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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

二 伊予茶道の流派

裏千家淡交会

 松平定行が松山藩主として桑名より移封して以来、明治維新に至るまで、千家と松山藩とは深いかかわりあいが続いたが殊に松山藩から一〇〇石の知行を受けていた一一代家元、玄々斎精中宗匠などがさらに松山藩との伝統的な関係を強めた。
 明治維新以降は今日庵名誉教授となった泉岡宗空(本名新次郎)が昭和一四年に没するまで、松山の裏千家茶道の興隆と門弟の育成に努めた。泉岡宗空没後はこれを継承した重藤宗智(一九八二没)が淡交会愛媛支部の設立に尽力し、本県茶道人口の最大の流派となっている。県内に現在九支部があり、淡交会員は五、六〇〇名にのぼっている。なお、昭和六〇年八月現在の県内支部と役員状況は表3-1のとおりである。

表千家同門会

 第三代大洲藩主加藤泰恒の子である泰都(文麗)が表千家中興の祖といわれている七代の如心斎宗左の門人、川上不白に茶の修業をしたことから大洲地方と表千家との関係が始まる。加藤文麗は大洲に帰藩して表千家茶道の普及に努力したことから、大洲地方を中心とする南予方面に次第に愛好者が増していった。また西条藩も、紀州徳川家との関係もあって茶道師範を表千家から招き、その普及を図ったことから東予地方にも拡大していった。
 第二次世界大戦後、表千家の全国的な組織結成の機運が高まり、昭和三二年三月に表千家同門会四国支部、愛媛部会が設立され、さらに昭和四一年には表千家同門会愛媛支部と改称し、昭和五〇年には社団法人表千家同門会愛媛支部と充実発展していった。現在会員千数百名を数える。支部長、真木英幹。

大日本茶道学会

 明治三一年(一八九八)四月に京都高台寺の田中仙樵居士が創立した流派で、この会の基本理念は一流一派にとらわれず、茶道全体の姿がよく理解されるよう多くの流儀が自由に交流し、茶道の進歩発展が図られるための研究誌「茶道」を発刊している。
 大日本茶道学会愛媛支部は昭和二八年、故滝本惣山・二神一樵らによって松山市古三津儀光寺において創立され、新発足をみた。大日本茶道学会の茶道におけるターゲットは、我が国の伝統文化たる茶道の興隆と正しい普及を図り、流儀の制約を受けない研究や秘伝開放、茶道の理論的研究、真の茶道人を創るなどが掲げられている。
この会は諸流の茶人も入会して、茶道会のよくない点を改善していこうとする会である。
 昭和四三年一〇月、松山市PTA会館において第一回の点前発表会を行い、以来、毎年市民会館ホールで開催している。昭和五四年からは愛媛県生活文化センターに会場を移し、会員相互の研修を積極的に行って茶道の興隆を図っている。支部長、村上浩平。

石州流

 伊予と石州流の関係は明治の中頃に旧宇和島藩主の伊達宗徳(九代)の四男、武四郎の妻女が旧平戸藩主、松浦詮(心月)の娘で、松浦家は代々鎮信流の家元であり、流祖の松浦肥前守鎮信は千利休の長男、千道安の高弟であった石州津和野藩主片桐貞昌に茶の湯の指南を受け、一流を創始した。貞昌は宗閑と号し、四代将軍家綱の茶道師範をしたので、世間では剣は柳生、茶は石州ともてはやされた。このような関係から、宇和島の伊達家より石州流が拡大していった。宇和島高等女学校の正科にも取り入れられ、次第に南予地方に普及発展していった。石州流の特色は「すっきりしたお点前」にあるといわれる。
 現在、宇和島支部と松山支部があり、それぞれ宇都宮ミサヲ・岡田泰枝が支部長を務める。

茶道遠州流

 江戸初期、徳川幕府の建築奉行として今日多くの名園を残し、茶人としての業績を残した小堀遠州を創始者として継承してきた流派で、武家社会を中心に茶道の興隆に尽くしたことはあまりにも有名である。その指導理念は勿論、千利休に発したものであるが、論語の中にある「文質」の心、すなわち、飾りが多すぎては虚飾になって真心を失う、さりとて外観体裁に意を用いないと野卑になる、心と外形、内容と外見がともに程よく兼ね備わっていなければならない。このことが今日まで受け継がれてきた遠州流の「きれいさび」の理念である。
 茶道遠州会の組織は、全国的には茶道遠州会中央本部があり、全国各都道府県に支部があるが、最も地方で盛行しているのは東北、北陸、山陰で、九州、四国はあまり盛んでない。
 現在は一二世小堀宗慶宗匠を頂点として茶道文化の向上に寄与している。特に海外文化交流の面では、オランダとの茶道文化交流に大きい成果をあげている。
 この遠州流と本県のかかわりの歴史は極めて浅い。本県に伝わったのは昭和一五年、鳥取から下岡宗匠が来県し、池田操、武田政子などの有志が遠州流についての研究や、当時の一一世小堀宗明の指導を受けて、昭和一九年、松山教導部を発足させた。また昭和四八年一〇月には茶道遠州会第七回全国大会を松山で開催した。現在は会員数約一〇〇名、県内茶道各流との交流を深め、日野里美らを指導者として推進している。支部長池田操。

官休庵

 三千家の一つ、武者小路千家の庵号を官休庵と称している。千利休が秀吉の忌諱にふれて自刃させられて間もなく、秀吉は千家の再興を許した。利休の後継者は次男の小庵(後妻宗恩の連れ子)で利休の茶室不審庵を継ぎ千家二世となった。小庵の子宗旦が千家三世を継ぎ、祖父利休が権勢を得たために死を招いたとし、権勢へのへつらいをやめ、自由な境涯にひたすら佗び茶の道を探求した。
 宗旦が隠居して不審庵を三男江岑宗左に譲り、自らの茶室今日庵を四男仙叟宗室に継がせている。ここで宗左の家を表千家、その裏手に隠居した宗旦に従った宗室を裏千家と呼ぶことになった。
 宗旦の長男宗拙、次男宗守は先妻の子であったため、千家を離れるが、宗守は許しを得て千家茶道に復帰する。
 そして武者小路に官休庵を建立し、武者小路千家と名乗った。ここに宗旦の子の三人によって千家茶道の三家がそろったのである。
 なお官休庵の号の由来であるが、一翁宗守が高松の松平家の茶頭として公の仕事を終って隠退したので官をやめた佗茶人の庵という意味を込めて称したのではないかと想像されるのである。
 伊予にこの千家官休庵が導入されたのは利休より数えて一二代目に当たる愈好斎宗守が昭和二六年、現家元有隣斎宗守を伴い、伊予に旅した際、宇和島と今治に流儀の根を下ろして以来のことで、香川県の古い歴史と比べて愛媛は浅い。現在は宇和島官休会(田中政代会長)と今治官休会(二宮哲也会長)とがあり、近い将来に両者の支部組織が誕生の予定である。

伊予の煎茶各流

 本県における煎茶の各流の活動状況は地味ながら県下一円に普及し、静かなブームを呼んでいる。県立美術館が昭和四五年創立され、全国的にも珍しく茶室を併設し、展覧会の協賛釜として今日では定着しており、煎茶道の普及にも大きい役割を果たしている。また松筵流県支部長の長野松洞だちの指導者が県内各流の横の連絡によって普及と向上に努めている。県内の煎茶各流は表3-2のとおりである。

表3-1 裏千家淡交会県内市部一覧

表3-1 裏千家淡交会県内市部一覧


表3-2 伊予の煎茶各流一覧

表3-2 伊予の煎茶各流一覧