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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

 仏木寺は北宇和郡三間町則にある地方切っての古刹であり、真言宗御室派に属し、四国八十八箇所四二番札所として知られる。いまは大日如来像を安置する本堂と大師堂・庫裏などをのこし、ささやかに法燈を伝えている。
 この寺の歴史については明確を欠く点が多いけれど、ただ『吉田古記』のなかに収録されている「仏木寺記録」はかなり参考になるのではないかと思う。この記録は尊円親王筆という一巻で、それによれば、仏木寺は、大同二年(八〇七)弘法大師が四国巡礼のときに、楠木をもって金剛界大日如来像を刻み、眉間に恵果和尚相伝の玉を入れて安置したのが起こりであるといわれる。この創立に関する話はどこまで信じてよいか、たずねる術もないが、降って鎌倉時代の記事になると、かなり具体的な点にふれているので、看過できないものがある。すなわち、それを表示すれば次のようになる。

  仁治元年(一二四〇) 大貳律師宣俊のとき西園寺太政大臣家の菩提道場に擬せられる。
  仁治四年(一二四三) 本堂造営、六月棟上、十一月十五日供養。
  寛元三年(一二四五) 十月重ねて下知状などを下す。
  建長六年(一二五四) 十月また本堂修理。
  文永八年(一二七一) 四月五日鎮守三所権現宝殿造営。
  建治二年(一二七六) 十月弘法大師御影堂造立。

 なおついでながら、その後のことを『吉田古記』によってあげると、近世になって、慶安元年(一六四八)春に大日堂(本堂)を造営し、さらにその拝堂が吉田藩主伊達宗純によって建立され、延宝五年(一六七七)閏一二月一八日に完成している。
 さて上掲の表示にかなりの信憑性があるとすれば、仏木寺は鎌倉時代中期に本堂・鎮守社・御影堂などがつぎつぎに建立されて、寺観をととのえていったことが推察できる。その背景としては、いちはやく仁治元年(一二四〇)に仏木寺が西園寺家の菩提寺となったことを重視すべきであろう。西園寺家と南伊予との関係は、嘉禎二年(一二三六)に西園寺家公経が将軍家に懇望して宇和荘を与えられた時点からはじまり、その後天正一五年(一五八七)公広の代に滅亡するまで、およそ三五〇年の長期にわたっている。それからいえば、領有の後四年目に菩提寺のことがあったわけで、年次的にもまことに自然であるといわねばならない。おそらく、仏木寺は西園寺家を大檀那として堂社の造立をなしとげたものであろう。
 以上のような鎌倉時代の状況を背景として、仏木寺に現存する二体の彫像がとりあげられねばならない。そのうちの一体は本尊の大日如来坐像であるが、これについてはすでに第二節のなかで触れてあるので、ここでは必要な点だけを簡略に述べるに留めておきたい。本像は坐高一一六・五㎝の金剛界大日如来で、寄木造り、彩色、彫眼である。地方作とみられるが、技法は本式であり、また面貌に人間的ななまなましさをあらわす点に特色がある。光背が板光背、台座が裳懸座となるのは古風といえよう。像の胎内に次のような墨書銘が発見されている。

  大願主僧栄金/興法大師作之楠少々/此中作入者也
  建治元年才次七月乙亥廿五日
  大日如来本尊始作
   大仏師東大寺流
       僧□

 これによって、本像は建治元年(一二七五)七月二五日から「東大寺流」の大仏師僧某の手でつくりはじめられたことが判明する。弘法大師作仏の楠をすこし入れたとあるから、このころすでにさきに記した大師造像の伝説が成立していたことが知られる。建治元年といえば、御影堂造立の前年にあたり、建長六年の本堂修理より二一年後、文永八年の鎮守社造営より四年の後になるから、大まかにいって、一連の造営のなかで行われた造仏とみて差し支えなかろう。ただ本堂の建立供養は仁治四年にさかのぼり、それから本尊造立までに三二年の歳月を経ているのは不審な点もあるが、そこには私たちの知りえない事情もあったと考えるほかはない。