量的にははるかに青年美術家集団を圧倒する。それに対し、洲之内徹ら一一名の集団は近代美術の本質に立ち、アカデミズム・官展臭さへの反撃と青年美術家らしく華々しい理論闘争を展開する。
 この前年、文部省の帝国美術院改組、いわゆる松田改組が発表されて、美術界に強いショックを与え、大騒ぎとなった。一国の美術政策の大転換で、果たしてこれまで通り発展の道をたどるかどうかの瀬戸ぎわである。反対運動の燃えさかる中、目前に迫った新帝展がどんな形で行われるか、各界あげて注目されていた矢先、改組を行った張本人の松田文部大臣が急死し、美術界は正にてんやわんやの大騒動となった。これは日本の中央画壇における現象で、愛媛と直接の脈絡があるわけではないが、このころ愛媛の美術界も美工展の順調な開催で各部門に主流が形成され、特に洋画では藤谷庸夫の教え子を中心とする蒼原会系が圧倒的な勢力となる。そこへ、中央や西欧からの新たな思潮が流入し、在野系、反主流の動きが、中央画壇の動揺に呼応し、郷土の主流にゆさぶりをかけたわけである。その対立抗争は従来にみる感情論的な主動権争いとは様相を異にし、愛媛洋画の主流に対する反主流、新旧の世代、美術思潮の対立がからみ合い、愛媛の洋画もようやく多種多彩となり、近代化の様相を色濃く示してきたというべきであろう。

4 戦時下の美術展

 昭和一二年七月、日中戦争勃発、いわゆる国家の非常時ということで、美術展の開催可否も問題となるが、例年通り松山では二つの美術展が開かれる。
 第八回展は一一月一日から五日間、県公会堂。日本画六三点(うち入選五九点)、洋画一五八点(七二点)、工芸七九点(五四点)、彫刻一四点(九点)。
 それに対し、第二回青年美術家集団展は一日早く一〇月三一日から三日間、商工会議所で開催。同人の一人上岡己平が戦死、その遺作三〇点と遺品のパレットや肖像が特別出品され、ほかに絵三〇点、版画六点、ポスター五点である。
 第九回展は昭和一三年一一月一日から五日間、戦時下の様相色濃く、諸事窮屈の中で開催。洋画のキャンパス不足でベニヤ板、塗りつぶしの再生キャンパスも登場、日本画も金粉・金屏風の制限、表装の簡素化などを余儀なくされる。入選作は、日本画五四点、洋画九五点、工芸六九点、彫刻七点、写真五二点である。
 青年美術家集団展も一一月三日から五日まで、県立図書館ホールで開催。出品点数六〇余点、岡本鉄四郎の出征、洲之内徹の大陸赴任などで寂しくなる。
 第一〇回展は昭和一四年一一月一日から五日間。日本画四三点、洋画一〇六点、工芸一二〇点、写真五〇点、彫刻三点、この年も国策に沿い、金粉ならびに金屏風廃止。題材は、あくまでも作者の純粋な芸術的立場により、材料も国産品使用と規制され、国策順応美術展の色彩が強くなる。
 青年美術家集団展も岩崎英二、大陸に渡った洲之内徹の脱退があったが、一一月一日から五日間、県立図書館で開催された。

翼賛展

 華々しく対立した二つの展覧会も昭和一四年を最後に姿を消す。愛媛美術工芸展は一〇年の歴史を刻み、定着したかにみえたが、戦争のため、記念すべき第一〇回展で幕を引いたわけである。あと昭和一五、六年は一度の展観もなく、太平洋戦争の前奏曲とともに暗い時代に突入する。
 昭和一五年は七月に第二次近衛内閣が成立、八紘一宇、大東亜共栄圏、国防国家態勢を打ち出し、日本は迫りくる世界大戦を前にして総動員体制に突入していく。生活必需品も統制となり、ぜいたく禁止、美術の面もさまざまな制約が加えられ、やがて昭和一六年一二月、太平洋戦争に突入する。したがって、美術など論じる時代ではなかったが、それでも昭和一七、八年秋には美術展が開かれる。もっとも県美術界は国策にそう文化運動の一翼として愛媛県美術協会を作り、翼賛会県支部傘下の文化団体に統合され、一億総蹶起をうながす「聖職美術展」となっていた。
 昭和一七年の美術工芸展は、一一月六日から三日間、県公会堂、市庁ホール、松山商工会議所、県立図書館の四会場に三一二点を集めて行われ、入選一九三点であった。当時の新聞は「戦ふ日本の姿をそのままに決戦下における力強い作品や、戦場、大陸に取材したものが多く〝美の殿堂〟は大東亜戦争とともに一大転換をみせてゐる」と伝える。
 明けて昭和一八年、日本は敗北の兆しをみせ始めていた。しかし、銃後では勇ましいスローガンが氾濫し、翼賛時代の真っただ中で「戦ふ美術を力強く県民に披歴しよう」と、課せられた任務に応えて、愛媛美術工芸展は一一月二一日から三日間、県立図書館・市庁ホール・産業奨励館の三会場で開かれる。戦争のさ中、当然、前線を描いたもの、銃後の活躍と「前線将兵の心を心として」の作品が多い。それらの中で菅野剛吉の「峰の赤松」、長谷川竹友の「晩秋」「雪峰の朝」などが人々の心にひとときの安らぎを与え、出征中の弓達正輝の前線からのハガキ十数枚が「戦線便り」と銘うたれ、人目を引く。モンペ・巻脚絆の決戦型鑑賞者で賑ったという。
 この展覧会を最後に、敗戦後の昭和二一年まで、一切の美術展は幕を閉じる。日中戦争から太平洋戦争終末までの八年間、愛媛の美術界もまさしく戦時色に塗りつぶされた痛ましい時であった。出征、罹災、材料の枯渇、精神的暗黒、生活の基盤さえも脅かされ、美術界にとっては正に受難の時であった。