データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

一 国指定重要文化財の彫刻

 木心乾漆菩薩立像 一躯 国指定重要文化財
 木造菩薩立像   一躯 北条市庄薬師堂 庄地区蔵

 北条市庄は、立岩川が山間から北条平野に出合ったあたりの北部山麓にある。荘園に由来する地名といわれるこの「庄」という地区には、古い二体の菩薩立像が伝えられている。
 その一つ木心乾漆菩薩立像は、像高二三三・二㎝、木心はハルニレ材と思われる。像表面の乾漆は亀裂、剥落が著しいが、面相部に最も厚くのこっている。唐招提寺講堂の諸像に見られるような奈良朝風の像容であり、製作の時代を明らかにするものはないが、平安初期ころまでのものとみられる。
 木造菩薩立像の方は、像高二一五㎝、ヒノキ材、一木造で乾漆像と同様に唐招提寺の諸像に共通する点があり、膝下の裳の衣文の翻波式の技法など、よく平安初期の特色をあらわしている。
 二像とも古風でありながら、地方作風の粗豪さは否定し難いが、平安初期の伊予造像のものとして貴重な作例である。

 木造阿弥陀如来坐像 一躯 国指定重要文化財
 木造釈迦如来坐像  一躯 松山市南江戸五丁目 大宝寺蔵

 国宝の大宝寺本堂に安置されている阿弥陀如来坐像と釈迦如来坐像である。
 大宝寺は、松山市西部の西山南麓にあり、真言宗豊山派の寺で、大宝年間(七〇一~四)の創建と伝えられている。
 この阿弥陀如来坐像は定印を結び、像高六八・二㎝、一木造で、豊かな体躯を端正な法衣に包み、秀でた眉、静かな半眼、しっかりと結んだ口元は、内なる力を抑え、久遠の真理を求める冥想の姿である。刀法は深く、貞観様式を多く盛った作風で、藤原時代初期の作とみられる。
 釈迦如来坐像は、右手施無畏印、左手拳印を示す。像高八三・六㎝、一木造で、秀でた眉、高い螺髪、切れ長の目、わずかに微笑を含む口元、豊かな体躯、どっしりと趺坐した姿など、前代の手法を踏襲した藤原時代初期の作とみられる優品である。

 木造阿弥陀如来坐像 一躯  国指定重要文化財 松山市南江戸五丁目 大宝寺蔵(本堂安置)

 この阿弥陀如来坐像は、大宝寺の本尊として国宝建造物である本堂の正面厨子に安置されている。秘仏としてみだりに開かれず、古くから寺では薬師如来として信仰されてきたといわれる。
 像高は一三七・九㎝、頂上より顎まで四七・三㎝、膝張り一一九・七㎝、膝奥七八・八㎝の堂々とした大形の寄木造坐像である。目は半眼に伏せ、丸い顔、緩やかに流れる衲衣の波、低い両膝を包む浅い刀法の衣文など、よく平安仏師の定朝風の刀法を表している。
 作者は明らかではないが、全体の手法から藤原時代の作とみられる優品である。昭和三四年に修理され造像当初の姿に復している。

 木造十一面観音立像 七躯 国指定重要文化財 松山市太山寺町 太山寺蔵

 国宝太山寺本堂の本尊諸仏である。堂内内陣にしつらえられた横長の大型厨子を三区に分けて、左右に明治三四年指定の十一面観音を三躯ずつ安置し、中央に中尊で昭和三二年指定の十一面観音像(本堂安置)を安置している。後者は秘仏として長らく非公開となっていたものである。なお、太山寺は、松山市西北部の太山寺山塊の中で最も高い経ヶ森の東斜面にあり、現在真言宗智山派に属し、四国八十八か所の五二番札所である。
 七躯の十一面観音立像は、いずれも像高一四三・八~一五六・三㎝の一木造、背刳像であり、六躯のうち二躯がヒノキ材、中尊を含めて他はカツラ材で作られている。七躯は造り、大きさ、形相がほぼ同じで、細部に多少の異なる技巧が認められる外は、その作風を同じくして同時期に造像されたものと認められる。その温和な肉づき、穏やかな彫法には藤原時代後期の特色を表している。また印形のやや面長な面相、平行して浅く刻まれた単調な衣文線などには、地方作ながら伸びやかで優雅な趣をもたせている。
 このうち中尊は、像高一五五・四㎝、頂上より顎まで三二・一㎝、面幅一三・〇㎝、臂張り四六・七㎝、裾幅三三・六㎝の立像である。形状は、髻頂に仏面、天冠台上に一〇面をいただき、条帛、天衣を懸け、裳を着けている。左手は臂を曲げて宝瓶を持ち、右手は下に垂らして掌を前にして開き、第一・三・四指を曲げて立っている。構造は、頭身部を一木彫成とし、背板を矧付け、左手は前膊半ば、右手は肩及び前膊半ばで矧付けている。

 木造十一面観音立像 一躯 国指定重要文化財 喜多郡長浜町沖浦 瑞龍寺蔵

 瑞龍寺は、肱川河口左岸の沖浦にあり、通称沖浦観音ともいう臨済宗妙心寺派の寺である。本尊の十一面観音立像は、その昔阿弥陀寺(下関市)にあったという。平家滅亡の後、平清盛の菩提を弔うため、清盛寺(上浮穴郡小田町)に移り、更に如法寺(大洲市)の盤珪禅師のもとに移されたが、ときの大洲藩主加藤泰恒が海上安全、海事繁盛を祈願して沖浦の地に堂を建てて安置したものと伝えられている。
 この像は、像高一六三・六㎝、頂上から顎まで三七・九㎝、面幅一七・九㎝、臂張り四三・六㎝、一木造の立像である。端麗な面相はやや長く、幾分写実的なプロポーションとともに、官能的な美しさを感じさせる。藤原時代初期の優れた作品である。
 昭和五三年度には修理が施され、更に昭和五五年度に改装補修された収蔵施設に安置されている。

 木造阿弥陀如来及び両脇侍坐像 三躯 国指定重要文化財 八幡浜市松柏字徳雲坊 梅之堂蔵

 もと忠光寺の本尊、今は「梅之堂三尊仏」といわれ、堂は保安寺が管理する。その胎内には天和三年(一六八三)に宇和島藩主伊達宗利が修理したという銘がある。
 中尊の阿弥陀如来坐像は定印を結んで結跏趺坐し、像高一三八・五㎝、膝張り一一三・三㎝、耳張り三二・七㎝、頂上から髪際まで二○~三四・八㎝で、面相は温雅豊麗、衣文の刀法も柔かく、よく均整のとれた像である。
 観音菩薩坐像は、両手を前方で交え捧げて、持蓮華脆坐する来迎の姿で、像高八〇㎝、膝張り四〇・九㎝、耳張り一六㎝、頂上から髪際まで一三・九~一二・七㎝、面相も豊麗で全体の均整がよくとれている。
 勢至菩薩坐像は、両手を合掌して脆坐する来迎の姿で、像高八二・七㎝、頂上から髪際まで一七・三~一三・九㎝、臂張り四三・三㎝の極めて端麗な像である。三躯いずれも檜材の寄木造で、藤原時代の作とみられる。

 木造仏通禅師坐像 一躯 国指定重要文化財 西条市中野 保国寺蔵

 仏通禅師坐像は、加茂川の左岸台地上の保国寺にある。寺は天平年間(七二九~四八)に創建され、その後建治年間(一二七五~七八)に仏通禅師の徳を慕い、天台宗から臨済宗に改宗したと伝えられている。室町時代初期には寺運盛んとなり、七堂伽藍も整っていたといわれるが、天正一三年(一五八五)の兵火によって焼失してしまった。
 仏通禅師(一二二九~一三一二)は、初め叡山に登って天台宗を学び、後に聖一国師について臨済に帰し、その高弟になった。
 像は、頂上から身底まで七八・三㎝、頂上から裳先まで一一五・八㎝、寄木造、等身大の頂相彫刻である。円頂肥満の安定した堂々たる像容を示し、いわゆる都作であろう。個性的表現の巧みさといい、そつのない衣文の意匠といい、まことに手慣れたものがあり、鎌倉時代末ごろの頂相彫刻の円熟した技法をうかがうことができる。

 木造釈迦如来立像 一躯 国指定重要文化財 越智郡玉川町桂 宝蔵寺蔵

 この像は宝蔵寺釈迦堂の本尊で、一六三・六㎝の像高をもつ立像である。様式は、平安時代に中国の宋からもたらされた京都の嵯峨清涼寺の釈迦如来像に範をとった、いわゆる清涼寺式の像で、頭部の螺髪は縄状をなし波状衣文が全身を包んでいる。
 昭和一四年の解体修理の際、その胎内から文永五年(一二六八)二月四日の日付がある次のような墨書銘が発見された。
 「大願主沙弥弘蓮并女大施主大江氏女并子息左兵衛尉大江俊樹結縁平兼重 大仏師薩摩法橋興慶」
 これにより、鎌倉時代の仏師興慶の作であることがわかる。

 木造空也上人立像 一躯 国指定重要文化財 松山市鷹子町 浄土寺蔵

 浄土寺は、松山市東南部の鷹子にある。背後に小高い久米山をひかえた本堂は、国指定の重要文化財であり、真言宗豊山派に属し、四国八十八か所の札所でもある。空也上人立像は、像高回一二・四㎝、頂上から顎まで一八・六㎝、面幅一二・四㎝、臂張り三八・五㎝、裾張り三三・三㎝の寄木造の像である。
 容姿は、すでに老境にある上人が、衆生の苦悩を背負い、鉦をたたいて南無阿弥陀仏を唱えながら遍歴する姿で、口から六字の名号「南無阿弥陀仏」が仏となって現れている。
 深い刀法と写実性は、鎌倉時代の特徴を表しており、肖像彫刻の優品といえよう。

 木造一遍上人立像 一躯 国指定重要文化財 松山市道後湯月町 宝厳寺蔵

 宝厳寺は、時宗の開祖一遍上人が誕生した寺といわれ、道後温泉本館にほど近い坂道を上りつめた奥谷にある。寺の創建は七世紀中ごろといわれ、もとは天台宗であったものが、一三世紀末に時宗に改められたと伝えられている。
 一遍上人立像は、像高一一三・九㎝、頂上より顎まで二〇・三㎝、面幅一一・二㎝、臂張り三二・七㎝、裾幅三一・二㎝の寄木造の像である。太く秀でた眉、意志の強さを示した口元、慎ましい合掌、裾短かな法衣からあらわれた素足、それらは崇高な上人の遊行の姿を表現している。
 像の頸の枘に「当住 其阿弥陀仏檀那 通直 願主 弥阿弥陀仏文明七年乙未十一月一九日」の銘があり、文明七年(一四七五)の作であることがわかる。室町時代中期の優れた肖像彫刻である。

 木造御神像  一七躯 国指定重要文化財
 木造女神坐像  四躯 越智郡大三島町 大山祇神社蔵

 大山祇神社のある大三島は、瀬戸内海のほぼ中央部にあり、古くから瀬戸内海交通の要路である芸予海峡の中心部にある。神社は、古来農耕神であるとともに海の民の神、武の神、鉱山の神として知られ、愛媛県をはじめ全国的にも広く信仰され末社の数も多い。
 この神像群は、諸山積神社をはじめとする諸社の神像である。御神像一七躯は、大山祇命坐像、中山祇命坐像、麓山祇命坐像、正鹿山祇命坐像、しぎ山祇命坐像、磐裂命坐像、倉稲魂命坐像、磐長姫命坐像、木之花佐久夜毘売命坐像、大禍津日神坐像、猿田彦命坐像、闇おかみ命坐像、大直日神坐像、火須勢理命坐像、日子火々出見命坐像、大直日神坐像、大雷神坐像で境内の十七社に、また女神坐像四躯は本殿横の上津社にそれぞれ安置されている。一七躯の像高は、木之花佐久夜毘売命坐像二一・一㎝、火須勢理命坐像四〇㎝、大雷神坐像四五・九㎝、磐長姫命坐像五〇・三㎝と小さく、他は五四~六二㎝である。大部分の像がカヤ材、一部の像はカツラ材、クスノキ材を用いた一木造で彩色が施されていた。また、四女神像はさらに小形で、一は一三・八㎝、他は一六㎝前後であり、いずれもヒノキ材の一木造である。
 男神像は、巾子冠をいただき、袍や狩衣、なかには上半身裸で肩に天衣様の布をかけ、肩をいからせ体をひねったり、膝をくずしたり、あるいは胸をはだけるなど、三島系神像に特有の動勢豊かな姿を粗放な技法で表現している。女神像は髪を左右に振分け、衣を着け、両袖内で拱手して静坐した姿である。
 像の大きさ、瞋怒の表情の共通性から、同時期の製作とみられ、製作年代に異説があるが、社殿が復興された正応元年(一二八八)以後の造像と推定されている。