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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

六 高校野球抄史

1 草分けから戦中まで

子規と野球

 愛媛の野球開山は俳人正岡子規である。俳都松山市の文学の象徴、子規が青春の一時期、野球に魅せられ、日本で初めて組織的に野球を始めた第一高等学校で見覚え松山に伝えたといわれるから、全国の先端を行くものと誇ってよいのではないか。明治二五年に松山中学と愛媛師範に球技部同好会が誕生したのが最初とみられるが、同校野球部で一番強かった内子尚武会は一高-子規ルートでなく内子町で同二二年にすでに伝わっていたといわれる。その代表菊池一〇人兄弟のうち秀二郎は鬼菊池の異名をとり、松山中-三高-東京大と進んだ。

松山商業野球部

 明治三四年ごろに西条・宇和島・今治・大洲・八幡浜の県立中学開校と同時に同好会組織が誕生、宇和島中学(現、宇和島東高)は林直徳(旧姓三浦)が功労者。大洲中学(宇和島中学分校)も野球クラブが生まれ、米国帰りの河野政二郎(製糸業)が指導した。八幡浜商業(現、八幡浜高)にも同人会が結成されたのは、町政時代の同三五年に内子尚武会に初試合を挑戦し大敗した記録が残っている。今治中学(現、今治西高)にもクラブチームが編成され、対外試合を行っている。明治三五年、松山商業開校と同時に野球部が誕生する。松山中学野球部の木村峯之助が松山商業一年に転校して部員第一号となった。松山中学の弟分チームとして同校OB杉浦忠雄(一高-東京大)が松山商業を指導し始め、左利き二塁手近藤兵太郎を育て、やがて兄貴分の松山中学を上回る実力を備え、松山中・北予中・愛媛師範と競り合い、松山商業黄金期を形成していった。コンピョウさんこと近藤はその後、母校コーチとなり北川二郎(現姓後藤)、藤本定義、森茂雄らを育てた。

大会出場第一号

 大正四年、第一回全国中等野球大会が豊中グラウンドで開催されることになり、その予選の四国大会が栗林公園グラウンドで始まった。松山中は第二回から参加したが香川商(現、高松商高)に敗れ、第三回も連敗した。同七年の第四回四国大会から高松中グラウンドに移り、松山中・松山商・北予中・今治中が出場した。準決勝で愛媛同士の北予中に逆転勝ちした今治中と、松山中を延長一二回4ー3で破った丸亀中が決勝で対戦、11-2で丸亀断然有利の三回、丸亀二死後、一塁ゴロの打者が今治中大館一塁手に体当たり。スパイクされ大館のユニホームに血がにじんだ。今治中が抗議するも審判受けつけず、試合は一時中断した。その時、観戦していた坂田香川県知事が「学生の本分にはずれた卑劣な行為」として県の監督権で丸亀中の試合出場禁止を命じ、丸亀中の放棄試合となった。
 これで今治中学が愛媛県チームで初めて四国大会優勝をとげたのである。しかし鳴尾球場で開催予定の第四回大会は全国に広がった米騒動のため中止となり、すでに大阪に渡り大会を待っていた今治中学ナインは初の雄図を諦めざるを得なかった。同校は大正二年、野球部が独立し、村上竜太郎・矢内原保昌ら六高に進んだOBが後輩の指導に当たり、その頃の名遊撃手「マーやん」こと村上政敬が、後継指導者として以後二五年間も野球部の面倒を見たのである。

悲運の大投手

 大正八年、第五回全国中等四国大会で北川二郎左腕投手が初登板し松山商が初優勝して以来、一三年の第一〇回大会まで松山商は六年連続四国の王座を守り、北川-藤本定義-森茂雄の黄金期を続け高松勢を抑えた。しかし、鳴尾球場の全国大会では毎年優勝候補筆頭といわれながら全国制覇を果たせず、藤本投手は悲運の大投手といわれた。

松山商業の選抜初優勝

 大正一四年、第二回選抜中等大会は新装成った広い甲子園球場で初めて開催され、松山商業が見事初優勝をとげた。初戦で強豪広陵中に413で逆転勝ちして波に乗り、続いて横浜商を13-5、準決勝で甲陽中を7-3で連破、決勝で前年優勝高松商と対戦した。高商宮武投手を打ちあぐみO-2で劣勢の松山商は七回、小躯の中川が短くバットを握り前進守備の中堅越しに満塁三塁打して逆転優勝を成しとげたのである。試合中、空谷補手が負傷し、中村急造補手でなんとか急場をしのぐなど苦しい戦いだったが、近藤監督が「相手の方が、すべて勝っていたが、こちらは気合いで圧倒していた」と試合後、語っていたことでわかろう。
 宿敵高松商のV2を阻んでの全国初優勝とあって県民の熱狂ぶりはすさまじく、おごりの美酒に酔い過ぎたか、同年夏の四国大会準決勝で高松商と顔が合い3-8で逆転負けしてしまった。前年の高松商が選抜優勝帰りで慢心し惨敗した前者の軌を、そのまま松山商が踏んだ形となった。これで六年連続四国の王座にあった松山商もその年の夏出場ならず、このとき早くも春の選抜出場校が夏に弱いジンクスが始まり、六〇年後の今日まで生きているのである。また松山商には中堅に飛んだフライが球運を呼び勝運に恵まれるとされ、8は中堅手、攻めは八回で「ラッキーエイト」と頼みにされているのも、この年が始まりである。
 なお、大正一四年から昭和四年までは高松商、高松中が五年連続四国を制したが、昭和五年から同一一年までは九年を除き、松山商五度、松山中一度と愛媛県勢が四国の王座に居続けたのである。

春夏連覇ならず

 昭和七年、春の第九回選抜中等野球大会で松山商は七年ぶり二度目の優勝をとげた。岐阜商・八尾中を連破、準決勝で前年夏の選手権で1-3と惜敗した中京商と対決。九回表まで2-1て松山商リード、その裏中京商は二死一塁に吉田の三塁打で同点、延長戦に入った。しかし松山商は一〇回表、高須が右中間三塁打し岩見四球と続き一死後、尾崎の中堅犠牲フライで高須生還。3-2で前年夏優勝の中京商を降し雪辱を果たした。決勝は新鋭明石中と対戦、三森-楠本の投手戦となり、松山商は四回表、岩見の左中間二塁打(野手目測誤る)のあと藤堂のバントを投手が一塁悪送して一、二塁、続く尾崎のバントで岩見は三封されたが三森自らの遊撃左を抜く痛打で藤堂生還し、貴重な決勝点をあげた。
 藤本定義コーチ率いる黄金期の松山商は春優勝の余勢を駆って同年夏の第一八回全国選手権大会も征覇し、中京商の夏の連覇を阻止するとともに、春・夏連覇をめざした。二回戦で優勝候補静岡中に2-1で劇的サヨナラ勝ちし、早実8-0、明石中3-0と連破、予想通り決勝で中京商と対決、八回まで0-3と中京商が優勢だったが九回表、景浦の大三塁打など三連打と敵失で同点に追いつき延長戦にもつれこんだ。二回から三森に代わり好投の景浦が強いゴロを左膝に受け三塁に退いた一一回裏、二死で負傷の景浦に三塁ゴロがとび安打となり一、二塁。続く恒川の決勝打で3-4で惜敗、ついに松山商は春・夏連覇の夢破れ、中京商は夏三連勝の大記録をつくる足がかりとした。

松山商業の初優勝

 昭和一〇年、第一二回選抜大会に一〇度出場の松山商は日新商を5-Oで降したが三回戦で愛知商にO-1で惜敗。愛知の高橋投手と互角の投手戦を演じた中山の巧投が評価された。夏の第二一回全国中等県予選は第三期黄金期の松山商と有請剛速球投手を擁する宇和島中が双璧であったが、四国大会で宇和島中は有請不調で徳島商に初戦で敗退、松山商は城東商を34-1、高松商を8ー2、丸亀中を4-1で連破し甲子園へ三年ぶり一〇度目の出場を決めた。二回戦で海草中を3-Oで破ったが、三回戦の嘉義農林に苦戦、4-4のまま延長戦に入った一〇回松山商は二死一・三塁に東投手のボークで決勝点を拾い辛勝。準決勝では愛知商を4-Oと完封勝ちして春の雪辱を果たし、決勝も初出場の育英商を6-1で破って大正八年初出場以来初の夏の全国制覇を成しとげたのである。最も苦戦した嘉義農林は、松山商草創期の近藤兵太郎コーチが台湾に渡り育てたチームで、松山商の森茂雄コーチは近藤コーチの教え子であるからいわば兄弟チームである。嘉義農林の選手たちは決勝戦まで松山商を応援し、終了後、両チームがユニホーム姿で記念撮影し話題となった。
 昭和一一年、第一三回選抜大会一一度出場の松山商は浪商、岐阜商に完封勝ちして中山投手健在。しかし準々決勝で育英商にO-1で敗れ、前年夏決勝の雪辱を許した。夏の第二二回全国中等県大会決勝は松山商・宇和島中の対戦となり中山-有請の投手戦の末、3-Oで松山商が勝ち四国大会決勝もまた同じ顔合わせから2-Oで再び松山商が競り勝った。有請もまた悲運の大投手といえよう。松山商も甲子園一回戦で初出場の京阪商に九回裏痛恨のサヨナラ負けを喫し、以後、昭和三七年まで選抜出場から遠ざかった。

南予勢の台頭

 昭和一二年、松山商の低落に代わり宇和島中、宇和島商、八幡浜商の南予勢が台頭した。第二三回全国中等県大会で宇和島商は決勝で松山商の千葉投手に0-3で零敗したが、四国大会では決勝に進み徳島商と対戦、延長一四回3-4の惜敗であった。
 一三年、第二四回全国中等県大会では宇和島商が松山商を4-2、宇和島中が松山中を5-4で退け、宇和島中対宇和島商の決戦となり1-Oで宇和島中が初優勝。しかし四国大会では宇和島商が再び決勝に進んだが坂出商に3-6で敗れ涙を呑んだ。
 一四年、第二五回全国中等県大会は八幡浜商の進境めざましく、松山商から鞍懸琢磨校長を迎え、強化めざして四年の成果を見せた。決勝では松山商に2-3と惜敗したが、四国大会へ初の県代表として出場する健闘ぶりを示した。
 一五年、第二六回全国中等県大会は松山商と宇和島商が勝ち残って四国大会に出場したが、松山商は一回戦で徳島商に2-7で敗退、宇和島商は高知商に2-Oで勝ち準決勝で徳島商に1-4で敗れ、蔦投手に名を成さしめた。
 一六年以降、本県チームは出場を見合わせ、選抜大会は二二年まで、夏の全国大会は二一年まで中止となった。

2 「投高打低」守りの野球時代

松山東高の戦後初制覇

 二五年、松山商高と合併していた松山東高と今治西高が第三二回全国選手権四国大会に出場。松山東は高松高を3-2、高松商を3-Oと連破して昭和一一年以来、一四年ぶり甲子園へ。先ず二回戦で長良と対戦、前半2-3とリードを許していたが、七回裏、大川・柏木の連続適時打で逆転勝ちした。波に乗った松山東は呉阿賀を7-O、準決勝でも宇都宮工を5-Oと池田投手の好投で零破し待望の決勝に進出、初出場の鳴門と四国同士の決戦となった。予想通り打撃戦となり、一回表に鳴門が1点を先取したが、その裏、山本が左翼ラッキーゾーンに大会3号ホーマーするなど4点をあげて逆転した。しかし、二回から鳴門栗橋兄投手に抑えられ加点できず、逆に追撃を許し六回4-4の同点となった。七回裏、松山東は二死満塁に宇野の左越え三塁打で走者を一掃、さらに打者一巡の猛攻で大量7点をあげたが鳴門も八回表に4点を加え3点差に迫り、両チーム必死の攻防を展開した。しかし、その裏、池田・山本の二塁打でダメ押し12-8で打ち勝った。全員安打の松山東は松山商業以来一五年ぶりの栄冠を獲得、戦後初めて四国路に真紅の大優勝旗を持ち帰ったのである。
 同年秋の四国大会は松山東に代わり西条北が藤田、工藤両投手を擁して頭角を現し、決勝で鳴門と顔を合わせた。夏準優勝の鳴門は栗橋兄投手の全盛期で、投手戦のまま延長一三回、鳴門にサヨナラ決勝点を許して惜敗した。この年も四国から選抜一校となり鳴門が出場、二六年第二三回選抜大会で初優勝したのである。同年、西条北は春の県大会二度目の優勝をとげ、夏の県大会決勝で宿敵松山東を9-2で降し、大正一二年の初出場以来、二三年にして初優勝を果たした。が、この藤田、工藤の黄金期でも四国の壁を破り得なかった。

剛腕空谷と松山商業

 昭和二八年、七か月ぶりに対外試合停止処分を解禁された松山商が空谷泰投手の全盛期。春の四国大会県予選から出場、四国大会決勝で徳島商広野の軟投を打てず敗れ、夏の県予選三回戦で吉田の下手投げ篠村に苦しみ1ー0で辛勝したのが教訓となり、空谷投手は五試合55奪三振の剛腕ぶりで北四国大会へ。同大会では志度商・高松商を連破し二年連続甲子園へ。第三五回全国選手権大会は開会式で松山商小川主将が選手宣誓し、優勝候補の筆頭にあげられた。二回戦で秋田を2-0、続く御所実では空谷が14三振を奪い4-O、準決勝で明治を2-Oと、いずれも完封し決勝へ進出した。決勝は浪商、中京商を倒しダークホースぶり
を発揮した土佐と顔を合わせ、奇しくも二五年の決勝と同じ四国同士の対決となった。
 空谷は立ち上がり乱れ一回3四球連発し無死満塁を許し犠飛とスクイズで2点を奪われた。松山商は二回表一死満塁と迫ったが無為、その後も山本投手の巧投に打線は沈黙気味。漸く松山商は八回表、阿部の左前安打などで1点を返し、さらに九回表、二死後、菅野、阿部の連安打に続き空谷がカウント2-3で放った中堅フライは甲子園浜っ風で幸運なテキサス安打となり2-2の同点に漕ぎつけた。起死回生の松山商は延長一三回表一死、沖田四球、千葉のバントで二封されたが菅原の左中間を抜く会心の二塁打で決勝点をあげた。その裏、土佐も山本が三塁打したが空谷後続を断ち、三時間を超える熱戦は3-2で松山商が勝ち、一八年ぶり二度目の優勝を成しとげたのである。甲子園優勝校松山商と初来日のハワイ高校選抜チームの親善試合が、甲子園での松山商先勝をうけて八月二五、二六と松山市営球場で第二、三戦が行われ3-5、9-8(延長一一回)で一勝一敗となり、都合二勝一敗で日本の勝ちとなった。

3 〝打倒松商〟の悲願成る

西条高校の選抜初出場

 三〇年秋の四国大会で西条は合田投手の好投で徳島商を降し、決勝では高松商に惜敗したが翌三一年の第二八回選抜大会に念願の初出場を果たした。部創設以来五五年目、昭和一一年の松山商以来二〇年ぶり、戦後はこれが初めての選抜出場であった。二回戦で桐生に惜敗したが、夏の第三八回全国選手権大会に出場、春、夏連続甲子園に駒を進めた。北四国大会では決勝で松山商との本県同士の顔合わせとなり5-2で勝ち、甲子園では尼崎を1-O、伊那北を3-2、仙台二を2-Oと連破したものの準決勝で強豪平安に惜敗。さわやかな初陣ぶりで甲子園を沸かせた。

五六年目の甲子園

 三二年夏の第四〇回全国選手権大会は初の記念大会で、一県一校とあって熱がこもり異例のノーゲーム、ファン騒動など波乱に富んだ。三回戦、新田-西条(松山球場)は5-5で延長に入り一〇回裏、三塁審判のボーク宣告を不服として観衆が騒ぎ、警察官も出動し約二時間試合を中断、特別規則で翌日再試合することになった。再試合は6-3で新田が勝ったが、試合中ファンがグラウンドに飛び降り約二五分試合が中断する始末だった。結局、決勝は八幡浜-新田の顔合わせとなり4-1で八幡浜が優勝、毎年優勝候補にあげられながら果たせなかった八幡浜は、明治三六年の部創設以来初めて県優勝を達成、悲願の甲子園出場を果たしたのである。全国大会は一回戦で清水東に0-3で惜敗したが南予勢初進出として県高校野球史の一頁を飾った。ファン騒動で絶好の甲子園出場の夢を断たれた新田は責任をとり翌年八月末日まで出場停止の処分を受けて涙を呑み、県高野連理事の辞職もあった。

根性野球花開く

 三四年は西条に明け、西条に暮れた年。春の県大会決勝、西条-松山商、五回裏西条攻撃無死満塁に審判の死球判定でファンがビン・座布団をグラウンドに投げ込み松山商は六月末日まで対外試合停止処分を受けた。結局、試合は西条が8-3で優勝、三年ぶり三度目。夏の県大会も順当に三度目の優勝をとげた西条は、松山球場での北四国大会で名門高松商と対戦、西条金子、高松商左腕松下の投手戦は金子が投げ勝ち2-Oで優勝、三年ぶり二度目の甲子園出場を果たした。優勝候補は中京商・高知商・平安の三強、西条はダークホースに挙げられた。一戦ごとに攻守に磨きがかかり一回戦で法政二を6-0と一蹴、第一のヤマと見られた松商学園は1-3と劣勢の八回、得意の足をからめた速攻で同点に追いつき延長一〇回表、一死満塁の好機に長井栄が投手前スクイズバントを決め、捕手後逸の間に2点をあげ5-3で勝った。続く平安にも九回速攻とスクイズで逆転勝ち、準決勝の地元八尾には5-1で快勝し、ついに待望の決勝進出を果たした。
 宇都宮工大井、西条金子の好投で2-2のまま延長にもつれ込み、決勝戦として記録的な一五回、ついに西条打線が爆発、長井兄弟などの好打好走で打者一巡の猛攻、大量6点を奪って勝利を掴んだ。これで西条は大正一二年第九回四国大会に初出場して三七年目、甲子園出場二度目で栄冠を獲得、本県での全国優勝は松山商(松山東)以外は西条だけで、二八年松商以来、六年ぶり大優勝旗を伊予路に持ち帰った。打倒松山商を目標に矢野祐裕監督の根性野球が花開いた年であった。
 ちなみに、この年は社会人野球においても丸善石油松山が優勝しており、アベック優勝として愛媛ブームをまき起こした。

帝京第五高選抜初出場

 四四年、第四一回選抜大会には前年秋の四国大会二位の帝京第五高が初出場を果した。チーム結成以来わずか五年で春の甲子園に駒を進める健闘ぶりは、四国高校球界に新風を呼び込んだ。登記投手を擁し初戦必勝を期したが一回戦で釧路一に敗れ、春の県大会でも新居浜商に敗退、弱い選抜帰りのジンクスがまだ生きていた。

松山商・三沢の引き分け再試合

 春の県大会一回戦敗退の松山商は、夏の大会になると夏将軍の異名通り息吹き返し、随一の好投手藤沢を擁する八幡浜を降し今治西と共に北四国大会へ進んだ。一回戦で丸亀商と対戦、井原投手の速球に苦しみながら井上も好投、西本の適時打などで延長一一回5ー0で勝ち、決勝で高松商も4-0で退け一八度目の甲子園へ。篠崎前監督から引き継いだ一色監督のもと井上、左腕中村の継投で守り抜く松山商は早くから優勝候補と目された。高知商を10-Oで一蹴したが二回戦で鹿児島商に苦戦、井上投手も打たれ前半再三ピンチを招いた。六回松山商は唯一の好機を掴み、二死二塁に樋野の二塁打で決勝点をあげ辛勝した。続く静岡商も樋野の2点本塁打などで4-1と快勝、準決勝で若狭にも井上-中村の好継投で5-Oで勝ち三年ぶりに決勝へ進んだ。
 決勝は好投手太田を擁する三沢高(青森県)と対戦、松山商井上、三沢太田は再三の危機を自らの好投とバックの堅守で切り抜けO-Oのまま延長戦にもつれ込んだ。一五回裏松山商は絶対のピンチに陥り一死満塁策をとりボールカウント0-3で絶体絶命、井上懸命に2-3に持ち込み六球目を打たせ投ゴロ、これを井上はじいたが樋野とって本封、奇跡の好守だった。続く一六回も一死満塁策をとり3バントスクイズを見破り、併殺で切り抜けた。ついに延長一八回O-Oと勝負つかず大会史上初の決勝引き分け再試合となった。翌日の決勝再試合は初回樋野の2点本塁打などの好打と井上~中村の好継投で4-2と快勝、球史に残る勝利で一六年ぶり三度目の全国優勝を成しとげた。

4 「打高投低」の金属バット時代

新居浜商の決勝進出

 五〇年、第五七回全国選手権北四国大会は新居浜商・西条の本県同士の決勝となり、延長一〇回5-3で新居浜商が優勝し、三五年創部以来、一五年目にして夏の甲子園初出場を決めた。九州学院3-1、三国1-O、天理1-O、準決勝で上尾も6-5で連破し、決勝で習志野と対戦。4-4のまま終盤に入り息詰まる好試合を演じたが、九回球運拙なくサヨナラ負けし大魚を逸した。しかし鴨田監督の好指揮と村上-続木のバッテリーと主軸大麻の活躍で、甲子園にさわやかな新風を吹き込んだ。

新居浜商と今治西高

 五一年、第四八回選抜大会に新居浜商二年ぶり三度目の出場、日田林工に初戦敗退。夏の第五八回全国選手権大会から一県一校となり今治西が決勝で新居浜商を1-0で降し、三年ぶり五度目の甲子園へ。一回戦で熊本工に延長一〇回2-1で勝ったが二回戦東北に0-6と完敗。秋は新居浜商が今治西に3-2で優勝。四国大会は準決勝で山沖投手を擁する中村に2-3で惜敗。

今治西高善戦

 五二年、春の第四九回選抜大会に二年連続四度目出場の新居浜商は一回戦育英に10-11で敗退。夏の第五九回全国選手権県大会は前年同様、今治西、新居浜商の決戦で6-Oで今治西が昨年に続き六度目の甲子園へ、大型投手三谷の好投で準決勝に進出、東洋大姫路と対戦、三谷ー松本の息詰まる投手戦の末、延長一〇回O-1で惜敗。東洋大姫路は勢いに乗り全国優勝をとげた。今治西阿部は二試合連続本塁打を記録。秋の県大会は南宇和が松山商を6-5で破り初優勝をとげ、四国大会決勝で高松商に4-9で敗れたが大いに健闘した。

相次ぐ甲子園初出場

 五三年、第五〇回選抜大会初出場の南宇和は二五年の創部以来二八年目に初の甲子園出場、好投手田中富夫を擁する全盛期であった。一回戦崇徳を2-1で退け初戦突破したが二回戦でPL学園に1-5で敗退。夏の第六〇回全国選手権大会は古豪松山商が久々優勝、九年ぶりに甲子園の土を踏んだが郡山北に1-2で初戦敗退。秋の県大会で松山商は一回戦で姿を消し、代わって川之江・新居浜商ら東予勢が台頭。創部二五年以来、雌伏二八年の万年ダークホース川之江が初優勝をとげた。四国大会でも鳴門工、中村を連破、決勝で高知商を6-Oで完封し宿願の選抜出場を果たした。
 五四年、第五一回選抜大会初出場の川之江は星陵3-1、前橋1-Oと連勝、準々決勝で浪商と対戦、鍋島-牛島の投手戦の末、延長一三回3-4で力尽きた。夏の第六一回選手権県大会は新居浜商が川之江を2-1で破り、決勝で松山商を5-4で降し優勝、五〇年夏に続き二度目の夏の甲子園出場を果たした。だが一回戦日大山形に4-5で敗退。秋の四国大会は県優勝の松山商が準決勝で高知商に1-11で大敗、選抜選考から外れた。
 五五年、春の県大会決勝は今治西が西条を破り、二三年ぶり二度目の優勝をとげ四国大会で池田を6-2で降したが決勝で高松商に6-8で惜敗。夏の第六二回全国選手権県大会一回戦で今治西が松山工に敗れ以後松工旋風が起きた。打線好調の南宇和が新居浜商を破り、決勝で帝京第五を7-Oで完勝し待望の夏の甲子園初出場を掴んだ。一回戦日川を10-0、だが二回戦旭川大付高に2-3で敗退。秋の県大会は春の勝者今治西が決勝で松商を6-1で制し、六年ぶり五度目の優勝だったが、四国大会は今治西、松山商とも初戦で敗れ去った。

今治西高の健闘

 五六年、夏の第六三回全国選手権県大会は二回戦で松山商が三瓶に敗れる破乱があり、決勝で今治西が春季県大会優勝の帝京第五を5-1で降し、五二年以来、四年ぶり七度目の甲子園へ。藤本投手を擁し今治西は二回戦で国学院久我山を3-2、新発田農を9-1で連破、準々決勝で報徳学園に1-3で惜敗したが藤本-金村の投手戦はプロスカウトに注目された。報徳は勢いに乗り六度目の全国優勝、今治西は第三六回滋賀国体で優勝をとげた。秋の県大会で松山商が二年ぶり八度目の優勝、帝京第五とともに四国大会へ進んだが初戦敗退。

川之江高の初出場

 五七年、春季大会は三島が5ー4で今治西を破って初優勝、二一年、第二八回県予選に初出場、同二二年春季大会以来、三五年目の優勝である。四国大会では池田にO-2で惜敗。夏の第六四回全国選手権県大会は松山商を降した今治西はじめ西条・川之江の東予勢が制圧し、決勝で川之江が今治西を3-Oで零破し、二六年夏初出場以来、これまた三一年目に初優勝、五四年の選抜初出場に続き春、夏甲子園出場を果たした。しかし、川之江は一回戦で東京農大二高に2-7で初戦敗退。秋の県大会は決勝で今治西が6-2で川之江を破り夏の雪辱をとげ、四国大会でも初戦を突破し選抜選考当確とした。

川之石旋風

 五八年、第五五回選抜大会に今治西は四八年以来、一〇年ぶり四度目の出場。一回戦で駒大岩見沢に1-4で初戦敗退、池田(徳島県)が夏、春連覇を成しとげた大会であった。春の県大会は八幡浜工対松山工の決勝となり、5ー2で八幡浜工が初優勝したが、代表決定戦で選抜帰りの今治西に1-6で敗れた。夏の第六五回全国選手権県大会は川之石が新居浜商・北宇和・宇和を連破して決勝へ進出、川之石旋風を巻き起こした。一方、川之江は新田・今治西・新居浜工・三島・松山商と並み居る強豪に競り勝ち、決勝で7-4で川之石を破って二年連続二度目の夏の甲子園へ。一回戦で日大山形に3-Oで勝ち、初戦は突破したが二回戦で岐阜第一に接戦の末、5-6で惜敗。夏、春、夏三連覇めざす池田がPL学園に完敗し、野望の砕けた大会であった。
 秋の県大会は新居浜高専が初の決勝進出、松山商と対戦したが、6-13で完敗。松山商は四国大会で高松商を5-2で退けたが準決勝で明徳義塾に5-7で惜敗した。

古豪復活

 五九年、松山商は第五六回選抜大会に四二年以来、一七年ぶり一四度目の出場。しかし一回戦で取手二に4-8で惨敗、伝統の守備に破たんを来しニガい教訓となった。春の県大会は準決勝の南宇和対川之江戦が随一の好試合となり6-6で七回降雨のため引き分け再試合となり結局、南宇和が5-4で制勝。決勝でも西条農を大接戦の末、7ー6で勝ったが代表決定戦では選抜帰りの松山商に敗れた。松山商が七度目の優勝をとげたが四国大会で初戦高知と対戦、九回二死まで2-0と追い込みながら痛いエラーで延長一〇回サヨナラ負けし、さらにニガい敗戦を喫した。六月三〇日松山球場にカリフォルニア高校選抜チームを迎え、松山商を主にした愛媛高校選抜チームが対戦したが3-6で惜敗、松山商久保が本塁打し一矢を報いた。
 夏の第六六回全国選手権県大会は全盛期二年目の松山商が六試合のチーム打率O・323、投手酒井の防御率O・87の好成績で軽く勝ち抜き、六年ぶり二〇度目の甲子園出場。一回戦で高岡商に13-0と圧勝、二回戦では浜松商を4-0、東海大甲府を12-5と連破し、一五年ぶりに準々決勝に進出、PL学園と対戦した。酒井-桑田の投手戦となり酒井は強打清原を制したが1-2の大接戦の末、惜敗した。この大会で春に松山商が苦杯をなめた取手二高が、松山商の対PL戦法を活用して打倒PLに成功、初優勝をとげた。
 秋の県大会は夏の雪辱を期す西条が、国体帰りの松山商を4-3で破り、松商は春、夏、春の連続甲子園出場成らず。結局、八幡浜が延長一五回5-4で西条を降して一六年ぶり三度目の優勝を果たした。四国大会ではともに初戦で敗れたが、優勝した明徳義塾に善戦した西条、黒子投手の安定度が評価され、八幡浜は選抜初出場の好機を逸し涙を呑んだ。

東予勢の活躍

 六〇年一月一八日、前年秋の四国大会優勝の高知明徳義塾野球部長が不祥事を起こし選抜出場を辞退、代わって西条が第五七回選抜大会に出場、四五年の第四二回大会以来、一五年ぶり三度目を数えた。黒子投手の投打にわたる活躍で一回戦東邦、二回戦松商学園を連破し、初の準々決勝に進んだ。四国同士の伊野商と対戦したが渡辺投手にO-5で零敗。伊野商は波に乗り選抜初制覇に輝いた。本県勢が選抜大会でベストエイトに進出したのは五四年川之江以来、六年ぶりであった。しかし春の県大会代表決定戦では松山商に1-10と完敗した。四国大会で松山商は高知商に5-6で惜敗、三位。
 第六七回全国選手権県大会は優勝候補筆頭の松山商が西条黒子投手の快投にあえなく完封負けし、その西条が決勝で、川之江に完敗するという波乱が起き、川之江が二年ぶり三度目の甲子園へ。松下、川上二投手の継投と打力のチームの川之江は二回戦で八戸を3-Oで降し三回戦で高知商と対戦、中山裕-松下の投手戦となり延長一一回2ー3で惜敗したが、捕邪飛をバックネットに体当たり負傷退場した三好捕手の健闘が光った。
 秋の県大会も番狂わせが続き、帝京第五が西条に8-1と完勝、三島が川之江を4-3で破る殊勲を立てた。今治西は松山商を6-2と降し、帝京第五にも藤本投手の好投で3-Oと完封勝ち。勢いに乗り決勝でも三島を4-Oと完勝、今治西は三年ぶり一三度目の優勝をとげた。新鋭藤本投手は一九回無失点記録を立てている。
 四国大会は松山球場で行われ高知高、池田、明徳義塾、高松西が四強に残り決勝は高知が池田を2-1で降して優勝。今治西は明徳義塾にO-24で大敗、三島は高松西にO-7で零敗しともに初戦で惨敗した。