データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

二 中世伊予の金工品

 平安時代はこれまでの唐風から次第に和様をとり入れるようになり、藤原時代になると優雅でこまやかな当時の風潮を反映してか、純日本式の技法と意匠を凝らすようになり、わが国の金石工芸は飛躍的に発展していった。鎌倉時代にはいってその技法にはあまり進展はみられず、前時代を踏襲するに過ぎないが、製作の領域は俄に拡大され、とくに鎌倉幕府が成立するや、甲冑、刀剣等の武家と関連のある工芸は、時代に適応したものに大きく変化していった。また鎌倉時代に茶が中国から伝わると、茶の湯釜の製作が盛行し、工芸的にも優れた作品が生まれるようになった。
 伊予に伝世されてきた中世の工芸品は数多く残されているが、そのうち主なものを列挙してみたい。

銅 鐘

 銅鐘は仏具として六世紀のなかごろ伝来したものである。伊予における最も古いものは松山市石手寺の銅鐘で、建長三年(一二五一)の銘が刻され、興隆寺の鐘として製作されたことが明確にされているが、鐘の反対側には「天文十七年(一五四八)菅生山大宝寺の所有」と陰刻してあり、更に三転して石手寺の所有するところとなった。銘文は格調高い書風の建長三年のものと比して追銘の天文十七年の銘は時代の相違を示して通俗的である。
 周桑郡丹原町興隆寺の銅鐘は弘安九年(一二八六)五月の銘があり、その書体は楷書で、優れた陰刻技術は願文の内容とともに鎌倉時代を代表する銅鐘といってよい。
 喜多郡長浜町出石寺の銅鐘は朝鮮高麗王朝時代のもので技法や文様が和様と異なる。所在は不明であるが記録の上では、宇和島市来村三島大明神の永正五年(一五〇八)の銘文、西条市前神寺の永享一三年(一四四一)、松山市太山寺の永徳三年(一三八三)がある。

仏 具

 上浮穴郡久万町大宝寺の鉄製燈台は、嘉吉三年(一四四三)の陰刻による願文によって当時の伊予における金工を知る上に貴重な遺品である。三三個の皿受けは当時の観音信仰の三三の功徳を示し、全体の姿は優美で芸術性のきわめて高い優品である。銘文は堀内通光が願主となり一族の安穏と子孫の繁栄を祈願して、名越に住した国永に造らせたものである。国永は川内町名越の刀鍛冶として知られており、その技法や銘文の特徴から、この燈台も同一人物の国永であろうと思われる。
 西宇和郡保内町の三島神社に伝世する懸仏は建久五年(一一九五)と年紀銘があり、伊予に存在する金工品のなかで在銘のものでは最も古く貴重な遺品である。
 周桑郡丹原町の興隆寺の懸仏は永正一五年(一五一八)の年紀銘があり、室町時代の金工資料として当時の仏教信仰の背景や、技法の変遷を知ることができる。
 西条市前神寺に伝世の懸仏は永祚二年(九九〇)の銘があるが、この年号からすれば平安の初期であり、これが真実とすればわが国最古の懸仏として貴重な遺品となるが、その時代背景や、技法などから年紀銘をそのまま俄に信じ難いものである。室町時代の遺品であるとみるのが妥当とみられる。今後の研究課題にしたい。
 松山市の石手寺の所蔵する薬師三尊懸仏の背面には応永二二年(一四一五)の年紀銘の墨書があり、杉友三枚を背面として薬師三尊を据えて技法的に特色をもっている。また石手寺の仏具のうち、銅三鈷鈴は西蔵形という異形の鈴で宋代の西域地より渡来したものと思われる。
 新居浜市明正寺の金銅密教法具は行旅の修法用として旅壇具と称し、鋳銅鍍金の小型の密教法具が伝世する。この法具は一七種の二九個からなり、技法はきわめて優れ、形も重厚であり鎌倉末か南北朝時代の貴重な遺品である。なお明正寺にはこの密教法具と同時代の鉄鉢や香染の袈裟があり、代々の住持の印として伝えられている。
 鰐口は仏教鳴器の一種で中国より伝えられたものである。青銅で作られたものがほとんどであるが、鉄製のものもたまにはある。表裏二枚の円板を円周で連絡し、唐草文や銘文などを配している。
 口の大きいことを鰐口と呼んだ俗称からこの仏具の名が付いたといわれている。わが国では長保三年(一〇〇一)の年紀銘の鰐口が長野県松本市で出土したが、これが最古のものとされている。鰐口が最も盛行したのは鎌倉時代の中頃とされるが、本県においては室町時代以降の年紀銘をもっているものが各地に散在している。小松町善光寺の鰐口は応永二年(一三九五)のもので、石鎚修験道や、札所霊場横峰寺との関連をもつものである。また、伊予三島市熊野神社の鰐口は応永一九年の年紀銘がある。大洲市手成の金龍寺は、平安朝の一木彫等身大の多聞天、吉祥天の伝世する古い歴史をもつ寺であるが、ここにも応永二二年の年紀銘の鰐口がある。銘文には湯山宿原高徳寺に寄進とあり、いつの時代にこの金龍寺に移動したかは詳らかでない。高徳寺は既に廃寺となり現存しないが、この鰐口は技法も姿も優品であり資料的にも興味深い。その他、上浮穴郡久万町東明神の高殿神社に伝世する応永二三年の年紀銘の鰐口とこれより時代は一世紀を降るが越智郡岩城村の祥雲寺観音堂に永正一五年の年紀銘などが知られている。
 銅鋸、銑鉄は法会に用いる打楽器である。越智郡大三島町宮浦の東円坊に伝世したもので、いずれも年紀銘が正慶元年十月日(一三三二)とあり、関東鎌倉極楽寺の二代俊海が三嶋社に施入したものである。単調で素朴な形であるが固い地金の響銅を打延べるという特殊な技法による貴重な遺品である。
 錫杖は声杖、智杖ともいわれ、衆上覚道の杖として仏法に大切な仏具である。北宇和郡三間町の杜所霊場龍光寺に伝えられる錫杖は、文和四年正月に寄進した年紀銘があり、芸術性に富む力強い成型は貴重な遺品である。
 松山市石手寺の本堂の前に鋳鉄製の燈籠の基礎が残されている。その側面は八面あり、うち六面に銘文が陽鋳せられ、備後国三原庄の大工守真が、嘉元四年(一三〇六)二月に寄進したとある。書体は格調高い行書で高く陽鋳し、一部の欠損はあるが判読可能の程度であり、本県の金文工芸の資料として貴重な遺品といえる。
 磬は仏具として吊り下げてたたく打楽器である。周桑郡小松町宝寿寺にある孔雀文磬は撞座を胡桃形八葉連華の両側に翼を大きく張った孔雀を鋳出している。小形ではあるが意匠、鋳技ともに優れた磬で県内で比すべき遺品は他に類例がなく、鎌倉時代初期の貴重な遺品といえる。

その他の金工

 本県には四国八十八か所札所霊場が二六か寺を数え、密教法具その他の仏具が伝世しているものと思われるが意外と少ない。これは長宗我部氏の侵攻によって焼失、散逸したものとみえ各寺が比叡山や高野山のように外護者がなかったこともその一因であろう。
 宇摩郡新宮村、熊野神社の神鏡は背面に刻銘しているとおり、神与に懸ける鏡で、貞応二年(一二二三)の年紀銘がある。同神社の由緒によれば平城天皇の大同二年(八〇七)に紀伊の国新宮より勧請したもので、その頃の地名は古美村と称していたという。熊野三社に三体の神輿があるが、その一体の懸鏡であろう。
 東宇和郡宇和町の三島神社に伝世する金幣は銅製鍍金の仕上げ、柄は木心銅板の外装である。永禄二一年(一五六九)と元禄九年(一六九六)の年紀銘があるが、永禄二一年が奉献した年で後年は修理の際に追銘したものである。金幣は『宇和旧記』に記載されていることから名付けたものであるが、本来的には壮厳仏具であって幡が次第に形を変えて室町時代に至ってこのように定型化したものといわれる。また神仏習合の思想から神社に伝えられてきたことも別に不自然ではない。
 越智郡大山祇神社に伝わる金銅長柄銚子は、儀式に使用される器具で金銅製で内側は錫でメッキしてある。鶴亀文や静海波文、底裏には牡丹の線彫を施している。胴のところに「大祝」の銘を陽鋳している。彫刻などの様式から室町時代も初めの頃と思われる。
 伊予郡砥部町の旧家に所蔵される喚鐘はもと、高知県安芸郡田野村の長法寺にあったと伝えられ、渋谷「五郎」、四野から寄進したと刻銘している。所蔵者の先祖は高知県吾川郡弘岡の城主吉良紀伊守よりでて後年伊予に住したと伝えているところからも裏付けられる。戦国時代に陣鐘として使用されたもので、高さも三〇mに足らない小型の鐘であるが銘文の示す亨徳二年(一四五三)で珍しい遺品である。

伊予の茶釜

 奈良時代までの土製の鍋釜に代わって鉄鋳の技法が流行し、平安時代には鉄釜が生活必需品となる。そして鎌倉、室町時代になると全国すみずみまで鋳物師が往来するようになった。
 上浮穴郡久万町大宝寺の三三燈台については既に記したが、この燈台の作者は銘文にあるとおり「名越住国永」であるが伊予の鍛冶として一般に知られているのは「国益」で、鎌倉時代も末期の刀工である。「国益」の子孫は代々「国永」の銘を継いで室町時代に及んでいる。温泉郡川内町に名越城の史跡があり「名越住国永」は城主河野通重に仕える刀工である。俄に断定はできないが、伊予釜も名越住国永が代々釜師としても活躍したのではないかと推測する。

刀 剣

 県内に保有されている美術刀剣は、愛好家が他県に比して多いということもあってかなりの数にのぼっている。特に重要文化財に指定されている武具・刀剣の八〇%を保有している大山祇神社の分は既に述べたところであるが、それ以外の本県所在の刀剣について列記しておきたい。
 松山市の東雲神社に蔵する太刀ならびに短刀は、太刀は刃長七二・八㎝、助包の二字刻銘で鎌倉時代備前一文字派の貴重な遺品である。短刀は国弘作の銘があり、刃長二九・二㎝で南北朝時代の築前左一派の名工であった国弘の作である。同市道後伊佐爾波神社の蔵する国行の太刀は、刃長七七・七㎝で「国行」の二字銘があり鎌倉時代の作で松山藩主松平定長の奉納したものである。新居浜市の個人蔵の太刀は刃長八七・六㎝で南北朝時代の備中国の「守次」の代表作である。上杉謙信が佩用していたと伝えられ、拵の金具に輪宝の紋があり、輪宝太刀と称せられて愛好家のよく知られるところである。
 松山市個人蔵に郷土の刀工の作である脇差がある。銘に「豫洲松山住長国」と刻されている。長国は山城の名匠長谷部国信の流れで芸洲広島の刀工常慶の子である。寛永の初めに加藤嘉明の抱え工となり、伊予国松山藩に転封した藩主に従って松山に住した。また同じく長国作の脇差で寛永元年八月日の年紀銘のものもある。
 松山市の所蔵家の太刀に銘「一」がある。刃長七五・一㎝で宇和島藩主伊達家代々の伝来のもので鎌倉の末頃の備前の国、吉岡一文字派の代表作である。また「備中国住家次作」の太刀が同家に蔵され、刃長六八・五㎝で裏銘に「至徳三年八月日」(一三八六)とあり・片山一文字派の代表的名工の備中国青江家次の優品がある。また「肥後守藤原輝廣」の銘をもつ刃長三五・二㎝の脇差で福島正則のお抱え工として知られている。
 今治市の所蔵家に、銘「一」、嘉元二年三月日の在銘する太刀がある。鎌倉末の備前の国吉岡一文字派の作である。同じ所蔵家の刃長二八・五㎝の短刀は「備中国住次吉作」の銘があり、裏銘は「廷文口年二月日」がある。紀州の徳川家から伊予西条藩の松平家に移ったものと伝えられている。また刃長三九・七㎝、毘沙門に三本樋、裏には不動明王に三鈷の鉾の彫り物があり、銘は表に「於駿州越前康継以南蛮鉄」、裏に「濃州口生藤原藤野小刑部自□」とそれぞれ二行に刻している。康継の康は家康の康を拝領した刀工と伝えられ、南蛮鉄を用いる刀工として知られている。
 新居浜市の所蔵家になる無銘の太刀がある。南北朝時代のもので片山一文字と鑑定され、刃長六九㎝、大摺上げで銘はない。また別に鎌倉時代中期の作刀で、刃長六九・七㎝、銘は「備前国以下切」となっているが、備前長船の名工である真長の作と伝えている。伊予三島市の所蔵家に備前の国長船の名工勝光の銘をもつ刀があり、裏銘は文明一六年(一四八四)八月日と年紀され、紀州家の伝来のものと伝えている。また備州長船兼光の銘をもつ短刀があり、刃長二九・八㎝の南北朝時代の兼光の作である。
 なお作刀の時代は近世に下るが県の指定文化財となっている井上真改の短刀がある。新刀の最も隆盛であった頃の逸品で、刃長は二九・七㎝で銘は表に「井上真改」、裏に「延宝三年八月日」と刻している。真改は「大坂新刀」の巨匠として知られた名工である。
 以上は国または県の指定文化財である刀剣について述べたが、郷土の刀工については、古刀名鑑等には伊予の刀工として数多くの名が見えるものの、その出自や系統、伝記など全くといってよい程に資料を欠くといった状況にある。幕藩体制になってからは各藩それぞれ召し抱えたのであるが、山城、大和、相州、美濃、備前のいわゆる五箇伝の威風におされて郷土の刀工として記録され、足跡を残した者は後に述べるごとく僅かである。