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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

一 洋楽の移入と普及

 現在、音楽という分野はその種類、表現方法、鑑賞など非常に多岐に亘っている。
 日本古来の伝統音楽はその形態を少しずつ変えながら現在も営々と続いており、一方では、西洋音楽も明治初期より本格的に根を張り始めて一〇〇年の間に世界の注目を集める発展ぶりである。
 本章は、音楽の中でも特に明治以後の西洋音楽が愛媛県にどのように移入され、人々に普及していったかを当時の新聞、その他の資料に基づいて考察していくことにする。したがって、邦楽、舞踊に関する事項については殆ど触れえていないことをあらかじめお断りしておきたい。

日本における洋楽の移入

 我が国で生まれ、長い間親しまれてきた日本音楽の中に、明治になって怒濤のように入って来た西洋音楽が、どのように受け入れられてきたか、日本音楽と西洋音楽はどのような形で融合と分離を繰り返してきたかは、こと音楽に限らず新しい文化が移入された場合に必ず大きな問題を投げかけている。我が国の伝統音楽も過去にいく度か外来の音楽に影響されて、その中から我が国の風土にあった文化に育っていったのである。
 井筒平の話によると、西洋音楽が移入された初めてのものは多分キリスト教会の音楽であったろうという。また、日本で西洋音楽が初めて演奏されたのは嘉永六年(一八五三)ペリー来航のとき幕府の役人を驚かせる意味もあり、演奏された軍楽隊の演奏と艦上における礼拝の讃美歌であったとする人もいる。
 しかし、それより三〇〇年前にキリシタンが入ってきたとき、すでに讃美歌が伝えられて簡単な器楽もあったといわれているから、実際はそのころに西洋音楽が我が国に入ってきたものとみてよいだろう。
 明治二三年(一八九〇)九月二五日付で日本最初の音楽専門誌『音楽雑誌』が発刊されている。その創刊の辞に当時の西洋音楽の普及ぶりが書かれてあるので一部引用すると「-政府は己に其令を全国一般の学校に布き汎く音楽の科を課設せらる。-明治十二年吾文部省中に音楽取調掛を置かれー同二十年更に音楽学校と改められー陸海軍には軍楽の備、音楽学校には高尚な管弦楽、優美な声楽、式部寮には雅楽、華族女学院には洋琴、ヴァイオリン、大学・学習院には原語の歌、高等中学・商業学校には運動歌、高等師範・女子師範・高等女学校・尋常師範には風琴、市中音楽会には吹奏楽、各聖教会掌には賛美の唱歌などのことをかざりたてた文章でならべその他-坊間の丁稚も亦其風を慕ふて用途の途上に真似る等盛んなりといふべしー音楽の道全国に洽しともいふべきかー」などと記述され、日本における西洋音楽の移入が急激に行われていることを示している。しかし、これらは単に西洋音楽の移入が本格的になったというだけで、音楽芸術を理解するまでには至らなかったのである。
 このことは現代についてもいえることで、いったん西洋音楽に押し流された形になっている伝統音楽も、逆に外国人によって日本音楽の価値を指摘されると、こんどは逆流が行われる傾向になる。これは音楽ばかりでなく、すべての文化についていえるのである。

洋楽の移入と讃美歌

 日本で最初にキリスト教の聖歌が歌われたのは、天文一八年(一五四九)に始まるカトリック教会の宣教に伴うが、プロテスタント讃美歌の方はそれより約一〇〇年後、万治二年(一六五九)一月二日長崎出島のオランダ商館における礼拝をもって嚆矢とする(原恵『日本の讃美歌史』)。実際に日本語で歌えるプロテスタントの讃美歌は、明治五年(一八七二)八月横浜で開かれた第一回宣教師会議の席上提示された二編の邦訳讃美歌(現行「讃美歌」四六一・四九〇に相当)に始まる。
 愛媛では明治九年春、布教のためアメリカン・ボード宣教師、アッキンソンが通訳鈴木清を伴って今治、松山で礼拝をしている。この時、他県の例をみてもわかるように讃美歌を礼拝の一部に加えていたことが推測される。これがおそらく洋楽の我が県における初めての演奏になると思われる。そして明治一二年(一八七九)今治に四国最初の教会として今治教会が創立され本格的な布教活動が行われるようになる。ここでは組合教会(後の日本基督教会)系で歌っていた讃美歌集「教のうた」を礼拝の時に歌っていたと思われる。この「教のうた」について略述すると、表紙に「日本基督教会讃美歌/明治七年出版/歌十九首/日本第一ノ古キ讃美歌/ルーミス奥野両氏編」と墨で書かれている。ヘンリー・ルーミスはアメリカ長老教会の宣教師として明治五年横浜に上陸、後ヘボン宅の隣りに住んで英語聖書と讃美歌を教え、伝道のかたわら讃美歌集の編集に従事した。奥野昌綱は江戸で旗本の家に生まれ、輪王寺宮に仕えて御廸戸役に昇進したが、四五歳のとき明治維新に出合い、彰義隊と戦って敗走、失業の末自暴自棄に陥ったものの、女婿の友人義綏(日本基督公会創立時の長老)を通じてヘボンの日本語教師となり、和英辞典の編さん、福音書邦訳に尽力した。彼の聖書和訳、讃美歌翻訳、創作、編集の貢献は極めて大きい。(『神奈川県史文化』
 明治一九年(一八八六)二宮邦次郎によって私立松山女学校(現、松山東雲学園)が創立され、明治二二年米国よりガニソン・ジャジソンが来松し布教活動を始める。両女史によって初めて外国人の演奏を聴き、また原語による歌を耳にしたのである。
 また明治一九年には今治教会に米国教会よりオルガンが贈られている。このことは愛媛県に西洋の楽器が入ったことの最も古い記録である。
 このように、他県でもそうであったように愛媛県でも西洋音楽はキリスト教によって少しずつ県民の間に入っていったのである。
 明治三六年(一九〇三)に松山夜学校校長であり、伝道者であった西村清雄が南予地方への布教の帰路に法華津峠あたりで作ったといわれる「山路こえて」は、讃美歌四〇四となって、現在では全国的にキリスト教信者は勿論のこと、一般の人々の間でも歌われている。
 本県における音楽の水準を上げるために、キリスト教関係者の礼拝を通しての努力は目をみはるものがある。事実、キリスト教精神によって創立された松山女学校は「はいから」な学校として、当時の本県の音楽界をリードし、師範学校よりもレベルの高さを誇っていたのである。
 明治三一年、松山女学校を卒業した増野ゆきは学校での課外活動について「課外として優雅な茶道は有名な山内宗匠、尚武の薙刀はお家代々の高校先生、楽器使用法としてオルガン、ピアノ。自分は宣教師ハウド先生にピアノを教えていただいた」(『松山東雲学園創立八十周年記念誌』)とある。授業の外に音楽の好きな者に対する課外活動が行われていた様子もある。また、大正六年、当校を卒業した二宮ユキによるとヘンデル作曲のハレルヤコーラスをこの年に初めて歌っている。讃美歌以外の色々な合唱を楽しんでいたことがわかる。大正一三年、松山女学校を卒業した、二宮徹が当時の女学校における音楽の様子を次のように書いている。「毎朝の礼拝は一番楽しい、また一番嬉しい時でございました。レコードにあわせて入場、上級生が二部・三部による讃美歌を合唱、地上にこんなすばらしいー」(『松山東雲学園創立八十周年記念誌』)。このように学校で全生徒による合唱が行われていたことはかなり高い水準の音楽をしていたことが想像できるのである。

唱歌の普及

 音楽取調掛のつくられた明治一二年(一八七九)以来、音楽教育の出発点となったのが唱歌教育である。そして唱歌そのものが音楽としてとらえられてきた。いまでも、保育園、幼稚園、小学校低学年の子どもたちに「むすんで、ひらいて、手を打って、むすんで……」や「ちょうちょう、ちょうちょう、なのはにとまれ……」の曲はうたわれている。学校を卒業したり、人との別れのときは「螢の光」をうたう。これらの唱歌は、日本人にとってごく自然な歌であり、日本の伝統音楽のようにもおもえるほどだが、これらの曲は明治一〇年代にアメリカから日本に入ってきたヨーロッパのうたである。このように、学校教育の普及とともに唱歌が日本人のあいだに広まってきたと同時に、このことが西洋音楽への興味となっていったのである。
 こうして唱歌がどんどん我が国の地方へも広がっていったわけだが、愛媛県では高等小学校が「唱歌は或は課し或は課せず」といった状況であり、尋常小学校では「唱歌裁縫の二科は地方に加ふるのみ、是れ其準備の整はざるが為なり」(愛媛県通信「教育時論」第一五七号 明治二二年八月二五日)といった状況であった。愛媛県における「或は課せず」という高等小学校の唱歌科加設状況は他県と比較してかなり遅れていた。
 愛媛県としても唱歌の指導者を養成すべく努力はしている。明治一七年四月、文部省から次のような文書が送られてきている。

  兼テ諸府県ニ於テ音楽唱歌施設之見込ヲ以テ音楽伝習人派出依頼申越候向有之処其照会区々相成取扱上不都合不尠ニ付来九月右入学許可可致見込ニ候間貴府県ニ於テモ別記之条項参覧之上右派出有無共来六月三十日限御中越有之度此段及御照会候也
       別 記
  第一 学識 普通教育ヲ受ケタル者
  第二 年齢 十六年以上三十年以下ノ男若クハ女
  第三 技芸 雅楽又ハ俗曲ヲ心得タル者ハ更ニヨシ
  第四 学習期限 壱ヶ年以上滞在見込ノ者

 この募集に対して愛媛県では三野郡(現、香川県三豊郡)宮武唯輔の公募を文部省に報告している。宮武についての県令の添書は「学識ハ去ル明治十五年本県師範学校二於テ高等師範学科卒業ノモノニ有之又其品行不正廉無之」とあり、宮武ら四名は明治一七年九月七日入学試験の末、入学が許可された(『近代日本音楽教育史』)。
 宮武唯輔は、香川県併合時代ではあるが、本県における初の音楽専門の教育を受けた人物である。しかし、宮武が明治一八年の末卒業して帰県し、教職に就いたことは確かであるが、詳細は定かでない。
 唱歌を学校及び一般に普及するための講習会が明治二七年に三回、明治二八年に二回、明治二九年に二回と実施されている(愛媛県学事年報明治二七~二九年)が県下の普及状況はおもわしくなく、明治二九年の愛媛県学事年報によると、

  教科ヲ加除セル種別校数ハ、尋常科二於テ裁縫ヲ加フルモノ五一校、図画ヲ加フルモノ九校、唱歌ヲ加フルモノ、体操ヲ加フルモノ各一校、高等科二於テ、英語ヲ加フルモノ二校、農業ヲ加フルモノ一校、唱歌ヲ欠クモノ二校ナリ

 と報告されている。この資料から本県における唱歌の普及を考えると、唱歌を実施している小学校は、明治二九年の尋常科五四六校中、わずか一校しかなく、他県に比べて、その普及率は非常に悪い。しかし高等科では二六校中二四校が唱歌を実施してかなりの普及率を示している。
 このことは、唱歌を専門的に教える指導者の不足、設備の不備、一般の人々を含めて唱歌に対する偏見と無理解の結果ではないだろうか。中央での西洋文化を範とする熱が、本県にまで至るには相当の時間と官民の音楽に対する理解と熱意が必要であったのである。

民衆の音楽

 我が国の自由民権思想が盛んになるのは明治一五年(一八八二)、中江兆民によるルソーの「民約論」が出たころからである。当時は流行歌ということばはなく、一つ一つ「○○節」という呼び方で歌われていた。
 明治九年八月三一日付の愛媛新聞第三号におもしろい投書が掲載されているので紹介する。

  一夜小学校生徒の寝言に開花節(一名大津絵節クドキ)とか云うのを謠ふた話を聞きましたから一寸申上升幼童故か訳の分からぬ句があり升から其御積りて抑モ入校の本日より教授の初は「アイウエオ」書を読み文字を「カキクケコ」時々遊歩も「サシスセソ」でも追々「タチツテト」今日の書取「ナニヌネノ」子供答えて「ハヒフヘホ」……

 このような替え歌を子供が歌っていたという投書が新聞に掲載されるほどなので、巷ではかなり様々な型で歌われていたと思われる。この頃の民衆歌は今の流行歌とは異なって、社会の風刺・思想感情などの、いわゆる一般大衆の心意気を歌ったものが多くあるようで、明治三四年前後の、オッペケペ節とかチョンコ節などは当時最も人気のあった民衆歌であった。
 これらの民衆歌を広めたのは壮士と呼ばれた、自由民権運動家や官僚専制反対の政治運動家達であった。彼らが歌って歩いたものが「自由演歌」と題してあったことから、これらの民衆歌は演歌と呼ばれ、そして演歌師ということばが生まれたと言われている。しかしこれらの演歌には人間性や叙情性のあるものが少なく、旋律も単調なことから、長続きはしなかったのである。このあまり長続きしなかった「OO節」も大正期になって、しだいに歌謡調になりいわゆる「艶歌」となり、さらに現代の流行歌に移行し、ラジオ放送開始とともに一般大衆のあいだに根強く生きながらえることになるのである。

音楽隊の誕生と軍歌の流行

 明治後期に入り軍楽隊の活動が活発になり、求めに応じて出張演奏をするようになる。しかし、その都度、拝借願書を軍楽隊に提出しなければならない、面倒な手続きと多額の謝礼を支払わなければならなかったためか、全国的にみても市中音楽隊の誕生が多くみられる。
 本県でも創立は定かでないが「愛媛音楽隊」が結成され、県内はもとより県外にも出張演奏をするようになるのである。明治三一年四月二〇日付の「海南新聞」によると、赤十字社北宇和委員部総会のため宇和島へ出向き、総会のあと公会堂にて一般大衆のために演奏会を開催し、八百余名の人々の前で奏楽したとある。また、同じ海南新聞の四月二四日付によると、愛媛音楽隊が広島に出張し、軍人招魂祭に演奏することになっているという記事が見られる。
 また、明治四四年、松山市立第一尋常小学校(現、番町小学校)に県下の小学校では初めて音楽隊が結成され、運動会で演奏している。もちろん編成も小さく、コルネットを関家という兵隊戻りの先生、バリトンを三神謙治郎という先生、大太鼓と小太鼓は児童が叩き、たった四人の音楽隊であった。しかしこの音楽隊もクラリネット等の楽器を次々に増していったようで、児童達の間ではかなりの人気があった。
 一方、明治二七年七月、日清両国は戦闘状態に突入し、国民の戦意を高揚させるために、戦時美談が次々と紹介され、教育に携わる人びとや知識人、軍事関係者たちは日清戦争の意義を説き、民衆の志気を高め、挙国一致の態勢を盛り上げようとしていた。明治二八年九月二五日付の『音楽雑誌』によると、

  日清戦争このかたは軍歌の流行日に月に盛んになりて敵愾の気象を養ふ愛国の義心は歌に表はれて乳嗅き児さへ口にせり、近頃唱歌の本として出版さるる皆な軍歌の本の外なし、

とあるように、軍歌の出版も多く、出版社は再版再版で主人は大黒顔の悦であったと同誌は伝えている。