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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

三 考     察

 前項において、これまでにしられた南予の主要な彫刻について述べたが、はじめにも断ったように、当地方の調査はなお不十分であるから、これらのわずかな作例によって、南予彫刻の全貌をしろうとすることはほとんど不可能に近い。けれども、いちおう本節を結ぶにあたって、現段階においての考えをまとめておくのも、あながち無駄ではなかろうと思う。将来新しい作品があらわれ、新しい事実が明らかになって、現在の考察が発展的に訂正されることは、むしろ私の切に望むところである。
 南予の彫刻史は、遺品による限り、ようやく藤原時代よりはじまる。この時代に南予地方において本格的な彫像が作られたかどうかは明らかでないが、もし地方作があったとすれば、例えば満願寺の薬師如来像のようなものをあげるべきかもしれない。当地方の藤原彫刻にはそのようなもののほかに、明らかに中央の都でできた像を運んで来たか、あるいは中央の仏師をまねいて作らせたと思われる作品もある。梅之堂と潮音寺とに分置されている阿弥陀五尊像は、その代表的なもので、もと忠光寺の本尊であったのだが、この寺は平忠光の建立するところで、洗練された本格的な中央作であり、しかも阿弥陀五尊の珍しい実例として貴重である。元来、いまの八幡浜市のあたりは矢野郷とよばれ、平家とすくなからざる関係にあった土地であるので、都の仏像がもたらされることも稀ではなかったと思われる。なお瑞竜寺の十一面観音像はすぐれた藤原彫刻であるが、実は他国から移されたものであるから、ここにおける考察からはいちおう除外しておく。
 鎌倉時代になると、南予に現存する彫刻も相当の数にのぼる。この時代の彫刻界はいわゆる慶派、とくに運慶派と快慶派とによって指導権が握られ、そのことは中央でも地方でもほぼ同様であったようである。現に南予においても了月院阿弥陀三尊像の興阿弥陀仏、如法寺地蔵菩薩像の興慶、大乗寺地蔵菩薩像と仏木寺大日如来像の行慶などはいずれも快慶派の流れをくむ仏師ではないかと考えられる。しかし、この同派と考えられる三人の仏師をとりあげても、作品の上から推せば、興阿弥陀仏や興慶のように、がんらい中央出身の仏師でありながら、地方へも進出して造像したらしいもの、あるいは行慶の場合のように土着仏師らしいものもある。同じ快慶派の仏師といっても、実際の境遇においては、このような違いもあったと思われる。一般的にいっても、鎌倉時代の後半ごろになると、京都や奈良の大規模な造像はすくなくなり、当然のなり行きとして、中央の仏師たちは職を求めて地方へ下向することも多くなった。奈良の興福寺大仏師であった康俊、康成の父子はかなり多くの作品を現存することでしられるが、その足跡は遠く九州の果てまで及んでおり、とくに地方では南都興福寺大仏師の肩書きを有効に利用したらしい形跡もあって興味をひかれる。これは一例にすぎないが、同様なケースはなおすくなからずあったと思われ、中予と南予に作品をのこす興慶、あるいは興阿弥陀仏なども、この類ではなかったかと想像される。なお行慶も南予地方に二つの作品が認められるのだが、この方は土着の仏師と考えられる節もある。けれども行慶は「大仏師東大寺流」と自称しているのだから、がんらいは何か奈良の東大寺と関係をもつ仏師であったようであり、そのような肩書きを作像の署名に冠記するのは、興福寺大仏師康俊、康成の場合を想起させるものがある。
 この行慶が制作したと考えられる大乗寺の地蔵菩薩像は、弘安元年(一二七八)に地もと立間郷の地頭藤原重貞を願主として作られ、同じ作者かと思われる仏木寺大日如来像は寺僧栄金を願主として建治元年(一二七五)に造立された。なおまた願主平能忠、作者興阿弥陀仏の了月院阿弥陀三尊像は文永六年(一二八九)の作であり、願主藤原考広、作者興慶の如法寺地蔵菩薩像は建治二年(一二七六)の作としられる。後二者の願主はどのような人か明らかでないが、とにかく以上の四作が鎌倉中期の文永、建治、弘安と相接した時期にあることは偶然ではあろうが、そのころにおける当地方造像の盛んな一面を暗示するともみられる。なかでも前の二例は地もとの人が願主となり、しかも土着らしい仏師が参加している点を軽視すべきでなかろう。
 このころから南予の造像界に活気のみられたことは、そのほかの鎌倉後期の作と認定される彫像がすくなくないことからも察せられる。そしてそれを反映するかのように、福楽寺薬師像のような、地方の造像ながら作域にみるべき特色をもつものもあらわれていることは注目に値する。しかし、このような像のほかに、素朴な様風から抜けない、いわゆる地方作も併行してあったことはいうまでもなく、たとえば一木造を墨守した通正寺の十一面観音像などがあげられる。また制作地はよく分らないが、極楽寺阿弥陀如来像、あるいは高田八幡神社や三島神社の神像、伊吹八幡神社の舞楽面などの仏像以外の彫刻に良作を出したのも、この時期であったことを記憶すべきであろう。
 そのほか当地方の鎌倉彫刻に関連して記しておきたいのは、板光背のことである。仏木寺の大日如来像がもつようないわゆる板光背は、平安前期のころ奈良地方に発現し、西日本に主として行われたものである。四国では徳島県と高知県に藤原、鎌倉期のものが散在し、さらに愛媛県の南予地方におよんでいるわけである。このような板光背のあり方をみると、なお詳密な研究を必要とはするが、南予の板光背は土佐地方から伝播して来たのではないかとも考えられる。ことに仏木寺の所在する三間地方は、地域的にも土佐と直接交通のできる位置にあり、このような土地に板光背ののこることは必ずしも偶然とはいえないであろう。一般的にいって、南予への文化の流入経路は、海上交通のほかに、陸路では北東の中予からと東南の土佐からの両面があったと考えられ、今後において南予の古美術を系譜的に考察する場合には、当然このような点の配慮を必要とする。その際に板光背のようなものも一つの有力な資料となるはずでなお将来当地方で板光背が新しく発見されることにも期待が寄せられるのである。
 室町時代以後の彫刻になると、数は多くなるが、質が落ち、調査研究も十分でないことは、中央や他の地方と同様の事情にある。出石寺の釈迦如来像は清涼寺式の坐形として興味深いが、これは南予本来のものではない。そのほかに、北宇和郡広見町の龍淵寺虎関和尚像は観応三年(一三五二)同町善光寺の薬師如来像は正平一三年(一三五八)の作といわれるが、まだ実査の機会を得ていない。また宇和島市の観音寺にある十一面千手観音像は永亨五年(一四三三)の胎内墨書銘をもち、素朴な作りの地方作といえよう。同市の旧藩主伊達家には相当数の能面を蔵し、私も一見したことがあるが、なお将来の調査を必要とするものである。     (『仏教芸術』五三、昭和三九年)