データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

一 伊予の刀工

 伊予における刀工については確たる資料を欠き、調査研究もあまりなされていない現況にある。特に古刀時代の伊予の刀工については皆無といってよいのではないだろうか。これは中央の著名な刀工たちの大きな陰に隠れて無名のまま終わったか、あるいは地方の刀工をあまり必要としないで太平の時代が続いたのか判然としないが、漸く幕藩体制が成立し、各藩は競って御用刀鍛冶を養成するようになり、中央の刀工に比して遜色のない作品をつくるようになった。伊予八藩における刀工たちについて述べてみたい。

松山藩の刀工

 〈長国〉 予州松山城主加藤嘉明の扶持鍛冶である。芸州広島の刀工常慶の子、肥後守輝広の門に入り文禄四年(一五九五)加藤公予州正木(松前)に転封の際に仕え、優れた刀剣を鍛えた。一五石五人扶持という刀鍛冶としては破格の高禄を給された。寛永四年(一六二七)加藤公奥州会津に転封となり随行し、姓の三好を三善と改め、会津藤四郎長国としてその名を知られた。寛永八年六月一八日没、行年五五歳であった。作刀は朝鮮の役における実戦の経験を生かし、姿も古風の品位があって優秀である。銘は予州松山住長国。予州温泉郡石手住三好藤四郎長国。
 〈正長〉 三好利衛門という。埋忠明壽の門に入り修業の後松山に帰り、寛永四年に加藤嘉明が会津に転封した際に随行して政長と改名した。銘は平安城政長。奥州会津住政長、伊予には作品は稀である。
 〈長清〉 予州松山城主、蒲生忠知の扶持鍛冶である。藤四郎長清と号す。蒲生公、さらには松平定行が桑名より移封後も引き続いて扶持鍛冶となり一三石五人扶持を受く。万治元年(一六五八)九月没。
 〈清長〉 長清の弟、一〇石三人扶持を受く。御城内尾谷にて御腰物鍛冶仰付けらる。正保年間、幕府の命により松平定行長崎探題職に随行する。元禄八年没、刀銘は予州松山住清永、清永作。
 〈金長〉 幼名を太郎兵衛という。初代和泉大橡国輝はこの金長のことである。正保元年(一六四四)、二〇石五人扶持寄合大小姓役となる。定長の時代諸事倹約令を厳しく実行した際も国輝はおかまいなしであったという。和泉大橡国輝の名を受領し、尾谷において鍛刀に当たった。元禄九年没、行年七〇歳。
 〈輝政〉 松平定直の時代、国輝の養子となって相続した。一〇石三人扶持を給う。幼名を五郎右衛門という。
三好藤四郎輝政と号す。国輝没後は和泉大椽国輝と号した。
 〈国輝〉 松平定英の時代、享保四年(一七一九)一一月将軍家より三好藤四郎国輝の作刀献上の沙汰あり、大いに面目をほどこした。寛保二年三月没、松山市山越来迎寺に葬る。
 〈国輝〉 先代国輝の養子となり、近江守久道の門に入る。寛延三年(一七五〇)松山に帰り、尾谷において鍛刀し九石三人扶持となり、続いて寄合衆大小姓となる。寛政二年一〇月没、六六歳。
 〈長勝〉 幼名を虎五郎という。初銘は長次と切る。九石三人扶持を給う。寛政四年三月没、行年三八歳の若さであった。刀銘は予州松山住藤原長次、予州松山住長勝。
 〈長弘〉 松山に生まる。初銘は正路と切る。文化七年(一八一〇)一二月御切米八石三人扶持を給う。余土村(松山市)百姓岩右衛門伜金蔵を弟子にし養子とする。刀銘は蟠竜子長弘、予州松山住長弘。
 〈長之〉 天保八年一二月、長弘の聟養子として縁組し、天保九年寄合衆大小姓格となる。因洲鳥取藩の刀匠寿幸に入門し、四年修行し松山に帰る。銘は予州藩長之、予州松山住長之。
 〈長光〉 松山に生まる。三好家を相続し藩主定昭、定謨に仕える。明治五年廃刀令により長光は鍛刀の家業を廃した。刀銘精竜斎長光作・三好長光作之、これをもって代々の御用鍛冶三好家は家業を閉じた。
 松山藩鍛冶として代々継いだ三好家の刀匠は終わることになるが、その他の刀鍛冶は、予州松山住藤原国住、予州松山住藤原下坂、予州松山住橘助正、予州松山住匡衡、予州松山住小田宗吉造之、予州温泉郡石手住入道宗貞、予州松山温泉住宗尚、松山住小田宗行、松山住宗幸、予州住藤原宗重、などの刀匠が文献に見える。
 天和二年(一六八二)の「松山町鑑」によれば当時松山に住していた刀工は上紺屋町の三好和泉、河原町の宗貞、竹鼻町の鍛冶屋四郎右衛門、鍛冶屋町の下坂太郎兵衛などであり、普通職人は鍛冶職六四人、鞘師一四人であった。

宇和島藩の刀工

 〈国正〉 土佐の長宗我部氏滅亡後に宇和島へ移り住み、慶安五年(一六五三)三月、藩主伊達秀宗より御扶持方四人扶持米一一俵給さる。寛文四年に駿河守を受領す。宝永二年一〇月没、銘は予州宇和島住藤原国正。
 〈二代国正〉 元禄一〇年(一六九七)七月初代国正を相続し、西本市衛門藤原国正と号す。銘は二代目駿河守国正、享保五年一〇月吉日、愛宕山大権現奉進宝剣。
 〈三代国正〉 二代国正の嫡男で三代を継ぐ。第八代の南予宇和島住駿河守八代藤原国正作、元治二年(一八六五)二月日の銘を最後に宇和島藩御用鍛冶国正の名は絶える。
 〈国房〉 豊後の高田鎮政の門人で初銘は国林藤原石見守、宇和島城主、戸田氏か藤堂氏に仕えた鍛冶であると推測するが、伊達秀宗が宇和島藩主に転封された後も秀宗に仕え、代々伊達家に仕え九代まで続く。
 〈安信〉 初代は渡辺飛騨大椽安定で代々弥助谷に住し、二代安吉、三代より安信と称し一〇代の文化文政の頃に渡辺守信の刀工としての銘は消えている。刀・脇差の中心銘は細い草書体で、与州安家谷安信。

大洲藩の刀工

 〈国道〉 吉田領三間に住し山城守国道の門人、師の国道の後継者として寛文三年(一六六三)頃から延宝年間まで大洲藩の扶持方四人分として御用鍛冶を勤め、正徳三年(一七一三)二月六日没。
 〈国次〉 二代は岡本治兵衛国次と称す、国道の嫡子で御作事出仕四人扶持、享保二年(一七一七)六月一九日没。
 〈国能〉 三代は岡本治兵衛国能と称す、国次の嫡子、御作事出仕四人扶持、安永四年(一七七五)一一月一日没。
 〈国茂〉 四代は岡本甚左衛門国茂と称す、初名藤三郎、国能の嫡子、御作事出仕、四人扶持、文化八年没。
 〈国豊〉 五代は岡本治兵衛国豊と称す。国能の養子で初名房右衛門、明和八年跡目相続、四人扶持。天明五年に帯刀御免となり、寛政一二年御組抜家持、文化七年(一八一〇)一二月没。
  〈隆国〉 六代は岡本治郎九郎隆国、豊治郎・治助、初銘は国良、または助国ともいう。国豊の嫡子、寛政五年大阪に修業、上坂助隆の門に学ぶ。文化七年国豊の跡目相続、二人扶持七石五斗の御先手小頭格、大洲藩刀工で現存する作品のなかでこの隆国とその子国良の鍛刀が一番多い。銘予大洲藩岡本隆国。
  〈圀良〉 七代は岡本真金国良、弘化二年(一八四五)九月父隆国没し跡目相続。国良の作品は江戸において大洲正宗と称され、その切味が抜群であったといわれる。弘化五年三月没。
  〈国増〉 八代は岡本茂平治国増と称す。この国増の代に明治維新となり、廃藩置県により住居を五郎に移し明治三〇年五月二六日没、六七歳。

その他諸藩の刀工

 〈今治藩〉 藤堂高虎は宇和島城主より二〇万石で今治城主に転封され、さらに慶長一三年伊勢に転封、のち寛永一二年に松平定房が三万石で城主となる。主たる刀工は国維、姓は源、後藤原に改む、相模守と称す。寛文、元禄の年紀銘の作刀がある。そのほか初代国正(文化年間)二代国正(嘉永頃)三代国正(元治頃)その他に越智信秀、信清、国多などの刀工が存在したが細部は不明である。
 〈西条藩〉 現存する作品で西条藩の刀工として銘の存在するのは俊一だけである。この矢野俊一は通称兵三郎長寿斎と号した。米沢藩上杉侯の御用鍛冶加藤八郎綱吉の門人で、弘化二年西条藩に招かれ、西条藩鍛冶として幕末まで作刀に従事した。その他に正忠の遺作も残っている。
 〈吉田藩〉 京都三品系の刀工、三品次郎左衛門久道が寛政の頃に二代久道、吉田住三品源正道、三品源長久、山城守源国道、花房禿之守は歴代吉田藩の鍛冶を業として勤めたがこの禿之助で明治に至り廃業した。
 〈小松藩〉 西条藩との密接な関係により西条藩の刀工矢野長寿斎俊一に扶持し、俊一は両藩のお抱え刀工として活躍していたようである。その他に伊予小松住貞隆が刀工として存在していた。
 〈高橋貞次〉 西条出身の刀匠で重要無形文化財保持者として指定された高橋貞次は明治三五年に西条市大町に生まれた。本名は金市、大正七年に大阪の刀匠月山貞一の門下に入り、中央刀剣会指定の養成工となり、大正一二年に故郷西条に帰り鍛冶の研究に専念した。戦後、美術刀剣として伊勢神宮の神刀を奉納、昭和三〇年の五月には無形文化財保持者として指定を受け、その作品は近代の優れた刀工として評価された。昭和四三年八月二一日、松山市石手の鍛錬場にて没、六七歳。