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愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行)

真鍋 嘉一郎 (まなべ かいちろう)
 明治11年~昭和16年(1878~1941)医学者・東京帝国大学医学部教授。明治11年8月8日新居郡大町村(現西条市)に生まれた。5歳のとき父を失い,母の実家儒者日野三楽の庇護を受けた。松山中学校で夏目漱石に学び,第一高等学校を経て37年東京帝国大学医科大学を卒業した。助手として附属病院に勤務,44年内科的理学療法研究のため3年間ドイツに留学した。帰国後東大伝染病研究所技師になり物療内科という新分野を開拓し,15年東京帝国大学教授として内科物理療法学の講座を開いた。糖尿病・神経病に効果的な物理療法と「医学の最後の目的は治すこと」という信念は多くの著名人の信頼を得,夏目漱石らの主治医を務めた。昭和5年東京駅で凶弾に倒れた浜口雄幸首相を48日間病棟に泊まり込んで献身的な治療に努めたことはよく知られている。教育者であるとともに徹底した臨床医であり,昭和13年大学を退官した時には,治療を受けた各界の名士や指導を受けた医学関係者が集まって,盛大な謝恩会を開いた。昭和16年12月29日,63歳で没した。

 真鍋 豊平 (まなべ とよへい)
 文化元年~明治32年(1804~1899)歌人。文化元年9月10日,宇摩郡関川村上野(現土居町)千足神社の神職,河内正藤原家教の長男として生まれる。幼名采女之助,蓁斉と号す。幼時より学問を好み,詩歌に長じ,画を楽しんだ。また須磨琴(一絃琴)の家元として後年京都に上り,伏見奉行内藤正縄らに弾琴の法を教授し,次いで大阪に移り琴および歌道を教えた。ために全国に1,800人の門人をもっていたといわれている。歌ははじめ父に教えられたが,天保2年23歳のとき,文通で以て京都の正親町卿に師事,弘化3年,伊勢の足代弘訓にっき,さらに千種有功,近藤芳樹らについて学んだ。一代の作品,短歌1万首,長歌一千二百首という。晩年4千余首の詠歌を清書して時の皇后陛下(後の昭憲皇太后)に奉った。明治32年4月12日死去,94歳。

 真鍋 八千代 (まなべ やちよ)
 明治27年~昭和50年(1894~1975)プロボクシング功労者。宇摩郡土居町出身。大正6年(1917)中央大学卒業,同14年弁護士開業,東京弁護土会常議員会議長。江東楽天地専務を始め日活,東宝各取締役その後,大映社長,新宿コマスタジアム社長,同会長を歴任,日本の興業界の発展に尽くした。昭和32年(1957)請われて日本プロボクシングコミッショナーに就任,在任18年,その間,多くの日本人世界チャンピオンを産み出し,貧弱たった日本のプロボクシング界を世界的マーケットに成長させた功労者である。昭和50年8月5日死去,享年81歳。

 馬渡 俊雄 (まわたり としお)
 明治9年~昭和21年(1876~1946)大正期の県知事。明治9年12月14日,東京府多摩郡淀橋町で思想家として著名な加藤弘之の三男に生まれ,18年7月馬渡家の養子となった。 34年9月東京帝国大学法科大学政治科に入学,在学中の38年11月に文官高等試験に合格,39年7月大学卒業と同時に内務属に任官した。 40年滋賀県事務官となり,以後大阪府事務官,山口県・福岡県・神奈川県警察部長,和歌山県・新潟県内務部長を経て,大正8年4月18日愛媛県知事に就任した。馬渡の在任期間は2年1か月であったが,その間30か年継続土木事業計画や三島中学校・松山城北高等女学校新設と既設中等学校の学級増加など教育拡張5か年継続事業を積極的に推進した。また市の増設を画策して今治市制の実現,宇和島市制施行の基礎づくりに尽力した。このほか,多年地方紛擾の源泉であった伊予鉄道と松山電気軌道の合同の斡旋に乗り出して成功した。大正10年5月27日欧米諸国の社会政策研究のための外遊を命ぜられ,本県知事を辞任した。1か年の外遊から帰国して11年6月福島県知事に就任したが, 4か月在任したのみで10月免官になった。その後,東京市助役,東京ガス取締役,理研アルマイト工業取締役などを務めた。昭和21年2月1日,69歳で没した。

 間島 冬道 (まじま ふゆみち)
 文政1O年~明治23年(1827~1890)元尾張藩勘定奉行。明治4~5年宇和島県権令で愛媛に来る。名は正興,万治郎ともいう。幕末には勤皇家として運動し,維新後は刑法官や地方官を歴任する。退官後は第十五銀行支配人や日本鉄道検査役を勤める。和歌の造詣も深く,宮中御歌所寄人にも選ばれる。明治23年9月30日,63歳で没す。

 晦   巌 (まいがん)
 寛政10年~明治5年(1798~1872)宇和島の禅僧。諱は道廓,号は晦巌・万休。宇和島藩士田中家に生まれる。文化4年lO歳で宇和島選仏寺に入り,同12年筑前博多聖福寺の仙崖,ついで鎌倉円覚寺の誠拙(宇和郡八幡村出身)に参じて,禅道に精進した。のち宇和島藩主伊達家菩提寺大隆寺の16世住職となり,伊達家宗紀・宗城両藩主の帰依をうけた。特に宗城の国事尽力に当たって,これを助け諸公卿・勤王諸侯の間を往来し,元治元年長州征伐の際には,防長に使し徳山侯に順逆を説いた。著書に『楞厳経吐哉鈔』3巻などがある。墓は大隆寺にある。

 前田 伍健 (まえだ ごけん)
 明治22年~昭和35年(1889~1960)文化人。明治22年1月5日に香川郡高松(現高松市)で生まれたが,松山市へ転籍し,生涯伊予の方言をよくした幅広い趣味の人である。とくに川柳については東京の窪田而笑子の高弟で,全国川柳界の七賢人に選ばれたほどで,大正末期以後,県下の柳壇の大恩人であった。伊予鉄に勤務していた大正13年,高松で近県実業団野球が行われ,伊予鉄軍は高商クラブにゼロ敗し,その晩の懇親会で野球の仇を,余興で討とうと即興で伊予鉄軍に踊らせたのが,のち全国的に流行したお座敷芸の〝野球拳〟である。野球拳の創始者だけでなく,俳画,書,随筆に洒脱なものがあり,殊に伊予なまりを駆使した「伍健節」の話術はNHKを通して人々に親しまれた。本名は久太郎。伍健院釈晃沢慈照居士の法号で,松山市内の玉川町明楽寺に葬られている。昭和35年2月11日逝去,71歳。

 前田山 英五郎 (まえだやま えいごろう)
 大正3年~昭和46年(1914~1971)大相撲第三十九代横綱。大正3年5月4日,西宇和郡喜須来村喜木(現保内町)生まれ。本名萩森金松。幼時,腕白でいたずらっ子。昭和3年(1928)14歳で高砂部屋入門,翌4年初土俵,喜木山のシコ名。同5年春,佐田岬と改名,同7年十両に進んだが翌8年右腕骨髄炎にかかり再起不能といわれたが慶応病院前田和三郎博士の治療で奇跡的にカムバック,同10年春三段目から再出発その名も前田山と改名,同11年十両,同12年春入幕,同13年春小結,同年夏大関へ一気に昇進,入幕3場所目で大関に上ったのは当時,大錦に続く異例の出世。大関在位10年18場所の記録は今も残り,闘志あふれる取り口から強烈な張り手は有名で双葉山を倒すなど張り手旋風を巻き起こした。同19年秋場所初優勝,同22年春(1947)33歳で横綱に推されたが同24年秋場所休場中にサンフランシスコシールズとの親善野球試合を後楽園球場へ観戦に出掛けたことが問題になり同年10月引退。年寄高砂を襲名,協会理事。高砂部屋でいち早くベッド,トイレなど洋式に切り替え,故障勝ちな力士生活の改善を図り,大相撲の海外巡業を提唱,実現させた。弟子の高見山(現東関親方)は外人力士第1号。身長181cm,118kg,幕内での勝敗は206勝104敗39休みで,勝率6割6分5厘,優勝1回。昭和46年8月17日,57歳で死去。

 前原 巧山 (まえはら こうざん)
 文化9年~明治25年(1812~1892)宇和島藩で最初の蒸気船を建造した技術者。幼名嘉蔵のち喜市,巧山と号した。文化9年9月4日,八幡浜浦新築地(現八幡浜市)で出生。9歳の時手習いに通う。 12歳より船商売をしていた父を手伝い船に乗り始めた。 16歳で父を失い,その後他家へ奉公に出たり,船商売・雑穀商・目貫師・刻煙草の商売をしたり,住所も転々としている。天保9年再度宇和島城下に出,かんざし細工を始め,以後ちょうちんの張替や漆細工,彫刻や雛段などの製作も引受ける生活か続いた。この前半生,母の家出,難船,彼自身の離婚,家族の大病や死亡など不安定な日々が続いている。
 安政元年,42歳の時転機が訪れる。丁頭清家市郎左衛門から,藩が火輪船の工夫のできる人物を探しているので,やってみないかと言われてからである。動力は人力であるが,船体に四つの車輪をつけ,それが芯棒の1回転で3回転する模型作りに成功し,藩主宗城の目にとまったのである。さっそく実船にとりつけて実験が行われ,この年3月,巧山は2人扶持5俵を給されて御船方に登用された。同年3回長崎に赴く。幸運を得てオランダ船の蒸気機関と,その船体への取り付け作業を見ることができた。それだけの経験による作図と,日本人による不完全な説明をもとに,安政2年模型を作り,翌年から本格的建造を開始した。しかし完成した汽罐は蒸気圧に耐えず失敗し,彼は町人出身の「おつぶし方」と陰口をたたかれた。同4年蒸気船の先進藩である薩摩に赴き技術を伝習し,その成果をもとに同5年汽罐製作に成功した。安政6年2月蒸気船の試運転に成功。彼は褒賞として3人分9俵を支給され,苗字を許されて譜代に列せられた。この蒸気船が,薩摩藩につぐ日本第2の国産蒸気船である。しかし汽罐が小さく,燃料は松薪で蒸気にむらがあり,スピードは三挺櫓の船におよばなかったという。明治2年再度の建造にとりかかり,翌年船長九間,幅一丈のより強力な蒸気船作りに成功,大阪往復の航海を達成した。船名を九曜丸と言い,4~5ノットで航海したと言う。
 また彼は,ゲペール銃を模した小銃・織機の模型・縫製機械の作成などを行うとともに,合金の分離を試みるなど極めて幅広い科学技術の才能に恵まれていた。しかし明治4年の廃藩置県で活動の場を失い,以後大きな事績もなく,明治25年9月18日,宇和島で没す。享年80歳,西江寺(現宇和島市)に葬られる。

 牧  朴真 (まき なおまさ)
 嘉永7年~昭和9年(1854~1934)明治期の県知事。嘉永7年3月29日肥前国(長崎県)士族牧真成の長男に生まれた。明治8年以来長崎・福岡県属を経て,13年太政官内務部に転属,参事院書記生,内閣法制局参事官,枢密院書記官を歴任した後,実業界に入り総武鉄道会社社長となった。 23年の第1回衆議院議員選挙に長崎県第3区から立候補して当選, 25年の第2回選挙で再選され,吏党員として活動した。 28年再び官界に入り,陸軍省雇員,台湾総督府内務部長心得,台中県知事を歴任して29年8月に青森県知事になった。明治30年11月13日愛媛県知事に就任したが,本県にあることわずか3か月にして31年1月22日内務省警保局長に転じ,その後,農商務省水産局長・農務局長などを務めた。昭和9年4月29日,80歳で没した。

 牧田 嘉一郎 (まきた かいちろう)
 明治27年~昭和35年(1894~1960)洋画家。明治27年2月5日松山市萱町に生まれ,明治41年松山中学校(現松山東高)に入学するが,健康を害し北予中学(現松山北高)に転校。卒業後,叔父の和田英作をたよって上京,同舟舎小林万吾の門に入る。帰郷後は松山商業(現松山商高)教諭。松山高等学校講師となり美術教育に当たる。昭和元年「六月の風景」が二科展に初入選。同3年には越智回孝,三好計加らと「青鳥社」を結成,松山市湊町米周呉服店で県下初の公募展を開くなど,藤谷庸夫とならび愛媛洋画の先駆者として活躍,昭和27年県美術会結成とともに名誉会員に推され,同35年愛媛県教育文化賞を受賞,同年10月11日,66歳で没す。

 牧野 純蔵 (まきの じゅんぞう)
 天保7年~明治36年(1836~1903)県会議員・衆議院議員。天保7年1月18日,宇和郡岩木村(現東宇和郡宇和町)に生まれた。幕末・維新期に庄屋・里正・戸長・副区長などを勤め人望があった。明治13年11月清水静十郎の補欠で県会議員に当選して以来19年3月まで在職,22年1月再び県議になり23年3月には副議長に選ばれた。明治23年7月の第1回衆議院議員選挙に第5区から当選,25年2月の衆議院議員選挙で再選された。大同派一自由党に属したが,沈着・保守的な人柄で政治運動はあまり関与せず,明治10年代宇和郡をゆるがした農民闘争無役地事件では地主側を代表して農民と対決した。明治36年5月29日,67歳で没した。

 牧野 黙亀 (まきの もくき)
 文化9年~明治35年 (1812~1902)俳人。八幡浜の薬種商亀屋の主人。名は健三,薬屋を営む傍ら風雅を好み,とくに俳諧に長じて,この地方の宗匠であった。また書画骨董の珍品逸物を所蔵することもこの地方第一であったという。明治35年3月29日死去, 90歳。

 槇  鹿蔵 (まき しかぞう)
 万延元年~昭和11年(1860~1936)江山焼の創始者。万延元年11月17日,伊予郡上灘村(現双海町)の河村家に生まれる。子どもの頃から手先が器用で,土をひねり焼物をやいて大人を驚かしていた。 12歳の時,山口の萩へ行き,焼物の修業をし,18歳の折,一人前の陶工となって帰郷する。やがて三島町の高橋陶器製造所の職長となり,ひまひまに楽焼の研究にも取り組む。 21歳で土佐へ行き27歳まで職人として更に修業を積む。帰国して砥部で職人となるが,それまでは各地を転々とするが,やがて郡中の根家の養子となり,明治35年ごろから楽焼に熱心に取り組み,素朴で雅致に富んだ味わいある作品が人々から賞賛されしばしば皇室のお買上げ品になる。明治42年伊藤博文が郡中彩浜館に来遊した時,庭焼を披露する。茶器,花器,人形等の作品の名声は四方に広まる。雅号の江山は土佐の政治家林有造の名付けたものである。人となりは無欲で,金銭にこだわりのない性格で,その交際範囲も広く,全国各地から訪れる人も多く,逸話も多い。昭和11年1月10日,75歳で没す。

 槇塚 庄八 (まきづか しょうはち)
 明治18年~昭和9年(1885~1934)医師,県会議員。明治18年3月1日,香川県山田郡潟元村槇塚安楽の子に生まれた。高松中学校・第三高等学校を経て明治43年京都帝国大学医学部を卒業,日平銅山医局長を経て大正7年三津浜町の妻の実家で開業した。温泉郡医師会長・女子師範学校医などを務めた。昭和2年9月県会議員に選ばれ,6年9月まで1期在職した。昭和9年11月27口,49歳で没した。

 正岡 健夫 (まさおか けんお)
 大正5年~昭和56年(1916~1981)歯科医,郷土史研究家。大正5年3月28日上浮穴郡柳谷村西の谷商家の生まれ,昭和9年3月北予中学校(現松山北高校)を卒業し,東京歯科医学専門学校に入り,何度か中退して仏教美術を専攻しようかと迷った,との述懐があるように,在学中から仏像,石仏,石碑,金石文などの資料収集に関心をもった。卒業後昭和15年意を決し軍属を志願陸軍技師となり,敗戦後は収容所で歯科医として活動する。昭和21年南方無名島から復員後戦禍に怒り悲憤,文化財保護に使命感を燃やす。戦後依頼で県庁一隅に診療所を設け職員の治療に当たり,約10年後に松山市二番町に歯科医院開設,昭和40年県歯科医師会長,同53年日本歯科・医師会副会長を兼任する。南方出征中,軍上層部の指示でジャワ・ボルネオ・ビルマなどで仏教東漸の資料を収集したことからも,仏教美術に造詣深く,この種の県内文化財の発見に勤め,仏教文化を中心にした県文化財と社会教育との連携を念願し,県文化財保護協会の副会長や理事として活躍する。四国八十八ヶ所展を県美術館で開催した時にも積極的に協力した。本職の部面でも人間優先の考えから地域診療に,重度心身障害者の歯科医療・無医村離島の巡回診療・全国に先んじて,愛媛県口腔センターを開き夜間診療を始めるなど,日曜・祭日にも応急診療や無報酬診療を行い,特殊設備や技術で県民への奉仕に努めた。毎朝早くから般若心経を唱え,写経を日課とし,石仏供養塔に合掌する人間正岡の生きざまそのものであった。しかも県内各地の仏教美術文化財の顕彰を念じつつ癌のため闘病三か月,入院一か月余,昭和56年10月6日辞世の絶句を残して65歳で没,法名は了月院功誉健道居士。なお著書『愛媛県金石史』昭和40年刊は類例の少ない好著。愛媛新聞賞を受ける。昭和56年勲四等旭日小授章受章。

 正岡 子規 (まさおか しき)
 慶応3年~明治35年(1867~1902)俳人・歌人・随筆家。慶応3年9月17日,温泉郡藤原新町(現松山市花園町)に生まれる。父常尚は松山藩御馬廻加番,母八重は藩儒大原観山の長女。その次男に生まれ,本名は常規,幼名處之助,通称升。別号は子規(俳句など)竹の里人(短歌・新体詩など)獺祭書屋主人(評論)野球など100余に及ぶ。明治5年父40歳で死去。同6年,末広学校(翌年智環学校と改称)に入学,勝山学校を卒業し,同13年松山中学校に入学,河東静渓の指導で「同親吟会」を結成,「五友」らの漢詩文を編集,相互に批評しあい,静渓・浦屋雲林らの添削をうけた。同16年叔父加藤恒忠(拓川)を頼り上京,須田学舎・共立学校を経て翌17年東京大学予備門(第一高等中学校と改称)に入学,夏目金之助(漱石)と知り合う。旧松山藩主久松家の創設した常盤会寄宿舎に同21年入舎,監督の内藤素行(鳴雪)らと漢詩・文学談を交わし,ベース・ボールを愛好した。明治18年帰省して井手真棹に和歌を学び(初作15年),20年再度帰省の際に,大原其戎に俳句を学び(初作18年)「真砂の志良辺」に投句を続けるなど,伝統文学はいずれも郷里の先人に学び,やがて越えていった。同22年喀血して子規と号し,竹村鍛の依頼でその弟碧梧桐にバットとボールを持ち帰らせて教え,松山野球界の草分けとなったといわれている。 29年ルールや訳語も試み今も使用されている。同23年9月東京帝国大学文科大学哲学科に入学,国文科に転ず。『俳句分類』編さんのかたわら同24年夏松山中学の後輩河東碧梧桐・高浜虚子らの松山俳句会指導以後,書簡の往復により互いに文学熱は高まった。同年11月俳句に開眼,写実的態度を確立した。同25年拓川の親友陸川南の「日本」新聞に木曽の紀行文や「獺祭書屋俳話」などを連載,肺病で余命いくばくもなしと生への情熱を句作と俳句分類に託し,明治26年3月大学を中退,28年日清戦争従軍記者として金州に赴き,その節森鴎外と俳談を交わした。帰還途中,再喀血して帰松,8月松山中学校教師夏目漱石の下宿「愚陀佛庵」で療養。子規にとって最後の帰省となった松山滞在は50余日であったが,柳原極堂・野間叟柳・村上霽月ら「松風会」の同人が連日つめかけ,極堂らを伴い松山近郊を吟行して『散策集』を残した。松山の新派俳句はこれを契機に勃興し,松風会を日本派最初の地方結社とし,その指導に基づき『俳諧大要』に句作への道を示し,俳人漱石誕生の場ともなり,やがて俳誌「ホトトギス」を生み出す基となった。有名な「柿くへば鐘がなるなり法隆寺」の句は,松山から上京の途次奈良での句である。明治29年脊椎カリエスを併発して,7年間臥褥した。俳句革新は軌道に乗り,新体詩を試み,30年,松山での「ホトトギス」発行を援助,句会と蕪村忌・蕪村句集輪講会を開く。 31年,短歌革新を叫び,歌会と万葉集輪講会,33年,写生文を提唱し山会を開くなど病床で毎月数回創作と研究会を続け,継承者を育成し,近代文学革新の実をあげ,蕪村や万葉集など埋もれていた作家作品を発掘した。明治34,35年病いよいよ重く,写生画に痛苦を慰めると共に,『墨汁一滴』や『病牀六尺』の執筆を続げた。死直前の彩色画は9月2日,スケッチや長歌は3日,随筆は17日,絶筆三句は18日で,その14時間後永遠の眠りにつくまで気力の生涯で,執筆に情熱を燃やした。明治35年9月19日35歳で死去。俳都松山には,JR松山駅前の「春今昔十五万石の城下哉」の句をはじめ,子規の句碑・歌碑が数多くあり,松山市末広町正宗寺境内に正岡家の墓,子規埋髪塔,「子規堂」などあり,県指定史跡となっている。「子規記念博物館」は昭和56年4月松山市道後公園の一角に開館,子規を生んだ古代からの背景,子規と周辺資料,継承者の作品等を展示している。また,「道後村めぐり」の中にも入って好評で,子規堂と共に観光名所となっている。著書『子規全集』22巻,別3巻。

 正岡 忠三郎 (まさおか ちゅうざぶろう)
 明治35年~昭和51年(1902~1976)子規研究者。明治35年5月18日,加藤拓川の三男として東京に生まれる。大正3年に正岡子規の妹リツと養子縁組して正岡家を継ぐ。東京府立一中,第二高等学校を経て昭和2年京都大学経済学部を卒業する。卒業後,阪急へ入社し,新日本テレビなどに勤務する。学生時代に詩人の富永太郎や中原中也,ぬやまひろしらと親交があった。昭和39年から同44年まで文芸誌「大阪手帖」に『子規への書簡』を51回連載する。とり上げられた書簡は漱石,掲南など9人で,172通に及んだが,途中で病気のため中止する。その後病床にあること7年,講談社版『子規全集』『子規写生画』の監修に当たり,生涯子規資料の保管に尽くして,昭和51年9月10日,74歳で死去。

 正岡 経政 (まさおか つねまさ)
 生没年不詳 戦国時代末期の越智郡の領主。右近大夫の官途を有し,常政とも書く。河野家の家督左京大夫通宣の甥で,その寵臣であったという。越智郡玉川町竜岡に所在した幸門城を本拠とする。同城の跡には,今も郭や堀切,石積などを確認することができる。正岡氏は,もと風早郡正岡郷(現北条市正岡)を出身とする武士であったが,のちに越智郡に移り,経政はその末裔。戦国期の河野家臣団の中で重要な位置を占め,御一門三十二将の内に数えられ,御侍大将十八将の1人であった。正岡備中守,中川三郎右衛門尉,得重石見守等を家臣として従えていた。元亀3年(1572)に阿波の三好勢が侵入してきた時,天正元年(1573)喜多郡地蔵嶽城主大野直之が反抗した時などには,河野氏の軍中にあって重要な役割を果たした。また天正7年(1579)には家臣鳥生石見守が,鷹ケ森城主(玉川町鈍川)越智駿河守とはかつて反逆を企てたのを防いだという。天正15年(1587),小早川隆景に降伏した河野通直が伊予を退去した際には伴の人々の中に経政も含まれていた。同じ越智郡朝倉の鷹取城主正岡紀伊守経長は同族。

 政尾 藤吉 (まさお とうきち)
 明治3年~大正10年(1870~1921)法学者,衆議院議員。シャム国法律顧問として法典編さんに従事,日邏友好に貢献した。明治3年11月7日,大洲中町(現大洲市)で大洲藩の御用商人であった政尾勝太郎の長男に生まれた。喜多学校(のち大洲中学校)に在学中英語に興味を持ち,キリスト教会で学んだ。やがて家業が傾き,父は郡中の郵便局に勤務し藤吉も配達夫となって苦労したが,向学の念に燃え,17年大阪に出てミッションスクールに学び,上京して東京専門学校(現早稲田大学)に入学,22年卒業した。同年,広島の宣教師学校に就職して留学費を貯え,渡米してヴァンダビルド大学・ヴァージニア大学・エール大学に学び,29年エール大学の助教授になった。 30年法学博士の学位を得て帰国,外務省からシャム政府法律顧問に委嘱されて同国に渡り,刑法・会社法・債権法などを制定した。シャムに在留すること15年,皇族待遇を受けた。大正2年帰国,4年3月の第12回衆議院議員選挙に際し,政友会から推されて立候補し当選,6年4月の選挙でも再選された。9年シャム駐在特命全権公使となり,同国に再度赴いたが,大正10年8月11日50歳で没した。シャム国は国王自ら火葬炉に点火して盛大な葬儀を挙行して,感謝の意を表した。

 桝田 与三郎 (ますだ よさぶろう)
 明治13年~昭和26年(1880~1951)蚕糸業功労者。明治13年5月28日,西宇和郡三机村(現瀬戸町)大字大江165番地,父井上安次郎,母シカの三男として生まれる。性温厚かつ勤勉,大江小学校卒業後大洲に来て,呉服雑貨商河野真太郎方に入り「商い」について学ぶ。明治32年桝田家に養子入籍,同34年生糸屑物売買業を開始し,後桝田商店として蚕糸業に足を踏みこむ。生来の商才に加え誠実,先見の明に富み,大いに信用を博し,我が国蚕糸業界の四天王の一人と称された。大正4年若宮に製糸工場を開設,「伊予生糸」と称する品質最高の生糸を生産し,業界にその名を知られた。西宇和方面の繭もここへ出荷していた。昭和2年桝田製糸KKの社長となり,愛媛県製糸業組合長に就任,また大洲銀行取締役,町会議員,同議長,喜多郡町村議長会会長,全国町村議長会幹事に就任,昭和6年には愛媛県議会議員に当選した。昭和26年9月30日没。71歳。藍綬褒章を授与さる。
 彼の頌徳碑は大洲市役所前に建てられたが,今は西ノ門の大洲高校の松並木に移された。

 増原 恵吉 (ますはら けいきち)
 明治36年~昭和60年(1903~1985)内務官僚・香川県知事・戦後参議院議員となり行政管理庁長官・防衛庁長官などを歴任した。明治36年1月13日,北宇和郡宇和島町(現宇和島市)で増原定蔵の次男に生まれた。宇和島中学校・第一高等学校を経て昭和3年東京帝国大学政治科を卒業,文官高等試験に合格して内務省に入った。京都府属を振り出しに和歌山県・北海道庁・兵庫県各警察部に勤務,警視庁警務課長,内務省警保局課長を経て,山形県警察部長,警視庁刑事部長,千葉県警察部長,軍需省勤務,警視庁警務部長,大阪府警察局長を歴任し,21年6月香川県知事に就任した。官選知事として終戦混乱期の処理と南海大地震の復旧に当たり,22年4月最初の公選知事に当選して引き続き香川県政を担当,香川大学の設置などに尽力した。任期4年を待たぬうちに25年同県知事を辞職して首相吉田茂の要請を受け警察予備隊本部長官に就任,27年8月保安庁次長,ついで29年7月防衛庁次官になった。 32年6月参議院議員香川地方区補選で当選,34年6月の第5回参議院議員選挙に際し愛媛地方区に移り,40年7月,46年6月と3期連続当選して20年間国会議員を務めた。その間,自民党治安対策特別委員会副委員長,同国防部長,参議院地方行政委員長などを歴任,39年7月第三次池田勇人内閣で国務大臣行政管理庁長官・北海道開発庁長官に就任,続いて第一次佐藤栄作内閣でも留任した。自民党内では〝防衛の増原〟で知られ,防衛・安保問題をライフワークにして,46年7月第三次佐藤改造内閣で防衛庁長官に就任したが,雫石上空での自衛隊機と全日空機の衝突事故で1か月余りで辞任した。47年7月第一次田中角栄内閣で再び防衛庁長官になり,第二次田中内閣でも留任したが,48年5月天皇への内奏問題の責任を負って辞任した。「和をもって貴しとなす」を座右銘とした清廉潔白な人柄は〝国政の場にふさわしい議員〟として慕われたが,52年7月の参院改選を機に議員を引退した。勲一等旭日大綬章を受章し,53年には県功労賞を受けた。昭和60年10月11日,82歳で没した。

 町田  亘 (まちだ わたる)
 天保4年~明治21年(1833~1888)卯之町中義堂教授・学区取締・県官。宇和島藩士の家に生まれた。諱は為忠,号は梅窓,幕末,藩の目付役・勤定役などを奉じ,維新後は東宇和郡卯之町の中義堂で教授した。更に神山県・愛媛県の学区取締を拝命して小学校教育の振興に当たった。その後,大阪裁判所を経て本県の県官を務めた。明治21年9月,55歳で没した。

 松井 健三 (まつい けんぞう)
 嘉永元年~大正10年(1848~1921)初代長浜町長・県会議員・副議長。嘉永元年10月20日,代々大洲藩年寄を勤めた松井正蔵の四男に生まれた。明治7年分家して16年長浜町長に選ばれ,町村制施行後も引き継ぎ在任して30年退職するまで初期町政の整備に尽くした。 36年9月県会議員にたり,初当選にもかかわらず副議長に選ばれて40年9月議員在任中この席にあった。 43年再び町長に返り咲き大正2年まで務めた。万年と号して俳句をよくし,文化の発展にも寄与した。大正10年5月12日,72歳で没した。

 松浦 巌暉 (まつうら がんき)
 生年不詳~大正元年(~1912)画人。和気郡三津浜(現松山市三津)に生まれ,京都岡本豊彦門下の森田樵眠につき四条派を学ぶ。大阪における内国勧業博覧会出品の「安宅の弁慶」が好評を博し,京都画壇で名をなしていたが,名利を求めず清廉な画人で,郷里松山に帰り画塾を開き後進の指導に当たるが授業料もとらず,画料もとらなかったという。その教え子に矢野翠鳳,桜井忠温,杉浦非水ら多くの人材が輩出,以後の愛媛画壇に大きい影響を及ぼす。花鳥・人物が得意,明治24年(1891)作の松山市高岡町弓敷天満宮の絵馬「梅花美
人図」が知られている。

 松浦 菊翁 (まつうら きくおう)
 天保6年~明治27年(1835~1894)俳人。宇和島藩士松浦平左衛門久光の子として生まれた。名は俊久。通称は宜平,菊之舎,士乙とも号した。文久年間より藩に仕え維新後も数年官途にあったが,退官後は専ら風流人として菊を愛し,多くの菊を作って楽しみ,菊翁と称した。俳諧,俳画に堪能で,書にも巧みであった。明治27年3月30日死去,59歳。

 松浦 宗案 (まつうら そうあん)
 生没年不詳『清良記』に記され,その内の『親民鑑月集』の論述者とされる人物。通称傅次,諱は貞宗,宗案と号す。戦国時代後期,宮ノ下(現北宇和郡三間町宮野下)の人。代々三間の大森城主土居氏に仕え,祖先には鬼松浦と呼ばれる強豪も居た。宗案も若年の時は,全国を回って見聞を広めるとともに,土居氏に従って各地を転戦したが,40歳の頃老齢を理由に隠退し百姓となった。『清良記』は土居清良の合戦記であるが,その巻七の上・下2冊が農事を記しており,その部分を特に『親民鑑月集』と呼ぶ。永禄7年清良が農事を問い,それに宗案が答えたものである。土壌・肥料・各作物の栽培時期さらに農政に至る農事全般を説いた日本最古の農書である。その後も彼は時折農政に関する諮問に答え,子供は武士として清良に仕えている。架空の人物との説もある。

 松浦 鎮次郎 (まつうら ちんじろう)
 明治5年~昭和20年(1872~1945)教育行政官,九州帝国大学総長,貴族院議員,米内内閣の文部大臣。明治5年1月10日宇和島に生まれた。 31年東京帝国大学法科大学政治科を卒業,在学中文官高等試験に合格した。33年東京府参事官になったが,35年文部省に入り教育行政一途の官界生活を続けた。文部書記官,36年大臣秘書官を経て39年外遊後,45年に文部省専門学校局長,大正13年には文部次官に昇進した。昭和2年京城大学総長,4年九州帝国大学総長になった。5年12月~13年2月貴族院議員に在任,15年1月米内光政内閣の文部大臣に抜擢されたが,わずか6か月にして7月22日内閣が総辞職したため,教育行政の責任者として十分に実力を発揮できなかった。 15年7月~20年枢密顧問官。昭和20年9月28日,73歳で鎌倉の自宅で没した。

 松尾 臣善 (まつお しげよし)
 天保14年~大正5年(1843~1916)天保14年2月6日播磨国に生まれる。本姓は中根,幼名を佐平治と呼ぶ。姫路の郷士松尾方信の養子となる。幼年より学問を好み特に算数に英才ぶりを発揮した。長じて宇和島藩に登用されて士族となり文久3年同藩直営の物産取扱い事業の管理で功績をあげた。明治2年宇和島藩の推薦で大阪府外国局会計課長となり明治政府の官吏の途を歩む。その後大蔵省に入り19年大蔵権大書記に昇進,出納,主計,貯金,理財の各局長を歴任の後,36年10月から44年6月まで7年8か月にわたり第六代日本銀行総裁を務めた。その間日露戦争の戦費調達,正貨準備の確保,高率適用制度の導入等の業績をあげた。大正5年4月8日,葉山の別荘において73歳で没した。

 松尾 武美 (まつお たけよし)
 明治44年~昭和50年(1911~1975)果樹栽培技術の普及,果樹研究青年組織の育成,青果団体の発展等に多くの事績をあげた。明治44年1月5日北宇和郡高光村(現宇和島市)に生まれ,後立間村松尾家に入る。鹿児島高等農林学校卒業後,愛媛県農事試験場南政柑橘分場に勤務し,果樹栽培技術の指導普及に尽した。昭和22年愛媛県果樹園芸研究青年同志会を創設して会長となり,荒廃した果樹園の復興に情熱を注いだ。同23年全国果樹園芸研究青年同志会を組織し会長となる。昭和26年宇和青果農協長となり,さらに県青果農協連合会の副会長として活躍した。また昭和30年~昭和50年にわたり県議会議員(40年県議会議長となる)として農政と地方自治に貢献した。昭和48年藍綬褒章受章,昭和50年吉田町名誉町民となる。昭和50年8月10日,64歳で死去。昭和53年胸像建立(吉田町立間宇和青果農協第一共選場)従五位勲四等に叙せらる。

 松岡 輝三 (まつおか てるぞう)
 明治22年~昭和35年(1889~1960)体育功労者。明治22年10月2日,伊予郡松前町の城塚家に生まれ後,松山市琢町(現緑町)の松岡家養子となる。初め伊予小学校で代用教員を務めていたが一念発起し東京物理学校に進学,昭和4年済美高女の数学教師となる。同21年(1946)県卓球協会をつくり会長に推され,日本高体連卓球部長会副会長も務めた。同32年(1957)退職するまで27年,科学的指導で全国でも「卓球の済美」の名を高め,数学の先生より卓球先生で通っていた。同39年第1回県スポーツ功労賞を故人として初受賞。同氏を記念して松岡杯県大会を設けている。昭和35年10月20日死去,享年72歳。『愛媛県卓球史』の著書がある。

 松岡 文一 (まつおか ぶんいち)
 大正14年~昭和40年(1925~1965)愛媛大学工学部教授。愛媛考古学会(現愛媛考古学協会)の創始者。大正14年岡山県久米郡久米南町南庄,繁雄の長男として生まれる。昭和20年9月新居浜工業専門学校(愛媛大学工学部の前身)卒。翌年3月同校助手。講師,助教授を経て,36年「軸対称型抵抗網による電気検層法の研究」で工学博士になる。父の文化財愛好の感化のせいか,新居浜在任中,古墳などに関心深く県文化財専門委員にも選任される。上黒岩縄文遺跡自然電位調査,学会誌「愛媛考古学」の発刊,宇和盆地周辺の考古学的調査などで,県考古学界に科学的研究の風を導入,昭和40年,県総務部・県教委共催の県下考古展の開催に献身,その直後急逝。 遺著『川之江市史I・古墳時代編』『弥生式土器集成』の北四国分担執筆。ほかに考古関係論考を「愛媛の文化」「伊予史談」「新居浜郷土文化」その他に寄稿している。

 松岡 凡草 (まつおか ぼんそう)
 明治32年~昭和58年(1899~1983)俳人。温泉郡北条町(現北条市)に生まれ,大正13年,日本勧業銀行入行,初代松山支店次長,本社「宝くじ」部長を勤務,大正14年,病気帰省中,仙波花叟に師事して渋柿風早会に入会,昭和3年,上京して松根東洋城に師事,東京戸塚の邸内に,晩年の東洋城のために一庵を提供し,『東洋城全句集』の刊行に努力する。同44年からは渋柿社の運営を総括し,編集・発起人(株主)となった。昭和58年1月14日没,84歳。

 松木 幹一郎 (まつき かんいちろう)
 明治5年~昭和14年(1872~1939)明治5年2月2日周桑郡に生まれる。運輸官僚・実業家・山下汽船副社長。第三高等中学校をへて明治39年東京帝国大学法科大学卒業。逓信省入省。鉄道院理事をへて44年初代の東京市電気局長に就任。大正4年同辞職。同5年,同郷で,鉄道院時代から親交のあった山下亀三郎の経営する山下総本店(後の山下合名会社)総理事に就任,後に山下汽船副社長を兼ねた。同11年,山下汽船が第一次世界大戦後の反動で縮小方針をとったのに伴い退社。関東大震災後復興院副総裁,昭和4年には国策会社台方電力の社長に就任,日月潭の電力を開発して台湾産業の発展に貢献した。山下亀三郎は,自著『沈みつ浮きつ』の中で「郷里出身の友人としては,松木幹一郎,高山長幸の両人を以ってその主たるものとしてゐた」と述べている。昭和14年6月14日現職のまま67歳で死没。墓所は,東京雑司ヶ谷墓地にある。

 松木 喜一 (まつき きいち)
 明治5年~昭和24年(1872~1949)川上村長・県会議員。明治5年10月3日,久米郡南方村(現温泉郡川内町)で生まれた。松山中学校に学んだ。明治40年1月川上村長に就任,大正8年8月まで村政を担当した。8年9月県会議員に選ばれ,憲政会に所属して昭和2年9月まで2期在職した。大正14年9月~昭和5年9月再び村長になり村の発展に尽力した。昭和24年10月12日,77歳で没した。

 松沢  嶐 (まつざわ たかし)
 明治30年~昭和48年(1897~1973)体育功労者。明治30年9月15日台湾台北市(現中華民国台北市)生まれ。7歳から父の影響で軟式テニスに馴染む。大正11年(1922)北宇和郡広見川水力発電工務課長時代に鬼北地方11か村でチームを作り対抗戦を始める。同電力は翌12年松山市の伊予鉄道に吸収合併。昭和2年(1927)日本軟球連盟発足と同時に愛媛支部を作り理事長就任。のも日本軟式庭球連盟愛媛支部に改称,本部常任理事も兼ねる。同年秋,松山商コートで全県大会を同支部主催で開いたのが第1号県大会。当時日本最高権威の金門クラブ招待テニスに昭和7年から3年連続選抜され松沢のストップボレーは日本一と称された。全国大会参加300回うち優勝57回。昭和28年(1953)第8回秋季国体の本県選手団総監督。同34年県社会体育功労賞,同39年県スポーツ功労賞,同44年勲五等瑞宝章の生存者叙勲。昭和48年5月16日死去。享年75歳。松沢旗記念軟庭大会が毎年開催。著書に『愛媛県軟庭史』がある。

 松下  一 (まつした ひとし)
 明治37年~昭和61年(1904~1986)本県最後の官選知事。明治37年9月17日大阪市三島町春日村で生まれた。昭和3年東京帝国大学法学部英法科を卒業して,長崎県属・警部に任官した。以後,福島県,和歌山県,千葉県・兵庫県に勤務して,15年栃木県学務部長,青森県警察部長,内務省警保局事務官,埼玉県警察部長,鹿児島県・三重県内政部長を歴任した。 21年12月27日愛媛県内政部長として赴任,22年3月14日青木知事が公選知事選挙に出馬のため辞職したので,愛媛県知事に任命された。在職期間わずか1か月,公選されて再び知事に戻った青木にその座を明け渡して本県を去った。昭和61年4月12日,81歳で没した。

 松田 喜三郎 (まつだ きさぶろう)
 明治13年~昭和21年(1880~1946)松田ヒラミンを創業,県会議員・議長,衆議院議員,北条・粟井町長。明治13年3月12日,風早郡菅沢村(現松山市五明)に生まれ,30年4月同郡北条町鹿峰(玖水錦)の松田三平の婿養子に入った。 37年1月松田博愛堂を創業して薬種商を始めた。 41年7月、ヒラミン・アイロミン・日本目薬・胃腸丸・六神丸などの製薬を開始、大正7年の〝大正風邪〟大流行に際し解熱剤〝ヒラミン〟の売れ行きが大きく伸び,全国に知られた。大正4年9月県会議員に選ばれ昭和5年2月まで連続5期在職し,大正15年12月~昭和2年9月議長を務めた。党派は政友会に属していたが,13年政友会分裂の際小野寅吉ら10県会議員と共に政友本党に走りその支部を結成して幹事長になり,昭和2年憲政会との合同に伴い民政党に属した。昭和5年2月の第17回衆議院議員選挙第1区で民政党から立候補して武知勇記らと共に初当選,7年2月の選挙には落選したが,11年2月第19回衆議院議員選挙で国会に返り咲き,12年4月の第20回衆議院議員選挙でも再選され,17年4月まで代議士であった。家業の傍ら,大正12年10月には松山自動車会社を創設して北条一松山間にバスを運行するなど事業欲は衰えなかった。昭和2年8月北条町町長になり,倉敷紡績北条工場の誘致などに政治力を発揮し,6~10年には北条港の改修工事を県の補助で実施した。10年北条町長を辞任したが,13年4月懇請されて郷里粟井村村長になり3か年務め,17年5月一切の公職を辞した。昭和21年2月15日65歳で没し,粟井村蓮福寺に葬られた。 28年北条町長時代に掘削した俵原池畔に〝豊穣の源〟の記念碑が建てられ,33年には市役所前庭に頌徳碑が建立された。

 松田 東門 (まつだ とうもん)
 生没年不詳 松山藩士。名は通居。初め大月履斉について朱子学を学び,後に,伊藤仁斉や荻生徂徠の書を読んで,大いにその長所を採り,博学の人として有名になる。享保17年の春より同19年の秋までに『東門夜話』11冊を著している。

 松田 三千雄 (まつだ みちお)
 天明5年~天保13年(1785~1842)酒造業,俳人。天明5年和気郡三津浜(現松山市)に生まれる。号は浩斎・渙卿・寒桃など。酒造業唐津屋を営む。漢学を修め,俳諧を栗田樗堂に学び,樗堂の孫娘を妻とする。享和元年(1801)19歳から翌年ころの俳諧の草稿に,樗堂は「三千雄句集序」を書いている(筆花集)。文化2年(1805)ころから『樗堂俳諧集』3冊,文集『筆花集』など,10余年にわたり,樗堂の著作を筆写編集し,その保存顕彰に努めた功は大である。自邸に九霞楼及び帯江楼を営み,その眺望絶佳の十二勝を定め,それに因む詩文を諸国の文人に求め,頼山陽・頼杏坪・中島棕隠・広瀬旭窓・田能村竹田・建部綾足・熊谷直好ら165名,清人・朝鮮人ら6名,県内近藤篤山ら44名の漢詩文類を『九霞楼詩文集』に収録,近世後期伊予関係文藻の縮図といえよう。天保13年5月29日没,57歳。

 松田 良雄 (まつだ よしお)
 明治42年~昭和47年(1909~1972)農政指導者,県議会議員・副議長。明治42年1月5日,伊予郡砥部村岩谷(現砥部町)で松田伊与吉の長男に生まれた。昭和3年松山農業学校を卒業,農業に従事する傍ら青年団長・壮年団長・青年訓練所指導員として活動した。昭和12年日中戦争に召集,16年再度召集され満州からラバウルに転戦して21年5月復員した。 25年以来砥部農協に10年,城南農協に8年組合長として農業協同組合の育成発展に貢献,27年以来県農業会議・県農協連経済連理事を務めた。昭和34年4月県議会議員に当選,46年・4月まで3期連続在職して自民党に所属した。 42年5月~43年3月副議長に選ばれた。昭和47年10月6日,63歳で没した。

 松平 勝成 (まつだいら かつしげ)
 天保3年~明治45年(1832~1912)高松藩主松平頼恕の6男で弘化4年(1847)2月,勝善の養子となり,定成とよばれた。従四位上,左近衛権少将,隠岐守。幼名は増之助,のち刑部大輔・式部大輔となった。嘉永元年(1848),松平定通の女令(勝善の養女)と婚姻する。安政元年(1854)2月,定成を勝成と改称。同3年(1856)8月養父勝善の逝去のため,その遣領を相続し松平家十三代の藩主となった。安政5年(1858)5月に幕命によって神奈川宿芝生村から川崎宿までを警備することになった。翌6年3月には勝成自身も警備地域を巡視した。7月に神奈川猟師町の海面に台場(砲台)を築造した。このころ,津藩主藤堂高猷の4男子桓を養子とし,定昭と称した。元治元年(1864)2月,幕命によって京都の警備を命ぜられた。6月長州藩士は前年の8月16日の政変による勢力の回復をしようとして,京都の皇居に入ろうとした。そこで会津・桑名・薩摩藩兵との間に禁門の変(蛤御門の変)をおこした。松山藩は桑名藩と行動をともにし,御所南門さらに三条通紙屋川辺の警備を命ぜられ,長州兵を撃退した。長州藩士は敗れて本国に逃げ帰ったので,幕府はこれを好機として,長州征伐の命を諸藩に下した。勝成は四国軍の先鋒となって徳山に上陸し 山口に向かうよう命ぜられた。彼みずから風早郡中島に滞陣し,一の手・二の手の両軍を津和地島に進発させた。ところが長州藩では恭順派が勢力を得たため,藩主毛利敬親父子は責任者を処分して謝罪したので,幕府は征討を中止した。ところが翌慶応元年(1865)主戦派の高杉晋作が藩内の恭順派を抑えて藩論を統一し,幕命に反抗した。幕府は同藩征討の命を諸侯に伝え,将軍徳川家茂は大坂に下って諸軍を統率した。6月四国軍の総指揮者として若年寄京極高富が来松した。松山藩はその指示に従って,周防屋代島安下荘に上陸して要地を占領した。ところが長州藩の近代兵器による攻撃をうけ,松山藩独力では支えることができず,津和地・興居島に後退した。この時,幕府の気勢はあがらず,長州藩の国境に迫った諸藩の兵も連戦連敗した。 7月将軍家茂は大坂で逝去し,幕府は長州征伐の軍を引き揚げた。翌3年(1867)9月,勝成は隠退し,定昭が藩主となった。翌4年(1868)1月戊辰の役がおきだ時,松山藩は朝敵の汚名のもとに,高知藩兵が松山を軍事占領した。勝成・定昭は恭順の意を表わして謹慎した。その誠意が認められ,定昭は塾居し,かわって勝成が再勤を命ぜられた。明治2年(1869)6月,版籍奉還によって,勝成は藩知事に任ぜられたが,同4年2月隠退を許され,定昭がその後任者となった。明治45年2月,80歳で逝去した。

 松平 勝善 (まつだいら かつよし)
 文化14年~安政3年(1817~1856)島津宣斉の11男で,天保3年(1832)7月松山藩松平定通の養子となり,定穀と称した。のちに勝善と改めた。幼名勝之進・千松,従四位下,左丘衛権少将,侍従,隠岐守。同6年(1835)6月定通逝去のあとを承けて,松平家十ニ代の藩主となった。同11年(1840)3月東雲神社の普請が完成し,仮殿から本社への遷宮式が行われ,家中および郷町の人たちの参詣日が定められた。弘化4年(1847)年9月,勝善は士気が衰退し,明教館における文武両道も不振となったので,家中に対し厳重な警告を与えた。彼は11月に小普請奉行小川九十郎を作事奉行に任じて,専ら城郭復興の指揮に当たらせた。大工坂本又左衛門・田内久左衛門らを棟梁とした。彼らは城郭の礎石を綿密に検分して,本丸の設計に着手した。翌嘉永元年(1848)2月設計が完成したので,鍬初めの式をあげ,8月の吉日をトして本丸の普請がはじめられた。翌2年基礎工事が完成し,翌3年4月に上棟式が行われた。6年を経て,嘉永5年(1852)12月に城郭全体が完成し,嘉永7年(1854)2月に盛大な落成の式典が催された。天明4年(1784)天守閣を焼失してから,この時まで71年を経過し,また定通が復興計画を樹立した文政3年(1820)からすれば,35年のものことであった。復興の完成を見た松山城は,連立式建築の完備した形式と偉観を持つこととなり,同じ形式を持つ姫路・和歌山の両城と並び称せられた。 11月に徳川家定か将軍職についたので,定穀は名を勝善と改めた。これよりさき嘉永6年(1853)6月にアメリカ使節が来航し,強硬な態度で幕府に開国を折衝した。翌嘉永7年1月再来の節,松山藩は幕命によって武蔵大森村から不入斗村までの海岸線の警備を,数日後に不入斗から大井村までに変更された。この時出動した兵士は600人に及んだ。勝善は翌安政2年 (1855)7月以来,病気療養中であったが,翌3年8月に年39歳で逝去した。

 松平 定昭 (まつだいら さだあき)
 弘化2年~明治5年(1845~1872)津藩主藤堂高猷の四男。幼名を錬五郎,字を子桓といった。安政6年(1859)3月,松山藩主松平勝成の養子となり,名を定昭と改めた。従四位下,左近衛権少将,伊予守。第1回・第2回長州征伐には養父勝成を援けて行動したが,後者では松山藩は敗北した(松平勝成の項を参照)。慶応3年(1867)9月,勝成が隠退したので,定昭が松平家十四代の藩主となった。また会津藩主松平容保らの推選によって老中職となった。 しかし時局は切迫し,薩・長両藩は討幕を断行して王政復古を実現しようと企てた。 10月将軍徳川慶喜は土佐前藩主山内豊信の意見に従い,政権の奉還を朝廷に申し出て,徳川幕府はここに終末を告げた。松山藩ではこの難局に当たり,定昭の老中就任を喜ばないものが多く,重臣もその職を離れるようにすすめた。定昭が老中を辞したのは,大政奉還後5日目のことで,彼の在任は僅かに1か月にも足らなかった。翌4年1月,戊辰の役がおこった時,定昭は摂津国梅田付近の警備に当たっていて,鳥羽・伏見の戦いにも参加しなかった。しかし会津・桑名藩の敗北を聞き,定昭は慶喜のあとを追って堺に赴いた。すでに慶喜は海路によって江戸へ脱出していた。そこで定昭はその間の経過を朝廷に報告し,藩兵を率いて帰国した。朝廷では慶喜およびこれに随従した諸藩に対し,追討の令が発せられた。定昭および養父勝成は,城を出て常信寺に入って謹慎した。土佐藩は兵を松山城下に入れ,一時占領した。やがて謹慎の誠意が認められたが,責任者定昭は蟄居の身となり,勝成が再勤の命をうけ,藩主となった。ほどなく勝成は入京し,従来の松平姓を旧姓の久松氏に復するよう指令をうけた。明治2年2月,勝成が薩・長・土・肥4藩の版籍奉還にならい,その旨を政府に請願した。そこで新たに松山藩か置かれ,勝成が藩知事に任ぜられた。3月に定昭は蟄居を解かれ,従五位に叙せられた。同4年1月家督を継承したので,藩知事となった。7月廃藩置県によって,藩が廃止され松山県が設置された。定昭にかわって大参事菅良弼が政務を担当した。定昭は新政府の方針に従い,9月東京に定住した。翌5年7月,定昭は27歳で逝去し,東京の済海寺に葬られた。

 松平 定章 (まつだいら さだあき)
 元禄13年~延享4年(1700~1747)元禄13年2月22日に生まれる。伊予松山新田藩1石初代当主。松山藩第四代藩主定直の四男。享保5年12月11日,兄定英の松山領15万石相続と同時に定直の遺言によって新田の内1万石を分知され,21歳で松山新田藩主となる。享保12年6月駿府御番を命ぜられる。享保17年の大飢饉に際しては幕府より拝借金を受け(3千両)飢人の救済に努めた。長男定静は新田藩の二代当主となるが,後に宗家を継ぎ第八代の藩主となる。延享4年8月3日,47歳で死去。東京都港区三田の済海寺に葬られる。

 松平 定静 (まつだいら さだきよ)
 享保14年~安永8年(1729~1779)松平家松山第八代城主。定直の子定章の嫡子。幼名源之介,のち監物。従四位下,侍従,隠岐守。明和2年(1765)定功の逝去により男子がなかったので,定静か宗家に入って藩主となった。同7年(1770)12月26日の夜,山手代町の足軽の家から出火し,新立まで類焼した。同夜に北清水町からも出火し,鉄砲屋町の東詰まで延焼した。この火災は松山にとって未曽有の大火で,武家屋敷301軒・商家750軒・寺院2がその災害をうけた。定静は安永8年7月に,年50歳で逝去した。

 松平 定国 (まつだいら さだくに)
 宝暦7年~文化元年(1757~1804)松平家松山第九代城主。前城主定静が逝去し,嗣子がなかったので,田安宗武の次男定国がその後を継承した。これよりさき定国は松平家に入って養父定静から定国の名を与えられていた。幼名は辰丸・豊丸といい,字は君保であった。従四位下,左近衛権少将,隠岐守。なおこの定国の弟が松平定信であって,のちに老中となって寛政の大改革を断行した政治家であった。天明4年(1784)元且に天守閣に落雷があり,そのために本丸の主要部分を焼失し,ようやく翌朝に鎮火した。この時,藩庁では煙硝蔵への類焼を恐れ,藩士に命じて屋根に上り防御に当たらせた。この危険な状況を見た小出権之丞は,「人こそ国中第一の宝である」といって,彼らを煙硝蔵から立ちのかせた。定国は直ちに急使を江戸に送って,その旨を幕府に報告した。幕府から使者が来て,参勤交代の時期を9月に延期するよう伝えた。また定国は城郭復興の計画を幕府に請願し,6月末にその許可をうけた。定国は武芸奨励のため寛政9年(1797)に大洲藩士伊藤祐根を招いて,お囲池(築山町)で神伝流の水泳を藩士に習わせた。これから松山地方に,ひろく神伝流の水泳が盛んに流布するようになった。天明時代には,町年寄栗田樗堂らの一派が加藤暁台らの俳諧復興運動に呼応して活躍し,伊予俳壇の黄金時代を築いた。小林一茶・井上士朗らも,樗堂を頼って来松した。定国は文化元年(1804)6月に,47歳で病没した。

 松平 定郷 (まつだいら さださと)
 元禄15年~宝暦13年(1702~1763)伊予今治藩3万5千石松平家第五代当主。第三代藩主定陳の弟定道の六男として元禄15年4月29日に生まれる。享保8年に四代藩主の定基の嗣子となり,従五位下,筑後守に任ぜられる。享保17年2月,養父定基の隠退により藩主となる。その時期は大雨と旱天,うんかの発生等のいわゆる享保の大飢饉のときで,定郷は天候回復・稲虫退散の祈禱を各神社・仏閣で行わせ,また家臣の給与を人数扶持としてこの大災害を乗切ろうとした。そのほか,御用銀の借入や幕府からの貸与金と払下米二千石を受領して急場をしのぐ。餓死者の続出も続く,窮状打開のため前代からの総社川の改修を続けるが10年の歳月を要した。子どもの定温が早世したので定温の長子定休を後継者にし,宝暦12年辞任し,翌13年4月19日61歳で死去。墓は東京都の霊巌寺にある。

 松平 定芝 (まつだいら さだしげ)
 寛政3年~天保8年(1791~1837)伊予今治藩3万5千石松平家第八代当主。寛政3年9月22日,第七代藩主定剛の子として生まれる。文化2年12月に,従五位下,若狭守に任ぜられ,同13年2月に妥女正になる。文政7年6月に父定剛の隠退により襲封する。父の文教政策を継承し,藩学克明館の発展をはかり,庶民の教養を高めるため心学の興隆に尽くす。子どもは皆早世したので,天保5年2月に池田政行の二男勝道を養子とする。享保年間にはじめられた木綿織は天保年間に販路の拡大を図り,豪商たちによる大量生産で,その最盛期を迎えるに至った。天保8年7月16日死去,45歳。墓は東京都江東区白河の霊巌寺にある。

 松平 定喬 (まつだいら さだたか)
 享保元年~宝暦13年(1716~1763)定英の子で幼名を百助といった。従四位下,侍従,隠岐守。松平家松山城主第六代。享保18年(1733)5月に父定英の逝去のあと,藩主の地位を継承した。定喬の襲職後わずかに10日,藩政に大変動がおこった。家老奥平貞継は大飢饉に対する藩政の不始末を理由として久万山に蟄居を命ぜられ,家老久松貞景および目付山内久元(与右衛門)らは職務を取りあげられ,閉門を命ぜられた。さらに久元に対しては,悪意をもって藩主の心を惑したとの罪名のもとに,味酒の長久寺で切腹を命ぜられた。これらに代わって,奥平貞国(久兵衛)が家老職に任ぜられ,政権を独占することになった。その後7年を経て,寛保元年(1741)3月久万山農民騒動が起こった。その原因はこの地域が山岳重畳して天産物に恵まれず,大飢饉後も2度凶作にあい,農民の生活は困難であった。また米価の騰貴に対し,重要な産物の茶の価額が下落し,いっそう彼らを圧迫した。そのうえ製紙の供出が過重で,農事に甚大な負担となった。これらの事情によって,浮穴郡14村の農民は減租を嘆願しようとしたが,藩吏の阻止にあい,大洲藩領中村付近に逃散を企てた。この時,逃散した農民は久万山南部・北部地区にわたり,その数は2,843名に及んだ。松山藩吏は農民の結束の強固なのを見て,久万大宝寺の住職斉秀に斡旋方を依頼した。あらかじめ斉秀は藩吏と和解策を協議の結果,農民側から提出される要求事項のうち,久万山地区全般にわたるものが3条あれば,そのうちの2条を承認するなどの条項を確認した。7月斉秀らは中村に赴き農民の説得に努めたので,ようやく交渉に応じた。そこで上席家老水野忠統は久万に赴き,法然寺の本堂で各村落の代表者に正式に回答した。各村に共通した条項をあげると,(1)年貢の減免は認めない,(2)茶に対する課税の5割増は取消す,(3)差上米は免除する,(4)小物成の5割増は取消す,(5)紙漉借用銀米は無利息5年賦,(6)水旱損風の場合は吟味のうえで措置するなどであった。この騒動の発生以来,権勢を失いつつあった奥平貞国・穂坂太郎左衛門に対して,「出仕差留」の強硬な処分がとられた。8月に貞国は酒宴遊興に耽り,また賄賂を貪って民衆の怨みを買い,農民騒動の責任者として越智郡生名島へ配流された。それから8年後に藩庁から派遣された目付によって殺害された。定喬は宝暦13年に47歳で逝去した。

 松平 定時 (まつだいら さだとき)
 寛永12年~延宝4年(1635~1676)伊予今治藩4万石松平家第二代当主。寛永12年11月1日,先代藩主松平定房の次男として生まれる。兄の定経が寛永10年5月,父に先だって逝去したので8月に嫡子となり,従五位下,靫負佐に任ぜられ,同11年に玄蕃頭になる。延宝2年6月に父定房が隠退したので,封地を継承する。やがて美作守となり,文武兼備を強調した同藩最初の法度を制定する。父の死後,わずか2か月のち,延宝4年8月19日,40歳で死去。治政わずかに2年2か月に過ぎなかった。墓所は東京都江東区白河の霊巌寺にある。

 松平 定保 (まつだいら さだとも)
 文化10年~慶応2年(1813~1866)伊予今治藩3万5千石松平家第九代当主。文化10年正月13日,池田政行(松平定休の子)の子として生まれる。はじめ定保といっていたが後,勝道と称す。天保5年2月に前藩主定芝の養子となり,その三女久を正妻とする。12月に従五位下,若狭守に任ぜられ,同8年9月に襲封する。同14年10月幕命により,奏者となり,駿河守となる。事績としては庶民教育に意を用い,弘化元年心学者田中一如を招き,藩士丹下光亮に研究させた。領内を巡回し新民舎で講義をさせ,その門弟は350人を超えたという。また藩医菅周庵に種痘を実施させたり,古江浜塩田を竣工させ,専売制度をとり入れる。慶応2年8月6日,53歳で死去,墓は東京都江東区白河の霊巌寺にある。

 松平 定直 (まつだいら さだなお)
 万治3年~享保5年(1660~1720)今治藩主松平定時の子。延宝2年(1674)2月に松山城主松平定長逝去のあとをうけ,宗家に入って松山第四代藩主となった。従四位下,侍従,隠岐守。翌3年の飢饉,翌4年の洪水,同6年の大風雨などの天災が続き,藩の財政は困難となった。定直はこの窮状を打開するため,高内親昌(又七)を奉行に抜擢して財政の再建をはがらせた。親昌は時勢を洞察し,歳入の確保を期する目的から定免制に復帰する方針をたてたが,がっての定免制の失敗した理由を追求した。その結果,農民の負担の均衡と生産意欲の向上を企てるために地坪制を遂行して,まず農産物の増収をはかることにした。延宝7年(1679)2月に,「諸郡村々へ可被申渡覚書」を頒布した。この法令は25条にわたっているので,これを「新令25条」とよんだ。彼は定免制実施に伴う利点をあげ,農民に対し啓蒙に努めた。彼は定免制と地坪制とを実施に当たって,藩領全域にわたって画一的に強制しなかった。しかし,いったんこの制度を施行した村落では歓迎せられた。この農政改革が成功したことは,『却睡草』・『右辺路道』等に述べられた讃詞によって明らかである。定直は壮年のころから俳諧に心を寄せ,榎本其角の門をたたいて,その教えをうけた。彼は三嘯・橘山・日新堂と号し,其角のほかに服部嵐雪・水間浩徳らを藩邸に招き,軽輩とともに膝を並べて句作に耽った。藩士のなかにも,久松粛山・青地彫棠らのすぐれた俳人が現れ,江戸座の俳風が松山にも伝播された。また定直は貞享2年 (1685)に南学の泰斗であった大高坂芝山を松山に迎えて,儒教の普及をはかった。芝山は南学の正系を継承した人で,『適従録』を著わして時弊を痛烈に批判して,その名を知られた。正徳5年(1715)に定直は大月履斎を儒員として招聘した。履斎は崎門の俊傑浅見絅斎の門に学んだ人で,『燕居偶筆』を著して,米価を中心とした経済論議,福祉社会の出現を論じ,清新の気風を与えた。定直は貞享4年に,山崎学を修めた大山為起を京都から招き,松山の味酒神社に勤務させた。為起は在勤25年に及び,垂加流神道を鼓吹し,地方の学界に一新生面を開いた。元禄15年(1702)12月赤穂浪士の吉良邸襲撃事件がおこった時,幕命によって大石主税・堀部安兵衛ら10人の浪士を江戸の松山藩邸に預かった。翌年2月浪士らが同藩邸で自刃するまでの動静は,定直の手になる『吉良浅野一条聞書』と,松山藩士波賀清大夫朝栄によって書かれた『波賀朝栄覚書』によって明らかである。要するに定直の治世には,政局の安定とともに,新鮮な松山文化の誕生したことに留意すべきであろう。

 松平 定長 (まつだいら さだなが)
 寛永17年~延宝2年(1640~1674)松山城主松平家第三代藩主。第二代松平定頼(1607~62)の子。従四位下,隠岐守。号一貫堂・端心。幼名を万千代・虎千代といった。父定頼が寛文2年に急逝したので,定督を相続した。翌3年(1663)に三津の天野作右衛門・同十右衛門・唐松屋九郎兵衛らを,肴問屋として魚市の事務を取り扱わせた。これよりさき三津では,魚類の取引が行われ,元和2年(1616)4月に魚類の売買仲介の業を営む下松屋善左衛門がいたと伝えられる。その後,漁夫と漁商との間で売買価額等について紛争が続き,負傷者が出るありさまであったので,ここに魚市場を設置して,統制を図った。寛文4年(1664)紛争を未然に防ぐため,売買に当たって「隠し言葉」を使用するよう規定された。定長は同年6月に,地方民の崇敬の厚かった道後の伊佐爾波神社の社殿改築工事をおこし,3年後の同7年(1667)5月に盛大な遷宮式が行われた。この社殿は石清水八幡宮を模してつくられ,柱に金泊を施し銀製の樋を使用し,誠に豪華絢爛たる建造物であった。その様式は宇佐・石清水の両八幡宮に見られる八幡造りであった。この形式では,本殿を神明造とし,その前方に向拝のついた拝殿を設け,その両者を相の間で連絡し,両切妻に接してできあがった谷の部分に太い樋を通している。その後,本殿は修理されたが,江戸時代の面影を伝え,さらに桃山時代の雄渾で豪華な様式がうかがわれる。本殿は昭和31年6月に国の重要文化財に指定された。定長は延宝2年2月に,34歳で病没した。

 松平 定功 (まつだいら さだなり{かつ})
 享保18年~明和2年(1733~1765)松平家松山城主第七代。定英の子で,前藩主定喬の弟。幼名を高島弁之丞,のも久松直次郎といった。兄定喬が宝暦13年(1763)に逝去したので,その遺領を継承した。従五位下,隠岐守。治封わずかに3年で,明和2年に年32歳で逝去した。

 松平 定陳 (まつだいら さだのぶ)
 寛文7年~元禄15年(1667~1702)江戸木挽町の今治藩邸で寛文7年2月18日に生まれる。今治松平家三代藩主。二代定時の次子で,長子定直は松山藩主。幼名岩松,初め定真,従五位下駿河守。延宝4年4万石を襲封するが,父の遺命により5,000石を弟定道に与えて分家させた。幕政では天和3年勅使接待役として口光に参詣,元禄11年には水野家断絶後の備後福山城の請取役を勤めた。領内では江島為信,服部正純らを重用して藩政を引き締めたので,中興の英主とされる。文武の両道に秀れ,馬術・剣術を得意とし,越智郡大島で度々鹿狩を行った。文では能楽を嗜み,自ら藩士に大学・論語等を講じた。詩・歌・絵画・書も残している。また各所に新田や塩田を開発し,大島に甘藷を試作させるなど,殖産にも意を用いた。しかし江戸参勤より帰城後突然病となり,寒熱激しく虐疾により元禄15年9月6日,わずか35歳で没した。墓所は今治市桜井国分山にあり,法号本智院殿體誉性安実恵大居士。

 松平 定法 (まつだいら さだのり)
 天保5年~明治34年(1834~1901)江戸今治藩邸で天保5年12月29日誕生。今治松平家十代藩主,のち久松姓に復した。幼名鬼勢治,八代定芝の三男であるが,天保11年5月兄勝道の養子となり,文久2年11月,家督を相続した。名勝吉,従五位下,壱岐守,内膳正,号竜丘,開明派君主といわれる。明治34年従三位に叙せられた。維新期の多端の時期に就封し,よく藩論をまとめて公武合体の姿勢を貫き,維新政府にもよく協力した。まず領内に4か所の砲台を築き,兵制を洋式化して軍備を強化した。長州征伐には批判的であったが,戊辰の役では日光から会津方面へも進軍した。文久3年には自ら上京し,孝明天皇に拝謁して国事につき建白した。版籍奉還後は今治藩知事に任じられ,明治4年の廃藩後帰京したが,病気のため翌年養子定弘に家督を譲った。明治34年9月18日66歳で病没,墓所は東京谷中墓地にあり,本覚院殿證誉竜邱悟道大居士と号す。

 松平 定則 (まつだいら さだのり)
 寛政5年~文化6年(1793~1809)伊予松山藩15万石松平家第十代当主。寛政5年7月27日,第九代藩主松平定国の三男として生まれる。文化元年父の急逝により10歳で遺領を相続する。翌文化2年叔父である松平定信の訓育よろしきを得て,家中侍の教育のため藩校興徳館を代官町三番町に開校し,杉山熊台を頭取に任じた。また同6年在府の家中侍の教育のため,江戸松山藩下屋敷に三省館を設け,両藩校相まって教学の振興につとめた。治政わずか5年で,文化6年7月5日,15歳で死没する。墓所は東京都港区三田の済海寺にある。

 松平 定英 (まつだいら さだひで)
 元禄9年~享保18年(1696~1733)松平定直逝去のあとをうけて,享保5年(1720)10月に松平家松山城第五代藩主となる。幼名を百助・刑部・主膳といい,従四位下・侍従・隠岐守。定直の三男。その翌6年閏7月に大洪水によって石手川が氾濫し,堤防は決壊し流出家屋889軒・死者72人に及んだ。そのため田畑の被害は甚大で,石高にして3万5,065石余が荒廃した。石手川はこれよりさきにもたびたび氾濫し,藩庁では川浚による一時的な弥縫策の効果のないのを察し,根本的な大改修を断行することになった。定英はこの大工事の遂行に当たって,西条の大川文蔵を抜擢した。文蔵は氾濫の原因を土砂の流出・堆積による河底の浅いこと,かつ川幅の広大に過ぎることなどによると考えた。そこで彼は川幅を狭くして水勢をたかめることによって河底を深くしようとした。彼は同8年(1723)以来改修工事に取り組み,河身に直線的に突出する曲出しを採用した。彼の苦心と努力によって,石手川の面目は一新した。その後は,大雨の時にもほとんど損害を受けることがなかった。享保17年(1732)松山藩では,未曽有の享保の大飢饉にあった。松山地域では,5月下旬から霖雨が続き,重信川等の河川は氾濫し,7月上旬に及んだ。そのため稲作は腐敗して枯死しようとする状況にあった。水害による凶作のうえに,さらに農民の生活を窮地に陥れたのは浮塵子の発生による被害であった。すでに6月以来浮塵子は田畑に繁殖しはじめたので,農民たちは死力を尽して発生を防止しようとした。しかし浮塵子は稲作ばかりでなく,雑草まで食い尽した。殊に伊予郡筒井村付近の災害は最も甚だしく,野に一草も見出せない程であった。農産物の欠乏は諸物価,特に穀物の価額の騰貴を招き,翌17年には前年の10倍に余る暴騰を示した。藩庁ではこの凶荒を救済するため,代用食の奨励,賑救品の頒布,払下米による対策,免租・負債免除等を断行したが,その効果をあげ得なかった。松山藩領内の餓死者の数は,17年11月に3,489人に達し,全国のそれが1万2,072人であるのに対し,被害の余りにも多いのに驚小される。義農作兵衛が飢死したのも,この飢饉の時のことであった。 12月に定英は多数の餓死者を出したため,幕府から「裁許不行届」の理由のもとに,「差扣」を命ぜられた。翌18年4月定英は重病となったので,幕府から差扣を免ぜられたが,5月ついに江戸藩邸で逝去した。 37歳であった。

 松平 定房 (まつだいら さだふさ)
 慶長9年~延宝4年(1604~1676)慶長9年8月12日遠州掛川城で誕生,幼名千徳,父は桑名城主定勝。今治松平家初代藩主。肥前守,美作守,従四位下,侍従,号安心軒。寛永2年初めて伊勢長島7,000石を領したが同12年7月今治城3万石に封じられた。同14年10月島原の乱では兵船を率いて鎮圧のため出陣し,同17年から3年間高松城在番を勤め,正保4年ポルトガル船が長崎に入港すると船32艘l,190人を率いて出陣した。寛文5年6月,江戸城代に任じられて1万石加増,同9年11月,女御藤原氏入内の大礼には,将軍家綱の名代を勤めるなど幕政に重要な役割を果した。領内では多数の家臣を集めて家臣団を形成し,入部と共に領内の検地を行って,治世40年藩政の基礎を固めて延宝2年6月,次子定時に家督を譲って隠居した。上洛の際の借財1万両,再度の出陣,江戸城本丸再建の手伝い,硫球中山王の接待などは,その後の藩政の大きな負担となったという。延宝4年6月28日今治城内で死没,71歳,越智郡古国分村国分山に葬る。法号実相院殿憲誉安心大居士。

 松平 定政 (まつだいら さだまさ)
 慶長15年~延宝元年(1610~1673)三河国刈谷藩主。松平定勝の六男,慶長15年伏見城で生まれる。本名は定次のち定政と改む。号は不白。元和6年将軍秀忠に拝謁,のち父の所領桑名に赴く,寛永3年より江戸藩邸に住む,寛永10年将軍家光に仕え,小姓から小姓組頭,同13年には近習に進む。,慶安2年三河刈屋城主2万石の大名となる。翌3年家光の死に際して,法会の庶務に当たる。同年7月家光に対し恩顧を感じ,寛永寺に入って剃髪,能登人道不白と改める。黒衣をまとい,従者2人を伴って「松平能登入道物を乞ふなり」と大呼して江戸を回歴した。また老中に対して,所領2万石,邸宅・武器のすべてを返還する旨の願書を提出した。幕府はこの行動は狂気のていであるとして,所領を没収,身柄を兄の松山藩主松平定行に預けた。彼はこれ以降兄の庇護を受け,畑寺(現松山市)の吟松庵で余生を送った。延宝元年12月24日,63歳で没した。祝谷の常信寺に葬られた。

 松平 定通 (まつだいら さだみち)
 文化元年~天保6年(1804~1835)松山城15万石の松平第十一代藩主。第九代定国の子であって,兄定則(第十代藩主)が文化6年(1809)7月に年17歳で逝去したので,その後を継承した。時に彼は年わずかに6歳の幼年であった。叔父の松平定信の撫育をうけること厚く,定通の藩政改革が寛政の大改革に通ずるものの存在するのは当然であろう。幼名を保丸・勝丸,のち三郎四郎,字を元志,号を亀陽・皐鶴・祝山と称した。従四位下,侍従,隠岐守。定通は藩主となって,菅良史・高橋忠董らの名臣の補佐をうげた。その治世は文化・文政時代の爛熟期を経て,天保年間の初期に及ぶ27年間である。当時はすでに封建制度の動揺ははなはだしくなり,その矛盾が表面に現れ,藩政は行き詰まりの状況であった。彼の藩政改革のはじめは,倹約の厳行であって,彼の襲職以来14回も凶作による被害があり,農村の疲弊はますます激しさを加えた。そのうえ藩の借財も45万俵余に達する窮状にあった。定通はこの危機を克服するために,厳重な質素倹約令を藩民全般に励行させた。また藩の歳出を節減するために,家臣の俸禄の引下げを断行した。その節約令は藩の諸雑費,神社・仏閣の初穂・祈禱料のような微細な点にまで及んだ。また上方商人からの高利の借財を松山城下の町人たちに肩替わりをさせ,藩財政の負担軽減をはかった。そのうえ,町人・豪農層にたびたび御用銀米の上納を強制して,ようやく財政上の破綻を切り抜けることができた。定通は殖産に留意し,菊屋新助か伊予結城の製作改良に努力しているのを見て,国産奨励の立場から助成金を貸与して,その事業を援助した。新助は京都西陣から花機を取寄せ,これを苦心して木綿織用に改良し,高機とよんだ。これによって織られた伊予結城は良質で好評を得たので,京阪・九州へ販路の拡大に努めた。伊予結城の名は全国に知られたが,鍵谷かなが高機を使用して立派な絣を織ることに成功し,のち伊予絣として重要視された。従来藩には小規模な教育施設かおるに過ぎなかったので,定通は文政11年(1828)二番町に本格的な藩校明教館を創設して,綱紀の粛正と文運の振興をはかった。明教館の敷地はおよそ2,500坪あり,南半分に学問所,北半分に武技の稽古場があった。学問は朱子学を主とし国学・算術も加えられた。稽古場では弓術・剣術・槍術・柔術・兵学等の道場があった。教授として日下伯巌・高橋復斎らが藩士の指導に当たり,のち傑出した学者を輩出した。定通は備荒貯蓄を実施するため,社倉法を制定した。社倉法は文政12年に町奉行によって企画され,町方に実施された。これにより天保3年(1832)までの4年間に積立金554両余を貯えることができた。そのほか定通は武士・庶民の善行美績の顕彰につとめ,その精勤を賞与し,また文武の道に秀でたものを登用した。定通は父の遺志をついで松山城郭の復興計画をすすめ,普請奉行を任命して,工事に着手した。しかし不幸にして,彼自身が天保6年6月に病没したので,成果を見ないで終わった。彼は詩文に優れ,詩集『聿修館遺稿』が有名である。

 松平 定基 (まつだいら さだもと)
 貞享3年~宝暦9年(1686~1759)伊予今治藩3万5千石松平家第四代当主。貞享3年2月17日,第三代藩主定陳の子として生まれる。元禄13年12月に従五位下,美作守に任ぜられ,同15年11月に父の遺領を継承し,妥女正になる。宝永4年5月から2か年間,幕命により駿河城を守備する。重要な事績としては総社川の瀬掘り工事をはじめたことで,享保9年4月に領内の農民を動員した。なかなかの難工事で次の定郷の時代へも引継がれた。また士風が紊乱してその粛正もはかった。享保年間には商人柳瀬義達は綿花で白木綿を生産し,藩の名産となる。宝暦9年7月13日,73歳で死去。今治市国分山,松平家墓地に葬られる。

 松平 定休 (まつだいら さだやす)
 宝暦2年~文政3年(1752~1820)伊予今治藩3万5千石松平家第六代当主。前藩主定郷の孫として宝暦2年7月25日に生まれる。襲封は12歳のときで,明和3年12月に従五位下,内膳正に任ぜられ,のち河内守となる。妻は松山藩主松平定静の女である。定休の事績としては,明和5年に後掘新田,寛政元年に向掘新田を開発する。明和8年~寛政11年の29年間をかけて鹿児池を開削して,灌漑事業に力を尽くした。また定基の時代にさかんになった木綿織にも課税をし,藩財政の再建をはかった。寛政2年4月隠退し,確翁と号して風月を友にする。文政3年7月7日,68歳で死去。墓は東京都江東区白河の霊巌寺にある。

 松平 定行 (まつだいら さだゆき)
 天正15年~寛文8年(1587~1668)松山城15万石の松平家初代藩主。従四位下,侍従,隠岐守。幼名千松・刑部,号松山・勝山。定行の父定勝は,関ヶ原の戦いののち,遠江国掛川城主を経て伊勢国桑名城主に封ぜられた。定勝の母の伝通院夫人は,はじめ徳川広忠に嫁して家康を生んだが,事情によって徳川氏を去り,久松俊勝に再嫁して定勝が誕生した。定勝は家康の異父同母弟であり,家康の命により松平姓を称した。その子定行は江戸幕府の信頼をうけた。定行は父のあとを継ぎ桑名城主11万石に封ぜられたが,寛永12年(1635)7月に松山城15万石に任ぜられた。この定行の就封は四国地域を制圧する含みを持つものであった。この当時,松山における家中の屋敷は極めて質朴であって。家屋も杉皮葺・藁葺のものが多かった。町屋等も道筋が不同で離れ離れに建てたようなありさまで整備されていなかった。当時の松山藩の領域は,温泉郡35村・風早郡78村・久米郡31村・桑村郡26村・和気郡22村・野間郡29村・浮穴郡のうち43村・伊予郡のうち19村・周布郡のうち24村・越智郡のうち23村であった。同14年(1637)島原の乱がおこり,幕府は板倉重昌を征討軍の総司令に任じ,九州諸藩の軍を統率させた。松山藩も者頭片岡正信・使番黒田吉辰らを派遣して,板倉勢に協力させた。しかし島原・天草の信徒らは,原城址によって頑強に抵抗した。幕府は老中松平信綱を派遣したので,松山藩では相田正盛・荻原重賢らを送った。翌年2月末に原城も兵糧攻めにあって陥落し,騒乱も終局を告げた。定行は同年に道後温泉の諸施設の充実に着手した。温泉の周囲に垣を設け,砌石をはじめ浴槽を一新した。浴場は士族僧侶用に一之湯,婦人用に二之湯,庶民男子用に三之湯,士人の妻女のための十五銭湯,旅客雑人用として十銭湯・養生湯がつくられ,温泉の原型プランが完成した。定行は松山城天守閣をはじめ門塀・石塁等の改修をはかり,同16年(1639)に幕府の許可を得たので,5層の天守を3層に改築した。それは建築物の保存上から安全を期するためであったと考えられる。正保元年(1644)定行は長崎港の異国船取扱に従事するため,幕府から長崎屋敷を与えられた。同4年(1647)黒船2隻が長崎に入港したので,定行は幕命により多数の軍船を統率して長崎に赴き,そのまま船中にとどまり,専ら黒船の警戒に当たった。この黒船はポルトガル新政府から派遣したもので,祖国の政権の交替を報ずるためであった。港内では紛争もなく,ポルトガル船は引き揚げたので,定行は帰国した。万治元年(1658)定行は家督をその子定頼に譲って隠退した。彼は閑静な東野の地に別荘の建設をはかり,千宗庵に命じて数寄屋ならびに庭園をつくらせ,これを東野御殿とよんだ。この工事は3年後の寛文元年(1661)になって漸く完成した。定行は勝山と号し,この地で風雅の生活を送ったが,同8年に,81歳で逝去した。

 松平 定剛 (まつだいら さだよし)
 明和8年~天保14年(1771~1843)明和8年6月晦日今治城内で誕生。今治松平家七代藩主。幼名千代松,のち吉十郎,従五位下,壱岐守。六代定休の嫡男,寛政2年4月家督3万5,000石を継ぐ。同11年4月,家光の150回忌法要に,将軍の供をして日光参詣の勤番をつとめ,文化5年から文政6年病によって隠居するまで奏者番を勤めた。寛政5年異国船が領内に漂着すると藩士の調練を行ない,沿岸の地図を調整して防禦対策を立て,幕府へも海防について進言した。また犬塚・鹿ノ児の二大池を築堤して旱ばつ対策を立て,文化2年には藩校を創設して長野恭度を教授とし,士風の改革にっとめた。隠居後は江戸小川町に別邸南御殿を建て,風雅の道を楽しんだが,病により天保14年1月16日,71歳で没した。墓所は東京都深川霊厳寺にあり,法号は興徳院殿仁誉聴達統玄大居士。

 松平 定頼 (まつだいら さだより)
 慶長12年~寛文2年(1607~1662)伊予松山藩15万石松平家第二代当主。初代藩主定行の嫡男として慶長12年に生まれる。万治元年父の隠居により,52歳で領地15万石を相続する。在位わずかに5年で,寛文2年正月22日三田の松山藩中屋敷馬場で,乗馬中落馬して死去。 55歳。松山市味酒町大林寺に葬られる。

 松平 頼淳 (まつだいら よりあつ)
 享保13年~寛政元年(1728~1789)松平西条藩五代目当主。紀伊和歌山藩主徳川宗直の次男として生まれる。寛保元年従四位下に叙せられ,左近衛少将となる。宝暦3年伊予西条藩主松平頼邑が病弱のため,その養子となった。藩主となった宝暦3年は豊作であったが,藩財政強化のため一割の増税を企画したところ,新居郡郷村の平兵衛らを中心とする強訴があり,年貢率を引き下げざるを得なかった。頼淳は常府大名であったこともあり,西条に入国することはなかった。彼は細井平州に学び,徳を修め,のち熊本の細川重賢と並び称された。安永4年本家和歌山藩主(九代目)となり,徳川治貞と改名した。

 松平 頼謙 (まつだいら よりかた)
 宝暦5年~文化3年(1755~1806)松平西条藩六代目当主。紀伊和歌山藩七代目当主徳川宗将の六男。母於安は幕府書院番前田五左衛門の妹。安永4年西条藩主松平頼淳が和歌山藩主となったため,その養嗣子として西条藩主となった。同7年,竹内立左衛門の建策を容れて,加茂川・中山川両河川の河口に新田造成を計画。同9年汐留に成功,天明2年ほぼ完成した。その規模は堤防2,800間余,面積240町歩という,伊予最大の新田であった。寛政7年隠居,文化3年9月2日,51歳で没した。墓所は東京都大田区池上,本門寺。

 松平 頼邑 (まつだいら よりさと)
 享保17年~天明元年(1732~1781)松平西条藩四代目当主。享保17年8月19日誕生。元文3年西条3万石相続。寛保2年それまで和歌山藩から受けていた合力米3万俵が2万俵に減少して財政難に陥り,再建のため鷲見藤左衛門を登用。延享2年従四位下に叙せられ,侍従となった。宝暦3年病弱のため隠居し,本家徳川宗直の次男頼淳を養子として迎えた。天明元年閏5月7日,48歳で没した。墓所は山梨県南巨摩郡,身延山久遠寺。

 松平 頼学 (まつだいら よりさと)
 文化5年~慶応元年(1808~1865)松平西条藩九代目当主。文化5年12月3日,松平頼啓の長男として生まれる。母は大熊氏。幼名は哲丸。多芸多能で,玉淵,為山,一瓢庵,青簑,楽斎,櫟斎などと号した。正室は一条准后忠良の女,通子。天保3年家督相続,左近衛権少将となる。『西条誌』20巻は,頼学の命により,択善堂教授日野和煦らが,天保7年~同13年に著した地誌で,実証的であるとして高い評価を得ている。天保6年西条へ入国。弘化元年江戸城本丸炎上の時,桜田門外まで出馬,文久2年11月六男(五男説あり)頼英に家督を譲り隠居,慶応元年8月14日56歳で死去。法号智徳院殿慈行謙光大居士。墓所は東京都大田区池上,本門寺。

 松平 頼純 (まつだいら よりずみ)
 寛永18年~正徳元年(1641~1711)松平西条藩初代当主。寛永18年1月4日,紀伊和歌山初代藩主徳川頼宣の次男として江戸で生まれる。母は越智与右衛門喜清(清重説あり)の女,養母は加藤肥後守清正の女。幼名を久松という。正保2年家光に拝謁,承応3年従四位下に叙せられ,左近衛権少将,左京大夫となる。万治3年本多能登守忠義の女と結婚。寛文8年紀伊で5万石を内分されたが,同10年西条3万石となったため,内分高のうち3万石を返上し,2万石分を合力米(初め知行地,元禄11年より蔵米2万俵,宝永6年より3万俵)として受け取った。西条藩の家臣に,紀伊和歌山藩の俸禄を受けたり,両藩間で転勤したりする者があったのはそのためである。頼純は常府大名ではあったが,在任中5回にわたって西条に入国,民政にも留意した。治世中,宝永元年と同3年に幕府領にある別子銅山の経営に関連する(幕府領との)替地があり,新居郡新須賀・東西角野村などを上知し,宇摩郡東西寒川村など10か村を得た。また,風雨による災害も多く,加茂川下流域の新田地帯に被害が続出,宝永7年には幕府から1万両を拝借するほどであった。正徳元年10月7日(70歳)江戸渋谷で没した。法号源性院殿凱空日純大居士。墓所は山梨県南巨摩郡,身延山久遠寺。

 松平 頼渡 (まつだいら よりただ)
 宝永3年~元文3年(1706~1738)松平西条藩三代目当主。宝永3年11月14日誕生。正徳6年(享保元年)5月兄頼致が和歌山藩を相続したため西条3万石当主となる。享保3年従四位下に叙せられ,侍従・左京大夫となる。この年,古学派の荻生徂徠の門人山井鼎(崑崙)を登用,西条藩文学隆盛の基礎を築いた。頼渡の西条入国は享保14年。この時期は塩田築造が盛んで,深尾権太夫らの失敗した多喜浜塩田を天野喜四郎らが完成。また,享保大飢饉後の難民救済事業としての塩浜築造などもあった。元文3年3月16日31歳で没し,法号恵日院道明日輝大居士。墓所山梨県南巨摩郡,身延山久遠寺。

 松平 頼英 (まつだいら よりひで)
 天保14年~明治38年(1843~1905)松平西条藩十代目当主。天保14年9月22日,松平頼学の六男(五男説あり)として生まれる。母は山野井氏,幼名を勇之進という。正室は阿部正備の女。頼英の兄はすべて早世し,長姉の婿頼永も嘉永元年に没したため,文久2年家督を相続した。1歳下の弟頼久は安政5年紀伊和歌山藩十四代藩主となり,徳川茂承と改めた。文久3年将軍家茂が上洛し,頼英も続いて参内,そののち国元西条へ入国。徳川慶喜の大政奉還ののち,明治元年には京都二条城北猪熊口柵門警備・東京吹上御門警備,同2年には水道橋関警備に当たった。同年4月藩籍奉還を建白,同年6月西条藩知事に任命された。同4年廃藩置県により知事を免じられ,東京に帰った。明治17年華族令公布により,子爵となり,正三位に叙せられた。同38年12月3日,62歳で死去。墓所は東京都大田区池上,本門寺。

 松平 頼看 (まつだいら よりみ)
 安永2年~寛政9年(1773~1797)松平西条藩七代目当主。安永2年12月11日,松平頼謙の長男として生まれた。母於古代は永石氏。正室は紀伊中納言徳川重倫の女(実は左近将監頼興の女)保姫。天明8年従四位下に叙せられ,侍従となる。寛政7年家督を相続したが,後継男子なく弟友三郎(頼啓)を養子に定め,同9年1月20日死去。法号,広徳院殿一道寿林日盈大居士。墓所は東京都大田区池上,本門寺。

 松平 頼啓 (まつだいら よりゆき)
 天明4年~嘉永元年(1784~1848)松平西条藩八代目当主。天明4年12月23日松平頼謙の三男として生まれる。幼名友三郎。母は永石於古代。寛政9年兄頼看の養嗣子となり,西条藩主を継いだ。正室は大久保安芸守忠真の妹,美寿。同11年従四位下に叙せられ,侍従に任せられて,左京大夫と改めた。同12年・左近衛権少将。文化2年ころ藩校択善堂を創立。教授として三品容斎を登用。文政6年から翌年にかけて,私財を投じて,多喜浜東分の北へ塩田を開発。築造には四代目天野喜四郎が元掛りとして活躍,北浜または新浜と呼ばれた。天保3年隠居,嘉永元年7月9日,63歳で没した。法号,秀徳院殿慈善法潤日実大居士。墓所は東京都大田区池上,本門寺。

 松平 頼致 (まつだいら よりよし)
 天和2年~宝暦7年(1682~1757)松平西条藩二代目当主。幼名甚太郎または義大夫。天和2年7月25日江戸青山西条藩邸で松平頼純の四男として生まれる。母は太田氏。正徳元年,西条3万石相続,左京大夫となる。同2年左近衛権少将,同4年西条入国。正徳6年本家紀伊和歌山藩を継ぎ(六代目),徳川宗直と改めた。

 松永 鬼子坊 (まつなが きしぼう)
 明治13年~昭和46年(1880~1971)教育者・俳人。明治13年9月4日,温泉郡雄郡村(現松山市)に生まれる。本名,詮季,旧姓は島川。明治38年,愛媛県師範学校卒業後,北条市の松永家に養子として入る。師範学校2年のとき,村上霽月の勧めで桧垣括瓠塩崎素月らと俳句を始め,大正5年「渋柿」創刊とともに参加し,同人となり,松根東洋城に師事する。 27歳で小学校長となり,河野,湯築小学校などを歴任するとともに,昭和4~5年海南新聞の俳壇「俳諧日曜集」を担当した。同8年,28年間の教員生活を終り,農業,仏典に没頭し,俳諧行脚三昧の生活をする。同31年句集『形影』を出す。昭和46年2月5日,90歳で死去。

 松根 図書 (まつね ずしょ)
 文政3年~明治27年(1820~1894)幕末の藩政を担当した宇和島藩家老。文政3年12月7日,松根図書壽恭の次男として生まれた。幼名豊次郎のち内蔵,図書と称す。諱は義守のち紀茂。三楽また竹画をよくし緑堂と号した。天保5年(1834)七代藩主宗紀の扈従となり,同14年扈従頭となる。この頃宗紀は,父親の図書に全幅の信頼を寄せ「悉く委任仕候」と言っている。弘化4年(1847)若年寄となり,嘉永4年(1851)700石の家督を継ぎ,安政2年(1855)家老職となり学校頭取を担当している。その後財務と民政を担当し,八代藩主宗城が国務に奔走するのを助けた。大坂の御用商人加島屋作兵衛をしりぞけて井上市兵衛とし,長崎行の時には藩内八幡浜の商人を同伴して外国貿易に従事させ,さらに富商富農に苗字帯刀を許して冥加金を納めさせるなどの政策をとった。農業については野村井堰の修築や,岩松河線の変更を行って増収に努めている。国事に関しては宗城の意を受け,各地の志士,人材の保護に努めた。安政3年のころ,大老井伊直弼は親しかった宗紀に,図書を出府させないよう注意しており,その動きを監視していたことが分かる。同藩の吉見長左衛門が安政の大獄で重追放となったが,図書がまぬがれたのは出府しなかったためだと言われる。元治元年(1864)には長州処分のことにつき藩を代表して安芸に赴き,第二次長州征伐に際してはその善後策を進言している。剛気果断な性格で,左氏珠山などの反対者もあったようである。
 慶応4年(1868)隠退。明治27年死去。享年73歳。法名,靖簡院殿悠翁三楽居士。金剛山大隆寺(現宇和島市)に葬る。大正8年(1919)正五位を追贈される。俳人の松根東洋城(豊次郎)は孫にあたる。

 松根 宗一 (まつね そういち)
 明治30年~昭和62年(1897~1987)実業家。明治30年4月3日,宇和島に生まれる。俳人松根東洋城の実弟にあたる。旧制の宇和島中学校卒業後,東京商科大学へ進み大正12年卒業する。同年日本興業銀行へ入行したが,昭和7年日本電力連盟の書記長となる。同31年原子力産業会議常任理事,副会長となる。また,経団連エネルギー委員長や原子力発電取締役ともなり,名実ともに原子力の松根として財界のトップに立つ。連盟の書記長時代には,国家統制に反対して留置場へ入ったこともある。松永安左衛門,小林一三,麻生太賀吉などの実力者にも可愛がられ,東亜電力社長,後楽園社長などにもなる。「すばしっこい一面,人を食った図太いところがある」という松根評がある。昭和51年には勲一等瑞宝章を受け,同55年には県功労賞を受賞する。趣味はタイ釣りで,四国に帰ると必ず興居島沖のタイ釣りに出かけていった。昭和62年8月7日死去,90歳。

 松根 東洋城 (まつね とうようじょう)
 明治11年~昭和39年(1878~1964)俳人。明治11年2月25日,宇和島藩城代家老松根図書の長男松根権六の次男として東京築地に生まれる。母は旧藩主伊達宗城の次女敏子。本名豊次郎。大洲小学校を経て愛媛県尋常中学校(後の松山中学)に入学,夏目漱石に英語を学ぶ。明治30年に卒業し,東京の第一高等学校に進学。このころ熊本の高校で教授をしていた漱石に,書を通じて俳句の教えを受け,根岸子規庵の句会に列した。東京に帰った漱石のもとにも出入りし,終生の師と仰ぐ。東京帝国大学を経て京都帝国大学に移り,明治38年卒業。翌年宮内省に入った。俳句は初め「ホトトギス」によったが,子規没後,定型の高浜虚子と非定型の河東碧梧桐が対立,東洋城は,虚子とともに碧梧桐派の新傾向を批判した。大正4年,「国民新聞」俳壇担当のかたわら,俳誌「渋柿」を創刊した。前年,俳句について大正天皇の御下問があったとき「渋柿のごときものにては候へど」の句を奉答したが,これが俳誌の名の由来という。「俳句は心境俳句であるべきなり。俳諧は人間を以て大自然に還ること。俳諧は難行道たり。渋柿はその芭蕉に於てなされし如く,『連句』を大事にす」これが東洋城の主張であった。芭蕉の俳諧精神を尊び,人間修業としての俳句道を説き,連句を重んじた。昭和27年,隠居を声明,「渋柿」の選者を野村喜舟に,編集を宇和島出身の徳永山冬子・夏川女夫妻にゆずった。同29年芸術院会員となり,同39年10月28日死去, 86歳。「世に人あり枯野に石のありにけり」

 松原 綱倫 (まつばら つなのり)
 安政2年~大正7年(1855~1918)初代大洲町長。安政2年6月22日,喜多郡大洲で藩士の家に生まれた。明治8年~12年大洲秋成小学校,12年~17年共済・大洲中学校で教員を勤めた。 18年大洲町外1か村戸長に奉職,23年1月大洲町長に就任した。43年まで町政を担当して,部落財産の統一。大洲女学校の設立維持,伝染病院・火葬場の設置などの事績をあげた。大正7年8月3日,63歳で没した。

 松原  一 (まつばら はじめ)
 明治29年~昭和40年(1896~1965)温泉郡御幸村字山越(現松山市山越町)に生まれる。愛媛県師範学校卒業後東京美術学校(現東京芸大)に進み,大正12年(1923)鹿児島県第二師範学校に勤め,昭和2年郷里松山中学校(現松山東高校)に帰任。以後24年まで22年間美術教師として郷土の子弟育成に尽力。この間愛媛美術工芸展の運営・審査委員として活躍。さらに二虹会の結成主宰,松原洋画研究所の開設,後進の指導など愛媛洋画の発展に尽した功績は大きい。その穏健な自然主義的な画風,郷土に根をおろした絵画研究の姿勢,長身痩躯,温厚で瓢々とした人柄など多くの後輩からいつまでも慕われている。昭和40年7月22日,69歳で没す。

 松本 亀次郎 (まつもと かめじろう)
 安政5年~昭和7年(1858~1932)飯岡村長・地方改良功労者。安政5年1月4日,新居郡上島山村(現西条市)で生まれた。明治23年村会議員,27年村助役を経て,30年飯岡村長に就任した。以来再選を重ねて村政に当たり,溜池を築造して灌漑に便ならしめ,日露戦争の記念林を造成し,貯蓄を奨励して勤倹の実をあげ,納税に良好な成績をあげるなどした。明治42年第1回地方改良功労者として県知事表彰を受けた。昭和7年11月14日,74歳で没した。

 松本 経愛 (まつもと けいあい)
 明治8年~昭和2年(1875~1927)医師,県会議員・議長。明治8年7月19日,宇和郡松丸村(現北宇和郡松野町)で竹葉弥平の三男に生まれ,上家地の松本セツの養子になった。38年医師試験に合格開業,独自の医療活動に従事した。大正4年9月~8年9月と12年9月~昭和2年県会議員になり,政友会に属したが,大正13年小野寅吉ら10県議と共に政友本党に走ってその県支部を結成,同年11月憲政会と結託して県会議長になり,15年12月まで務めた。晩年は結核を押して県会に出席,保健衛生行政の発展に身命を捧げた。昭和2年8月23日,52歳で県議現職のままで没し,永昌寺に葬られた。

 松本 山月 (まつもと さんげつ)
 慶安3年~享保15年(1650~1730)絵師。山雪の千,一説に養子ともいう。名は貞則,佐次之丞ともいい,半輪斎と号す。幼少より山雪の教を受け,その後を継ぎ藩二代目の絵師となる。貞享元年彼35歳の時,松山城三の丸藩邸に描いた「松竹梅図」が当時好評で加増されている。その代表作に松山市南土居万福寺蔵の「涅槃図」,重信町松本家所蔵の「野馬図屏風」などがある。

 松本 山雪 (まつもと さんせつ)
 生年不詳~延宝4年(~1676)絵師。本名恒則,号を山雪,岨嶺,心易といい,松山藩松平家初代藩主定行に寵用され藩初代の絵師となる。松山近郊石井郷松本庵に住し,墓はその近く万福寺の境内にある。その代表作に東京国立博物館蔵の「宮島図屏風」「牧馬図屏風」があり,武智圭邑蔵の「製茶図屏風」は県指定文化財となっている。その画題は山水・人物・走獣・仏画など多領域にわたり,しばしば京狩野二代狩野山雪の作と混同されてきた。彼の出自についても今治出身,松山出身とか,藤堂高虎伺候説,狩野山雪師事説など諸説があり,幻の画人といわれてきたが,近年の調査で松本家系図の発見により同系図の記載が定説となる。それによれば「松本山雪藤原恒則は勢州桑名より来る。勅命により上京御所に参内,馬の絵をかく。其の妙なるを御感あって,肩の印御免許の綸旨を賜い,其後御免筆という御印を絵の肩に押す」とあり,彼の出身は近江ということである。ともあれ山雪は松山藩初代の絵師,近世初頭愛媛の画流に狩野の正系を伝え,以後の流れに決定的な影響を及ぼした巨匠である。また馬の名手としても名が知られ,その遺墨は今も郷土人士に珍重されている。

 松本 松碧楼 (まつもと しょうへきろう)
 明治31年~昭和6年(1898~1931)俳人。明治31年3月8日,喜多郡菅田村(現大洲市)に生まれる。本名繁一。生まれるとすぐ八幡浜に移住。家業は酒造業。八幡浜商業学校卒業。八幡浜商業銀行に就職。同銀行の菊池白木公,深部楚花らと木犀吟社を組織し「ホトトギス」を目標として句作。大正6年1月回覧誌「木犀」を刊行。同7年1月,白木公と二人で「志ぐれ」刊行。同年9月八幡浜に松根東洋城を迎え,これを機にして「初潮会」が発足。この会の主催で昭和5年,南予俳句大会を八幡浜で開く。翌6年2月13日,病のため32歳で死去。辞世の句「春寒く仏の下座につらなれり」同7年,句友たちにより『松碧楼句集』を刊行。墓地は大法寺にある。

 松本 仙挙 (まつもと せんきょ)
 明治13年~昭和7年(1880~1932)画家。本名は政興,東宇和郡野村町大字蔵良の旧庄屋の長男として生まれる。京都市立美術工芸学校絵画科に入学。日本画の教授であった山元春挙に学ぶ。春挙は円山派を学んで風景画を得意とし,当時京都画壇で竹内栖鳳と並び称された画家で,仙挙は明治35年同校を卒業した後も春挙に師事して,師より画号を与えられている。明治40年には結婚して郷里に帰り教べんを執るなどしていたが,大正4年,絵に専念するため再び京都に出て,その後文展を活動の場として精力的に制作に打ち込んでいる。大正6年の文展に「静山」を出品して以来「鬼ヶ城山之図」「静寂」「悟道の跡」と風景画を連続して文展,その後の帝展へと出品する。仙挙が活躍した大正中ごろから昭和初期にかけては,日本美術院の再興,二科の創立,国画創作協会の設立と画壇も多様化,個性主義の成熟期にあり,そうした中で彼は,伝統的技法の上に実感を盛りこんだ重厚な色調や抽象的構成などの創作を次々に試みている。その画業途中胃癌にかかり,郷里の明浜町で療養するが,そのかいもなく,52歳の若さで没す。

 松本 多喜男 (まつもと たきお)
 大正2年~昭和46年(1913~1971)音楽家。大正2年10月10日新居郡西条町(現西条市)に生まれる。西条中学から,東洋音楽学校(現東洋音楽大学)を昭和11年卒業する。モギレッスキーに師事した。中央交響楽団(現東京フィルハーモニー管弦楽団)に入団,やがて同17年には東京放送管弦楽団,同20年には広島音楽放送楽団に入団して活躍。第二次世界大戦後は,新居浜市に住み,バイオリン教室を新居浜市をはじめ,伊予三島,西条,今治市などに開き,幼児から一般の人々の指導に当たる。また,新居浜市の文化協会常任理事を務め,従来個人の発表形式の会を改め,合同発表会を実現させ,新居浜交響楽団にまで発展させたり,リサイタルで筝との合奏を試みたりして,新機軸をうち出した。昭和46年4月3日,57歳で死去。

 松本 常太郎 (まつもと つねたろう)
 明治26年~昭和35年(1893~1960)郷土史家。明治26年11月23日に和気郡三津通町(現松山市神田町)田村家に生まれ,代々松山藩の御船手大船頭役を勤めていた松本家を継ぐ。北予中学校卒業後早稲田大学入学。同大中退後,横浜税関・横浜市役所に勤め。『横浜市史』の編集にたずさわり,歴史研究に大きな興味を抱くようになった。大正12年の関東大震災後帰郷し,五十二銀行員になった後三津浜町役場職員に採用され,「三津の朝市」として有名な魚市場主事を勤めた。退職後町会議員として松山市合併に尽力した。その間三津浜地区の郷土史を精究し,特に藩政時代の三津の町奉行・船奉行・御舟手などの藩士達をはじめ,町人達・旧家・港湾・市街・魚市など関係古文書・史料の収集・整理につとめ,『伊予三津浜郷土史年表』をはじめ『松山港大観』『郷土叢書にぎた津』『三津浜魚市沿革録』『三津浜魚市事績録』『三津朝市物語』『三津浜誌稿』(共著)など三津関係史書を著した。昭和35年5月21日,66歳で死去。大明神墓地に葬る。

 松本 猶太郎 (まつもと なおたろう)
 明治3年~昭和30年(1870~1955)宇和商業銀行頭取,県会議員。明治3年8月8日,宇和郡皆田村(現東宇和郡宇和町)で生まれた。近衛歩兵第二連隊に入営して日清戦争に従軍した。明治36年外務省から米作視察に派遣され,アメリカのテキサス州で2年間遊学,41年松本鉱山事務所を設立してマンガン鉱を採掘した。大正5年10月下宇和村長に選任されたが,事業上の関係で1か年で辞職した。村会議員4期,郡会議員を経て大正8年9月~12年9月県会議員に在職した。実業面では宇和商業銀行頭取を務めた。諧田と号し俳句をよくした。昭和30年1月22日,84歳で没した。

 松本 芳翠 (まつもと ほうすい)
 明治26年~昭和46年(1893~1971)書家。明治26年1月29日越智郡東伯方村(現伯方町)木浦に生まれる。本名英一。芳翠はその号。 15歳で上京し加藤芳雲について漢籍,書法を修める。その後日下部鳴鶴の高弟近藤雪竹に師事,のち鳴鶴翁よりも教えを受けた。大正10年「書海」誌を創刊。昭和3年戊辰書道会を設立。7年東方書道会を結成。23年日展審査員。 29年日展出品作「雄飛」で芸能選奨文部大臣賞。 35年第二回改組日展出品作「談玄観妙」で日本芸術院賞。46年日本芸術院会員となる。
 篆隷楷行草,「かな」の各体をよくし,とりわけ整斉端正な楷書は「芳翠の楷書」として名高い。作品は清秀で,気品が感じられる。碑法帖の研究では,唐の名蹟「書譜」(孫過庭)にみられる折転(激石波と称する筆意)を紙の折目によるものと断じ,書道界の注目を浴びた。愛媛県立美術館には寄贈作品「筆下龍蛇走」の一幅がある。著作には『新撰習字教範』『書道入門』『劫餘詩存』等がある。門下に谷村憙齋,村上孤舟がいる。昭和46年12月16日,78歳で死去。

 松本 良之助 (まつもと りょうのすけ)
 明治16年~昭和51年(1883~1976)社会福祉・社会教育者。
 明治16年2月2日宇和島町元結掛に生まれ,明治34年県立宇和島中学校卒業後,一時,小学校の代用教員となる。キリスト教に傾倒し,教員を辞して洗礼を受け,後に宇和島中町教会の日曜学校校長となる。大正13年3月愛媛県方面委員制度発足とともに委員となり,昭和21年以降も民生委員として中平常太郎・今井真澄らとともに宇和島のみならず本県の社会福祉発展に尽力した。この間,宇和島市会議員(2期),愛媛県司法保護委員・家庭裁判所調停員・人権擁護委員・宇和島市社会教育委員長などを歴任し,藍授褒章や勲五等瑞宝章などを受けた。
 特に昭和6年宇和島市民共済会授産場長となり,生活困窮者の援護に努めるとともに同会授産場を全国有数のものに育てあげた。このため,同25年3月には宇和島市に行幸された天皇陛下に授産事業について進講した。なお,彼は日々の感想を詩に綴って日記がわりに書き留め,昭和45年『松本良之助詩文選』を著している。昭和51年12月5日,93歳で死去。

 丸井 千年 (まるい ちとし)
 明治30年~昭和58年(1897~1983)医師。辺地医療に生涯を捧げた。明治30年4月7日,上浮穴郡小田町村(現小田町)で生まれた。大正12年京都帝国大学医学部を卒業,同大学病院で2年間研修した後,母親の懇望で小田に帰り内科小児科病院を開業した。以来57年間へき地医療一筋に専念した。「ある時払いの催促なし,尊い生命に貧富の差はない」を口ぐせに貧民の治療に当たり,医院の経営に苦しんだが,清貧に甘んじ,地域の人々から「いのちの神様」と慕われた。へき地医療の将来を考え,昭和41年済生会小田病院の誘致が実現すると,自己の医院を閉鎖し,町立中山診療所の医師として小田病院と連携しながら地域医療を続けた。昭和41年小田町名誉町民第一号に選ばれ,57年愛媛新聞賞を受けた。昭和58年6月15日,86歳で没した。

 丸山 閑山 (まるやま かんざん)
 文化7年~明治5年(1810~1872)松山藩士。文化7年丸山南海の子として生まれ,通称は市郎兵衛,別号には,寛揖・子思・子興・隆・三洞・雪花斎など多くをもっていた。父南海は松山における仁斎学派の総帥として名声高く,閑山も父の影響で幼少時より学を好み,絵にも秀でる。吉田蔵沢の高弟大高坂南海に学び,蔵沢画流の後継者として知られ,蔵沢,南海,閑山と同派の三名人と称せられる。明治5年1月20日,死去。62歳。

 丸山 定夫 (まるやま さだお)
 明治34年~昭和20年(1901~1945)俳優。明治34年5月31日,松山市北京町に生まれる。海南新聞の主筆であった父が死亡したため苦学。演劇に関心を持ち地方回りのオペレッタ一座に加わり,大正11年,広島を根拠とする青い鳥歌劇団に入団し各地を巡業。翌年,根岸歌劇団に移り,同13年,築地小劇場の第1期研究生となり,第2回公演「狼」でデビュー。以後,草創期の新劇の多くの舞台を踏み,個性的異色俳優として人気を博した。昭和4年,新築地劇場に拠り,同17年,徳川夢声らと苦楽座を結成。「無法松の一生」の松五郎を演じて激賞された。同20年,苦楽座移動隊(桜隊)を率いて巡回慰問中,広島で原爆に遭い8月中旬に死去,44歳。

 丸山 南海 (まるやま なんかい)
 生年不詳~享和元年(~1801)松山藩士,古学派学者,歌人。諱は惟義,通称大蔵という。生来学問を好み,伊藤仁斉の人となりを慕うて古学を信奉し,その唱道につとめる。懇切明快な講義で,多数の人々が集まって門前市をなしたといわれる程であった。松山地方で古学(仁斉学派)の最も盛んな時であったという。また和歌にも長じ,数多くの名歌を残している。その子息は丸山閑山で,竹画の名手で墨竹の三名人の一人といわれる。享和元年6月12日没,法号最勝院応誉道成居士と称し,墓は松山市不退寺にある。