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愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行)

 額 田 王 (ぬかたのおおきみ)
 生没年不詳 額田姫王ともいう。鏡王の女。鏡姫王の妹かとも推定される。はじめ大海人皇子に嫁し十市皇女(のち大友皇子妃)を生んだが,のも天智天皇の後宮に召される。そこでは嬪ないし宮人の中間あたりの地位におり,賓客の応待の他宮廷祭祀や種々の神事の事を職掌とした,巫女的性格をもった人物であったらしい。また万葉初期を代表する女流歌人でもあり,13首を残すが,作歌年代は皇極天皇~持統天皇代に及ぶ。天皇に近習し,その意を体して代作したと考えられる歌が多い。
 斉明天皇7年(661)正月,額田王は天皇,皇太子の率いる百済救援軍に同行し,海路伊予熟田津の石湯(道後温泉)の行宮に到着した。約2か月の滞在の後,九州娜大津(博多港)にむけて出帆するが,その時詠んだ歌が「熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」である。力強い語感を残すこの歌は,古来万葉集中の秀歌の1つとして名高く,斉明天皇自身の作とする説もあるが,おそらく額田王が,天皇の意中を汲んで代作したものではないかとみられており,また遠く朝鮮半島への遠征にむけての船団出帆に際し,その前途の無事を海神に祈る儀式にあたり,作歌されたものとも考えられている。すなわち額田王は,その本来の職掌をもってこのたびの伊予行幸に参加したわけである。

 布  利秋 (ぬの としあき)
 明治20年~昭和50年(1887~1975)旅行家,衆議院議員。明治20年8月30日,北宇和郡吉野村(現松野町)で布岩太郎の次男に生まれた。 44年早稲田大学政経科を卒業,ついで文科に進んで地理学を専攻した。奇行が多く大正3年移民排斥の推進者米国大統領T・ルーズベルトに「東洋人に対する差別をなくせよ,さもなくば余と決闘をもって黒白を決定されたい」との決闘状を送ったりした。生来旅行好きで,新聞社や雑誌社の海外派遣員あるいは外務省特務通信員となって前後18年間に世界60数か国を旅行した。その足跡は,アジアの各国,北アメリカ,アラビア,アフリカ,欧州に及び,9万3千キロを踏破,昭和8年には危険地帯とされた中央アジアに入って消息を絶つなど,神出鬼没の゛世界漫遊家。といわれた。戦時中2度衆議院議員選挙に出馬したが落選,昭和21年4月戦後初の第22回衆議院議員選挙に立って当選した。議員活動は,参議院制度の反対,叙勲恩給反対,耕地の自由売買反対など独自の主張をしたが,在職1年で22年4月の選挙に落選して,政界を去った。著書に『排日と敵』『北支案内記』『蒙彊旅行』『国際論戦記』などがあり,昭和44年には自ら82歳で〝生き葬式〟を行って世間を驚かせた。昭和50年6月15日,87歳で没した。

 沼田 恒夫 (ぬまた つねお)
 明治28年~昭和42年(1895~1967)今治市長・初代大洲市長。明治28年3月29日,喜多郡大洲若宮(現大洲市)で生まれた。喜多郡役所書記を経て,大正14年愛媛県属となり,地方課長・商工課長などを歴任した。昭和17年今治市長阿部秀太郎に招かれて助役になり,18年12月同市長に就任して戦時下の市政を担当,三度の空襲で市が焼土となると,その復旧と人心の安定に努めた。21年3月マッカーサー司令官の政令第3号によって離職を余儀なくされ,郷里の大洲に帰った。昭和29年10月大洲市制施行と共に推されて初代市長に選任され,33年再選された。その間,小中学校の校舎新築,市立大洲病院の開設,保育所・養老院など福祉の充実,鹿野川ダム建設などによる肱川総合開発などの事績をあげ,市政の基礎を築いた。昭和32年新市建設功労者として総理大臣から表彰された。 39年県公安委員に就任,41年4月地方自治功労者として勲五等瑞宝章を受章した。昭和42年4月9日,72歳で没した。