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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

三 潮音寺の地蔵・龍樹像

 さきに『宇和旧記』の記事をひいて、梅之堂の阿弥陀三尊像が龍華山等覚寺に、「地蔵、龍神」の二体が潮音寺に移安されたことを述べた。ところが阿弥陀三尊像は明治になって梅之堂に返還されたが、他の二体はそのまま現在に至るまで潮音寺におかれているのである(現 文化庁蔵、奈良国立博物館保管)。潮音寺は宇和島市野川にあり、境内の観音堂は藩主伊達秀宗の信仰した千手観音像を祀り、その両脇に右の二像を安置している。『宇和旧記』には地蔵、龍神とあるが、これは明らかに地蔵、龍樹の誤りといわねばならない。
 地蔵菩薩像は千手観音像の向って左方の壇に安置され、檜材の寄木内刳、漆箔、彫眼の坐像である。両臂を屈し、右手は掌を表にして拇指と人差指を捻じ、左手には宝珠を捧げ、腹部に裳の結び目があらわれている、木寄は、頭部を前後に矧いで首を挿込み、体幹部は前後左右を矧ぎ、漆を横に矧合せるものである。作風は次記の龍樹像とともに梅之堂の弥陀、勢至両像に類似するところがあり、これらの像がもと一具のものであったことを首肯かしめる。胸にかかる銅製透彫の瓔珞は後世のものであり、また漆箔、右手先、持物、および光背、台座すべて後補である。なお腹部の裏に次の墨書が見出された。

  地蔵菩薩
  祈湏田隼人室之延
  命厳飾之仰冀信
  女壽山益聳福海弥
  深病悩永断諸縁吉
  利
     老母妙覚敬白
   貞享甲子孟秋吉旦
         関龍筆

 これは老母妙覚が女にあたる浜田隼人の室の延命を地蔵菩薩に祈る願文であるが、貞享元年(一六八四)七月、すなわち梅之堂の阿弥陀像を修理した翌年にやはり等覚寺の関龍が執筆しているところからみれば、このときに地蔵像(おそらく龍樹像も同様)も修理されたものと思われる。しかも、かような銘文を書くためには、その位置から考えて、この際に解体修理が行われたと推測することもできるのである。
 次に千手観音像の向って右方にある龍樹菩薩像もやはり檜材の寄木内刳造、漆箔、彫眼で、合掌して坐り、裳紐の結び目を腹部にみせるのも前像と同様である。頭部を前後に矧ぎ、首は挿込み、体部は前後と両側各二部分を寄せ、膝部を横に矧ぐ。漆箔、両手先、銅製瓔珞、光背、台座などは後補で、破損も多いが、とにかく藤原末期の珍しい龍樹像として注目される。
 以上、梅之堂と潮音寺に現存する五体の像について略述したが、これらは『宇和旧記』にもいうように、もとは忠光寺の一揃の像であったのである。そして注目すべきは、これらの像が都を遠く離れた地方にありながら、中央の本格的な作風を示していることであって、そこには京都で造られたか、あるいは当地方に都仏師を招聘したかを考えしめるものがあり、さらに願主の平忠光と京都との関係も思いあわせられるであろう。なお次に五体の像の法量をまとめてあげておく(単位尺、( )内はメートル法換算―単位㎝)。

五体のデータ

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