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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

六 伊予の和紙

 伊予和紙の起源については延喜式や正倉院文書に税目として紙が上納されていたことがうかがわれるが、本県における和紙生産の具体的な源流は兵頭太郎右衛門はあろう。太郎左衛門は天正年間(一五七二~九二)に野村町竹之内の雲林山麓に泉貨庵と称する草庵を結んで泉貨居士と称し、〝楮〟を原料とする良質の和紙を漉く技法を案出した。この和紙が「泉貨紙」として伝承され、藩政時代には藩の保護を受けるようになる。泉貨居士は慶長二年(一五九七)に没したが安楽寺の境内にその墓がある。この泉貨紙の手漉き独特の技法は菊地家に代々伝承され、現在は五代定重氏が技術伝承者として野村町指定の無形文化財となっている。
 また大洲和紙は寛永年間に大洲藩主加藤泰興が土佐の戦国武士の浪人岡崎治郎左衛門を召し抱えて御用紙を漉かせたことが大洲藩関係地誌の『積塵邦語』や『大洲随筆』にあるところから、藩の御用紙としての起源であろう。治郎左衛門は寛文五年(一六六五)に九七歳で没し、その墓は五十崎町の宗光寺にある。その後越前の岡本村から紙漉師善之進(伝兵衛)を招き、越前和紙の技法を導入している。善之進は元禄一五年(一七〇ニ)に没し、その墓(戒名宗昌禅定門)は同町香林寺にある。こうして大洲和紙は、前記の野村の泉貨紙と藩を異にしながらも、肱川、小田川の流域に隣接し発展していった。宝暦七年(一七五七)に大坂中ノ島の藩倉庫に回送の指令を出したり、翌八年には楮を大洲藩から出すことを禁じており、同一〇年には楮は五十崎、紙は大洲、内子、中山に紙役所をおいて統制した。続いて小田の寺村と北平にも楮役所を置いたことが記録されている。
 このように大洲和紙は藩の中心産業として重きをなし、代々の藩主自らも積極的に庇護奨励したため、その名は他藩にも知られるようになっていった。
 明治になっても和紙の生産は続けられ、明治一〇年(一八七七)内子地方の統計によると和紙生産と製蝋が産業の主体となっていたが、大正から昭和になると製紙業者は次第に減少し、小田川や肱川の流域には楮や三椏の製紙原料を栽培する農家が多くなっていった。製紙技術も改良され、共同経営等の合理化により大正七、八年には好況をみたが、倒産と再建の迂余曲折を経て今日に至っている。昭和五二年九月には大洲和紙の里として製紙技術の保存を図り、同年一〇月には通産大臣指定の伝統工芸品に指定された。
 大洲和紙と並んで川之江地方に手漉和紙がある。江戸時代の中期に発祥したものと伝えられるが、南予地方の和紙生産が藩の保護、統制によって発展し、明治に到って衰退したという経緯をたどったのとは反対に家内工業的生産から急速に近代工業へと発展していった。全盛期は日露戦争後で、明治四〇年の統計によるとこの地方の業者は六六五名、従業員は約三〇〇〇人を数えたという。今日の日本の洋紙生産地としての基礎はこの頃より築かれたものであろう。
 宇摩地方の伝統工業のなかに特に水引がある。藩政時代から丸髷、島田、桃割等の日本髪の元結として生産されてきたが明治の文明開化の風潮により、結髪の風習が次第に失われ、大正の終わり頃には殆ど需要がなくなったという。昭和三年の即位大礼に当たり、宮内省よりの水引き約五〇万本の買上げを契機として、水引加工の全国的著名産地として知られるようになり、業界も活気を呈したが第二次世界大戦によって生産中断のやむなきに至った。戦後の経済復興によって水引業界も次第に生産体制が確立され、水引・金封・飾り(結納)のそれぞれ専門に分業された。国内では結納のセットが主製品となり、海外向けには花鳥類の室内装飾用のものが作られている。現在川之江市に三五工場あり製品の九五%は県外に出荷している。手仕事による高度の技術を要するため、今後の伝承保存が課題の一つである。