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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

二 愛媛県美術会の新発足

 そうした異様な対立状態がしばらく続くが、一方では双方関係者の間で事態の収拾、両派統合の工作も進められる。連盟側は理事長さえ退任すれば後は問題ないというが、従来の行きがかりもあり話はこじれ難航を続ける。八月二五日、県教育委員会社会教育課長らの斡旋により、協会側藤谷庸夫、木村八郎ほか五名、連盟側牧田嘉一郎、河本一男ほか八名がそれぞれの条件を持ち寄り懇談の結果、両派とも一切の行きがかりを捨て、双方同時に解散し、新しく「愛媛県美術会」を結成することに意見一致。分裂以来八か月にわたる紛糾も、ここにようやく円満解決となる、脱退組の強硬策が結局功を奏したというべきか。
 会長には当時の県知事の久松定武、理事長に木村八郎を選び、愛媛県美術会はここに新発足する。この出発に当たり、関係者一同の特に配慮した点は、従来とかく問題となった洋画部門における暗流対立のシコリ解消を考え、これまで愛媛美術発展のため特に尽力された元老の功をたたえて名誉会員に推戴したことである。そうして推された最初の名誉会員は、藤谷庸夫・牧田嘉一郎・松原一と長谷川竹友である。

1 愛媛県美術展(県展)の歩み

 県美術会新発足の二か月後の一一月一日から五日間、第一回愛媛県美術展(略して県展という)開催のはこびとなる。会場は三越・ヤママン・伊予鉄会館・商工会館・県立図書館の五か所である。展覧会委員長に河本一男、審査員は、日本画部が石井南放・菅野剛吉・村上無羅・菅天嶺・西村大湖・重松光栄・野村麦秋、洋画部が木村八郎・小泉政孝・河本一男・渡部徹・弓達正輝・芝清福・御手洗三郎・大槻達二・高階重紀・西洋富義・坂田虎一・矢野真胤・森本憲夫、版画部は石崎重利であった(他の部門は略す)。応募点数五六一点、入選作品二八六点である。
 以後、県展は翌二八年の春第一回春季展、秋の第二回展から今日まで三〇余回、愛媛美術の推進力として順調な歩みを続ける。

2 県展をとりまく愛媛美術の動向

 県展はもともと主義主張による集団の展覧会ではない。その発足の当初から県内各地区、各団体が協力し、それぞれの主義主張を超え一堂に会し、お互いの切磋琢磨により、全県美術の振興をはかろうという連合展である。したがって、あらゆる美術の動向を包含するたてまえである。ただし、全県の多くの作家の参加を得るために、会場の制約、作品の大きさ、点数の制限など、さまざまな制約のあることも、またやむを得ない。そのため、県展では満たされない各個の自由な表現は、それぞれ所属のグループ展、個展などで存分にすればいいことで、そうしているのが実状である。
 県展は長い歴史をもつ県下最大の展覧会であり、県展を抜きにして県の美術は語れないという。だが、その県展を支える母体、すなわち全県各地の各団体のことも忘れてはいけない。その団体の性格、それぞれの地域性、中心人物の主義主張、中央との連携など、その特質もさまざまであり、また、そうした団体、個人の主催する展覧会も年間絶えることなく、その実態はつかみ難いが、それらを総計すれば、その反響は、おそらく県展の何倍もの影響力をもつであろう。いわば、県展はそうした基盤の上に立つ存在で、県展を抜きにして県の美術は語れないと同様に、その基盤を抜きにして県の美術も語れない。
 さて、県展はそのように、現代美術のあらゆる傾向を受け入れているけれども、年を経る毎に時流とともに変遷する。特に会員制度の確立により、一団体としての性格を強め、旧師範、愛大系の写実主義が中核となり、主流を形成、そのアカデミズムのマンネリ化も指摘される。それらに対する反主流や若手、新人の台頭も目立ち、さまざまな動きがでてくる。また、それとは別に県展発足の当初から不参加の一群もあり、そうした連中と反主流派とが呼応し、県展批判の声も高まり、県展をとりまく美術の流れも多様となる。そうした動きの中で反県展或いは超県展を呼称する県展批判のグループに「愛媛現代美術家集団」と「愛媛造形作家協会」がある。

愛媛現代美術家集団

 抽象表現が全国を風靡し、愛媛にもその傾向が目立ってきた昭和四〇年、高階重紀、岡本鉄四郎らの提唱で「愛媛現代美術家集団」(現美)は旗揚げをする。その結成大会に来賓として出席した洲之内徹と岡本鉄四郎は、かつて戦前「青年美術家集団」を作り、当時の体制的な県美術の在り方を痛烈に批判し続けた前衛の先鋒であり、現美はその集団の再興と見なされ、県展との間に一波乱起こるものとうわさされたが、その主張は至極おだやか、県展と共存、或いは超県展などともいい、地道な足どりで活動を続ける。
 「地方独自の風土の中で芸術的純粋性を高め、自己満足の泥沼に落ちることなく勇敢に行動を起こそう」といっているが、そうした主張を、かつての「青年美術家集団」の如く直接外部へぶっつけるのでなく、むしろそのほこ先を自分達に向け、その内省の成果を作品で示そうという、前衛運動としては珍しく地味な方途を選ぶ。多くの前衛運動は初め華々しく、やがて線香花火のように消えていくに対し、現美の活動は地味ながらも、以来二十余年、郷土の画壇に清風を吹き込み、現代に生きる地方美術の在り方へのさまざまな問題提起は、戦後における愛媛美術の動きの中では特異な存在というべきであろう。

愛媛造形作家協会

 戦後における日本の前衛美術発表の場として知られた「読売アンデパンダン展」が昭和三九年に廃止される。それがきっかけとなり、全国各地に自主的な展覧の場をつくろうという動きがでて、岐阜県長良川畔(四〇年)、堺市の金岡公園(四一年)などで野外展が開かれ、前衛運動が各地に広がりを見せる。そうした動きに呼応し、松山市内の前衛グループ「ネオブロック」、「美術文化愛媛グループ」が中心となり、「愛媛野外美術展」が開かれる(四四・四五年)。堀之内の堤や水面を舞台に実験的な作品を展示し、県下の前衛美術活動を盛り上げ、続いて開館したばかりの県立美術館で「愛媛現代美術の現況展」を開催する(四五年)。それが契機となり、従来の固定した美意識を超え、より高次の現代美術を愛媛に育てようと「愛媛造形作家協会」が結成される。
 その第一回展(四六年)以後、毎年展覧会を開催、第三回展からメンバー補充のため公募制とし、大洲野外展、新居浜中央公園での「今日のかたち展」など各地域への広がりを見せ、従来の美の概念を打破した作で話題を呼ぶ。だが、その活動内容も次第に頭うちの状態となり、第六回展(五二年)で打ち切り、解散宣言もしないまま団体としての活動は消滅する。消滅ではない休眠だというものもいるが、中央の傾向をただそのまま移してもこの郷土に根づくはずがないとの声もあり、現代美術の在り方につき、さまざまな問題を提起している。

3 美術館の建設

展覧会場

 大正末年の第一回伊予美術展以来、愛媛の美術も展覧会を中心に動き、いわゆる展覧会時代を迎える。その場合、多くの作品を陳列するにふさわしい広い会場が得がたく、なんとかその条件をみたす県公会堂(商品陳列所)が多く使われていた。だが、出品点数も次第に増加、そこだけでは収容できず市庁ホール、松山商工会議所、県立図書館、米周呉服店等も使われ、戦後は三越・ヤママン・愛媛新聞社ホールも加えられる。いずれの場合も、そこに仮設の壁面作りが大変であり、また各所に分散した会場の連繋統合にも困難が伴い、専門の展示場を持だない悩みは深刻であった。そのため、ぜひ美術館建設をの声は事あるごとに起こったが、当時はまだ戦後の混乱期、おいそれとは実現の見込みがたたない。
 昭和二七年の新生県展の第一回展も、従来通り、三越・ヤママン・伊豫鉄会館・商工会館・県立図書館の五会場で開催となる。翌二八年の第二回展から、新装なった県民館を使用することとなり、初めて全作品を一堂に集め大展覧会の様相を呈している。その盛況を鑑賞者もよろこび、作家たちにも大きい刺激となり、次第に県展は活況を呈す。県民館は松山国体の体育館として建てられたもので、広さだけは取りえたが、柱もないガランとした空間に展示壁面作りはまた大変であり、採光・通風も悪く、室温の調整も出来ない。おまけに雨がもって作品がぬれるなど、美術品の展示場としては余りにも欠陥が多かった。

美術館の建設運動

 そうした状況下で、ぜひ美術館をという声が一層盛り上がり、県美術会で本格的に取り組むことになったのは昭和三〇年ころである。建設地は松山市の中心部にということで、当時移転計画が話題となった城東中学校跡地、さらに堀之内のアメリカ文化センター跡、続いて道後公園の聚楽館跡など、用地確保を松山市に働きかけるが、それらはいずれも空振りに終わる。
 三六年には県の文化会館建設の動きがあり、その構想に基づき計画案を作成。同時に六千人に及ぶ署名を集め、「美術館建設に関する請願書」を県議会に提出する。その翌年、県は予備調査費五〇万円を予算化し、運動もどうにか軌道に乗ったかと思わせたが、結局それもご破算となる。こうした苦汁をなめた美術会は、もう一度、第一歩から踏みだすこととなり、神奈川県立近代美術館、愛知文化会館を視察するなど全国美術館の調査に乗り出す。一方、藤谷庸夫の遺族から建設資金の一部にと一〇万円の寄付を受けたのを契機とし、県展にも建設募金展を併設、自らの手で建設の資金募集も始める。
 四〇年に、県下政・財界の代表に美術会の代表も交じえて建設期成会を結成し、さらに翌四一年には募金委員会も発足する。そうして県・市へ働きかけ活発な運動展開により、一般からの募金もようやく軌道に乗る。用地の確保、募金の推進など一つ一つの問題に対応しながら、執拗な運動の結果、堀之内に建設予定地が決まったのは四二年の三月であり、翌年には県の予算も可決され、同年中に着工の運びとなる。
 四〇年代は全国的に美術館の建設ブームといわれた時代である。四〇年には長崎県立美術博物館が開館、四一年に茨城県、四二年新潟県、四三年広島県と続き、愛媛の開館後一か月目に兵庫県立美術館、二か月後には和歌山県にも開館。愛媛の美術館もそのブームに乗って実現できたともいえようか。
 ともあれ、長く険しい建設運動であった。だが、ついに厚い壁を破り宿願を達したのである。県立美術館とはいえ、その建設費二億三千万円の約半分、一億一千万円はそれを支持する県民たちの醵金である。いま、その美術館の在り方につき、いろいろ論議も呼んでいるが、当初から館蔵品は皆無、どうでも展覧会場をという美術家ちの要望から、いわゆるギャラリー形式の美術館となったのも、また、自然の成りゆきというべきであろう。

表1-2 県展秋季展の概要1

表1-2 県展秋季展の概要1


表1-2 県展秋季展の概要2

表1-2 県展秋季展の概要2


表1-2 県展秋季展の概要3

表1-2 県展秋季展の概要3


表1-2 県展秋季展の概要4

表1-2 県展秋季展の概要4