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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

八 伊予絣

 伊予における織物の起源は和銅五年(七一二)七月十五日、伊予国にはじめて綾錦を織らせるという文献からみて少なくとも七、八世紀頃から絹布を上納していたことは明らかである。一方、木綿が伊予で織られるようになったのは元禄年間(一六八八~一七〇四)といわれ、百姓が綿作から紡ぎ、そして織ったもので、僅かに自家用程度の生産であったようである。
 伊予の綿布が内外に広く知られるようになったのは、菊屋式高機の発明によって増産されてからのことである。独力で絹高機を菊屋式綿織機に改良考案した菊屋新助の功績は特筆さるべきものである。松山藩も積極的に奨励したため、急速に生産が伸び、道後縞、松山縞が伊予結城として俄に活気を呈したのである。
 菊屋新助は野間郡小部村(現、越智郡波方町小部)に安永二年(一七七三)生誕した。代々百姓であったが発明に長じ、商才あり、青年の頃、松山に出て松前町二丁目で菊屋という店を出した。この頃使用していた地機が欠点の多いことに注目し、享和年間には苦心の末に改良を加え高機を発明し、品質と生産量の急速な発展を招いた。文化・文政の頃には藩外に販路を求め、松山縞、道後縞が有名になったのである。この事業に松山藩も元銀を貸下げるなどしたので、新助は広島、尾道、福山、岡山、大坂などと商取引きし、松山縞の名声はさらに高まっていった。文政七年(一八二四)の記録によれば「京大坂は勿論、九州、関東まで日本一の上木綿縞と評判為仕度存念に御座候」とあり、新助の旺盛な事業欲と自信がうかがわれ、品質の向上にも意を注いでいたことを知ることができる。
 こうして高機縞、松山縞は次第に発展し、新助の書き残した文書によると、文政元年(一八一八)の寅年分九〇〇反、翌年の卯年は一三〇〇反、翌三年には二五〇〇反、己年三五〇〇反、申年(一八二四)には二万反を突破して隆盛の一途をたどった。綿織物が家庭における必需品であり、販路も広域に取り引きされ、また地場産業として町家や下級武士の内職になった。松山藩も大いに保護育成に力を注ぎ、新助の事業に援助を行った。
 安政元年の二月に本町一丁目に縞会所を建設し、製品ができるとこの縞会所に持参し買い上げられる。他と取り引きは禁じられていた。縞会所は一〇軒の問屋を指定し、売捌所は松山に五五軒、三津に一〇軒であったという。当時、縞会所の買上価格は一反の値段は三〇匁から三五匁ぐらいであった。
 鍵谷カナは天明二年(一七八二)現在の松山市西垣生町今出に生まれた。すぐ近くの天王社跡にカナ女の頌功記念堂があり、碑文に「嫗は天明二年今出の里に生れ、若き時享和年中藁屋根を葺き換ゆるを見て押竹を縛りし痕の美しき斑紋を成せるを奇とし、之を織物に応用せんと志し終に飛白の綛絞りを発見し、伊予絣の元祖たる今出絣を織り始めたる人なり」とある。
 また同地三島神社境内に「飛白織工労姫命」の記念碑があり、明治一九年、ときの農商務大臣より鍵谷カナの絣の考案に功ありとして表彰を受けたることを記している。その碑文は「温泉郡垣生村今出の人鍵谷カナと云える者、同村小野山藤八に嫁し、享和二年、良人とともに讃岐金刀比羅神社に参詣せんとし、便船に乗じて三津浜を出航せり。船中に久留米の商人あり、同地製出の飛白を着すると見、深くその優秀なるに感じ帰郷の後考案を重ね、木綿糸の処々を糸にて括り青草の汁を搾りて藍に代え、括糸を染め、地機にかけてこれを織り、漸くその志を成すことを得たり。かくてその方法を習い、これを菊屋新助の考案した高機に用い、遂に成功をみるに至れり、世はこれを今出絣と称す。かくてその需用ますます多きを加わるとともにその名称もいつの間にか伊予絣として令名を天下に博するに至れり」とある。
 この二つの説のいずれが正しいかは迷うところであるが、伊予絣創案のヒントを何によって得たかはあまり問題ではなく、伊予絣を苦心の末に創案したカナ女の功績は偉大であると認めなければならない。

機業の変遷

 「伊予絣」という名称を内外の人々から呼ばれるようになったのは明治一〇年のころであり、これまでは伊予結城かまたは松山縞といわれてきた。本県の明治一〇年の綿織物の生産量は一一八万八二〇六反で全国第四位であったが、次第に販路が拡大し、明治三七年には全国第一位の生産量を誇るようになった。
 織元が原糸を仕入れ、柄を染めて織子に渡すと製品にして織元に渡すという制度がいつの間にかできて、織元問屋が織子に賃織りする姿になったため、粗製乱造の弊害を生じて伊予絣の品質は次第に低下していった。
 また原料綿は国産のものは粗悪であるため、明治初期から印度綿が輸入され始め、さらに品質のよいアメリカ綿が輸入されるようになり、国産の綿は次第に姿を消していき、絶滅していった。
 明治三七年の全国一の一四六万反、明治三九年には二四七万反を記録する最盛期を迎えたが明治の終わり頃から次第に低滞しはじめ、大正五年には一一五万反までに落ち込んだがその後徐々に景気を回復し、再び二〇〇万反を確保して大正一二年には伊予絣史上最高の二七一万反を生産した。松山地方の農家は絣を織る抒の音で賑やかであったが、再び静かになっていった。大正の終わり頃、足踏織機の大賀式が製造され、続いて大岩式や三谷式、白方式など次々と改良機が発明され、高機に比して二倍の生産能力があり値段も比較的安かったため、急速に普及していった。
 伊予絣に初めて動力による織機を導入したのは昭和八年の頃であり、足踏機の二倍三倍と能率があがったので使用する者が続出した。しかし、まもなく戦争のため綿花の輸入が跡絶え、生産や販売にまで戦時下の統制が強められ、同一七年には絣製品が政府買い上げとなる。そして、一八年にはついに生産を中止するに至り、鉄資源確保のため織機の買上げが行われ、伝統ある伊予絣の生産は全く途絶するに至った。
 昭和二一年に業界代表者が米綿輸入について奔走し、同二三年より再開できることになり、伊予絣組合を伊予織物協同組合と改称し、共同作業場を新築して生産の合理化をはかったため、生産量は徐々に向上していった。しかし、二七年の二〇三万反を最高に四〇年には一〇〇万反を下まわり、五六年には松山地域で一〇軒程となり、他は絣以外の織物製造と兼業する現状である。いずれにしても伝統工芸として誇る伊予絣の発展の方途を考えるべきである。