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愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行)

 法華津 孝治 (ほけつ こうじ)
 文久元年~昭和20年(1861~1945)実業家。森村組の南亜公司社長。吉田では村井保固,山下亀三郎,法華津孝治を財界三羽ガラスとよんでいる。 戦前南洋のゴム栽培会社「南亜公司」の社長。若いころから負けずぎらいであり,村井保固の手引きで貿易の森村組に山下と一緒に小僧にはいった。山下はまもなく退社し,独立していったが,孝治は森村の事業の一つゴム栽培の主宰者となり,村井の補佐に徹した。 70歳をすぎてからも,毎年1度は南洋へ出かけ,各地のゴム園を回っては指揮するというかくしゃくぶりで鳴らした。南洋協会長として日本の南方政策にもたびたび献策もするし,功績を残した。息子(長男)は外交官から極洋捕鯨社長になった法華津孝太である。父子二代,海の男として有名。昭和20年6月23日,84歳で死去。

 法華津 孝太 (ほけつ こうた)
 明治36年~昭和63年(1903~1988)外交官,実業家。父孝治の出身地は北宇和郡吉田町であるが,孝太は明治36年7月30日東京の神田で生まれ,芝で育った。東京帝国大学法学部在学中の昭和2年,外交官試験に合格し,アメリカプリンストン大学大学院に官費留学する。その後,アメリカ大使館外交官補を振り出しに中国,満州,本省勤務を経て,ジュネーブの国連事務局,ドイツなど在外公館を歴任する。その間,国際連盟リットン調査団の満州事変調査では日本側の調査員として活躍したり,昭和15年の日独同盟の締結にあたっては,大島大使のもとで経済部門を担当する。その後,企画院書記官や内閣参事官,情報局部長を務める。戦後昭和23年調査局長を最後に外務省を退き,先輩の吉田茂のすすめで極洋捕鯨に専務として入社し,同29年社長,同41年会長,同53年からは相談役となる。法華津の人生は,前半は外交官として,後半は極洋捕鯨の社長として水産日本を再興する二つの人生を歩んだ。古田茂に愛されて追放をまぬれたり,講和条約前の昭和27年に北洋母船式捕鯨事業を開始するなどして同社を一流の捕鯨会社に仕上げるなど波乱にとむ人生を送った。更に水産業界を去ってからは第三の人生として山階鳥類研究所の専務理事をつとめ公益事業につくすことも忘れなかった。昭和63年8月6日,85歳で死去。

 法華津 前延 (ほけつ さきのぶ)
 生没年不詳 戦国期宇和郡の武将。清原姓のち清家氏,法華津(現吉田町法花津)に本城を置いたため法華津殿と呼ばれた。通称彌八郎,右衛門佐を称す。法華津殿は代々宇和の西園寺氏旗下にあり,永長郷・立間郷・来村郷の内で16か村浦(現在の吉田町・宇和島市)を支配し,7か所の城を持つ領主である。水軍を主体とし,土佐の幡多や豊後ともかかわりを持った一族である。前延は,父播磨守範延を継いで最後の法華津殿となった。天正6年(1578)法華津浦の山王宮の再建,天正14年には九州征伐への出動命令を受けた資料が残っている
 『清良記』他には,同時代に法華津清家三郎秋延の名が見える。前延と同一人物とも思われ(別人説あり)以下に別記する。秋延は天文13年(1544)範延の子として生まれ,慶長7年(1602)没している。永禄9年(1566)出目川の合戦等,土佐一条氏,豊後大友氏,土佐長宗我部氏の侵寇に対して各地を転戦している。また天正年間(1573~1592)には,毛利輝元の出兵要請をうけ安芸にも出兵した。天正13年(1585)秀吉の四国征伐がおこなわれ,西園寺氏とともに降伏。新領主の小早川隆景は,西園寺・土居・法華津・勧修寺のみに在城を許し,その他西園寺旗下の小領主に下城を命じた。天正15年領主は戸田勝隆にかわり,上記4氏にも下城が求められた。『清良記』によると,この時法華津秋延ば舟で筑紫に退いたという。『吉田古記』には,法華津前延ば日向国に落ちのびたと記す。

 穂坂 太郎左衛門 (ほさか たろうざえもん)
 生没年不詳松山藩奉行。寛保元年に浮穴郡有枝村をはじめ14か村の農民たちは,貢租の減額を嘆願しようとしたが代官関助太夫の説得によりいったんは帰山した。その後,奉行穂坂太郎左衛門らは久万山に赴いて説得につとめた。しかしそれも及ばず大洲藩へ逃散するに至った。有名な久万山農民騒動である。その責任者として,出仕差留の処分を受け,更に風早郡二神島へ配流された。この背景には五代藩主松平定英,六代藩主定喬時代の政権変動の犠牲となったものと考えられる。奥平貞継や久松貞景と,奥平貞国,穂坂太郎左衛門たちの政権争いといえる。貞国(久平衛)は生名島で殺害される。

 穂積 重磨 (ほずみ しげまろ)
 安永3年~天保8年(1774~1837)宇和島藩士。家禄229石余の鉄砲頭。通称源兵衛。家祖初代鈴木源兵衛は,伊達政宗の臣,伊達秀宗の付人として宇和島に来住。鈴木家第六代増在の子,本姓穂積を名乗る。人と為り気慨に富み,藩士の多くが,漢学を学修し,皇朝の学即ち国学を修むる者がいないのを遺憾とし,率先この学を究め,藩中にその基を開こうとして,本居太平に入門し,刻苦勉励して国学を学びその著作・詠歌などを送って教えを乞うた。彼の著作には,『言語之重称木栄(ことといのいかしゃくくはえ)』56冊・『神楽歌考後釈』6冊・『書紀歌八重塩土(しょきのうたやえのしおつち)』2冊・『ちぶりの日記』・『三大考論書』・『神かねの日記』など国学関係の書10種がある。本居太平が命名した彼の歌集『桜垣内家集』は万葉集の古体を尊び,近世振りを排しているといわれている。彼は極めて健筆で,『三楠実録』・『楠正行戦功記』・『赤穂精義内侍所』など忠臣義士の書,『先代萩』・『忠婢サツ之伝』などの貞女節婦の書数10部を著した。特に女子の読み物には,いちいち振り仮名を付け,その仮名で書いた部分には其側に漢字を付けるなど注意周到,親切丁寧な書き振りであった。彼の子重樹も国学者で維新後宇和島藩校の皇学教授となり,彼の孫穂積陳重・八束の兄弟は,いずれも明治期の法学者として有名である。天保8年63歳で死没し,選仏寺に墓がある。

 穂積 重遠 (ほずみ しげとお)
 明治16年~昭和26年(1883~1951)民法学者で家庭法の権威。明治16年4月11日,東京深川に生まれる。父は穂積陳重(法学者)。明治41年東京帝国大学法科卒業。卒業後東大講師,同43年助教授。大正元年,ドイツ・フランス・イギリス等に約5年間留学。帰国して大正9年教授となり,民法講座・法理学講座を担当。法の社会的作用に着目し,民法の分野で身分法研究に業績を示し,多くの影響を与えた。また,法律の民衆化,社会化についての功績も大きく,早くから法文・判決文の口語化を提唱した。昭和18年に退職。貴族院議員,最高裁判所判事をつとめた。『相続法』『法学通論』『新民法読本』など著書多数。同26年7月26日死去,68歳。

 穂積 陳重 (ほずみ のぶしげ)
 安政2年~大正15年(1855~1926)我が国法学界のパイオニア。貴族院議員。安政2年7月11日,宇和島中ノ町(現京町)で,藩士で国学者穂積重樹の次男に生まれた。幼名邑次郎。憲法学者穂積八束は弟である。藩校明倫館に学び,明治3年15歳のとき藩の貢進生に選ばれて上京,大学南校に入学,開成学校に進み法律学を専攻した。9年文部省の海外留学生として英独両国に留学し法律を学ぶこと5年,明治14年6月帰国すると東京大学法科大学講師,翌15年教授兼法学部長に任ぜられ,以来学生を指導すること30年に及び,東京大学法学部の基礎を確立した。 21年33歳のとき我が国最初の法学博士の学位を受け,23年貴族院議員に勅選された。 24年大津事件には犯人死刑論の非を論じ,同郷の大審院長児島惟謙を励ました。 26年法典調査会主査となり,民法・戸籍法などを編さん,明治民法生みの親といわれた。同年東京帝国大学法科大学長に推され,45年教職を辞して帝国学士院院長に推された。大正4年功績により男爵を授けられ,天皇の諮問機関枢密院の顧問官・議長にあげられた。大正15年4月7日,70歳で没した。著書に『隠居論』『法律進化論』『法窓夜話』など多数。愛郷心にあつく,宇和島の市政から教育・文化全般にわたって鞭達,また後輩の面倒をよく見たので,郷里の人々の敬慕の的であった。胸像の建立を申し出たところ「胸像となって同郷の万人に仰ぎ見られるよりは橋となって公衆に履んで渡らるゝを以って無上の光栄である」と述べて辞退,辰野川の新開橋架け替えのときこれを特に「穂積橋」と名付けられたエピソードはよく知られている。民法学者で家庭法の権威穂積重遠は長男である。

 穂積 八束 (ほずみ やつか)
 安政7年~大正元年(1860~1912)憲法学者・明治法学界の重鎮,貴族院議員。安政7年2月28日,宇和島中ノ町(現京町)の藩屋敷で藩士・国学者穂積重樹の三男に生まれた。幼名茂三郎。穂積陳重は兄である。明治6年上京して共立学校に入り,ついで外国語学校・大学予備門を経て明治16年東京大学文学部政治学科を卒業した。 17年ドイツに留学,ベルリン大学などで公法学を学んだ。21年帰国して東京帝国大学教授になり,憲法講座を担当すること20余年に及んだ。この間,法学博士の学位を受け,法制局参事官・枢密院書記官・法典調査会査定委員などを歴任した。明治22年フランス民法を模範としたボアソナード民法が示されると「民法出デテ忠孝亡ブ」の論文を発表して梅田謙次郎ら施行断行派と民法典論争を展開した。明治32年貴族院議員に勅選され,また宮中顧問官となった。大正元年10月5日,52歳で没した。終始一貫君主制絶対主義を持し,民権論者の攻撃を受けたが,自説を譲るところがなかった。著書に『憲法大意』『行政法大意』『愛国心』などがある。

 宝生 弥一 (ほうしょう やいち)
 明治41年~昭和60年(1908~1985)能楽師。本名弥一郎。松山出身の能楽ワキ方として戦後第一級の人である。父光本敬一も同じ下掛宝生流の職分であった。明治41年7月2日松山に生まれ,大正7年11才で父に連れられて上京し,同流十代家元宝生新に入門し,翌年初舞台を踏んだ。しかし大正12年関東大震災に逢って帰松し,北予中学校に入り更に松山高等商業学校に進学したが,学業半ば再び東京へ呼ばれ法政大学商科専門部に入り,師の下で芸事研鑽を積みつつ卒業した。昭和8年師宝生新の二女と結婚し,昭和12年芸事継承の為入籍して宝生姓を名乗り,昭和19年宝生新が没してより家元後見として流儀を統率した。戦後は能楽協会の役員としても活躍し,又能の海外公演にも嚆矢となり,数々のワキ方秘伝の舞台を勤めている。その品格高い重厚な芸風は,芸術院賞を初め多くの賞を受けると共に数度の叙勲を受け,昭和56年には遂に重要無形文化財(人間国宝)の指定を受け,昭和59年には芸術院会員となった。度々帰松して後継者宝生閑と共に至芸を披露して郷土人の期待に報いたが,惜しくも昭和60年3月11日,76歳で没した。墓所は東京日暮里の善性寺にある。

 蓬莱山人 帰橋 (ほうらいさんじん ききょう)
 生没年不詳 安永・天明年間の狂歌師・戯作者。狂号を大の純金魚蓬莱帰橋,浮世偏歴斎,道郎苦先生などと号した。伊予三島の出身で,上野高崎藩主松平(大河内)氏の家臣であった越智通秀か通祝であろうと推測されている。江戸深川の蓬莱橋の近くに居住した。洒落本では大田南畝(蜀山人),清水燕十,田螺金魚らと共に,当時の第一人者山東京伝に次ぐ地位を占めていた。洒落本・黄表紙の代表的な著作として,『竜虎問答』・『遊婦里会談』・『富賀川拝見』など深川を背景にしたものが多い。その他草双紙等にも優れたものが多く。『抛入狂歌園』『更紗便覧』『九蓮品定(くれんのしなさだめ)』を残し多芸さがわかる。

 星加 宗一 (ほしか そういち)
 明治34年~昭和50年(1901~1975)教育者。明治34年5月24日,新居浜市久保田に生まれる。大正14年,松山高等学校から東北帝国大学法文学部を卒業する。とくに山田孝雄に師事して連歌を学ぶ。大学を出てからは,連歌研究家として活躍し,山田孝雄と共著の『連歌法式綱要』や『校本竹林抄』を出版する。昭和20年満州へ渡り,建国大学の教授となる。戦後,郷里へ引揚げ,県内の高校校長を務める。また愛媛大学や山陽女子短期大学にも勤め,かたわら郷土愛媛の俳諧の研究に没頭し,埋もれた県下の俳人を発掘紹介する。昭和50年9月9日74歳で死去。著書には『入野の俳人関トとその子時風』『伊予の俳諧』『俳人霽月一転和吟-』『芭蕉連句評釈』等数ある。愛媛新聞賞も受賞している。

 星加 勇蔵 (ほしか ゆうぞう)
 天保12年~明治40年(1841~1907)菓子商。西条銘菓「ゆべし」の創始者。勇蔵は新居郡大町村(現西条市大町)の佐伯家分家の長男として生まれる。 20歳のとき「波満屋」というかまぼこ製造業・星加家の養子となる。慶応3年佐伯家本家に伝わる餅菓子「丸ゆべし」を藩主松平左京太夫に献上,これより星加勇蔵の「丸ゆべし」製造がはじまると言われる。彼は製法を町の菓子商にも教え,「丸ゆべし」を西条銘菓にまでもっていった。また明治38年ころ,パン製造にも手をだしたが,失敗した。当時,菓子品評会出品のためにデザインされた深紅色に金文字の「ゆべし」のレッテルは昭和40年代に全国包装美術展で優秀百品のひとつとして選ばれている。明治40年2月26日, 66歳で死去した。

 星名 謙一郎 (ほしな けんいちろう)
 慶応2年~大正15年(1866~1926)海外移住者。ハワイ・ブラジル等で活躍。慶応2年10月10日,現北宇和郡吉田町に,幸旦の長男として生まれる。明治20年東京英和学校(現青山学院)予備学部卒業。一時上海に滞在,明治24年にはハワイに在住,キリスト教牧師の伝道助手,同27年には「布畦新聞」の発行に従事したりしていた。同34年末光ヒサと結婚,同36年にはハワイを去り,米国テキサス州ヒューストンに渡った。同37年,同地方において愛媛県人大西理平,高知県人西原清東(同志社社長)等が大規模に経営していた米作に従事したが,失敗して一年で中止した。その後,ブラジルに渡り,大正4年にはサンパウロに在住,翌5年にはサンターナにおいて新聞「週間南米」を創刊。2年ほどで廃刊したがブラジル最初の邦字新聞として大きな意義をもつものである。また,植民地創設にも努力し,同6年には,ソロカバナ沿線では最初のブレジョン植民地とバイベン(梅弁)植民地を創設した。ブレジョン植民地には,同8年に50家族が入植,第一小学校が開校されるなど発展した低同15年12月13日アルバレス・マッシャード駅頭において射殺され,波乱に満ちた移住先駆者としての生涯を終え同地の墓に葬られた。 60歳。遺髪は京都の等持院に納めてある。長男の秦は同志社学長を勤めた。

 星野 立子 (ほしの たつこ)
 明治36年~昭和59年(1903~1984)俳人。明治36年11月15日,高浜虚子の次女として東京で生まれる。東京女子大学の高等部を卒業する。昭和5年俳誌「玉藻」を創刊する。はじめは俳句の手ほどきを父からうけて熱心に句作にいそしんだが,家事に追われ遠ざかっていたのを父のすすめで出したものである。女流俳人としては中村汀女とともに双璧と称せられる。同45年,脳血栓で倒れ,俳誌の主宰を妹の高木晴子にまかせたが,病床にあっても句稿には目を通す毎日であった。本県にもたびたび来県して,俳句の指導にあたる。素朴な感受性で柔軟なリズムに載せて詠う花島諷詠が特色であった。句集には『立子句集』『春雷』などがあり,隨筆には『玉藻俳話』ほか多数ある。昭和59年11月15日,81歳で死去。

 星野  通 (ほしの とおる)
 明治33年~昭和51年(1900~1976)法学者・松山商科・大学学長。明治33年10月1日,伊予郡郡中町難町(現伊予市)で神官星野章太郎の長男に生まれた。松山中学校・松山高等学校を経て大正14年東京帝国大学法学部独法科を卒業した。同年松山高等商業学校教授に就任,松山経済専門学校教授・松山商科大学教授として法学教育を続け,明治民法史の大著『明治民法編纂史研究』で昭和23年法学博士の学位を得た。 32年2月伊藤秀夫学長病気辞任の後学長職務代理となり,4月二代目学長に就任,38年12月辞職するまで6年余在任して大学キャンパスの拡充,図書館の建設,地域経済研究所の充実と中小企業研究所の設立,昭和37年には従来の商経学部の単科大学を改組して経済学部・経営学部の複合大学に発展させるなどの事績をあげた。愛媛新聞賞・県功労賞を受賞,切手収集家としても有名であった。昭和51年2月10日,75歳で没した。

 星野 久樹 (ほしの ひさき)
 文化9年~明治4年(1812~1871)松山藩士。通称は次郎左衛門,号は翠斉,星の舎という。松山の石井義郷,江戸の海野遊翁に学び,国学,歌道に通じた。かたわら画もたしなみ,多趣味の文雅人であった。ことに歌は軽妙で,石井義郷,西村清臣とともに幕末松山地方の三歌人といわれた。明治4年1月死去,59歳。松山市中の川蓮福寺に墓がある。

 細井 平洲 (ほそい へいしゅう)
 享保13年~享和元年(1728~1801)江戸中期の儒学者。名は徳民,字は世馨,通称は甚三郎。尾張国知多郡平島村の豪農の生まれ。生まれた村にちなんで平洲と号し,また近くの山により如来山人とも称した。京都や長崎に遊学してのち24歳の時,江戸に出て塾を開いた。諸藩主より招へいされることも多く,まず宝暦10年西条藩主松平頼淳に招かれ,同11年8月8日5人扶持を給されることになった。明和3年には10人扶持,安永4年には15人扶持と加増を受け,西条藩邸で藩士に講義した。門人のうちには上田善渕・大久保音右衛門・林忠助などがいる。平洲は米沢藩の上杉治憲に招かれて明和8年・安永5年・寛政8年の3度にわたって米沢を訪れている。彼は治憲の要望により藩校興譲館設立や藩政改革にも関与した。安永9年には尾張藩に招かれて侍読となり300石を給され,天明3年には藩校明倫堂督学兼継述館総裁となった。尾張藩が平洲を召し抱えたため,それまで西条藩から与えられていた扶持は束修と名を変えて支給された。享和元年6月29日(7月2日届出)73歳で没し,浅草の天岳院に葬られた。

 細川  一 (ほそかわ はじめ)
 明治34年~昭和45年(1901~1970)医師。水俣病を究明した。明治34年9月23日,西宇和郡三瓶村津布理(現三瓶町)で生まれ,昭和12年喜多郡大洲町(現大洲市)細川家の養子になった。宇和島中学校・佐賀高等学校を経て東京帝国大学医学部を卒業した。 11年日本窒素肥料会社に入社,同社の阿妻地工場付属病院長を経て熊本水俣工場付属病院長になり,31年水俣病の原因を追求,ネコによる実験の結果工場排水中のメチール水銀であることをつきとめた。その間,会社側の実験停止命令にもかかわらず人命尊重の立場から研究を続けたが,37年に会社を去り大洲市に帰った。45年肺ガンで東京の病院に入院中,水俣病裁判の臨床尋問で証言を行い,実験結果を克明に記入した「細川ノート」を提出した。昭和45年10月13日,69歳で没した。

 細川 頼春 (ほそかわ よりはる)
 嘉元2年?~文和元年(1304?~1352)南北朝時代の武将。源九郎。父は細川公頼。元弘の乱以来,足利尊氏の側近として活躍。建武政権下では蔵人,のち刑部大輔・讃岐守。建武3年(1336)以来,各地を転戦。やがて阿波・備後両国守護となり,一時は伊予国守護も兼ねていた。
 康永元年(1342)4月,南朝勢力挽回を企てて伊予に下向してきた脇屋義助が,翌5月病死すると,この機に乗じて伊予に攻め込み,河江城(現川之江市仏殿城,土肥氏が守っていたという)を攻め,次いで千町ケ原(千丈原とも。周桑平野内,詳細な位置は不明)に金谷経氏ら南軍と戦って大勝した。9月には世田山城(現東予市)を攻略して南朝の伊予守護大館氏明を討ち取った。(太平記) 観応の擾乱(1350)では,終始尊氏方として直義方と戦い,その功によって侍所頭人・引付頭人を兼ねたが,文和元年閏2月,洛中に突入した北畠顕能・楠木正儀ら南軍を迎え撃って討ち死した。

 細川 頼之 (ほそかわ よりゆき)
 元徳元年~明徳3年(1329~1392)南北朝時代の武将。幕府管領。弥九郎。右馬助・右馬頭・武蔵守の官途を有する。父は細川頼春。
 尊氏党として戦い,文和元年(1352)討死した頼春の跡を継いで阿波守護となる。文和3年伊予守護を兼ねた。貞治3年(1364),河野通盛が頼之の細川清氏討伐に協力しなかったことを口実に,大軍を率いて伊予に侵入,通盛の跡を継いだ通朝を世田山城(現東予市)に攻め,これを陥れて通朝を自害させた。このころ頼之は,四国全域,4か国守護を兼帯しており,「四国管領」といわれている。貞治6年管領となり,幼少の将軍義満を補佐した。しかし,しだいに諸将より反発を招き,康暦元年(1379)失脚して分国讃岐へ下った。反頼之派で構成された幕府が備後守護山名時義と河野通直(通尭ともいう。通朝の子)に頼之討伐を命じたのを知り,山名軍到着前に伊予に侵入,桑村郡吉岡の佐志久原で河野軍と戦い,これを破って通直を自害させた。その後,幕府の斡旋により,河野氏と和睦し,河野氏の伊予守護職を承認する代わりに,新居・宇摩二郡の支配権を認めさせ,弟満之を分郡守護としたようである。またそのころ,義満に許され幕府に復帰して重きをなした。

 程野 茂三郎 (ほどの しげさぶろう)
 天保9年~明治44年(1838~1911)蚕糸業功労者。天保9年11月14日喜多郡大洲町に生まれ,蚕糸業発展の功労者である。明治21年製糸の先進県山梨に,製糸伝習のため子女4名を送るなど,伊予糸の品質の向上と生産を高めるために活躍,なお企業資金の融通を図るため「大洲商業銀行」の設立を企画し,浅田千吉ら10名の創立委員により,資本金20万円,(後増資して60万円)を以って,設立した。製糸業を盛んにすると共に,養蚕の質を高めることに努力,町内の塵埃を集め桑園の肥沃を図り,良質の給桑を豊かにするなど,家族よく協力し合って模範的な養蚕を行った。後に,蚕糸業発展の功労者として知事表彰を受けた。明治44年11月11日,72歳で死没した。法華寺に葬られている。
 大洲城山に,蚕糸業功労者表彰碑が建てられ,程野茂三郎・河野喜太郎・下井小太郎の三功労者が記されている。
 大正10年2月,蚕糸業の最盛期に,喜多郡長,親泊朝輝が発起人となり,程野茂三郎・河野喜太郎・下井小太郎の3名を蚕糸業功労者として顕彰する碑を大洲本町1丁目の郡役所前に建立し,後,昭和37年11月市街の区画整備のため,現在の城山中腹に,形も改めて移転し,後世永く蚕糸業の功労を伝えている。

 程野 宗兵衛 (ほどの そうべえ)
 生没年不詳 蚕糸業功労者。程野茂三郎の舎弟で,明治23年,河野喜太郎と共同して,本町3丁目に製糸工場を設立した。その設備は32釜,木鉄混合ケンネル式機械製糸場で,県下で最も進んだ近代施設で業界の先端を行った。同25年河野喜太郎と分かれて,共撚式工場程野舘を設立し兄茂三郎と同族会社を役立した。製糸技術の向上のため,河野喜太郎・程野宗兵衛は4名の子女を山梨県の製糸工場に派遣して,先進地の技術を習得させると共に,工場主自らも伝習に当たった。このようにして,大洲地方の製糸業は明治中期以降急速に進展し,他地方から多くの繭が運び込まれ,製糸の中心的地位を占めるまでになった。明治44年5月蚕業功労者として伊沢多喜男知事から表彰された。明治32年,生繭取引の公正価格を維持するため,河野喜太郎の提唱によって,程野宗兵衛,河野駒治郎,今岡梅太郎らと「大洲繭売買所」の開設に努力した。

 堀  主水 (ほり もんど)
 生年不詳~寛永20年(~1643)松山藩加藤嘉明の家老。主君嘉明が松山から会津若松に移り住んで3,000石を給された。二代明成となって主従の間が不和となり,これが原因で寛永20年会津42万石が没収された。これについては主水との間につぎのような話がある。明成には世の非難を受ける言動が多く老臣堀主水は常々直諌したため,明成怒って主水の職を奪い之を追放した。主水はこれを恨み弟の多賀井又八郎ら一族300余人を引きつれて会津城下を出て,中野という所で鉄砲を発ち,川の橋を焼いて退去した。明成は討手を差し向けたが討ち洩らした。主水は鎌倉に忍んでいたが討手がかかったので高野山に逃れた。高野山では明成の申し出に対し,山には来ておらぬと答えたため,明成いよいよ怒り,己の所領に換えても主水一族を追討せんことを訴え,軍兵を高野山に向けようとした。主水はたまりかねて紀州家の所領に隠れた。明成は紀州侯に訴え,討手を差し向けようとし,主水はいたし方なく江戸に出て,老中に書面を奉って自らに罪なきよしを申し出た。遂に上裁を受け「主水の申し条理あれど,主の国を出るとき鉄砲を発し火を放って橋を焼くなど君臣の礼を失い国家の法を紊る罪は許せぬ」とし明成の請う如く兄弟3人を明成に引き渡した。明成大いに悦びこれを芝浦の別邸で斬罪に処した上,「我が身多病にて国務に堪えず,封地悉く返上し奉る」と幕府に申し出て遁世した。以上のようなことが『大猷院殿御実紀巻53』にみえる。

 堀内 清士 (ほりうち きよし)
 天保8年~明治13年(1837~1880)篤農家。清士は大洲平野の素封家近田家から堀内家へ養子として入った。堀内家は宇和町田野中の元庄屋で,堀内家は,西園寺の上甲七騎に加わって,熊野から移住してきた後裔になる。清士は明敏な人で深慮果断の人であった。岩瀬川流域の水田が毎年枯渇して農民が窮乏している姿をみて溜池をつくることを計画し,同志とはかり,いまの松陰池の地にくいを打ち込んだのは明治10年であった。妻子にもくわを持たせ,多大の苦労をして,わずか3年で完成した。清士の家を現代様式のかわらぶきに新築した矢先,火災に遭い新しい家屋を全焼してしまった。その後酒造業に転じ,その利益も松蔭池の工事にあてた。このように公共事業に尽くし,明治13年43歳で死去。

 堀内 新三 (ほりうち しんぞう)
 嘉永5年~大正11年(1852~1922)興居島村長・地方改良功労者。嘉永5年2月8日,温泉郡興居島村で生まれ,国学者・歌人として知られる庄屋堀内匡平の養子になった。幼くして小松藩儒近藤吉山につき漢学を修めた。明治23年1月町村制施行と共に興居島村長に就任した。以来任期を重ねて大正年間まで30有余年間村政を担当した。その間,漁法漁具の改良,畜牛の増殖,桃の栽培など地場産業の振興を図り,教育・衛生の発達に尽力,勤倹・風俗矯正や貧民救済など慈善事業に意を用いた徳望家であった。明治42年6月第1回地方改良者として県知事表彰を受けた。大正11年5月70歳で没した。

 堀内 胖治郎 (ほりうち はんじろう)
 明治9年~昭和11年(1876~1936)実業家,県会議員。明治9年3月21日,松山萱町3丁目の商家に生まれた。少壮から実業を志し,政界でも活躍した。明治35~昭和13年松山市会議員に長期間在職し,その間,明治
38~39年と昭和5~9年副議長を務めた。大正4年9月~8年9月と昭和7年10月~10年9月県会議員に在職した。実業面では松山瓦斯会社などの取締役を歴任,松山商工会議所副会頭・松山商工会会長などに推された。昭和11年8月21日,60歳で没した。

 堀内 匡平 (ほりうち まさひら)
 文政7年~明治16年(1824~1883)勤皇家,歌人。興居島村門田(現松山市)の庄屋堀内昌郷の長男として生まれ,幼名亀之助・清太郎,のち寛左衛門と称す。桑崖・四十八崖,後の松蔭などと号した。幼時は父に国学を学び,後藤井高尚に師事して勤王への志を強くし,安政6年(1859)京都に出て矢野玄道,三輪田元綱,近藤芳樹らと交り王事に奔走した。元治元年(1864)松山藩政改革の建白書を貼った科で禁牢され,「良夜不見月」の一文を草す。同3年禁を解かれ上京し,藩と朝廷との融和に尽した。維新後は権大講義,愛媛県管内神道教導取締に任命されたが,健康の理由でこれを辞し,子弟の教育に当った。明治16年1月10日,59歳で没した。景浦直孝著『堀内匡平伝』がある。

 堀内 昌郷 (ほりうち まささと)
 寛政3年~弘化3年(1791~1846)国学者,歌人。幼名猶蔵。のち五兵衛。松蔭,三稜と号す。興居島門田(松山市)の庄屋の家に生まれ,父長郷に国学を学び,石井義郷に和歌を学ぶ。また藤井高尚の門に入り,源氏物語を研究する。天保11年『葵の二葉』18巻19冊を著し,ついで『底の玉藻』10巻を著した。前者は源氏物語の人物論,後者は準拠論である。その子の匡平が天保14年9月,この二著を簡略に要約して出版したのが『源氏物語ひも鏡』である。歌集には『堀内三稜翁詠草』『花のしがらみ』がある。昌郷はまだ源氏物語研究に仕残したことがあると語っていたが(烏谷美教『源注遺言』),弘化3年1月15日55歳病没した。子の匡平も父の志を継ぎ,国学和歌を学び,維新の国事に奔走した。

 堀沢 周安 (ほりざわ しゅうあん)
 明治2年~昭和16年(1869~1941)教育者。明治2年1月8日,愛知県丹羽郡善師野村(現犬山市)に生まれる。犬山の第一番高等小学校卒業後,小学校の教員となる。明治24年,東京に出て, 4年間在京するが,その間に上田万年らに師事して国文学を勉強し,東京国語伝習所を卒業する。長野県や香川県の女学校,中学校,師範学校の教諭を経て,明治38年,大洲中学校に赴任し,大正2年まで在職した。明快な授業で威厳があり,生徒の信頼,尊敬のまとであったという。その後,北海道,香川県の公私立中等学校長を歴任するが,作詩家としても知られ,大洲時代には「田舎の四季」「奈良」をつくったり,大洲中学校歌など,校歌,歴史,記念歌,唱歌など135の作詞をする。著書には歌集『旅硯』などがある。昭和16年4月14日72歳で死去。大洲市冨土山に「田舎の四季」の碑がある。

 堀部 彦次郎 (ほりべ ひこじろう)
 万延元年~昭和5年(1860~1930)県会議員・衆議院議員。実業家として南予地方の運輸・産業開発の中心人物であった。万延元年3月18日,宇和郡宮下村(現宇和島市)の庄屋で醤油業を営む堀部行篤の次男に生まれた。明治9年南予変則中学校(現宇和島東高校)に学び,13年豊前中津中学校に転学,その後大阪・東京に遊学した。 19年26歳で県会議員に当選,改進党系の新鋭として活躍したが,やがて自由党に転じ明治25年2月第2回衆議院議員選挙第6区で末広重恭を破って当選した。しかし1期限りで政界から退き,31年1月宇和島運輸会社の社長に就任,以後死去するまで30余年間その任にあり,大阪商船会社の圧迫にも対抗して南予海運界を支配した。大正4年には宇和島鉄道会社の社長となり,12年宇和島一近永間の軽便鉄道を吉野生まで延長した。8年宇和島自動車会社の創立に参与,13年宇和島銀行頭取となり,その他宇和島土地会社などの社長を兼ね,宇和島商工会(現宇和島商工会議所)が結成されるとその初代会長に推された。宇和島地方実業界のあらゆる方面に関係して指導力を発揮,「社長さんといえば堀部のこと」と言われるほどの実力者であった。昭和5年8月30日,70歳で没し,宇和島西江寺に葬られた。

 堀本 宜実 (ほりもと よしざね)
 明治33年~昭和53年(1900~1978)立岩村長・北条町長・県会議員・参議院議員。明治33年3月15日,越智郡玉川村(現玉川町)の阿部家に生まれた。大正7年麻布獣医畜産専門学校(現麻布獣医大学)を卒業,立岩村の技術員・獣医師として働くうち堀本家の養子になった。昭和5年9月~13年1月立岩村村長,14年7月~15年12月北条町町長を務めて,村政ついで町政の発展を担った。昭和6年9月には県会議員になり民政党に所属して以後3期連続して当選,21年12月まで在職,倉敷紡績北条工場の誘致などに尽力した。この間,17年には県会副議長に選ばれ,県家畜商組合長,獣医師会長や県農業会副会長などを歴任した。また15年12月大政翼賛会県支部が結成されるとその庶務部長に就任ついで事務局長として戦時下翼賛運動の中心として活動した。このため戦後公職追放され,26年解除後自由党県支部の再建に奔走,県議会議員を説得して一本化した功績で支部幹事長になり,政界に復帰した。 28年4月の第3回参議院議員選挙に愛媛地方区から自由党公認で出馬したが革新の湯山勇に敗れた。 31年7月の第4回参議院議員選挙で社会党の三橋八次郎を破り当選,37年7月と43年7月の選挙で再選され,3期18年間国会議員であった。この間,参議院農林水産委員長,参院自民党政策審議会農林水産部長,自民党県支部会長などを歴任,全国農業会議所・県農業会議・県畜産農業協同組合の会長や日本獣医師会の顧問などに就任した。軽妙洒脱な話術と人柄から大衆政治家として親しまれた。昭和49年7月の参議院議員改選を機に政界を引退,50年県功労賞を受けた。昭和53年6月27日,78歳で没した。

 本城 徹心 (ほんじょう てっしん)
 明治6年~昭和10年?(1873~1935?)僧侶・社会福祉家。
 明治6年3月16日広島県賀茂郡下見村に生まれ,19歳で得度し同郡の慶徳寺に入る。しばしば松山に来て,道後の本願寺教堂で説教をしたことから,明治32年2月,招かれて松山市府中町(現木屋町)の安楽寺住職となる。以来,吉田政常・仲田伝之じょう・栗田幸次郎らと窮民救済方法を議し,同34年愛媛慈恵会を創設,同39年~43年まで慈恵会を安楽寺に移して県内外の孤児を収容して養護した。大正期に入っても愛媛救済事業同盟会・愛媛県社会事業協会の創設者の一人となり,協会幹事として本県の社会事業発展に貢献した。大正デモクラシーの風潮の下,本城は禅や教派神道の教義を取り入れた仏教活動を行ったため,信徒と遊離し,大正8年安楽寺住職を辞した。同9年以降,越智郡盛口村(現上浦町)西光寺の照峰馨山らと雑誌「信徳」を発行,同11年還俗して祝谷に松山信徳舎を建て,ここで著述と講演の生活に明け暮れた。なお,安楽寺には粟田幸次郎の死に際して,徹心が自らの心境を表現した「このままがおじひであった」の碑がある。昭和10年ごろ死去。

 本田 理雄 (ほんだ ただお)
 明治19年~昭和41年(1886~1966)医師。明治19年3月10日,伊予郡上灘村(現双海町)の本田右一郎,トヨの八男として生まれる。幼時より謹厳実直で頭脳明晰であった。地元の小学校を経て,明治38年3月愛媛県立松山中学校(現松山東高)を卒業し,京都の第三高等学校,続いて京都帝国大学医科大学医学科へ進み,大正元年11月に卒業する。同3年,大学の助手となるが,同年6月,新潟県の郡立柿崎病院長として出向する。同6年,帰郷して伊予郡郡中町(現伊予市)で内科医院を開業,翌7年松山市三番町へ移り開業医として勤務する。昭和11年より同17年まで松山市の医師会長となる。昭和20年の空襲で戦災に遭う。同年,松山市の開業医で医療団をつくり病院を建てる。その病院の院長になり,率先して県病院の設立に努め,昭和23年県立病院に移管し,そのまま初代の院長となる。同24年7月退職して三番町の自宅に内科医院を開業する。その間,最愛の長男を戦場に奪われ,敗戦直後の混乱の中,同志と語らい,愛媛県遺族同盟を結成し,今日の愛媛県遺族会の礎石をつくる。またなかなかの酒豪で斗酒なお辞さない飲みっぷりで風論談発,温顔のうちに興趣を加え聴く人をしてあかさないものがあったという。昭和36年には藍綬褒章を受章し,昭和40年には勲五等双光旭日章を受賞する翌41年3月6日,享年80歳で死去。墓は松山市土橋町の長正寺にある。

 本多 徳次郎 (ほんだ とくじろう)
 嘉永5年~昭和4年(1852~1929)上宇和村長・県会議員。嘉永5年10月15日,宇和郡明石村(現東宇和郡宇和町)で庄屋伊藤斎八の次男に生まれ,明治10年6月上松葉村(現東宇和郡宇和町)旧里正本多家の養子になった。明治27年1月~31年1月上宇和村長になり村政を担当,32年9月~36年9月県会議員に1期在職した。昭和4年3月27日,76歳で没した。

 本多 真喜雄 (ほんだ まきお)
 明治11年~昭和26年(1878~1951)卯之町銀行頭取,県会議員・衆議院議員・宇和町長。明治11年3月20日,宇和郡上宇和村(現東宇和郡宇和町)久枝の素封家に生まれた。京都同志社中学・第一高校を経て東京帝国大学独法科を卒業,大学院で商法を専攻したが,父の死で帰郷して農業を営んだ。明治40年9月県会議員に当選したが,翌年10月辞任した。実業界に転じて,卯之町銀行頭取・宇和商業銀行頭取を務め,愛媛材木会社社長や宇和肥料・卯之町繭売買所取締役を兼ねた。大正9年5月第14回衆議院議員選挙に憲政会から推されて第6区で出馬したが落選,次の13年5月の第15回衆議院議員選挙では政友会の佐々木長治と激烈な選挙戦を演じわずか12票差で敗れた。昭和5年2月の第17回衆議院議員選挙に第3区民政党公認で再出馬してようやく当選したが,7年2月の第18回選挙では再び落選,11年2月の第19回衆議院議員選挙で当選返り咲くといった落選・当選を繰り返した。 12年代議士を辞して宇和町長に就任,予讃本線の宇和町経由誘致などで政治力を発揮した。そのほか,蚕業製糸方面でも活躍した。昭和26年12月18日73歳で没した。 40年宇和町は銅像を建てて顕彰した。

 本間 游清 (ほんま ゆうせい)
 安永5年~嘉永3年(1776~1850)吉田藩江戸詰典医,国学者,歌人。字を子龍,号を眠雲,九江,潜斎などと称した。漢学を江戸の古屋昔陽,和学を村田春海に学び,特に和歌に秀れた。天保2年伊達村芳に15人扶持で召抱えられ,村芳没後は夫人満喜子の歌の師となった。著書は医学の『潜斎医説』,本草の『品物和名類纂』『品物雑抄』,音義の『改正五十音図考証』等広範囲に亘っている。歌集には『みつのなかめ』『もとかしは』「江戸名所歌」「雑詠百首歌」,満喜子の供覧に供えた『五百重波』の撰がある。随筆には『耳敏川』80巻余があったが,今は十数巻しか遺っていない。その他多数の著書がある。江戸の著名な文人と親交があり,吉田の高月長徳とも文通している(耳敏川)。門弟には横山由清,山田常典等がいる。嘉永3年8月16日,74歳で没す。墓は泉岳寺。

 ト   星 (ぼくしん)
 生没年不詳 現大洲市西山根大禅寺(臨済宗妙心寺派)再興の祖。諱は建洞,河野氏の一族と伝える。永禄年間(1558~1570)出家,南禅寺・円覚寺などに住持,紫衣を受けた。大禅寺に残る「万年山大善禅寺観音縁起」には,大禅寺を,一遍の父通広を開基として建治元年(1275)に開創と伝えるが,建治元年に一遍の父は在世しなかったから,むしろ,この年,一遍は熊野成道後伊予国内を勧進しているので,父の霊を弔うため一遍が開創したと考えられなくもない。のち永禄年間の火災で荒廃していたこの寺を,天正9年(1581)ト星が再建して臨済宗(南禅寺派)とした。現在の妙心寺派になったのは,江戸時代に入って寛文年間のことである。