データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

第三節 伊予の書

伊予八藩の書家

 愛媛県に関係する古代・中世の筆蹟は、埋蔵文化財のなかにそのいくっかを確認することができるが、これらは『愛媛県史資料編 考古』に収録しているので、ここでは近世以降の概況と主な書家を取り上げておくことにする。さて、徳川氏の江戸幕府二六〇年は文治政策により鎖国をし、僅かに長崎港(出島)の中国・オランダニ国の商人との交易により、外国物資と情報を得、参勤交代の制を以て各藩を統制平穏を計ったので、学問、芸術、諸氏文化は栄えた。そして各藩に広まった。そして各藩は閉鎖的で個性的藩風を持っていた。
 伊予は海上交通の便を得て本州・九州との交流が行われ易く、古くから石鎚山や大山祇神社は信仰の的であり、道後温泉は霊泉として保養のため他藩よりの訪問者も多く、文学者・芸能人の渡来も多かった。
 宇和島の伊達家、大洲の加藤家、松山の久松(松平)家、今治、西条の松平家、小松一柳家と親藩・外様の各大名が産業・文化を奨励したので、学問・芸能も栄え、書もまた盛んになり、名手を輩出した。書は君与の芸として教養のために精進したので各藩主も愛好し能筆も多く各藩に名手が出て尊敬の的になった。
 寛政の三博士尾藤二洲は昌平黌教授であり能書家として尊敬され、門人近藤篤山は小松藩主に仕え伊予の聖人と讃えられたが、その書は高潔で風格すぐれた名筆である。
 宇和島藩主伊達宗紀(春山)・大洲藩主加藤泰恒の六男泰都は文麗と号してそれぞれ書画を愛好、大洲藩士中江藤樹は若年ながら品格すぐれた書に後年の大成をうかがうことが出来る。如法寺の磐珪禅師も傑僧の風格を示している。
 松山藩主で徳川親藩としての松平家(久松家)は代々書を愛し、能筆であり、藩内に多くの名筆家を出している。僧明月、藩士伊藤子礼、僧西山蔵山の三名筆があり、藩校主任教授日下伯巌あり、高縄泉岳寺門額の書者大野約庵あり、伯巌門下に武知五友や三輪田米山・高房・元綱の三兄弟はそれぞれ能筆である。なお俳人栗田樗堂・武知五友に開眼された正岡子規一門の柳原極堂・内藤鳴雪・高浜虚子・下村為山・河東碧梧桐・五百木飄亭らは中村不折らと新傾向の個性豊かな名筆を残して現代に続いている。

国民教育と書

 江戸時代から国民教育の必要から寺子屋制度を奨励して寺および個人住宅において「読み・書き・そろばん」の教育が行われた。文字教育が主で、日常生活に必要な平易な文字、文章を手本として、無学者を作らぬ政策は現在世界最高の文化国家となる基礎を築いた偉大な功績であった。
 明治五年(一八七二)の学制発布によりしだいに全国に学校が設立されて義務教育制度が実施され、書き方教育は主要な学科であったが、教育技術の未熟から児童全般の興味を喚起するに至らず、最も効果の上がらぬ教科として存在していた。
 昭和二〇年、敗戦により進駐軍の管理下において毛筆習字は小学校で廃止されたが、のち国民の要請によって義務教育に復活し、高校・大学では芸術的要素を重視して指導の理念・方法が改善され、芸術界における書道の隆盛とともに進歩発展して来た。

書芸術の発展

 昭和二〇年の敗戦後、現代書の先駆者比田井天来門下の俊英上田桑鳩・手島右卿・桑原翠邦が真鍋士鴻・沢田大暁・生口万象の招きにより、関西派の炭山南木・村上三島が内田東水・河野如風により来県、愛媛の書道界は現代書・古典書ともに全国レベルに達する動機を作った。今治在住の織田子青は漢字・仮名の能書家として書神会長として多くの後輩を育てた。仮名書道は関西派の内田鶴雲、関東派比田井小琴派が伝えられた。

愛媛県美術会

 終戦後、書も他の部門とともにいち早く愛媛県美術会を結成、道後公園内で展覧会を開き、高松宮の臨場を迎えた。その後松山市内の会場を借りて毎年展覧会を行ったが、会の改革の必要に迫られて各部幹部の会合を重ね、美術協会を解散して愛媛美術会を結成、愛媛県民館を借りて展覧会を催す中、美術館の建設のため会員一同努力を続け、遂に現在の美術館の建設となり、美術界の活動が飛躍してきた。年二回の県展の外各グループ展、個展で会館は常に満杯の盛況である。(『愛媛県展三十年史』)
 なお、県下には表5-1に示したような書道団体があり、各種書道雑誌の刊行や展覧会の開催、研究会による指導などの活発な活動がなされ、芸術部門最大の人員を擁している。

表5-1 愛媛県内書道団体一覧

表5-1 愛媛県内書道団体一覧