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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

一 近世の出版

 出版が行われるには、同一の書籍(文書)に対する多数の需要と、それを満たすための手段としての印刷技術の発達が前提となる。その条件が整い、本格的な出版が始まったのは近世に入ってからである。ただ地方においては印刷技術の発達が十分でないため、地元での印刷による出版は少なく、中央の書肆に依頼して印刷・出版したものが多い。伊予においても事情は同じである。

印刷・出版略史

 わが国における最古の印刷物は「百万塔陀羅尼」で、天平宝字八年(七六四)藤原仲麻呂の乱の戦死者を供養するために、称徳女帝の発願により、百万の小塔をつくり、その中に陀羅尼経を納めたもので、法隆寺に現存する。木板であったようである。以後も経巻の印刷は行われたようであるが、平安時代の和歌・物語等の文芸はすべて墨と筆による筆写によって行われた。未曽有の文運を支えたのはこの写本であって、本を写すことが本を所持するだけでなく、鑑賞でもあるという時代は長く続き、出版が行われるようになっても、特に書籍の流布の少ない地方にあっては、写本は盛んに行われた。
 戦国末期には朝鮮と南蛮から印刷術が伝えられ、木の活字を用いた古活字本が出版されるようになった。角倉了以・本阿弥光悦らによる「嵯峨本」はこの古活字による豪華本で、謡曲や平家物語が出版された。
 江戸時代を通じて用いられた印刷法は、整版と呼ばれる木版印刷である。一枚の木の板に二頁分(一丁)を版画と同じように文字を刻み、刷る。木活字よりも簡便で、本の大きさ、挿絵、色刷、部数がかなり自由になる。再版も可能である。中国では版木に梓を用いたので、出版のことを上梓ともいう。わが国で主に桜を用いた。桜木に彫る、桜木に鏤めるといえば、やはり出版を意味する。
 江戸時代の初期は啓蒙期で、平和の到来とともに人々は新しい時代に即応した知識と娯楽を求めた。寺子屋が普及し、文字の読める人口が増大すると、その需要に応ずるために、漢籍・仏書のほかに、かなまじりの仮名草子と呼ばれる雑多な啓蒙書が氾濫した。のち今治藩家老になった江嶋為信も浪人時代はその作者の一人であった。以後、俳諧・戯作・実用書等の厖大な書籍が、京都・大坂・江戸を中心にした多くの本屋によって出版されることになる。それでもなお本を買えない人は、貸本屋を利用した。明治維新の急速な西洋文明の摂取も、こうした硬軟さまざまの書物によって培われた基盤があったから可能であったと言えよう。こうした出版についての手軽な文献としては、諏訪春雄『出版事始』(毎日新聞社)が便利なので参照されたい。

板本の流入

 伊予にいつ頃からこうした出版物が流入してきたかは明らかでない。各地に残る木板本を調査しても、近世のごく初期の板本はほとんどない。大洲の矢野玄道文庫(大洲市立図書館内)に、寛永一一年(一六三四)刊『尤の草子』、慶安三年(一六五〇)刊『続世継』をはじめ、お伽草子の類、さらに元禄に至る書物が多く蔵せられているが、これはむしろ玄道の集書によるものであろう。それにしても大名家をはじめ中央との交流によって伊予にもたらされた書籍はあるはずで、今後の調査を俟ちたいが、書物による文化の流入は、やはり元禄前後あたりからと考えてよいであろう。

伊予出版事始

 伊予における出版は俳書から始まる。寛文一二年(一六七二)七月、宇和島藩家老で貞門俳人として知られる桑折宗臣編『大海集』が出版された。横本七冊(元禄期の書籍目録には八冊とある。)巻七と「作者井句数」が別冊になっていたのであろう。巻一・二・四・五・六巻が現存する。版元は小亀益英。おそらく京都の本屋であろうが、他にその名を確認しえない。作者八三二人、句数五、〇二五句を収める大規模な俳諧撰集で、その史的価値も高い。地方俳人として本書の編集・出版は快挙といってよいであろうが、それはまた、六千石の家老にしてはじめてできた出版であるともいえよう。
 今治藩家老となった江嶋為信の俳号は山水、談林派の俳人で延宝七年(一六七九)『山水十百韻』二冊を出版した。談林派総帥西山宗因に判を乞うた独吟俳諧である。刊記がないので版元は不明。いずれ京都の書肆であろう。
 右の二書についで、元禄期になると俳人の出版活動が盛んになる。三島中之庄の豪農商坂上羨鳥も談林系の俳人で、元禄九年(一六九六)『簾』、同一四年『高根』三冊、正徳三年(一七一三)『花橘』二冊を相次いで出版した。前二書は京都寺町井筒屋庄兵衛、後書は京都押小路通橘町万屋喜兵衛の板行である。松山の曙舟『詠句大槻』は天和元年(一六八一)、淡斎編『其木からし』は元禄一二年の刊、後者は京都井筒屋庄兵衛板である。淡斎は姫路に移ってからも『鹿子の渡』『桜雲集』を出版している。

俳書刊行の隆盛

 伊予は俳諧の盛んな土地柄だけに、以後の出版も俳書が中心をなす。それも京都の書肆による出版がほとんどで、なかでも京都井筒屋庄兵衛重勝(何誰軒)は「俳諧書林」で、芭蕉の『猿蓑集』『阿羅野』など多数の俳書を出版している本屋であるが、伊予でも先の羨鳥・淡斎のほか、久万地方の俳人を中心とした『霜夜塚』(延享元年)『十夜の霜』(宝暦元年)を手がけている。石手寺の花入塚建立にちなんだ俳諧集『花入塚』(明和七年)は京都寺町橘屋治兵衛板、廬元坊の伊予来遊記『藤の道途』も同所の出版である。
 その他京都から出た俳書では、万外編『伊予簾』が菊屋平兵衛、樵柯編『伊予すたれ』が菊屋喜兵衛、前者は俳書、後者は通俗書を主に出版している本屋である。近江屋利助は湖雲堂と称し、『蕉門御集冊摺物師』を名のっている本屋で、鳥岬編の肖像入り俳書『知名美久佐』、大原其戎編『あら株集』を出している。波同編『逐波集』(文久元年)は京都近江屋又七板である。
 大阪から出た俳書では、四ツ橋西北詰の棉亭(綿屋弥三)板の『金やま草』(天保四年)『逐波集』(安政六年)心斎橋博労町河内屋茂兵衛板の『俳諧四国集』(天保九年)がある。
 その他刊記がなく板元の不明なものに、伊予の高根・伊予の湯の句集『素羅の宴』(延享四年)、吉田の高月狸兄の紀行文『存のほかの日記』(宝暦四年)、竹内旦泉編『一帰賀集』(弘化四年)、伊予郡松前町の木長発願の和霊宮奉納句集『雪のあけぼの』(嘉永五年)等があるが、いずれも上方の書肆によるものと思われる。

歌書他

 和歌をたしなむ人には、俳諧ほど多くないこともあって、歌書の出版はまれである。明和・安永年間東予地方の歌壇を指導した周円法師の歌集『松葉集』が文化四年(一八〇七)になって刊行された。刊記はなく板元は不明であるが、指導をうけた門人たちが浄財を持ち寄り、上方の書肆から出版したものであろう。
 幕末に今治の半井梧菴編の伊予歌人総覧ともいうべき『ひなのてぶり』が刊行された。正編二冊は安政元年(一八五四)、二編二冊は同四年、京都書林越後屋治兵衛。林芳兵衛の刊。今治本町久保正五郎(二編は久保助一)、同風早町島屋喜太郎が「製本弘処」となっている。製本の意味がはっきりしないが、製本された本の発売所の意味であろう。梧菴には歌論書『歌格類選』正続四冊があり、嘉永五年(一八五二)同所より刊行されている。広告には『うたものがたり』も見えるが、刊本は発見されていない。地誌『愛媛面影』は幾度か再板されている。
 歌俳以外の主なるものをあげておく。戦記物『河野予陽盛衰記』、堀内昌郷『源氏物語比母鏡』、川田雄琴『予州大洲好人録』、漢学では尾藤二洲の『素餐録』『文章一隅』『正学指掌』、長野豊山『松陰快談』、大高坂芝山の『適従録』『芝山会稿』、明月『通機図解』、杉山熊台『熊台詩抄』、松平定通『聿修館遺稿』、洋学では青地林宗『気海
観瀾』、越智崧『銀海金針眼科新説』等々、なかには刊記のないものもあるが、すべて江戸、上方の書肆による出版である。中江藤樹の諸書、浪人時代の江嶋為信の仮名草子、蓬莱山人帰橋の戯作、小沢種春の『教訓童草』や戯作類、仏教関係では『一遍上人語録』『盤珪禅師語録』、四国遍路の案内記類などは、すべて上方・江戸における文筆活動であり、出版である。したがってその読者も特に伊予の人を対象にしたものではない。

伊予における出版

 木板本は版画と同じ方式なので、少し器用な人なら誰でも彫れるし、わざわざ上方まで発注しなくても地元でも出版できそうであるが、意外とそれは少ない。確認しえたのは次にあげる数種であるが、地方における出版活動を知る上で重要な資料となろう。
(ア) 『四国八十八箇所道中記』(佐々木文庫蔵)横本小一冊。寛政八年(一七九六) 刊。下村宮古撰。宇和島ひやうぐや新七板元。画工は中村新右衛門。四 国遍路案内記類は『四国辺路道指南』『四国偏礼霊場記』など数多いが、地元で出版されたのは本書のみである。絵入りの簡便な携帯用の案内記で、上方の出版物の流入の乏しい南予にあっては、かなりの需要があったものと思われる。
(イ) 『伊予名所盆山風景』(川端康造蔵)横本中一冊。本文一一名。文化四年(一八〇七)刊。古嶺堂巴雲序。摂州住吉玉瓢堂露石跋。跋文の次に連中一二名の名を並べ(次に三名分を削除した跡あり)、画工南利屋町古嶺堂巴雲彫工河原町判木直蔵不老子西堀端漆屋理助白葉とある。裏表紙見返に「右彫近日出来」「残十四景并古歌彫追而出来」とある。巴雲の序文によれば、この連中は盆山の趣味グループで、伊予の古歌の名所を盆山に作り、それを絵にかき額にして伊佐尓波の湯月八幡宮に納めたものを桜木にちりばめ、永久に残そうとしたものである。伊佐尓波の岡、矢野神山、伊予の高根など一六景の盆山図が収められている。伊佐爾波神社蔵本を写した伊予史談会の写本には古歌が抜粋されて記されており、「残十四景井古歌追而出来」とあるので、第二編が出た可能性もある。本書の彫工「判木直蔵」が「板木屋直蔵」の意であれば、松山には印刷のできる業者がいたことになる。
(ウ) 『紅器年賀集』(伊予史談会他)大三冊。芙月斎紅器著編、文化一〇年出版。前年還暦を迎えた吉田法華津屋の当主高月紅器の年賀集。紅器は狸兄の曽孫、俳諧のほかに活花・茶湯などをたしなみ、本集にも活花の絵を多く入れてある。還暦を祝って寄せられた人々の俳諧・和歌・漢詩も多い。紅器自身で彫ったものもかなりあるという。地方ではまれにみる豪華板で、高月家の財をもってなしえたことであろう。板木も現存する。
(エ) 『連縁集』半紙本一冊。弘化三年(一八四六)発企。同年に刊行されたとみてよい。俳人三六人の肖像入り句集。画工は随意、巻末に「彫刻師郡中麻生桃節堂素金 蔵版 同人」とある。中予の俳人たちの手作り出版である。
(オ) 『伊予一国集』(愛媛県立図書館蔵)中本一冊。本文一三丁の小冊であるが、伊予国内の俳人の句を集めた讃州象頭山(金毘羅)奉額発句集で、願主は竹内旦泉。嘉永五年(一八五二)刊。「松山河原町 実印摺物師 中屋為治朗」とあるので、ここで印刷され出版されたものであろう。『伊予盆山風景』の「判木直蔵」と同じ河原町であるが、両方の関係は不明。いずれにしても河原町には木板刷のできる業者がいたことはまちがいない。
(カ) 『扶桑樹伝』(愛媛県立図書館蔵)半紙本一冊。本文八丁、「刻扶桑樹伝引」二丁の計十丁。『扶桑樹伝』は明月の著で、安永九年(一七八〇)の稿、これが光格天皇の閲を賜り出版に至った経緯は「松山城西鄙人百済方献謹誌」の「刻扶桑樹伝引」にある。寛政六年(一七九四)の刊。本書の包紙には「伊予松山 円光寺蔵板」とあり、本書も松山において彫られたものとみてよいであろう。
(キ) 『予州道後温泉由来記』(杏雨書屋蔵)半紙本一冊。表紙とも八丁。裏表紙に「温泉元役所 明王院蔵板」とあり、「鍵家」の印がある。刊年は不明であるが、幕末期のものであろう。内容は『伊予国道後温泉記』等をダイジェストしたものにすぎないが、温泉の管理をしていた明王院が出版しているところからみて、入浴客、特に他所からの入浴客に売ったものと思われる。彫工などの記載はないが、簡便なもの故、地元の印刷とみてよい。

出版の方法

 上方・江戸の本屋が、その他の厖大な読者を対象にして(一部は地方の販路を見込んで)の出版は、営利を目的としたものであるが、地方の人が地方の読者を対象とした出版は、上方の本屋に依頼してもそのほとんどは自費出版であったと思われる。大名・家老・庄屋などの富裕な人は自分でまかなえたであろうが、和歌・俳諧などのグループでは多く会員制をとったものと思われる。
 『ひなのてぶり』二編の出版広告のビラが残っているが、それによると、歌を寄せた人は一部宛購入のこと、代金は二朱、詠草を寄せた時に半金、本ができた時に半金を納めるようにいっている。二編の出詠者は三一六名、四〇両近い金が集まったことになる。出版にかかった費用はわからないが、これだけあれば利益も見込めたであろう。俳諧は人口が多いとはいえ、撰集の出版はやはりこうした会員制の方式であったであろう。

本屋・貸本屋

 会員制や自費出版による配布は別として、出版された多くの本が読者に届くには本屋を経なければならないが、その存在がはっきりしない。『松山町鑑』をみても、「町中ニ住居在之医師井細工人之覚」元禄七戌正月改の所に「一本屋」とあるだけで、他には確認できない。本を商っていた者は各地にいたはずであるが、その存在を聞かない。また地方に流入する本の数は多くないので、本を読み所持するためには写本が多く行われたが、読むだけの読者のためには貸本屋が必要となる。貸本にはその店の印が押してあるのですぐわかるが、これも確認できたのは三軒である。愛媛県立図書館蔵の『予州神霊記』には「予州松山湊町貳丁目書林 大和屋与五兵衛」の印があり、長友千代治『近世貸本屋の研究』には「松山本町三丁目 野中栄三郎」の印が採録されている。また伊予史談会蔵の『予州大洲好人録』には中島三吉屋佐野右衛門という貸本屋があったことがわかる。五冊のうち巻一が失われているのは、交易の時に一冊又貸ししたためであって、向後又貸しは断る旨を巻二の表紙見返しに記してある。三吉屋は貸本専門でなかったかもしれないが、本は当時は文化的な辺地に属する島まで普及していたことがわかる。貸本屋は本の販売も扱っていたであろうが、書籍の流布の少なかった時代においては、貸本屋の文化史上果たした功は大きいといわねばならない。
 江戸時代は木板本という形ではあったが、大量の書籍が世に出た時代である。伊予における近世の出版事情を概観したが、一方写本も多く行われて、ともに伊予の文化を支えていたことを忘れてはならない。