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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

一 概説

桃山時代の建築

 中世まで主流となっていた社寺建築がその王座から凋落し、代わってこの時代を象徴する壮大な城郭や豪華な殿舎の造営が盛んとなった。この豪華な建築とは対照的に、わび、さびをむねとする草庵風の茶室が千利休によって創られ、信長、秀吉の愛好することにより、ますます流行し、数寄屋造りの発展する原点となった。
 愛媛では城郭建築が盛んとなり、また有名な数々の茶席の遺構が現存しているのでそれらの建築の概要を述べておく。
  〈城郭建築〉 信長、秀吉がその権勢を誇示する政治意図から安土城や伏見城の豪華な城郭を造営してより、各地方の大名の間に築城ブームが起き、慶長一四年(一六〇九)の一年間に二五城が築かれた記録がある。そのため、幕府は一国一城令を発して新築を禁ずるに至った。当時の多くの城のうち現存するものは姫路城その他一二城を残すのみである。その中に全国三大平山城として有名な松山城があり、宇和島、今治、大洲城を加えて伊予の築城の旺盛さを示している。
 元来、城は中世までは山頂の天険を利用した軍事的な防塁が主体でいわゆる山城と呼ばれるものであったが、近世に入って政治、経済、交通の要衝となる平地に大規模な城郭建築を築いた平城となり、丘陵に築いた平山城に発展し、領民に対する権威と城下町のシンボル的性格を強く帯びるようになった。城郭の平面(縄張り)は極めて複雑で迷路のごとく曲折が多く、中央に本丸を置き、二の丸、三の丸で囲み、濠と高い石塁を巡らし、要所には桝形・馬出しを設け望櫓や楼門を構え、石落とし、鉄砲狭間などの防衛的備えに工夫をこらしている。建物の架構材は巨木を用いて要所は頑丈な鉄物で蔽い、壁は耐火のため塗り込めとする。最も重要な建築は本丸の一部に重層式に聳え建つ天守で望楼と司令所を兼ね一基のみの天守を独立式、二基以上の小天守が建ち並ぶのを連立式と称し、次第に規模が拡張した。
 天高く聳える天守閣の大屋根と各層の軒屋根に配した千鳥、唐破風の構成するダイナミックな威容は、活気横溢した桃山時代の豪放な城郭美を呈している。
 なお、城内には政務、社交の場となる領主の豪華な居館が造営される。謁見に使われる大広間は、上段の間として特に華麗を極め、完成した書院造で、床棚、書院、帳台構を設け、有名画家の障壁画、欄間彫刻、金色に輝く化粧金物で飾り立てる。現存する二条城二の丸御殿は絢爛たる桃山調の居館を偲ぶ唯一の遺構である。但し、一般の城郭は桃山城のごとき居館を持たない質実剛健な本来の軍用的な施設が多くを占めている。
  〈茶屋建築〉 豪壮な城や華麗な御殿が盛んに造営されたのとおよそ対照的な小規模で簡素な茶室建築が武家や庶民の間に流行したことは、桃山時代の特色として見逃すことができない。もともと茶の湯は室町時代に始まり、書院造の住居の一部を屏風で仕切り、いわゆる「囲い」であったが、俗界から離れて閑寂な境地を楽しむ独立した茶室に発展した。茶室建築の特色としては、四畳半位の小室で、軸立て低く、木割は細く、面皮丸太や竹などを雑作材に使い、壁は土塗り、屋根は茅葺という素朴な自然材を生地のまま生かした質素のうちに高度に洗練された感覚を盛り、同じ形態の反復や、相称的なものを避け、狭い簡素な室に自由な構想による変化ある空間構成美を持つ日本独特な建築である。
 桃山時代になって千利休は茶道を大成させ、草庵風のわびに徹した独創的な茶室建築を作った。利休の唯一の遺構として待庵に彼の茶道思想が籠っている。利休は茶三昧の境地に精神を集中するため極度に凝縮した二帖の茶室を初めて考案した。一畳の貴人畳と一畳の点前畳だけで足りると考えたのだろう。
 利休は茶室に入るアプローチを重視して閑寂な露地庭を作り、飛石伝いに客を農家風の茅葺の茶席に招じ、躙口というやっと半身がくぐれる小戸から入った二畳の茶室は意外にも狭さを感じない。正面に床の間があり掛軸の外は一切虚飾を廃している。床柱は普通の杉丸太、壁は荒壁のまま、屋根裏に見せた駈け込み天井など素朴な農家の風趣を借りて、深くわびを追究し簡素な造型美を見出したのである。この草庵風茶室が数寄屋建築の原点となり、有名な桂離宮へ展開した。
 茶道が一般に普及し特に富裕階層に盛んになると、徒らに千金の値のする珍器や銘木を誇示して本来のわびの精神を忘れ、形式だけが重んぜられるに至って、茶室建築も発展に終止符を打つたといわざるを得ない。
 しかし、現代になって合理主義建築の機能的で単純美を尊ぶ新建築が台頭するに至り、利休の「使ふに便で見あかぬ簡素な美しさ」の茶室の理念に通ずる所があり、茶室建築が再認識されることになった。

江戸時代の建築

 江戸時代の建築は殆ど桃山時代の亜流を受け継いだもので創意と新鮮味に欠け、江戸特有の様式というものは発展しなかった。社寺建築もかなり大規模な数多くの新築再建がなされたが、従来の手法を守って類型化し技巧に走り、絵様彫刻を乱用した華麗さが却って卑俗に陥ってしまった感がある。
 従来、神仏や開祖を主として祀る社寺に代わって、領主や武将を神として祀る霊廟が出現した。秀吉を祀る豊国廟が始まりで、家康の霊所として華麗な権現造の東照宮が造営されて以来代々の将軍や地方の藩主の霊廟建築が盛んとなり、江戸時代前期の宗教建築の中心を占めるようになった。日光東照宮はその代表的なもので、神社と寺院の様式を総合した内外共に工芸的な技巧を凝らした華麗絢爛を極めた装飾建築は周知のことである。この東照宮とは相反した意匠傾向としてよく比較される有名な桂離宮はほぼ同時期に出現した日本建築の傑出した建物として見落とす事は出来ない。広大な優れた庭園によく調和して軽快な書院造の宮廷別荘に建てられたものである。庭の眺望をよくするために雁行型の間取りで特に床下を高くし、粗末な材料を用いた簡素な中に犯し難い気品と美しさがある。注目すべきは一切の無駄な装飾を排した合理性に立脚した単純さの美を表現していることで、ドイツの有名な建築家ブルノータウトをして「ギリシヤのパルテノンに勝るとも劣らぬ名建築」と嘆賞させている。そして、日光東照宮を将軍趣味で過剰装飾の低俗な建築だと酷評を加えている。いささか外国人の眼からの誇張があるが、真の建築を見る洞察力に敬服する。
 ところで、江戸時代に発達した建築として学校、劇場、遊郭、民家などがある。何れも庶民と密接な関連のあるもので、建築が初めて庶民のものとなったことは江戸時代の性格を表している。
 学校建築は、各藩が文武の教学のために建てた簡素な寺子屋式から講堂、武道場を持つ施設に発展した。劇場は室町時代に既に武家の接客用に邸内の一部の畳をあげた拭板の床で演じられた能舞台から始まり、江戸時代の演劇の隆盛に伴い市民の娯楽機関として、独自な歌舞伎舞台を設けた芝居小屋が各地に流行することになった。遊郭は市民が身分の差別なく自由に入れる歓楽の場で、建物も数奇屋好みの粋な風情をあしらっている。また、民家は県下にも江戸時代からの遺構が見出され、地方の風土習慣による庶民の生活の滲みこんだ各種の変化のある独自な空間構成を生み出した建築として民俗学上でも最近見直されてきた。

伊予の茶席

 伊予は近世の初めから俳諧、茶道の風流を好む士が多く、格式ある家には離れという茶席を建て句会や茶会が盛んに催された。初代藩主松平定行が松山近郊に東野お茶屋と称する庭園と別荘を造営し、同時に隣接の畑寺に弟定政の穏棲のために吟松庵と呼ぶ茶席を建てている。明治の初めに建物を取り壊した際、その茶席を道後の平山徳雄邸に移築したのが伊予の最も古い茶席である。
 次には江戸末期に宇和島藩主伊達宗紀が市内に天赦園を造り、その泉水の畔に春雨亭と称する茶席を建て現在も市民の憩いの場として親しまれ、史跡として国の指定を受けている。
 民間では松山味酒郷に寛政二年(一七九〇)に俳人栗田樗堂が庚申庵と呼ぶ草庵を建て、句会と茶会が盛んに行われ、小林一茶も招来している。県の史跡指定となり、庭の見事な藤は特に有名である。
 その他野村町の土居通義邸には、天保年間(一八三〇~四四)に建てられた離れの瀟洒な茶席がある。