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愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行)

 能島 通貴 (のじま みちたか)
 明治24年~昭和32年(1891~1957)教育者。明治24年8月27日宇和島に生まれる。大正12年,豊後水道の孤島日振島能登小学校に校長として赴任し,後昭和2年能登・喜路・明海小学校の三校が合併して日振島小学校となったが続いて校長を勤め,昼は複々式の授業をし,夜は自力で島の青年たちのために夜学を開いて導いた。過労のために45歳で失明して退職するが,続いて社会教育に尽力し,教育文化に貢献する。昭和27年には第一回の愛媛県教育文化賞を受ける。昭和32年3月1日, 65歳で死去。

 野井 安定 (のい やすさだ)
 宝暦7年~寛政11年(1757~1799)八幡浜の醸造業油屋主人。国学者。歌人。名は綏定という。通称七郎兵衛。幼時より学を好み,寛政8年野田広足とともに伊勢松阪に至り,本居宣長に入門した。野田広足・梶谷守典・二宮正禎とともに伊予宣長四門と称せられる。寛政2年,宣長が門人中秀れた者61人に自像と歌を贈った時,安定もそれを受けている。安定と共に母の智慶尼も宣長に歌の指導を受けた。宣長点の二人の歌稿が遺る。安定は万葉集の研究も行い,難解な巻十四(東歌)について荒木田久老・宣長・本居大平に質問し,その回答の書状を得ている(宣長のは死後到着)。期待されながら寛政11年2月29日,42歳の若さで没した。また四門のうち守典は医師,享和3年没。守典宛宣長書簡が遺る。広足は庄屋,天保5年没。歌稿が遣る。正禎は守典に医を学び,八幡浜に家塾を開いた。『伊予すだれ』(歌稿)などに和歌が遺る。以上四人は八幡浜における国学振興の基となった人々である。

 野口 道陽 (のぐち どうよう)
 明治5年~明治40年(1872~1907)僧侶。明治5年松山に生まれる。松山中学校の前身愛媛県尋常中学校に入学して,明治27年3月卒業の予定であったが,5年生在学中に中退する。同期生には景浦直孝,菅菊太郎がいる。中退して神職の長男であったにもかかわらず仏門に入り,奈良の小田原山浄瑠璃寺で修業し,明治35年6月18日に許可密印という「信士」の免許状を受けた。 26歳のときである。さらに中国に渡って各地を放浪し修業を重ねたが病を得て客死する。明治41年1月12日に道後で追悼式が行われたことから,死去したのは明治40年であろうと推測される。35歳。日本画家を若いときから志し,岡村三鼠の句に絵をかいたものが残っている。

 野口 光凱 (のぐち みつやす)
 文政2年~明治27年(1819~1894)神職。温泉郡川内町,三島神社宮司光雅の長男として文政2年に生まれ6歳から医師安部貞亮門下となり,14歳で長曽我部某に神祇のことを2年間勉学。さらに5年間東予市の高水朴翁について勉学。また,松山市宮古町阿沼美神社大宮司内逸寛の舎弟田内示史翁の門で,国典,歌の書籍,物語類について教えを受けること4年。嘉永3年(1850)31歳のとき,京都に住んでいた大国隆正翁が,来松し,光凱は弟子入りを願い出て,入門を許された。これらの事蹟により,松山藩主に認められ,50歳のとき慶応4年(1868)松山市道後湯之町にある伊佐爾波神社の祠官に任用された。
 当時は廃藩置県で世の中は近代化の波がすさまじく,古いものは安くみられ,神社の建物さえも軽くみられ,取り壊されようとする機運か強かった。光凱は神社こそ日本人の生活にとって極めて重要なものである点を強調して,軽視しようとする風潮から連日連夜守ったのであった。伊佐爾波神社の建物の重要性が再認識されたのはそれから約百年後のことである。即ち宮司が光凱―光寛一尚光とつづいて,尚光の宮司の時代,昭和31年6月28日に全国に三社(京都の石清水八幡宮・九州の宇佐八幡宮)しかない,八幡造りの一つとして,伊佐爾波神社は国の重要文化財の指定を受けたのである。明治27年9月11日,75歳で死去。

 野沢 象水 (のざわ しょうすい)
 延享4年~文化7年(1747~1810)松山藩士,兵学に造詣が深く,兵学師範として有名。延享4年7月,藩士野沢勝武の子として松山に生まれた。諱を弘道・勝房,通称を才次郎,号を象水と称した。剛直な性格であって,はじめ長野喜三について堀川学を修めたが,晩年に朱子学を藩儒宮原竜山に学んだ。竜山は藩校明教館の前身である三省館の教務を担当し,文運の振興につくした。竜山は服部栗斎に学んだから,その学統は山崎闇斎一三宅尚斎一服部栗斎となる。彼が有名となったのは,兵学において孫呉から甲越諸家の秘法にまで通じ,槍・刀・弓・鉄砲等に秀でていて,最高の権威者と称せられたことである。彼は年25歳までは武術の修業に明げ暮れていたが,明和8年(1771)大小姓番になってから領内各郡の代官を歴任した。彼は兵学書を含む多数の著書を残したが,松平定勝(伊勢桑名藩主)・松平定行から第十一代藩主松平定通に至る松平家の事績を編年体に記述した『予松御代鑑』が有名である。同書は松平家の事績のほかに,松平氏家系・予陽古鑑・日光参詣今市警固記・雑事・城主之部・古跡之部・旧記之部・非常之部の諸編から成る。彼は一生妻帯することなく,文化7年(1810)に年63歳で逝去した。遺骸は道後祝谷の常信寺に葬られた。

 野沢 二鶴 (のざわ にかく)
 生没年不詳 俳人。本名は喜久三朗。伊予郡松前町西古泉の人。筒井・古泉の庄屋。俳諧に長じ,「松楽庵二鶴」と称した。当地の玉井千蘿とともに,明治15年西古泉村400番地に俳諧結社「永楽社」をおこし,月刊俳誌「松の美登里」を創刊した。この二人は,この時期の松前地区の最高の俳諧指導者であった。明治初年,松山城下最高の俳諧指導者は,旧家老の奥平鶯居であったが,その鶯居が,明治14年(1881)6月創刊の「俳諧花の曙」の選者をしていた時,二鶴は殆ど毎号投句し,又,本誌の取次所もつとめた。「俳諧花の曙」は,新聞「愛比売新報」の別冊俳誌として週刊,後,月2回刊として湊町4丁目53番地の風詠舎から発行された。愛比売新報発行者武市英俊が二鶴と同郷であったせいでよく協力したのかもしれない。松前町内の神社には,野沢二鶴選の俳額がいろいろ残されているがとくに神崎の伊予神社の俳額は,51,200句中から僅か100句を抜粋したもので,野沢二鶴の指導のきびしさがうかがわれる。松前町筒井の大智院に墓がある。

 野沢  浩 (のざわ ひろし)
 明治37年~昭和41年(1904~1966)教育者,サッカー功労者。明治37年1月12日広島市に生まれ,広島高等師範学校附属中学校,広島高等師範学校・京都帝国大学を通してサッカーに励む。昭和9年愛媛県師範学校教諭(後に松山高等学校講師兼任)として来県,地理教育に優れた指導力を発揮し,小学校中学校に多くの地理教育愛好の教師を育成し,研究会などで,自ら教壇に立って実地指導にも当たり,大きな成果を上げた。また,愛媛県師範学校,松山高等学校のサッカー部を育成し,昭和15年松山高等学校を全国高校大会で優勝させ,さらに愛媛県師範学校を四国代表として全国中等学校大会に初出場させた。学生からは「ノッサン」と呼ばれ敬慕された。戦後,昭和23~24年愛媛県教育委員会学務課長となり学制改革を軌道に乗せる教育行政を担当,昭和24~25年松山北高等学校校長,昭和30~31年愛媛県教育委員会保健体育課長,昭和31年~33年愛媛県教育次長,昭和33年~39年今治西高等学校校長を歴任し,愛媛県の小中学校の教師育成,戦後の教育行政確立,さらに高校教育の進展に多大の業績を残し,昭和41年11月28日,62歳で没した。

 野田 五升 (のだ ごしょう)
 享和3年~明治5年(1803~1872)俳人。野田頼質の子として,享和3年現八幡浜市に生まれた。諱は頼道,通称は正九良。五升は俳号。度量が大きく,小事にこだわらぬ気質の人だったと言う。早くから子弟教育の必要性を説き,私塾「蘭陽堂」をおこし,育英につとめた。また,俳諧をよくし,地方随一の宗匠であった。上甲振洋は,彼を評して「これ仙風気骨の士」と言った。「ぬり盆に春の名ごりや桜餅」「夜も手の入るや蚕の一盛り」などの俳句を残す。明治5年1月21日死去,69歳。墓は大法寺墓地。その子に野田沙陀がいる。沙陀の名は幸太,俳諧をよくした。

 野田 青石 (のだ せいせき)
 万延元年~昭和5年(1860~1930)画家。万延元年6月18日,八幡浜浦(現八幡浜市矢野町)の生まれ。通称純太郎,字は士粋。青石・雲如居士・孤雲・青石山房・養神窟と号し,楳操・半痴子・田淳ともいう。野田家は代々の庄屋,書画に秀でた人が多くその流をうけ,幼少より墾鉄操に絵を,上甲振洋に書を学ぶ。明治11年(1878)大分に渡り帆足杏雨に師事,豊後南画の洗礼を受け,のち八幡浜へ帰り画道に励む。同26年シカゴのコロンブス世界博に「桃源図」を出品,奨励賞を受賞。以後京都南宗画学校,京都後素協会,大阪南宗画会で多くの褒状を受賞。この頃から西山禾山に参禅。 34年病にかかり京都で治療,翌年から相国寺の荻野独園に参禅しながら画業に励む。その画風は豊後南画の伝統に誠実な近代写実を加え,郷土南画の最後の華といわれ,川之江の三好藍石とともに,当時愛媛画壇の双璧とうたわれた。昭和5年3月2日69歳で没した。

 野田 石陽 (のだ せきよう)
 安永5年~文政10年(1776~1827)松山藩士・儒学者。名は孝彝,字は梁穎・叔友,通称は吉右衛門のちに宇太郎,号は石陽・雲星閣と称した。幼少より学を好み,儒学を修めた。藩では大小姓として勤めた。儒学では徂徠学派に傾注し,徂徠の著書『弁名』・『学則』の趣旨を解説した『弁名附説』・『学則録』を著した。また儒学の本質は古文辞の徹底的な理解であるとして,五経の注訳書『五経纂注』・『学庸簒注』を完成した。寛政異学の禁と共に,特に松山藩は親藩でもあり,幕府の方針に従って徂徠学は急速に衰微した。この状況の中にあって彼は信念を曲げなかった。伊予の地誌『伊予古蹟志(4巻外伝2巻)』の編さん者としても有名である。この編さんは祖父の代から始まり,石陽によって享和2年に完成した。文政10年12月7日,51歳で没した。

 野中 水村 (のなか すいそん)
 明治6年~昭和9年(1873~1934)教育者。久米郡水泥村(現松山市)の野中助太郎の次男として生まれる。名は元三郎,幼少のころから学問を好み,小学校に入学とともに松山の浦屋雲林,松本正也らに就いて漢学及び数学を修める。後,愛媛県師範学校に入学し,明治27年卒業してから県内外の教育界で40年精励する。その間,小学校教師から,師範学校,松山中学校の教諭,更に前橋・長崎・西条・臼杵・高松・斐太・富山の各中学校を歴任し,晩年は広島に住んで修道中学校,高等師範学校の講師となる。鋭敏で賢明,和漢の学に通ずるとともに詩文・和歌・書道をよくし,また柔剣の武技にも秀れていた。著書には『漢文学講義』『論語詳解』『山陽史論紗』『受験の鍵』等がある。また自叙伝『水村家乗』もある。昭和9年12月広島市で死去,61歳。広島市白島中町の宝勝院に墓がある。

 野中 久徴 (のなか ひさよし)
 弘化3年~明治36年(1846~1903)教育者。弘化3年8月8日松山藩士族の家に生まれ,宇門と称した。性格は豪邁で機略にとみ,明治維新には藩の少参事となって活躍した。後,岩手県警察部長から検事正になり松江に赴任した。明治31年(1898)11月九代目の愛媛県立松山中学校校長となり,明治37年2月まで5年3か月余り勤務した。 安倍能成の自叙伝『我が生ひ立ち』の中に「校長は歴代の校長よりも,いはゆる教育者としては素人であった為に,色んなことをやった。その一つに生徒の外出時には必ず袴をはくといふこともあった。又松山以外から来て居た生徒達は皆,思ひ思ひに知合,親族や素人下宿に散らばって居たのを,公認寄宿所といふのを設けて,そこに収容することにした」など記している。松山中学校の生徒に質実剛健な気風を振興した。明治36年12月10日,57歳で死没した。

 野中 保教 (のなか やすのり)
 明治10年~昭和41年(1877~1966)軍人。久米郡刈屋村(現松山市平井町)旧里生の野中豊太郎の長男として生まれる。松山中学では夏目漱石に私淑し,上京して,本郷の常盤会寄宿会に入り,舎監内藤鳴雪に感化を受ける。その後,おじの仙波太郎(陸軍中将)の家に身を寄せ,成城学校へ入学,卒業後士官候補生の試験に合格。翌年市ケ谷士官学校へ入学し卒業するや日露戦争に乃木大将の第三軍第一連隊に配属されて,旅順の戦闘に加わる。明治43年清国駐在軍司令部付を命ぜられ,中国に渡り,外蒙古及びゴビ砂漠を偵察した。一度帰国したが,再び中国に渡り,武昌城内の革命軍に投じ,黎総督の最高顧問となって,林則日と名乗り,中国革命に活躍する。大正3年,日独戦に出征,青島攻略に活躍。同6年,第22連隊付きとなり,同8年,郷土松山連隊を率いシベリアに出兵,同9年1月12日,ノウヲザルダミソスコエの払暁戦で大奮戦をする。大正11年,陸軍中佐で予備役となり,郷里に帰り,白川大将らの肝入りで県下の青年指導に当たる。晩年は,俳句や古美術の鑑賞等に日を送り,村人やかつての部下から「おやじさん」と親しまれ昭和41年12月14日,89歳で逝去。

 野間 海南 (のま かいなん)
 安政元年~明治39年(1854~1906)ジャーナリスト。松山出身で近藤南海について学ぶ。名は友徳。自由民権運動に参加し,しばしば自由党大阪大会などに出席する。大阪に出て,浪花新聞,大阪公論などの記者をする。松山に帰ってから海南新聞編集長となる。再度上阪して朝日新聞の記者になり,須藤南翠らと交友し,在勤17年に及ぶ。明治39年1月24日死去,52歳。墓は松山市千秋寺にある。

 野間 叟柳 (のま そうりゅう)
 慶応4年~昭和7年(1868~1932)俳人。慶応4年3月10日,松山の旧藩士野間大作の長男として松山市柳井町に生まれる。父も一雲と号し京都の桜井梅室門下の俳人であった。本名は門三郎。愛媛県師範学校卒業後教員をつとめ松山第三小学校校長,第一小学校校長を経て晩年は松山市の視学や学務課長にもなった。明治28年子規が帰松し,愚陀仏庵で連座を催す以前から下村為山の指導を受け松風会を起こし,その中心メンバーの一人として,晩年まで俳壇の元老として後進の指導に当たった。松山市会議員にもなったことがあり,昭和7年8月18日,64歳で没す。墓は松山の蓮福寺にある。中ノ川に叟柳の句碑がある。

 野間 豊五郎 (のま とよごろう)
 天保11年~昭和9年(1840~1934)津倉村長・県会議員・衆議院議員。天保11年2月6日,越智郡大島の本庄村(現吉海町)の農家に生まれた。本庄村戸長・学務委員・勧業委員,津倉村助役・村長,越智郡会議員を歴任した。かたわら,製塩・船舶業を営んだ。明治27年11月村上芳太郎辞任に伴う補欠選挙で県会議員に当選,29年3月まで在職した。 31年3月第5回衆議院議員選挙に自由党から推されて第2区で出馬当選,31年8月の選挙でも再選された。昭和9年11月11日94歳で没した。長男信凞が家業を発展させ,東予運輸一瀬戸内運輸会社を設立した。

 野間 信凞 (のま のぶひろ)
 明治13年~昭和37年(1880~1962)明治13年4月19日越智郡津倉村(現吉海町)に生まれる。瀬戸内運輸社長。明治31年松山中学校卒業と同時に家業の海運,製塩業に従事したが,瀬戸内の離島に海上交通の便をひらくため,明治41年,当時経営難におち入っていた東予汽船株式会社の後を引受けて東予運輸株式会社を設立し,みずから社長となり,東予沿岸航路(今治~多度津)や島しょ部を経て尾道にいたる航路の経営に乗り出した。大正5年11月東予運輸を改称して瀬戸内商船とし(この時本社を尾道に移す),引き続き社長に就任,昭和18年までその職に在った。戦時下の昭和17年には,国策に沿って海運業者の統合に参加,数回の統合をへて昭和20年4月設立をみた瀬戸内海汽船株式会社の副社長に就任した(同37年2月まで)。他方,同じく国策によるバス事業者の統合にあたり東予地区の統一が野間の手にゆだねられることになり,昭和18年1月瀬戸内商船を瀬戸内運輸株式会社と改称,同社社長に就任した。野間にとってバス事業は未知の分野であったが,寝食を忘れてこれに取組み遂に統合を実現した功績は大きい。昭和35年11月社長を辞し,会長に就任。この間,本業はもとより観光など関連事業を創設・充実するとともに地域の観光開発に熱意を示した。昭和23年から5年間愛媛県公安委員会委員に選任され,この間において委員長を1年間つとめた。昭和37年4月23日,82歳で没した。

 野間 仁根 (のま ひとね)
 明治34年~昭和54年(1901~1979)画家。明治34年2月5日,越智郡吉海町の塩田主の家に生まれる。大正8年上京。翌年東京美術学校に入学。在学4年の時伊藤廉,中谷健次らとともに美術グループ童顔社を結成し活動をはじめる。翌年二科展に初入選。昭和3年第15回二科展で「夜の床」が樗牛賞となる。この頃から「魔法の森」「かぶと虫と話す牛」など,魚・鳥・虫などの幻想的な世界をテーマにした,軽妙なタッチと珠玉の色彩の作品が画壇の注目を集める。昭和4年第16回二科展で二科賞を受け会友に,更に同8年には会員に推挙され,新進作家としての地位を急速に築く。昭和13年熊谷守一とともに日動画廊で個展を開くなど多面的な活躍をするが,戦争の激化にともない,昭和19年郷里の吉海町に疎開する。瀬戸内海の風景や星座,魚,貝などをモチーフに精力的に描き,この時代の作品「瀬戸内海,南浦風景」が東京美術大学収蔵品となる。その明朗闊達な人柄は郷土の人達に多大の影響を与える。中でも,戦後美術活動の再興に当たり,郷土在住作家とともに愛媛美術懇談会を結成。愛媛県代表美術展開催に続いて,愛媛美術協会の結成にも参画,郷土の美術界に新風を吹き込み発展させた功績は大きい。昭和27年再び上京,改組された日展の審査員を努める。同30年二科会を脱退して一陽会を結成主宰する。以後,森の妖精,外房風景,瀬戸内海,虫,森シリーズ等作風はますます絢爛,色彩は輝きを増し,日本洋画界に異彩を放つ。また坪田譲治,佐藤春夫,火野葦平,石川達三,獅子文六らの小説挿絵にも自在の画境で好評を博す。昭和54年12月30日,78歳で没す。

 野間 房義 (のま ふさよし)
 明治31年~昭和53年(1898~1978)実業家,県議会議長。明治31年8月8日,越智郡今治町(現今治市)で生まれた。昭和6年家業の土木建築請負業を継ぎ,14年~17年今治市・越智郡建築業者組合長を務めた。戦時中朝鮮に渡り,戦後引き揚げて野間工務店社長として都市復興に当たった。 24年建設業法が公布されると同業者を結集して建設業協会を組織した。昭和22年4月県会議員に当選,30年4月まで県議会にあり,24年5月~26年3月副議長,26年3月~4月議長を務めた。昭和53年8月23日80歳で没した。

 野村 朱燐洞 (のむら しゅりんどう)
 明治26年~大正7年(1893~1918)俳人。松山高等小学校を卒業後明治39年4月から温泉郡役所の給仕となり,上司の和田汪洋から短歌を学び「柏葉」と号した。同42年に「四国文学」創刊号に投句する。同44年に朱燐洞と号を改め,荻原井泉水の「層雲」に参加したり,5月には松山に「十六夜吟社」を興し,同45年には18歳の若さで「海南新聞」俳句欄選者に推された。新傾向の俳句を提唱した碧梧桐とは,43年秋全国遍歴の途中帰郷した彼と松山で知り会い,同じ志をもつ森田雷死久に師事して,大正4年「層雲」松山支部を創立し,翌年選者となるなど自由律俳句運動を展開して,少壮の俳人として期待されたが,大正7年の世界的流行性感冒がもとで,同年10月31日,その鬼才を惜しまれながら夭折した。満24歳と11か月であった。鋭い神経と強い意志をもつ薄命の人であった。

 野村  馬 (のむら たけし)
 明治39年~昭和55年(1906~1980)愛媛県官吏・副知事。明治39年1月7日,伊予郡岡田村(現松前町)で生まれた。松山高校を経て昭和4年東京帝国大学法科政治学科を卒業した。内務省に入り11年特高課警部で退職した。 12年愛媛県庁に入り,4年後に中国で開拓農民の監督指導に当たった。戦後の21年県庁に復帰,農地部長として農地改革の指揮を執り,昭和26年以来総務部長として赤字財政の克服と町村合併に奔走した。 30年出納長,38年副知事に就任して,44年1月退職した。その後,50年まで愛媛放送の初代社長を務めた。昭和55年5月24日,74歳で没した。

 野村 義弘 (のむら よしひろ)
 明治30年~昭和45年(1897~1970)教育者・植物学者,俳人。明治30年3月30日,西宇和郡三瓶村に生まれる。旧姓菊池。俳号螺岳泉。大正6年,県立農業技術員養成所卒業。伊方町農業普及員として勤務。のち私立松山女学校,私立伊方農業学校,県立川之石高校等を歴任し,昭和29年3月伊方中学校を退職。この間,佐田岬半島周辺の植物研究に没頭し,同29年,伊方の海中でクロキヅタを発見,出石寺付近ではトゲヤマルリソウを発見した。同34年,日本シダの会に入り,多くの植物標本を提出した。一方,俳句にも親しみ,「鹿火屋」「睦月」の同人として活躍した。句集『クロキヅタ』があり,伊方の公園に「牛は牛蟻は蟻と歩いてゐる」の句碑がある。同45年9月23日死去,73歳。墓地は伊方町湊浦にある。

 野本 央鳥 (のもと おうちょう)
 天保4年~明治15年(1833~1882)俳人。八幡浜の河野久兵衛の子であるが,野本幸助の養子となる。名は幸市。家業は酒造業で,そのかたわら,茶道,謡曲,俳句などを好み,また書画骨董を愛し,趣味が広く徳望があった。養子は野本子青で,名は寅太郎。これまた家業のかたわら俳句をよくした。央鳥は明治15年3月死去,49歳。子青は明治30年3月死去,45歳。八幡浜大法寺に墓がある。

 野本 吉兵衛 (のもと きちべえ)
 明治31年~昭和59年(1898~1984)八幡浜市長,衆議院議員。明治31年6月13日,八幡浜須賀之町で代々吉兵衛を名乗る商家野本定一(六代吉兵衛)の長男に生まれた。幼名定敏,のち七代吉兵衛を襲名した。宇和島中学校を経て大正11年高千穂高等商業学校(現高千穂商科大学)を卒業した。東京の土地住宅会社に入社したが,関東大震災に遭い13年に帰郷した。 15年八幡浜町会議員になり,市制施行に伴い市会議員,助役を経て昭和16年7月佐々木長治の後を受けて八幡浜市長に就任した。市長としては,18年の水害に際し戦時下ながら復旧資材を求めて懸命の努力をし,また八幡浜中学校を設立した。 17年4月第21回衆議院議員選挙(翼賛選挙)に際し翼賛政治協議会から推薦されて立候補当選,市長と代議士を兼ねた。戦後,菊池清治市長2期8年の後,30年5月に八幡浜市長に公選され,2期8年間42年4月まで在任,八幡浜港の重要港湾指定と改修事業や県立八幡浜工業高校の誘致などの事績をあげた。 54年県功労賞を受賞。昭和59年3月19日,85歳で没した。

 野本 半三郎 (のもと はんざぶろう)
 明治8年~昭和10年(1875~1935)弁護士,県会議員・議長。明治8年2月2日,松山一番町で士族野本忠篤の長男に生まれた。 30年日本法律学校(現日本大学)を卒業,33年11月判検事登用試験・弁護士試験に合格して司法官試補になり,松山区裁判所詰めとなって故郷に錦を飾った。浜田区裁判所赴任を命ぜられたが,12月その職を辞して松山に帰り翌年弁護士を開業した。明治41年~昭和9年市会議員,大正8年9月県会議員になり10年12月には議長にあげられ,同12年9月満期退任した。政友会支部総務として活躍するかたわら,松山弁護士会会長・愛媛保護会理事・伊予新報取締役なども務めた。昭和10年3月7日,60歳で没した。

 野本 尚敬 (のもと ひさゆき)
 大正3年~昭和56年(1914~1981)愛媛大学学長。大正3年11月3日,温泉郡桑原村入字正円寺(現松山市正円寺町)に生まれる。昭和12年大阪大学理学部を卒業して,東京電気に勤めるが,同15年松山高等学校教授となる。同24年愛媛大学文理学部教授となり,理学部長を初代から通算7年歴任し,更に同54年初の学内選出の学長として第六代の愛媛大学学長に就任する。敬けんなクリスチャンとして,信望を集め人となりを慕われていた。「気中火花放電」の研究で工学博士の学位を得,放電物理学・プラズマ核融合の研究に多くの業績を残す。昭和56年11月20日,67歳で死去。