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愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行)

 日野 国明 (ひの くにあき)
 慶応元年~昭和32年(1865~1957)弁護士,衆議院議員。慶応元年12月1日,松山に生まれた。法律家を志し大阪に出て明治19年弁護士になった。 34年以来大阪市会議員になり6年間議長を勤めた。大阪府会議員を経て明治41年大阪市から衆議院議員選挙に当選した。大阪弁護士会長を3期歴任,硬骨正論の士として関西法曹界の重鎮であった。昭和32年12月8日,92歳で没した。

 日野 新兵衛 (ひの しんべえ)
 明和年間(1764~1772)ごろの人。氷見村竹内在,氷見村の氷見新開は群小新田を総称したものであるが,その中に新兵衛新開(ばくや新開)がある。昭和40年建立の日野新兵衛頌徳碑によれば明和年間,独力で約20町歩を干拓したと記されている。

 日野 実子 (ひの じつこ)
 安政4年~昭和11年(1857~1936)歌人。壬生川村(現周桑郡壬生川町玉之江)の人で,吉井村長,県会議員を勤めた日野松太郎の母である。この地方の素封家の主婦として貞節の誉が高く,よく家政を修め,かたわら和歌をたしなみ多くの作品を残している。歌集『鶴の友』は大正15年に刊行したが,堀沢周安の序文,遠山英一,石樽千亦,森田義郎等の祝詠も巻初に掲載されている。昭和11年11月7日死去, 79歳。

 日野 泉之助 (ひの せんのすけ)
 明治30年~昭和57年(1897~1982)実業家。育英事業に功労があった。明治30年4月1日,新居郡氷見村末長(現西条市)で日野鶴太郎の長男に生まれた。新居農学校卒業後,旧満州・中国に渡り青年時代を大陸で過した。帰国後上京して夜学に学び,大正12年富国徴兵生命保険に外務員として入社,業績をあげて腕利きの保険マンで鳴らし,重役に抜擢された。昭和23年三和信用組合(現三和信用金庫)を創立して理事長・会長を務め,月賦業界で活躍する本県人の援助をして「月賦業界育ての親」といわれた。関東愛媛県人会長・東予育英会長などを務め,自らも私財を投じて郷里の子女のため育英資金「日野賞」を設けた。昭和57年7月29日,85歳で没し,氷見公民館前に頌徳碑が建てられた。

 日野  強 (ひの つとむ)
 慶応元年~大正9年(1865~1920)軍人。慶応元年12月7日,周布郡新屋敷村(現周桑郡小松町)に生まれる。幼名は熊吉。つよしともいう。師範学校を卒業して,本県令大阪で教員をやったが,明治18年,陸軍教導団に入り,同16年,陸軍士官学校に進む。日清戦争にも従軍するが,日露戦争直前には朝鮮に渡り,ロシアの動静調査にあたる。日露戦争後は,中露国境や新彊の探索を命じられた。変装して北京から蘭州,ゴビ砂漠を横断して,ウルムチ,イリまで踏査し,更に天山山脈,カラコルム峠,インドにまで足をのばす。この踏査紀行は同42年『伊犂紀行』(2巻)にまとめる。大正2年大佐に進級して退役となる。その後,中国青島で事業を経営したり,晩年は大本教に入信したりする。大正9年12月23日,55歳で死去。

 日野 和煦 (ひの にこてる)
 天明5年~安政5年(1785~1858)西条藩八代頼啓・九代頼学時代の朱子学者。岡田家に生まれ,のも日野氏をついだ。幼名は大介のち徳右衛門・暖太郎,和煦は諱,字は公春,醸泉,また半隠と号した。江戸に出て上田善淵,田中子恭,仁井田南陽に,また文化6年には倉成竜渚(中津藩),樺島石梁(久留米藩)らに学んだ。同9年昌平黌で古賀精里に師事した。小松藩の近藤篤山にも学び,西条藩儒官として,また藩校択善堂の教授として50年余りにわたって藩の教育に従事した。その間天保7年地誌編纂の命を受け,領内各村の庄屋に「風土記御用に付村内調帳」を出させる一方,編集協力者を伴い,領内をくまなく踏査し資料の収集に当たった。7年の歳月を経て同13年,20巻の『西条誌』を完成した。ほかに『兵備妄言』『醸泉詩稿』『醸泉絶句抄』『半隠雑誌』など25種70冊の著作がある。安政5年11月14日没(72歳),浄土宗大念寺(西条市大町)に葬られた。

 日野 政太郎 (ひの まさたろう)
 明治11年~昭和8年(1878~1933)湯山村長,県会議員・副議長。明治11年11月16日,温泉郡湯山村上高野(現松山市)で旧庄屋の家に生まれた。酒造業を営むかたわら郵便局長を勤めた。大正6年湯山村長・農会長に選ばれ,昭和6年まで在任した。大正12年9月県会議員になり,死去するまで3期在職して政友会に所属,昭和6年10月には副議長に選ばれた。また温泉郡農会長・自治会長や県町村会長にも推され,予繭糸蚕種販売組合や伊予果物同業組合などの役員も務めた。昭和8年7月17日,54歳で没した。

 日野 松太郎 (ひの まつたろう)
 明治10年~昭和14年(1877~1939)吉井村長・県会議員。明治10年12月26日,周布郡玉之江村(現東予市)の旧庄屋日野孝太郎の長男に生まれた。4歳で父を失って家を継ぎ,やがて上京して学問に励んだが,母の懇請で帰郷した。29歳で吉井村会議員となり,明治44年吉井村産業組合を創設して組合長に推された。大正4年9月県会議員になり12年9月まで2期在職した。大正7年5月吉井村長に選任され,以来終身村政を担当,藺草の栽培,富有柿の奨励,ノリ養殖など地場産業の育成に努め,二宮尊徳の報徳精神による民力涵養運動を推進するなど多くの事績をあげた。昭和12年には県町村会長に推され,郡農会長・県農会副会長・帝国農会議員なども務めた。これらの功労で大日本農会総裁から緑自功労章,産業組合中央会から緑功労宣,自治50周年記念祝典に内務大臣表彰を受けた。昭和14年11月20日,61歳で没し,翌15年吉井役場前に頌徳碑が建立された。

 桧垣 括瓠 (ひがき かっこ)
 明治13年~昭和42年(1880~1967)俳人。越智郡日高村(現今治市)に生まれる。本名雅一。越智姓を名乗っていたが,同郡清水村の桧垣家に入る。明治38年愛媛県師範学校を卒業したが,師範在学中松永鬼子坊,塩崎素月,村上壷天子らと「錚々会」をつくり村上霽月に俳句の指導を受けた。海南新聞,伊予新報などに投句をつづける。子規なきあと,句界の混沌たる状態をあきたらず思っていたところ霽月より渋柿誌を示されてこれに参加し,東洋城に師事する。のも,小学校の勤務をやめて,今治市別宮の大山抵神社の神官となり,志々満渋柿会を主宰して,同人の指導に当たる。昭和18年に初句集『春泥』を出し,続いて『続春泥』『臥募余燼』などの句集を出す。昭和42年2月17日,87歳で死去。今治市桜井の法華寺境内に渋柿同人によって句碑が建てられている。

 桧垣 五右衛門 (ひがき ごえもん)
 慶長元年~延宝6年(1596~1678)新田開発功労者。五右衛門はもと広島藩に仕えていた老臣であったが,藩主にきらわれて浪人となり,のち帰農していたが,寛永15年(1638)妻子を伴って,野間郡波方村に移住した。生まれつき企画性に富んでおり,付近の山野を歩き回り,地形地物をみて開墾干拓について想を練った。たまたま隣村九王の海岸に,遠浅の砂浜が広くつらなっているのを発見して,ここを干拓して良田を得ようと,まず,海辺の中央に堤防を築き,潮水の侵入を防いで数十ヘクタールの土地を得て,肥培・かんがいなど経営に苦心をかされること3年,五右衛門新開とよぶみごとな新田を完成した。やがて住まいを九王新田に移し,そのほかの農民も入り一部落が形成された。延宝6年82歳で死去。子孫は彼の業をついで100ヘクタール余の大新田干拓に成功した。

 桧垣  伸 (ひがき のびる)
 嘉永3年~大正13年(1850~1924)県官。上浮穴郡郡長として郡内の開発に当たった。嘉永3年9月18日,松山藩士野田惟徳の次男に生まれた。幼名友諒。安政6年9歳のとき,桧垣家の養子となった。慶応2年藩校明教館に入学,明治2年同館助教を命ぜられた。4年学術修行のため高知藩に留学,5年松山の啓蒙学校校長を拝命,8年学区取締となり,9年愛媛県師範学校創立事務長,続いて同校監事を務めた。明治11年12月県令岩村高俊に抜擢されて下浮穴郡長に任じ,12年伊予郡長を兼任した。14年上浮穴郡長に転任,以後27年まで同郡長に在職した。就任早々,旧藩時代以来の天災飢饉に備えての備荒儲蓄制度を継続し,これの維持方法として23年久万凶荒予備組合を組織した。ついで上浮穴の開発は道路の整備にありとして,梅木正衛らと図って三坂峠開さくの実現を県に運動した。これが,県令関新平を動かし,高知一松山間の「四国新道」開さく計画に発展した。明治19年工事が始まると,郡民の夫役を供出して全面的に協力,20年三坂峠の開さく完工に導いた。ついで四国横断鉄道敷設運動を始め,郡長退職後もこれを生涯の念願として各方面に説いた。大正9年横断鉄道陳情で上京の帰途大阪で罹病,13年11月15日,74歳で没した。久万町真光寺に葬られ,上浮穴郡の発展のため捧げた生涯をたたえて三坂峠の頂上に頌徳碑が建てられた。

 樋口 虎若 (ひぐち とらわか)
 明治5年~昭和33年(1872~1958)医師,宇和島市長。明治5年11月10日,宇和郡吉田東小路(現北宇和郡吉田町)で樋口直康の長男に生まれた。 27年第三高等学校を卒業して医師業免状を受け, 28年陸軍軍医となり,33年2月宇和島広小路に豪壮な医院を建て,開業した。 37年2月陸軍軍医大尉に昇進,県医師会理事を経て大正9年副会長に推された。大正3年以来宇和島町会・市会議員,北宇和郡会議員になり,昭和13年7月宇和島市長に就任したが,14年5月政党の対立抗争を嫌って退任した。昭和33年6月4日,85歳で没した。

 東 令三郎 (ひがし れいさぶろう)
 明治26年~昭和43年(1893~1968)実業家。明治26年7月9日下浮穴郡南吉井村田窪(現温泉郡重信町)に生まれ,松山中学校,熊本第五高等学校を経て京都帝国大学法学部を卒業し野村銀行に入行。同銀行の大阪市内支店長をつとめた後に昭和19年12月に福岡県内の無尽会社5社を合併して設立された西日本無尽株式会社社長に就任した。第二次世界大戦終了後は無尽会社の地位向上に力を尽くし26年西日本相互銀行(現西日本銀行)社長,37年10月同行会長となり40年5月に退任した。この間38年5月から2年間全国相互銀行協会会長をつとめた。昭和43年6月26日,74歳で没した。

 久松 定夫 (ひさまつ さだお)
 明治4年~昭和7年(1871~1932)田渡村長・三津浜町長,県会議員。明治4年10月6日,浮穴郡中田渡村(現上浮穴郡小田町)で里正久松道貫の三男に生まれた。松山中学校卒業後京阪に修学した。明治31年田渡村助役,34年7月県会議員になり40年9月まで在職,大正5年3月~8年9月にも県会議員であった。 43年10月田渡村長に就任,5期18年間,松山に住みながら同村長を続け,農林業振興・道路整備に尽くした。松山では大正5年松山電気軌道会社の専務になり伊予鉄道との合併を交渉した。海南新聞社取締役も務め,大正12年「伊予新報」創刊に伴い初代社長に就任した。また劇場「新栄座」を映画常設館にして経営,映画興隆期の一翼を担った。昭和2年11月三津浜町長に懇請されて就任,以来死に至るまで在職4年3か月,魚市場の町営移管,内港修築,上水道の敷設に手腕を振った。政友会県支部幹部であったが,明敏闊達な人柄は政敵からも好かれた。昭和7年3月24日,60歳で三津浜町長現職のまま没した。昭和12年田渡村役場前庭に頌徳碑が建てられた。

 久松 定謨 (ひさまつ さだこと)
 慶応3年~昭和18年(1867~1943)伯爵,軍人。慶応3年9月9日,久松家の分家松平勝実の三男に生まれた。松山藩最後の藩主久松定昭の嗣子に迎えられ,明治5年,に相続した。16年フランスのサンシール兵学校に留学,帰国して陸軍少尉に任官した。 27年の日清戦争に近衛師団長北白川宮能久親王の副官として従軍,37年の日露戦争にはフランス大使館付武官として情報活動に従事した。欧州にあること15年,フランス語は陸軍第一といわれた。その後,近衛歩兵第一・第五連隊長,第一旅団長などを歴任し,大正9年陸軍少将に昇進して予備役となった。旧藩主久松家の当主として,学に志して上京して来る松山士族子弟のため学生寮「常盤舎」を設立し,育英の便宜を図った。大正10年城山の山麓に純フランス風の別邸(萬翠荘)を建て, 11年陸軍大演習総監のため行啓された摂政宮(昭和天皇)の宿舎に充てられた。 12年7月,陸軍省所轄となっていた城山・城郭の払い下げを受けたので,維持費を添えて松山市に寄付した。 14年松山に移り住み,久松家顧耕会を起こし,数名の技術者を置いて小作人のための農耕指導を行った。また藩祖の隠居所東野「竹の茶屋」の付近を開拓して各種の果樹を植え,模範農園(元県立果樹試験場の一部)を作った。昭和18年2月19日,75歳で没した。 30年10月松山城天守閣の傍に頌徳碑が建てられた。次男久松定武は,昭和26年5月から46年1月の5期にわたり愛媛県知事であった。

 久松 貞景 (ひさまつ さだかげ)
 生没年不詳 松山藩家老で五代藩主定英に仕える。庄右衛門と称し膽山と号す。言行は常に正しく,身を持することが清廉であった。ある時,藩主が名器雲山の茶壷を家臣にみせたところ,みんな格別の御品見事とほめたが,貞景は無言であった。重ねて意見を求められたが,彼は壷を手にとって指にさしてくるくると廻して,よく廻りますと答えたという。藩主は重代の宝器を何故ほめないのかと言うと,彼は,国の宝は能き士である。と答えたという。享保の大飢饉では,家老水野忠統,奥平貞継とともに執政の主班として活躍する。藩主定英のあと嫡男定喬が継いで10日目,藩政に大変動がおこり奥平貞継は久万山へ蟄居,貞景は罷免閉門を命じられる。のち久万山騒動で奥平貞国らが処罪されると,再び,水野忠統らとともに復権する。

 久松 粛山 (ひさまつ しゅくざん)
 承応元年~宝永3年(1652~1706)松山藩家老。俳人。別号一知軒。藩主定直に仕えて重責を果たす一方,俳諧を好みその才を発揮した。 31歳の時来遊した岡西惟中に入門し,一知軒の号を受けたと思われる。元禄元年江戸詰となると,青地彫棠らとともに其角に入門した。同4年ころ,狩野探雪の画に芭蕉・其角・素堂の発句の賛を請い,三幅対とした。「俳諧三尊画賛」として百済魚文が伝えた。また芭蕉に烏頭巾を贈り,芭蕉と唱和した(『今はむかし』)。其角,彫棠らと歌仙を巻いており,主に江戸で活動した。元禄5年帰松して蕉風俳諧を広めた。宝永3年54歳で病没した。

 久松 鶴一 (ひさまつ つるいち)
 明治20年~昭和51年(1887~1976)教育者,実業家,田渡村長。明治20年8月28日,周布郡北条町(現東予市)で桧垣藤助の五男に生まれた。明治41年愛媛県師範学校を卒業,多賀小学校訓導を経て44年朝鮮三千浦・竜南各小学校校長として大正3年まで勤務した。4年上浮穴郡田渡村(現小田町)久松家の女婿となり入籍,8年田渡製糸会社を引き継いだ。かたわら大正12年田渡村村会議員,昭和3年~6年同村助役,6年~8年村長に就任した。昭和8年会社が倒産して9年に渡鮮,東拓鉱業に入社,19年帰郷して松山市へ転出,伊予木竹工業・内外物産会社を経営した。 21年自由党県支部長として県政界にも関与,29年~31年県監査委員,32年~36年県教育委員を歴任した。県文化協会長として浄瑠璃など伝統文化の保存顕彰にも尽力し,昭和41年県教育文化賞,42年勲五等双光旭日章を受けた。昭和51年8月25日,88歳で没した。

 久松 長世 (ひさまつ ながよ)
 文政12年~明治3年(1829~1870)今治藩士。通称は彦兵衛,のち監物。家は代々今治藩の執政の家柄であった。はじめ弓術をよくしたが,のち砲術を学び,その技は神技にちかかった。藩命により,藩士の教練に努め,自ら率先して,実用を第一として。『火功全軍録12巻』を著し,集散離合操縦発射の法を説いた。明治元年徴士となり,翌2年今治藩大参事となり,藩政の改革に大いに力を尽くした。過労のため発病し,同3年2月24日死去,41歳。幼時より学問を好み和漢の学に通じ,ことに和歌は半井梧菴について堪能であった。

 人見 栄智 (ひとみ えいち)
 生没年不詳 大洲藩士・大洲秘録の編者(推測)。藩士(200石)国領弥五衛門正盛の次男として生まれ,人見茂左衛門栄将(150石)の養子となる。長浜詰目付を務めた。寛保3年(1743)2月7日伊吹佐介の次男が養子となって,人見尚栄と名乗っているので,栄智がこの年に死去したか,あるいは隠居したものであろう。『大洲秘録』は5巻本で,1巻は藩主系図,2~4巻は家臣の累系・食録・役所・役録・住宅・檀那寺名・累代の奉行・代官の氏名・新谷藩の家中,第5巻は郷中ならびに社寺を収録した大洲藩の百科辞典に当たるものである。大洲高等学校至徳堂の秘蔵本『真書原本第5巻』の巻末に,「元文五庚中歳仲秋 人見甚左衛門栄智」とあることから,人見栄智がこれを編さんしたものと推測されていた。 ところが多岐にわたる膨大な内容を含み,到底個人の手に成るものとは考えられない。また元文5年以降の内容も含んでいる。したがって署名の年次とのかかわりが不自然である。このことから,基本的な項目と内容は,元文5年以前に成立しており,人見栄智がこれを筆写したものだとする考え方とがある。栄智の編さん説,筆写説いずれも確証はない。

 人見 正達 (ひとみ まさたつ)
 生没年不詳 儒者。三津浜の生まれで,名は正典。もともと医家に生まれたが,儒学を志して京に出,伊藤仁斉の子,東所に師事し,3年の後,故郷に帰り,さかんにこれを唱道した。そのため,松山地方では古学がさかんになったという。性格は極めて厳しく,利益の為に人に屈することはなかったといわれている。かつて朱子学の信奉者井手玄道と大激論をして一歩も退かなかったということは,その当時の学界の偉大なる出来事として伝えられる。(欽慕録)晩年,病気となりて死に臨み,遺言して,屍を衣山の絶頂に葬むるようにさせたという。生没年ともに不詳,享保~安永年間ころの人と伝えられる。

 一柳 亀峰 (ひとつやなぎ きほう)
 文化元年~安政2年(1804~1855)小松藩士,書家。文化元年6月18日,小松藩士一柳寿庸の長子として生まれた。母は竹鼻正脩の女である。その家は藩主の一族に連なり,100石を有する上士であった。通称吉之進,名を寿偕と称し,後に畔右衛門と改めた。字を悌甫といい,亀峰は号である。文政4年,中小姓として初めて召出され,同6年には江戸詰を命じられた。儒学を同藩の近藤篤山に学んだが,文政ll年から翌年にかけて昌平黌に入り,一層の精進を重ねた。天保5年,父隠居の跡をうけて家督を相続し,奉行仮役として普請奉行を兼ねた後,翌6年には奉行を命じられた。当藩における奉行とは,家老に次ぐ要職で,領内の支配,金銭出納など,藩政の実務を統轄する役柄であった。安政元年,江戸詰を命じられて出府したが病気にかかり,療養のため帰国の途次,安政2年2月7日,近江国(滋賀県)草津において死去した。享年50歳,小松の仏心寺山に葬られた。書家としても優れ,近藤篤山,竹鼻正脩の墓誌は亀峰の筆になる。

 一柳 直家 (ひとつやなぎ なおいえ)
 生年不詳~寛永19年(~1642)西条初代藩主一柳直盛の次男直家は幡磨国加東郡小野1万石と宇摩郡,周布郡で1万8.600石の計2万8,600石で川之江に入部したが,6年後の寛永19年(1642),参勤交代の途次面庁を患って江戸で急逝した。 44歳であった。直家には男嗣がなかったのでかねて弟直頼(小松藩主)の妻の弟直次(出石藩主小出吉親の次男)を娘の婿養子に迎え跡目相続を願い出ていた。しかしその幕府許可のないうちに直家の逝去があったので末期養子を認め,伊予国の領分を没収し,父直盛の功を認め播磨国1万石のみを直次に与えた。

 一柳 直興 (ひとつやなぎ なおおき)
 寛永元年~元禄15年(1624~1702)一柳西条藩三代目当主。寛永元年,伊勢国神戸に生まれる。通称を左近という。父は一柳直重,母は菊亭大納言公矩の女。正保2年,父直重の遺領のうち2万5,000石を相続,弟直照に5,000石を分与した。同3年従五位下に叙せられ,監物と称した。寛文元年京都女院御所造営御手伝普請を命じられたが,上京の時期が遅く,参勤交代でも病気遅参届の遅延があり,領内でも圧政・好色・不作法などがあったとして,寛文5年7月改易され,加賀前田綱紀に預けられた。貞享3年罪を許されてからも金沢に住み,元禄15年8月3日,78歳で没した。法号は醰粋院殿循堂宗彠大居士。墓所は石川県金沢市三構町,高巌寺。

 一柳 直重 (ひとつやなぎ なおしげ)
 慶長3年~正保2年(1598~1645)伊予一柳西条藩二代目。慶長3年,尾張国黒田城主一柳直盛の嫡男として,山城国伏見で生まれる。慶長14年家康に拝謁,従五位下に叙せられ,丹後守に任ぜられた。,慶長19年から元和元年にかけての大坂の役には父とともに参戦,寛永10年には志摩国鳥羽城の守衛を勤めた。同13年父が伊予西条などで6万8,600石を与えられ,任地に赴く途中で病没したため,同年11月24日遣領のうち西条3万石を継いだ。一柳西条藩は直重の入国によって実質的に成立したといえよう。直重は慶長年間に加藤嘉明の家臣足立重信が着手していたとされる加茂川の改修工事を継続し,喜多浜町に陣屋町を建設し,従来から繁栄していた大町から有力商人を移住させた。治世中新田開発が盛んに進められ,加茂川下流域には広大な新田地帯が出現した。入国後の公役としては,寛永17年7月讃岐国高松城主生駒高俊が17万石を没収されたため,伊予大洲藩主加藤泰興・今治藩主松平定房と共に在番を命じられている。正保2年6月24日,47歳で没した。法号は直指院殿見叟宗性大禅定門。墓地は東京都港区芝増上寺金地院にある。

 一柳 直次 (ひとつやなぎ なおつぐ)
 寛永6年~万治元年(1629~1658)西条初代藩主一柳直盛の次男で,宇摩郡・周布郡と播州小野と計2万8,600石を領した。直家は44歳で没したが,男嗣がなく養子として出石藩主小出吉親の次男を迎えた。承応2年,伊予国の領分を没収され,播州小野の1万石のみとなったが小野に陣屋を設け城下町の建設に尽力した。明治維新まで11代続いた。

 一柳 直照 (ひとつやなぎ なおてる)
 生没年不詳 西条藩二代一柳直重(1598~1645)は正保2年死去に際して嫡子直興(なおおき)に西条藩を次子直照に宇摩郡で5,000石を分与して宇摩郡津根村(現宇摩郡土居町)に置いた。直照は津根村の八日市に陣屋をおいたので,これを八日市陣屋といい西条藩は2万5,000石となった。
 寛文5年(1665)に西条藩に大異変が起こった。それは三代直興が幕命による京都女院御所造営の助役を怠り,その上罪なき領民を刑したなどの理由で,改易となったことである。しかし直照には同年,八日市陣屋に対し722石を宇摩郡天領の内から加増された。西条一柳家の祭祀料というものであったろうか。

 一柳 直治 (ひとつやなぎ なおはる)
 寛永19年~正徳6年(1642~1716)小松藩二代藩主。初代藩主直頼の長男として,寛永19年5月4日,江戸に生。まれ,幼名を主膳,長じて直治と称し,楠陵と号した。母は直頼の正室青龍院,分部嘉治の女(性善院)を室とした。正保2年,父の死去により3歳で襲封し,万治3年,従五位下,山城守に叙せられ,後に右近将監(天和2年),民部少輔(貞享2年)に改めた。領内を流れる大河中山川は,土砂の堆積によって,その河口付近に遠浅海岸を形成したが,直治の代,そのような地形を利用して,江口新田(寛文5年,広江村),常夢新田(延宝6年,広江村),北条新田(元禄14年,北条村),壬新田(元禄15年,広江村)などの開発が進められた。また,山荘逍遙園を構築し,佛心寺の開創も事実上直治の手によるといわれている。宝永2年致仕,正徳6年3月15日,小松で死去した。享年73歳であった。法号を大運軒殿淵翁宗治居士と称し,小松の仏心寺山に葬られた。

 一柳 直盛 (ひとつやなぎ なおもり)
 永禄7年~寛永13年(1564~1636)伊予一柳西条藩初代藩主。永禄7年,美濃国守護土岐氏の被官一柳直高の次男として,同国厚見郡に生まれる。通称は四郎右衛門。祖父宣高は伊予河野氏の庶流であったが,美濃に移住して土岐氏に仕え,一柳姓を与えられた。兄直末は早くから豊臣秀吉に仕えて,6万石を領していたが,天正18年の小田原征伐で戦死した。直盛は兄の討死後,尾張で3万石を与えられ,黒田城を根拠とした。同19年従五位下に叙せられ,監物と称した。その後,文禄元年に5,000石を加えられ,慶長5年の関ヶ原の戦いでは,徳川家康側について岐阜城攻略の戦功を立て,伊勢神戸5万石を領した。直盛は慶長15年尾張名古屋城御手伝普請,同16年伯首国米子城守備などの公役を勤め,豊臣家と徳川家の最後の戦いである大坂両陣においても戦功があった。寛永10年志摩国鳥羽城の守衛に当たった後,同13年6月1日,伊予国西条ほかで6万8,600石に加増され,このうち播磨国加東郡5,000石は次男直家に与えた。同年8月19日,任地に赴く途中大坂において72歳で病没,大阪市天王寺区谷町大仙寺に葬られた。法号は多宝院殿心空思斎大居士。遺領は分割され長男直重に伊予西条3万石,次男直家に伊予国宇摩郡・播磨国加東郡2万8,600石,三男直頼に伊予国小松1万石が与えられた。

 一柳 直頼 (ひとつやなぎ なおより)
 慶長7年~正保2年(1602~1645)小松藩初代藩主。一柳直盛の三男として,慶長7年7月23日,伊勢国神戸に生まれ,幼名を鍋,蔵人,長じて直頼と称した。寛永13年,伊予国西条への転封の途次に死去した父直盛の遺領として,小松1万石(周敷郡11か村,新居郡4か村)を分与され,翌14年,周敷郡新屋敷村のうちの塚村の地を小松と改称,この地に陣屋を構えた。以後,初代藩主として,家臣団の整備,領内支配体制の確立など藩制草創に尽力した。また,三島神社を再建するとともに,菩提寺として圓覚山佛心寺を開創した。正保2年4月28日,江戸で死去,享年43歳であった。法号を佛心寺殿機岳宗活大居士と称した。小松の綱付山麓に埋葬され,後に遠見山の現墓地に改葬された。

 一柳 頼明 (ひとつやなぎ よりあき)
 安政5年~大正9年(1858~1920)伊予小松藩1万石一柳家第九代当主。第八代藩主頼紹の長男として安政5年に生まれる。明治2年,父死去のあとを受けて,小松藩知事に就任し,明治4年7月15日,廃藩置県に伴って知藩事を免ぜられるまでその地位にあった。あとは小松県大参事喜多川久徴に任務が引継がれる。大正9年正月16日,62歳で死去。周桑郡小松町仏心寺山に葬られる。

 一柳 頼寿 (ひとつやなぎ よりかず)
 享保18年~天明4年(1733~1784)小松藩五代藩主。四代頼邦の三男として(兄2人は早世),享保18年5月26日,江戸に生まれた。母は玉林院である。幼名を民彌,主膳,長じて頼長,頼澄と称し,後に頼寿と改めた。父の死により,延享元年,11歳で襲封,寛延元年,従五位下,山城守に叙任され,後に美濃守(宝暦5年),さらに,致仕の後に上総介(安永8年),但馬守(天明2年)と改めた。石王塞軒の系統に属する竹鼻正脩を登用し,中小姓,後に世子頼欽の侍読とした。安永8年致仕,天明4年12月13日,江戸で死去した。享年52歳であった。法号を恒一軒殿天遊英心大居士と称し,江戸品川の寿昌寺に埋葬されたが,昭和49年,小松町の仏心寺に遷座された。

 一柳 頼邦 (ひとつやなぎ よりくに)
 元禄8年~延享元年(1695~1744)小松蒲四代藩主。二代藩主直治の次男治良の長男として,元禄8年12月8日,小松に生まれ,正徳4年,伯父頼徳の嗣と定められた。初め治達,内蔵助,新蔵と称していたが,のち頼邦と改めた。母は門川氏(延寿院)である。享保9年長封,同年に従五位下,兵部少輔に叙任された。頼邦の治世は,享保の大飢饉の時期を含み,小松藩における被害も甚大であった。飢饉の翌年にあたる享保18年提出の幕府への報告によると,領内の飢人54,011名となっている。延享元年7月8日,江戸で死去,享年49歳であった。法号を甘節軒殿圓巌祖融居士と称し,江戸品川の寿昌寺に埋葬されたが,昭和49年,小松町の仏心寺山に遷座された。

 一柳 頼親 (ひとつやなぎ よりちか)
 寛政3年~天保3年(1791~1832)小松藩七代藩主。寛政3年1月11日,六代頼欽の長男として江戸に生まれた。母は頼欽の正室琴松院である。幼名を兵庫,長じて頼親と称した。また,冠岳と号した。夫人は秋月種徳の女(照,潤性院)である。父の死により,寛政8年,5歳にて襲封,文化3年に従五位下,因幡守に叙任され,後に美濃守に改めた。竹鼻疋脩の建言により,藩内の文運隆盛を目指して,享和2年,藩校培達校を設立した。同校は,翌3年養正館と改称するとともに,頼親より賓師の礼で藩に迎えられた近藤篤山を中心として,内容の充実が図られた。また,文化5年には,伊能忠敬一行による領内の測量が行われた。天保3年4月7日,小松で死去,享年42歳であった。法号を至楽軒殿仁嶽宗静大居士と称し,小松の仏心寺山に埋葬された。

 一柳 頼紹 (ひとつやなぎ よりつぐ)
 文政5年~明治2年(1822~1869)小松藩八代藩主。七代頼親の従弟にあたる旗本村越茂助の次男として江戸に生まれ,頼親の嗣となった。号を先河,牧齋と称した。夫人は秋月種任の女(マス子,圓明院)である。養父頼親の死により,天保3年長封,従五位下,因幡守に叙任され,後に兵部少輔に改めた。幕末の多難な政局の中で,小松藩は勤王の立場をとり,田岡俊三郎,黒川通軌,近藤鼎吉らが藩の内外で活躍した。また,頼紹自身も藩兵を率いて上京し,沢宣嘉の仲介によって三条実美に謁し,天皇に拝謁した。さらに,戊辰戦争にも藩兵一小隊を従軍させた。明治2年,版籍を奉還して知藩事に任命されたが,同年7月14日,東京で死去した。享年48歳であった。法号を恭靖軒殿大道義讓大居士と称し,小松の仏心寺山に葬られた。

 一柳 頼徳 (いちやなぎ よりのり)
 寛文6年~享保9年(1666~1724)小松藩三代藩主。二代藩主直治の長男として,寛文6年3月18日,小松に生まれた。母は直治の側室於ロク(正壽院)である。幼名を辨次郎,内記,長じて直泰,後に直卿と称したが,晩年に至って頼徳と改めた。字を子泉,寛夫,号を蝶庵,蜨齋,鼓缶民,無為齋,喜樂軒,看月堂,松皐,観雲居士と称したが,この外に印章にみえる別号として,天山人,和一軒,副山人,白顯,顯甫,盛游,宗立,庭碩甫がある。直治致仕の跡をうけて,宝永2年襲封,同6年,従五位下,因幡守に叙任された。経史に通じ,詩歌,書道,茶道にも優れ,中でも書は諸侯中の第一人者といわれた。「西条誌」によると,書の手本を「西御丸様へ差上げられし事世人の知る所也」と記されている。また,祈願するところあって千個の額字を彫らせ,小松,西条地方の社寺に奉納したと伝えられる。享保9年10月4日,江戸で死去,享年59歳であった。法号を蝶菴祖覺居士と称し,江戸品川の寿昌寺(東京都品川区東五反田)に埋葬されたが,昭和49年,小松町の仏心寺山に遷座された。一生を独身で通し,禅僧のごとき謹厳な生活を貫いたと伝えられる。

 一柳 頼欽 (いちやなぎ よりよし)
 宝暦3年~寛政8年(1753~1796)小松藩六代藩主。五代頼寿の次男として,宝暦3年7月27日,江戸に生まれた。母は頼寿の側室堅性院である。初め嫡子とされていた兄頼忠の死去により,明和7年嗣と定められた。幼名を慶次郎,兵庫,長じて頼恭と称し,後に頼欽と改めた。夫人は,最初牧野惟成の女であったが,離縁の後,同族一柳末栄の女(琴松院)を迎えた。父の致仕の跡をうけて,安永8年襲封,同年に従五位下,美濃守に叙任され,後に兵部少輔(天明元年)と改めた。父頼寿の代に登用された竹鼻正脩を奉行とし,政治,文教両面での活躍の場を与えた。寛政8年8月15日,江戸で死去,享年44歳であった。法号を勇義軒殿英山宗俊大居士と称し,江戸品川の寿昌寺に埋葬されたが,昭和49年,小松町の仏心寺山に遷座された。

 姫野 覚彌 (ひめの かくや)
 明治7年~昭和9年(1874~1934)医師,県会議員。明治7年2月27日,宇和郡平野村(現大洲市)で生まれた。 29年京都府立医学専門学校を卒業して帰郷開業した。明治32年~大正12年郡会議員,大正4年9月~8年9月県会議員として衛生行政の促進を専門的立場から訴えた。その間,隔離病舎の建築や衛生講座を開催して衛生思想の普及,無報酬で貧民の診察をするなど地域の医療に貢献するところが少なくなかった。大正7年喜多郡医師会長に推され,10年には宇和島共済病院を設立して古城博士など医学士を招聘した。昭和9年4月25日,60歳で没した。

 兵頭 賢一 (ひょうどう けんいち)
 明治5年~昭和25年(1872~1950)教育者,地方史研究家。明治5年,北宇和郡岩松村(現津島町)生まれ。愛媛県師範学校卒業。大正12年宇和島第二小学校長を最後に教育界を退き,伊達図書館長をつとめる。旧宇和島藩主伊達家に伝わる古文書・記録を巾心に,宇和島藩政史の研究に没頭,がたんら,宇和島史談会の育成につとめ,地方史研究に多くの業績を残した。宇和島青年団長,南予文化協会,宇和島史談会の幹部としても活躍した。著書に『北宇和郡誌』『南予遺香』『宇和島藩における尊皇思想の発達』『先哲叢書・伊達宗城』などがある。昭和25年3月21日,死去,78歳。

 兵頭 太郎右衛門 (ひょうどう たろうえもん)
 生年不詳~慶長2年(~1597)泉貨紙の創始者,泉貨居士と号す。泉貨居士の祖先は河野系の土居氏で,父を土居清兵衛尉と称し,東宇和郡鳥鹿野村(渓筋村)鎌田城に住み,宇和の松葉城主の西園寺公広に仕えた。泉貨居士は土居清兵衛の次男で,通正(道正)と称し初め僧となって野村の安楽寺で修業した。彼は剛勇で気慨に富んでいたので,野村の白木城主宇都宮乗綱に認められ,18歳で還俗して太郎右衛門と称し西園寺公広に仕えた。
 天正のころ魚成の竜ヶ森城代の魚成源太が,土佐の長宗我部に通じたので,公広は太郎右衛門をして討たしめた。彼は源太を土佐境の桜ヶ峠で倒した。公広はその功を偉とし,廿五貫文の上地を与え,且つ兵頭の姓を授けた。天正13年西園寺氏が亡び,戸田勝隆の世となるや,彼に仕えず,再び安楽寺に隠せいし泉貨居士と称した。,慶長2年2月28日死去するまでの10年間に,楮を原料とする従来の和紙に,卜ロロとホゼを混ぜて粘着性を生かし,重ね漉きして強靭な和紙を発明した。これを彼の名をとり泉貨紙という。
 終戦当時の泉貨紙は統制外で片面のザラ紙を称した。本物の泉貨紙の製造家は昔は数百軒あったが,今は野村町高瀬の菊池定重一軒である。泉貨紙の用途は帳簿の表紙,質屋や呉服屋で使うエブ札,文庫紙(たとう紙),二月堂のお水取りに着用の紙子紙,四国へんろの経本,美術学校の卒業証書,サンドペーパー,坊さんの衣包みなどである。
 菊地の泉貨紙は通産省の伝統的工芸品に指定され,定重は県指定の伝統工芸士である。泉貨居士の墓も頌功碑も野村町の安楽寺にあり,墓は県指定の史跡である。文化8年の肖像画もある。

 兵頭  精 (ひょうどう ただす)
 明治32年~昭和55年(1899~1980)女性飛行家。北宇和郡東仲村(現広見町)の農家の四女に生まれる。11歳で父と死別し,兄や姉の援助で松山済美高女を卒業した。大正8年に上京し千葉県津田沼の伊藤飛行機研究所に入所する。当時は飛行家に男性はもちろん女性がなるなど正気の扱いはされなかった。大正11年,22歳で三等操縦士の免状をとり,日本女性初の飛行家が誕生するに至った。身長は1メートル43センチで小がらだったので座席にすっぽり隠れ,見る方も無人機が飛んでいるのかと思ったそうである。花々しいデビューから間もなく,こつ然として航空界から姿を消した。その後も飛行機研究所の設立を計画したり,弁護士を志したり,なかなか進歩的であった。 NHKテレビ小説 「雲のじゅうたん」のモデルともなった。昭和55年4月23日没した。 81歳。

 兵頭 正懿 (ひょうどう まさし)
 弘化4年~明治43年(1847~1910)幕末の志士。のち千葉県知事などを歴任した。新谷藩士の家に生まれ,幕末江戸で国事に奔走,明治元年三条実美に従って参謀の任を果たし,2年少史,4年記録権頭,同年11月に秋田県参事になった。ついで5年島根・長崎両県の参事を歴任,8年検事に任官, 14年函館控訴院検事長,16年高等法院予審掛検事として福島事件を担当した。明治24年大蔵省参事官・預金局長を経て.26年3月千葉県知事に就任,29年8月まで在職して産業の振興などの事績をあげた。

 兵頭 正人 (ひょうどう まさひと)
 明治11年~昭和42年(1878~1967)出海村長・地方改良功労者。明治11年10月30日,喜多郡出海村(現長浜町)で旧里正の家に生まれた。 16年2月家督を相続,松山中学校に学び,34年12月から出海郵便局長になった。大正4年6月出海村長に就任,昭和2年まで12年間村政を担当した。その間,役場事務の処理,実業補習学校の振興と婦人会・青年会の指導誘掖,部落改善,農林水産業の改良発達,道路の改修,港湾の浚渫,消防組の組織化,村有基本財産の蓄積などに努めた。特に衛生面では火葬場の改善,井戸水の改良,村医の誘致などに事績をあげた。大正11年地方改良功労者として県知事表彰を受けた。昭和7年~18年にも再び村長に返り咲き,村の自力更生に尽くした。昭和42年1月24日,88歳で没した。

 兵頭 昌隆 (ひょうどう まさたか)
 嘉永5年~明治44年(1852~1911)初代川之石村長・県会議員・衆議院議員,宇和紡績会社創業者。嘉永5年2月30日,宇和島藩士竹村佐平の長男に生まれ,宇和郡川之石浦(現西宇和郡保内町)の郷士田中孫右衛門の養子に入り,のち資産家兵頭吉蔵の娘婿となった。明治18年3月川之石浦戸長,23年川之石村初代村長に選ばれて村政に尽した。かたわら,19年3月県会議員になり23年10月病気で辞任するまで在職した。党派は改進党に所属していたが,のち自由党に変わり明治27年9月の第4回衆議院議員選挙には同党から推されて第5区から立ち,清水隆徳を破って当選した。 31年の第5回衆議院議員選挙では清水静十郎に敗れて落選した。この間,川之石出身の実業家矢野貞興のすすめで20年12月養父吉蔵と共に四国初の紡績会社「宇和紡績」を創業して紡績業界の先覚者となった。晩年は東京に出て商業を営んだ。明治44年3月13日, 59歳で没した。昭和39年4月,川之石橋の東たもとに「兵頭昌隆翁顕彰碑」が建立された。

 兵頭 雅誉 (ひょうどう まさよ)
 安政2年~昭和2年(1855~1927)軍人。宇和島出身で明治10年陸軍士官学校を卒業。日清,日露戦争に従軍し,昇進して陸軍中将となる。東京砲兵工廠長などを歴任する。資性温厚で,晩年は伊達家の家令をつとめる。昭和2年4月,72歳で死去。

 兵頭 義高 (ひょうどう よしたか)
 明治39年~昭和61年(1906~1986)明治39年11月16日,喜多郡久米村高山(現大洲市)にて兵頭志計夫,マキノの長男として生まれる。大正15年愛媛県師範学校(二部)を卒業し,上須戒・大瀬・久米・菅田の各尋常高等小学校の訓導として勤務,昭和14年愛媛県師範学校の訓導となる。昭和17年愛媛県属兼愛媛県視学となり西宇和地方事務所勤務となる。同19年,愛媛県視学専任となり,愛媛県内政部社寺教学課に勤務。同21年,新谷国民学校長となり,続いて平野・久米・大洲の各小学校長となり昭和39年退職し約40年の教職を去る。同年大洲市教育委員会教育長となり,同44年,教育長を辞職する。その後藤樹会の会長として藤樹研究推進のために尽力する。8年間の大洲小学校長時代,中江藤樹邸址にあって藤樹精神の回帰に心血を注ぎ,「継承と展開」の教育目標を掲げ,その実践に身を挺した。義高の考えは「教育の混乱は継承の切断にある。教育とは祖人の業績である教育文化を承け継いで発展させる態度である。真の継承とは,吟味・検討・批判によって成り立つ」ということを常に述べて藤樹の学徳への遡上を呼びかけた。退職後,公民館長をつとめ学校と社会教育の深化にも力をつくす。また人権擁護委員としても10年近く貢献し,法務大臣感謝状を受ける。昭和37年には全国教育功労者として文部大臣表彰を受ける。昭和9年には久米青年団歌を作詩したり,久米の里歌の作詩をしたり,「中江藤樹と陽明学」等の論文も多い。昭和61年6月18日,79歳で死去。墓所は大洲市高山にある。

 平岡 房実 (ひらおか ふさざね)
 生没年不詳 浮穴郡荏原(現松山市恵原町)周辺を支配領域とした戦国期の領主。大和守の官途を有する。平岡氏は,応仁年間(1467~1469)ころから諸書に姿を見せはじめ,天文・永禄年間(1532~1570)の房実の時代に至って全盛時代を迎える。房実は,天文年間には,久米郡大熊城(温泉郡川内町則之内)を攻めた周敷郡の黒川氏を撃退したり,河野氏に叛いた久米郡岩伽羅城(温泉郡重信町志津川)の和田通興を討伐するなどの軍功をあげ,永禄年間には,越智郡来島城(現今治市波止浜)主村上通康とともに奉行人として河野氏の命を各氏に伝える役割をはたしている。房実が署判を加えた文書は,現在のところ二神文書,高野山上蔵院文書などに10通を数えることができる。 松山市恵原町の荏原城を本城とし,その南方の山中標高353mの地に戦時の際の山城大友城が所在する。荏原城は,南北約130m,東西約120mの方形をなす居館で,現在も大規模な堀と土塁が往時の姿を伝え,県指定史跡になっている。大友城跡は,現在は雑木に覆われているが,数段に削平された郭や空堀,土塁,石積の跡などを確認することができる。房実の跡は遠江守通倚が嗣ぎ,同じく河野氏の重臣として活躍した。

 平木  賢 (ひらぎ けん)
 明治37年~昭和54年(1904~1979)畜産功労者。明治37年9月25日父志摩次(種雄牛飼育者)の長男として越智郡岩城村に生まれる。大正15年3月麻布獣医畜産学校を卒業,温泉郡畜産組合技手として管内牛馬の改良増殖に従事するが,昭和4年9月から家畜保険組合併任職員として,家畜保健衛生業務に研鑽を重ねて昭和12年6月に愛媛県農林技手を拝命,温泉郡から北宇和郡さらに伊予郡に転勤駐在し,地域の畜産振興に卓抜な実績を残した。特に肉牛肥育の奨励に心酔し,その実績は勤務三地区が今日依然として本県の代表的肉牛産地の名声を誇っているのも氏の努力に負うところが多いと評価されている。戦後21年3月,愛媛県農業会北宇和支部畜産課長として赴任,畜産の復興に力を傾注するなか,牛馬の減少を中小家畜で代替すべく養豚・緬山羊の奨励指導に力を注いだので,養豚は県下の主産品にのし上がり緬山羊も困窮期の衣類の自給や栄養の補給に大きく貢献した。次いで26年7月県経済連畜産課長に,29年10月分離独立した県畜連参事となる。この間,有畜農業的な存在から農業経営の主要生産部門の地位をめざして,肉用牛では愛媛県原種々畜指定要綱による育種的優良系統牛の造成や和牛の産肉能力の向上,あるいは乳用雄子牛の肉用素牛化,また養鶏面では振興の基盤となる畜連の直営大型種鶏場,ふ卵場を建設するなど,中四国第二位の養鶏県への素地を作った。また肉畜流通組織の整備,農業団体における畜産部門の強化拡充,後継畜産技術者の育成,あるいは畜連と経済連の大同合併への尽力などその功績はまことに大なるものがある。なお停年退職後も県畜産会事務局長あるいは県獣医師会の常務理事,副会長などを勤め,畜産関連団体の発展融和に尽力したので,畜産功労者として知事表彰を受賞するほか,日本獣医師会長,日本緬羊協会長,日本ホルスタイン登録協会長,全国和牛登録協会長,中央畜産会長表彰など数多くの表彰を受けており,昭和45年には内閣総理大臣より黄綬褒章を授与され,昭和54年7月29日が永別の日となった。 74歳。

 平田 銕胤 (ひらた かねたね)
 寛政11年~明治13年(1799~1880)新谷藩士碧川某の子,明治維新期の国学者,鐡胤とも書く,初名篤実,通称内蔵介,大角,文政5年江戸の平田篤胤に入門し,同7年にその娘婿となって篤胤の学風の発展を助け,篤胤の死後は平田学派を率いて明治維新のときに活動し,神祇事務局判事,内国事務局判事,待講,大学大博士などを歴任した。専ら養父の学問の維持に努めて入門者をすべて篤胤没後の門人として取扱い,自ら学者として一家をなそうとはしなかった。性格謙譲で平田学を伝述したので,従学する者4,000人の多きに達した。明治13年10月25日没す。 81歳。正五位,墓所は東京浅草総泉寺にある。

 平田 陽一郎 (ひらた よういちろう)
 明治41年~昭和63年(1908~1988)実業家。愛媛新聞・南海放送社長として県内言論・マスコミ界の中心人物であった。明治41年11月1日,西宇和郡八幡浜町(現八幡浜市)で生まれた。松山中学校・松山高等学校を経て,昭和7年京都大学文学部哲学科を卒業した。京都日々新聞・大阪毎日新聞を経て,昭和18年5月愛媛合同新聞に入り,編集局長を務めた。昭和21年5月37歳で愛媛新聞社長に就任して以来,社屋復興,編集・紙面の近代化,22年12月には全国に先がけて「新聞週間」を実施するなど,新生愛媛新聞の発展と新聞の民主的役割・倫理の高揚を図った。昭和28年9月南海放送を開局して32年11月まで同社社長を兼ね,難関を乗り切って地域放送の基礎づくりをするなど,当時のマスコミ界をリードした。またスポーツ・文化の向上と各方面での県民運動の発展に貢献,愛媛新聞・南海放送主催のスポーツ・文化行事を展開したほか,県水泳連盟会長・県スポーツ振興審議会長などの要職を務め,県公安委員長として交通安全県民運動の先頭に立った。昭和38年1月の県知事選挙に,久松知事多選を阻止しようとする自民同志会・革新連合の県政刷新県民の会に擁立されて立候補,激しい選挙戦の結果,4,400票の僅差で惜敗した。これを機に,愛媛新聞社長・南海放送会長職を退いたが,昭和41年12月南海放送社長に返り咲き,54年まで在職してテレビ・ラジオのすぐれた報道・教養番組を編成放映して民放界に気を吐いた。その間,日本民間放送連盟理事として民放の経営体質改善に識見を発揮した。この多年の功績により,昭和47年藍綬褒章,53年勲二等瑞宝章を受章,61年には愛媛県功労賞と愛媛新聞賞を受けた。晩年には県文化振興財団理事長などの要職にあった。昭和63年10月10日,79歳で没した。

 平塚  健 (ひらつか たけし)
 明治2年~昭和18年(1869~1943)新谷村長・県会議員。明治2年2月17日,宇和郡野田村(現大洲市平野)の庄屋近田信載の次男に生まれた。東京専門学校(現早稲田大学)を卒業して,新谷村平塚義敬の養子に入り,喜多郡共立学校の教師になった。 36年7月新谷村長に就任,44年まで在任して新谷尋常高等小学校の改築や区有財産の統一,柳沢一新谷線の改修などを図った。40年郡会議員,明治44年~大正4年県会議員を歴任した後,6年新谷・喜多山村長を兼ねて両村の合併を進め,11年新谷村長として耕地整理,ついで用排水工事を推進した。昭和6年4月には白滝村長に就任,前後21年9か月村長として地方自治にたずさわった。昭和18年12月27日,74歳で没した。

 平塚 義敬 (ひらつか よしひろ)
 嘉永4年~明治24年(1851~1891)県会議員。三大事件建白運動で喜多郡総代人として活躍した。嘉永4年7月4日喜多郡新谷村上新谷(現大洲市)の庄屋の家に生まれた。同村の里正・戸長を若くして勤め,明治12年2月県会開設と共に議員になり,24年死去するまで議席を有した。県会では論客として関県政と対決,県下政治運動勃興の契機となった三大事件建白運動では喜多郡総代人として署名集めに奔走した。やがて有友正親らと改進党系傍讃倶楽部に参加し,その有力メンバーであったが,明治24年4月8日,39歳の若さで没した。

 平山 徳雄 (ひらやま のりお)
 明治21年~昭和49年(1888~1974)伊豫合同銀行頭取。明治21年1月13日,大分県で生まれ,大正4年京都大学法学部政経科を卒業した。同年4月,日本銀行に入り,小樽・岡山支店営業係主任,本店出納局調査役,同検査部検査役,金沢支店調査役,文書局調査役などを歴任して,昭和12年函館支店長,同14年参事になった。昭和15年松山の五十二銀行取締役頭取に迎えられ,翌16年9月五十二・豫州・今治商業の三銀行合併による伊豫合同銀行発足と共にその頭取に選任された。戦時下・戦後混乱期の金融統制の苦難を克服して伊豫銀行発展の基盤を整え,昭和23年9月経営陣再編成に際し退任した。 33年間銀行マンとして金融界の発展に尽くした功績で,昭和43年勲四等瑞宝章を受けた。昭和49年10月23日,86歳で没した。

 広川 九圃 (ひろかわ きゅうほ)
 文政3年~明治44年(1820~1911)俳人。文政3年7月7日,今治市桜井の酒造家広川初右衛門の子として生まれる。名は則邦,通称定四郎,別号六々園,未陀仏,阿古とも数多くの号をもつ。少年時代から俳諧をよくし,関西俳界36傑常選の俳人であり,和歌,詩賦もよくした。今治市桜井の綱敷天満宮境内に句碑がある。明治44年5月29日死去,90歳。

 広瀬 次郎 (ひろせ じろう)
 明治5年~昭和27年(1872~1952)養蚕研究家,中萩村長。東京深川の旧旗本河原徳玄の次男に生まれた。父は陶芸家として第1回万国博覧会に活躍し,後に京都博物館長を務めた。明治25年帝国大学農科大学を卒業,蚕体病理学を専攻した。 33年広瀬満正の長女の婿養子として迎えられ,34年郡立新居農学校の初代校長を務めた。 40年欧米の養蚕研究のため洋行した。帰国して42年東京高等蚕糸学校の教授を経て,44年農商務省蚕糸試験場技師となった。その後退官して,再度仏・伊など欧州諸国の養蚕の実況を視察研修して帰国,鹿児島原蚕種製造所長として蚕種の改良に尽くした。大正11年1月村民に懇請されて中萩村長となり,4年3か月在任して中萩小学校々舎新築に際し私財を投入してこれを一新,戸数割の半額を自らが負担するなど公共のために万金を惜しまなかった。村長辞任後,広瀬養蚕伝習所を中村に設置して自ら開発した広瀬養蚕法の普及に情熱を燃やし,広瀬産業会社・寿重工業会社を興して社長に任ずるなど実業面でも活躍した。昭和13年以来日本ローマ字会理事としてロ―マ字普及にも尽力した。 80歳で死去した。

 広瀬 満正 (ひろせ みつまさ)
 安政6年~昭和3年(1859~1928)実業家,貴族院多額納税者議員。安政6年12月28日,新居郡金子村(現新居浜市)で住友別子銅山支配人広瀬宰平の長男に生まれた。明治初年京都の仏語学校ついで東京の外国語学校に学ぶが,病いのため帰郷した。故郷では殖産興業に志し,金子村の家を中萩村に移し,付近の荒地十数町歩を開墾して茶園を作ったり,果樹園を開き柑橘を栽培した。また父宰平以来の土地山林を拡大して大地主となり,その所有地は新居郡一帯から宇摩・周桑に及び,明治30年時の「貴族院議員多額納税者互選名簿」によると地租・所得税1,765円を納める県下最高の多額納税者であった。明治20年代神戸に進出して製茶・樟脳などの輸出部を創設し,欧米諸国に自ら出向いて商売に努めた。やがて神戸貿易銀行頭取・貿易倉庫会社社長などにも就任した。明治44年9月貴族院多額納税者議員となり,大正7年9月まで在職した。この時の国税額は6千余円にのぼり,地租の外商工業の所得税・営業税も多く納めていた。晩年勲四等に叙せられ,昭和3年12月5日68歳で没した。本県養蚕業の発展に尽くした広瀬次郎は娘婿である。

 広田 天真 (ひろた てんしん)
 文久2年~大正13年(1862~1924)今治仏城寺(臨済宗)・西条保国寺(同)の住持。諱は慈教,俗名徳太郎,文久2年越智郡下弓削村の豪商の家に生まれた。6歳で仏城寺(現今治市四村)に入り,説道により得度,16歳のとき,東福寺儀山に従い,24歳で鎌倉円覚寺で洪川の教えを受けた。その後仏城寺に嗣席,明治23年(1890)西条保国寺に転住した。同43年円覚寺派管長,大正5年東福寺派管長と最高位を歴任。同12年病気のため退いて保田寺に静養,翌年遷化した。62歳。

 広橋 太助 (ひろはし たすけ)
 生年不詳~文政13年(~1830)松山藩代官。『松山叢談』によれば松山藩十一代目藩主松平定通の時,風早郡代官(文化13年就任)であり,同郡の山間部の村々は貧民が多く,本田の植付けも実施できない者もあった。また川成などのため耕作不能の土地も多かったから,間々堕胎などもあるという風聞があった。太助は郡内の富裕な者から銀を出させそれを元手にして利殖を行い,その利子で貧民の家に子供が生まれた場合1人1か年米1俵(3か年)を与えて救済した。そのため堕胎の風も納まったと伝えている。また文化13年風早郡の安居島は寛政年間までは住人もなく安芸の国能地から漁師がやってくる程度で決まった領主がなかった。これに目を付けた太助はこの島を下難波村の草刈り場と申し立て,次いでこの島に移住するものを募り,同14年の大内金左衛門らの開拓活動を援助した碑がある。このほか文政12年には大川・閏谷村などで地坪を実施して租税負担能力の均等化を図っている。同13年4月16日に没した。

 弘岡 道明 (ひろおか みちあき)
 明治15年~昭和15年(1882~1940)医師・軍医総監。明治15年9月19日喜多郡中村(現大洲市)で生まれた。松山中学校・第五高等学校(現熊本大学)から京都帝国大学医科大学を卒業した。陸軍に入り軍医学校教官を振り出しに陸軍省医務課長,近衛師団,朝鮮軍司令部の軍医部長を経て軍医総監に就任した。昭和9年軍医少将で退官,日本赤十字社救護院の養成部長を務めた。昭和15年9月17日57歳で没した。

 弘田 義定 (ひろた よしさだ)
 明治37年~昭和62年(1904~1987)歌人。明治37年6月26日宇和島に生まれる。宇和島商業(現宇和島東高)卒業後,南予時事一愛媛新聞と新聞界に身を置いた。短歌との出会いは大正11年,18歳のときで,最初の師は中井コツフであった。弘田は子規の流れをくむ伊藤左千夫,長塚節,島木赤彦,土屋文明らを敬愛したが,中でも文明の庶民的な叙情歌に心ひかれ,昭和26年アララギに入会する。近代短歌の革新を志した子規の唱えた写生,写実主義を歌作りの基本にした生活歌人でもある。同27年「愛媛アララギ」創刊以来,代表の座につき,愛媛歌人クラブ会長,松山歌人会会長をつとめた。同59年には「愛媛アララギ」は創刊以来388号を数え,会員数,活動ぶりは関西一といわれた。新聞社では論説委員長,営業局長,常務取締役などを歴任し,昭和59年文化庁地域文化功労賞,松山市民表彰を受ける。昭和62年6月20日,82歳で死去。

 廣瀬 宰平 (ひろせ さいへい)
 文政11年~大正3年(1828~1914)実業家。近江国(滋賀県)八夫村で文政11年5月5日生まれる。幼名は北脇駒之助。天保7年8歳のとき叔父北脇百緑(別子銅山支配人)に連れられて伊予国へ来,新居郡金子村(現新居浜市)の廣瀬家の養子となる。 11歳の時別子銅山の勘定場に奉公,慶応元年(1865)38歳の時,別子銅山支配人となる。 57年間にわたって住友家に仕え,別子銅山を近代化して,住友関係事業の発展に尽くし,住友初代総理事として大きな功績があったので「住友家中興の祖」とよばれている。明治7年,フランス人技師ラロックを招聘して,銅山の採掘・製錬の機械化を進めたのも彼であれば,別子鉄道を敷設したのも彼である。
 明治27年,66歳で住友総理事を引退し,新居郡中萩村に隠居した。その広大な私邸の庭園は開放されて人々の憩いの場となった。通称広瀬公園は,昭和45年,新居浜市の市有地となり,愛媛県の名勝にも指定されている。大正3年1月31日,没した。 85歳。

 尾藤 二洲 (びとう じしゅう)
 延享4年~文化10年(1747~1813)川之江出身の儒者。本名は孝肇。字は志尹。通称は良佐。二洲は号。流水子,約山,静寄軒等とも号した。延享4年10月8日生まれ,二洲は幼時足を骨折し一生足疾の身となったが,早くより学にいそしみ,川之江の医儒宇田川楊軒に徂徠学を学んだ。明和7年24歳で大坂の片山北海の混沌社に入塾,刻苦勉学した。同学の頼春水の影響もあって二洲は朱子学に転じ,共に研鑽した。安永元年大阪上町に私塾を開いて朱子学の普及浸透をはかるとともに,生計の資とした。寛政3年幕命により昌平黌教授となり,すでに就任していた柴野栗山,岡田寒泉とともに寛政の三博士と呼ばれた。寒泉が転出,古賀精里が赴任すると,後の三博士と呼ばれた。二洲は文化8年12月退任するまで20年間朱子学の中興に努力した。この間精里とのあいだに白楽天をめぐる論争を行ったが,評価については自説を譲らなかった。著書も多く『素餐録』をはじめ『中庸首章発蒙図解』『正学指掌』『静寄余筆』『冬読書余』『択書』等がある。文化10年12月4日66歳で江戸に没した。二洲の跡は三男の水竹が継いだ。