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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

五 昭和の能楽界

戦前の情況

 先に大正七年金子亀五郎が四四歳で没し、同九年東京の追善能では嗣子五郎が隅田川の子方を勤めている。五郎は家元六平太の下で薫陶を受け、昭和五年亀五郎一三回忌にあたって師範として独立し、松山へも出稽古に帰るようになった。昭和九年一月には崎山龍太郎が、同五月には池内信嘉が東京で没した。九月松山で崎山の追善能があり、金子五郎が帰演している。翌年一〇月道後公会堂で池内信嘉の追善能が各流合同で行われ、実弟高浜虚子、嗣子池内洸も帰松して各々舞囃子、独吟を供えている。もちろん東京でも池内信嘉の功績をたたえて能楽界を挙げて招魂社(靖国神社)能楽堂で追善能が行われている。昭和に入る頃から次第に県下にも群雄割拠が始まり、東京・上方から有力職分が地盤を求めて進出して来る。昭和一〇年観世武雄(のち銕之丞)、永島誠二が来松し、地元三役や女性と共演しているが、女性の演能も当然の風潮となった。次第に戦時色が強くなり、同一六年には京都能楽師の昭月会が傷病将士慰安能の名で松山市庁ホールに来演し、片山博通(のち九郎右衛門)・杉浦義朗・浦田保清・吉井司郎・藤井久雄、狂言の大蔵流家元大蔵吉次郎(弥太郎)、茂山忠一郎・同幸四郎、その他囃子方が、能四番・狂言一番を演じた。喜多流では昭和初期から金子五郎が松山の稽古を始め、同一二年率いる和謡会で、第一回学生能と名付けて松山高等女学校で、社中の女学生に能を演じさせたり、東雲神社に神能を奉納している。同四年天野儀一郎が没しているが、夫人深雪が霞会を通して女性能楽に活動している。ワキ方では光本敬一(下掛宝生流職分)が昭和一〇年子息弥一郎(のち宝生弥一)とともに上京して、梅若万三郎と共演している。鉄井豊太郎(大正三年没)、柳田音五郎(昭和初期没)は世を去ったが、洋々会は同一一年三〇〇回記念能を催し、草創時からの大家小川尚義も出演している。太平洋戦争に入った同一七年には、狂言方古川久平が満州国建国十周年記念文化使節梅若六郎能楽団に加わって渡満し新京(現、中国吉林省長春市)で演じているが、これは先に上京して山本東次郎門下に入っていた佐伯暹蔵が、観梅問題で孤立中の梅若一門に投じていたが、渡満にあたり狂言方の手不足で、旧知の古川久平を招いたものであった。

戦後の再建

 昭和二〇年七月二六・二七日の松山空襲で市街は瓦礫と化し、東雲神社能舞台も焼失して、住民は衣食住に追われ能楽どころではなかったが、幸い神社の面・装束類は焼け残り、道後公会堂(現子規記念博物館)も無事で能楽復興の基盤となった。同二一年一〇月八幡浜市制一〇周年記念芸術祭に、片山・吉井・浦田・藤井・茂山ら京阪能楽師がモンペ姿で来演し、同二二年には狂言方の主催で憲法実施記念狂言会、翌年南宇和郡城辺町で沢近瓢月会の古典研究能楽会などを経て、同年六月NHK松山放送局で放送名曲能の会が行われ、金子五郎・里見晶透(宇和島)と地元三役で昼夜二回松山市庁ホールで演じられた。同二三年一月狂言方古川久平が没して息七郎が跡を継ぎ、鈴木英一とともに松山大蔵会を率いて同二四年追善能を行い、茂山忠三郎良一・倖一父子が木六駄を供え、女婿金子五郎も手向の能を舞っている。これらが足がかりとなり次第に復興して、同四〇年松山市民会館落成とともに中に常設能舞台が完成したこともあって、能楽各流共に非常な隆盛を示している。
 観世流では、藤井久雄(神戸)の観謳会が藤井源次郎(美蔭)以来五〇年の地盤を誇り、何度も家元観世元正らを招いて大曲・名曲を披露し、その傘下青楓会(宇和島)は名園天赦園の庭に舞台を設け、ゆかりの青山の琵琶を飾って経政の薪能を演じたりしている。浦田保清・保利父子(京都)の浦声会、戦前から南予に沢近六左衛門・里見晶透を擁した浅見系(東京)瓢月会も活動の翼を広げ、今治では先代梅若万三郎に師事した池内一之助の一声会が、故梅若猶義(万三郎次男)の梅猶会をバックに着実な活動を続けている。喜多流金子五郎は戦後松山に定住し、和謡会も名を愛媛喜多会と改め、家元らを招いて度々至芸を見せたが、昭和四五年に病没し息匡一が跡を継いでいる。上掛宝生流は流勢必ずしも盛んではないが、職分辰巳孝(大阪)の指導の下に六〇年の伝統を守っており、金剛流は普及していないが、現在愛媛大学・松山商科大学のクラブ活動に名をとどめている。
 狂言は性格上すべての流派に関係が深く、能楽復興とともに勢いを伸ばし、狂言そのものの価値も評価される様になった。戦後古川久平を失ったが、息七郎・鈴木英一は松山大蔵会を率いて、大蔵弥太郎(家元)、茂山一門を度々招き追善・祝賀等の狂言会を催して大曲・秘曲を演じている。二人は昭和三五年愛媛新聞賞を受け、殊に古川七郎は同五〇年国の重要無形文化財能楽(総合指定)保持者の認定を受け、同五三年には文化庁表彰を受けた。鈴木英一は県教育文化賞を受けたが、同四四年に没した。同五二年松山市民狂言会が発足し、毎年夏定期公演を行い次第に市民に定着して来た。NHK松山中央放送局企画の「青少年のための狂言鑑賞」(昭和三二~三五年)、神社仏閣への奉納、学校狂言、社中の全国大会、後述の能楽界の組織的活動など、その活動分野は多彩である。ここで愛媛県の誇る二人の能楽人材について触れておかねばならない。

川崎九淵

 彼は明治七年松山市に生まれ、幼時から東正親に葛野流大鼓を学び、東雲神社神能でその才を讃えられた。同三二年池内信嘉の勧めで上京して同流家元預かり津村又喜の門に入り、数々の辛酸を嘗めて大成した。昭和二八年芸術院会員となり、同三〇年には能楽界初の人間国宝となって、能楽界最高の地位につき数々の栄光に輝いた。その技は神技と言われながら同三一年惜しまれつつ引退し、同三六年東京で没した。愛媛の生んだ日本の誇る逸材であった。本名は利吉。

宝生弥一

 光本弥一郎は明治四一年松山市に生まれ、大正七年下掛宝生流十代家元宝生新に入門、昭和八年その女婿となって宝生姓を名乗り、戦後芸術院賞など多くの賞を受け、同五六年人間国宝の指定を受け、家元亡き跡の宗家後見としてワキ方の第一人者を誇っていたが、同六〇年に没した。

えひめ芸術祭

 昭和二四年学生職場演劇発表会として出発したが、同二七年から「えひめ芸術祭」となり、あらゆる芸能を網羅して県民に発表されることになった。能楽部門は同二八年から毎年各流会派が交替で参加して水準の高さを示している。殊に同四九年第二六回から移動芸術祭が行われ、松山主会場から離れた県下各地で、平素接触する機会の乏しい人達の芸術鑑賞に資することになったが、これには特に狂言方が参加して喜ばれている。

愛媛邦楽連盟

 昭和三三年井関邦三郎を会長として結成されて能楽部門も参加し、三曲・舞踊・琵琶・長唄・清元・筝曲と共に毎年合同演奏会が行われ、各流会派が交替出演して技を披露している。

愛媛能楽協会

 昭和四〇年松山市民会館に能舞台が常設されたのを機会に、能楽各流会派の統合機運が高まり、同四七年県下能楽関係者全員を集めた相互協力機関として社団法人愛媛能楽協会が設立され、会長には財界で知られた観世流の薬師寺真が選ばれた。能楽の発展につれてともすれば各流会派が独り歩きする傾向が一新され、演能・後継者育成・研究調査・機関誌発行などの統合組織となった。同四九年四月の創立記念能には豪華番組が繰り広げられた。毎年五月総会を兼ねた能楽祭を行い、五年毎に第一回と同じく盛大な創立記念能が催されている。会員は創立当時一〇八二名であったが、現在一六OO名を超え、職分・準職分・師範等の有資格者は一二一名を数える。専門職の能楽協会全国組織への加入者も二〇名を超えている。玄人・素人を含めた能楽協会組織は全国でも珍しい。

薪  能

 戦災による舞台喪失で久しく絶えていた東雲神社神能は、愛媛喜多会・松山大蔵会の努力で昭和四一年に復活し、同五〇年神社本殿の復興を機に、その拝殿を舞台として毎年四月四日、神社祭・お城まつりに合わせ薪能として行われており市民に懐しがられている。また同五七年から毎年夏の宵、県教育委員会と愛媛能楽協会の共催で、県立美術館分館(旧萬翠荘)の庭に篝火を焚いて薪能の形で野外能が行われている。