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愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行)

 毛利 栄五郎 (もうり えいごろう)
 弘化3年~昭和9年(1846~1934)教育者。弘化3年,越智郡仁江村(現吉海町)に生まれる。少年時代,祖母の実家である医師の毛利俊梁のすすめで,丹下光亮の「新民舎」で勉学に励んだ。長じて,今治の酒造場に就職したり,大阪の肥料問屋に勤め,大いに商才を発揮し,将来を期待されていたが,脱疽のため両足首を切断し,失意のどん底に陥った。帰郷して,自宅に塾を開き,郷土の青少年育成をめざして,珠算,書道,漢学を教える。実に28歳から82歳までの長きにわたり,多くの俊秀を育成した。昭和27年代になり,町の有志によって吉海町仁江名古地に頒徳碑が建てられた。昭和9年9月19日,88歳で死去。

 毛利 玄得 (もうり げんとく)
 明和7年ころ~天保15年(1770ころ~1844)越智郡吉海町・同宮窪町の「島四国八十八ヶ所」の創設者。玄得は越智郡本庄村(現吉海町)の医者毛利文領の三男として出生,幼児期より仏門に入り修業に努めたが,兄の玄淳が備後の三原へ出たため,還俗して医業を継いだ。一端僧籍に身を置きながら途中で仏道をふり捨てた玄得は,良心の苛責から,四国八十八ヶ所の霊場になぞらえた八十八ヶ所の霊場を大島内に開設することを発願し、同村庄屋池田重太・同村修験者金剛院玄空とともに幾多の苦心の末、文化4年(1807)4月1日、島四国八十八ヶ所の霊場を開いた。玄得らの行為は今治藩庁の忌諱に触れ、文化5年2月毛利玄得は、「衆人を騒がしたる段、不届きなる」として、家族ともども同郡名村へ配流された。文化7年4月流罪を解かれ本庄村に帰村、天保15年7月11日、74歳で没した。

 毛利  久 (もうり ひさし)
 大正5年~昭和62年(1916~1987)仏像彫刻研究家。大正5年10月4日、宇和島市に生まれる。宇和島中学校(現宇和島東高)から山口高等学校(現山口大学)へ進み、さらに、京都大学史学科を卒業し大学院に進む。中学4年で奈良・京都へ修学旅行に行き、有名な仏像を目の前にして感動し、仏像の表情を見て「この世にない美しさ」に心を魅せられた。大学院生時代にはアルバイトで京都府下の仏像総合調査に参加し美しさを実証的に追求する研究にめざめた。「仏師快慶論」で文学博士となり、京都大学、同志社大学、京都女子大学で仏像彫刻の講義を続け、昭和42年神戸大学文学部長となる。鎌倉彫刻研究の第一人者である。年に一度は故郷に帰り、ほほ笑みかける慈愛に満ちた仏の顔に優しい母の眼差しを思い、育ててくれた母に想いをはせる。仏を通じて、日本人の心を追い求める人でもある。本県とのかかわりは愛媛県史「芸術・文化財」の執筆協力者として参与する。昭和62年9月10日,70歳で死去。

 毛利 松平 (もうり まつへい)
 大正2年~昭和60年(1913~1985)衆議院議員,第二次田中内閣環境庁長官。大正2年7月16日,西宇和郡三机村大江(現瀬戸町)で生まれた。大洲中学校から慶応義塾大学法学部政治学科に進み,昭和13年に卒業した。南満州鉄道に入社して撫順炭鉱に赴任,労務課長として大学時代からの夢であった〝大陸日本の建設〟に取り組んだが敗戦で挫折した。帰国後,政治を志し27年10月の衆議院議員選挙に第2区から改進党公認で立候補して落選,以後28年4月,30年2月と計3回苦杯をなめた。この間,不屈の精神とたくましい行動力で支持層を拡大,33年5月の第28回選挙で初当選して念願の衆議院議員になった。以後,55年6月の第36回選挙まで9回連続当選した。その間,外務政務次官,衆院大蔵委員長,自民党副幹事長,党県連会長などを歴任,地元南予の水資源開発,南レク,道路整備などの事業推進に尽力した。49年第二次田中内閣の環境庁長官に就任した。豪放らい落な性格で武道をよくし,柔道七段,空手,合気道も高段者で武道館理事長,極真会会長を務めた。 58年2月25日勤続議員の表彰を受け,同年秋には勲一等瑞宝章を受章し,同年末の衆院選を機に健康上の理由で勇退,59年県功労賞を受けた。これを記念してこの年12月出身地の瀬戸町役場前庭に胸像が建立された。昭和60年5月24日,71歳で没した。

 毛利 明流星 (もうり めいりゅうせい)
 明治36年~昭和12年(1903~1937)俳人。明治36年7月22日,現八幡浜市舌間に生まれる。本名は明隆。八幡浜商業学校卒業後,大阪の丸善に就職,かたわら神戸高商受験のために勉強していたが病気で帰郷。一時,地元の小学校で代用教員,のち信用金庫に勤務。大正14年,ホトトギス系の松本松碧楼や宮崎軒月らの影響で句作を始めた。昭和7年から「若葉」その系列の「糸瓜」に投句。号も迷流星から明流星に改め,病床にあってひたすら句作に励んだ。同12年6月25日,33歳で死去。翌年『明流星句集』が刊行された。「メーデーや啄木歌集ふところに」「軒ふかくはばかり干すや盗み柿」など味わい深い句がある。墓は舌間にある。

 持永 義夫 (もちなが よしお)
 明治26年~昭和54年(1893~1979)昭和戦時下の県知事。明治26年6月4日,宮崎県北諸県郡三股村で生まれた。大正2年宮崎県師範学校,6年広島高等師範学校を卒業して鹿児島県立第一中学校教諭になったが,7年京都帝国大学法学部に入学して,10年3月卒業した。7月内務属に任官,11月文官高等試験に合格して,12月3日和歌山県下の郡長,ついで広島県理事官を務めた。15年本庁に帰り社会局事務官・書記官,福利・保護・庶務の各課長を歴任,昭和13年厚生省書記官になり傷兵保護院の業務局長に任命された。この間,昭和2年3月持永善一と養子縁組して小牧を持永に改姓した。 14年7月15日愛媛県知事に就任,1か年の在職中,国民精神総動員運動・皇紀2600年記念行事を進めるかたわら,干害対策,松山市と周辺七か町村の合併による大松山市の建設,弓削商船学校の国営移管などの事績をあげて,15年7月24日厚生省労働局長に転じた。持永の離任に当たり,「伊予新報」は,「着任の翌日干害地慰問と視察に出かけたり,足まめに地方に出かけたり,官僚臭くないのと超精力的なのに,近来の良二千石として敬意を集めた」と評した。 15年7月三重県知事,20年1月兵庫県知事,同年8月北海道長官,厚生省労働・勤労各局長を経て退官。 27年10月衆議院議員選挙に宮崎県2区から立候補して当選,28年4月再選された。昭和54年8月31日,86歳で没した。

 物   外 (もつがい)
 寛政6年ころ~慶応3年(1794ころ~1867)拳骨和尚で有名な曹洞宗の僧。松山藩の下級武士三木信茂の子,幼名虎雄,また吉次郎。諱を不遷と称した。6歳のときから,広島竜泰寺祖灯,同伝福寺観光に従い,さらに16歳以後各地の寺院の門をたたいた後,宇治興聖寺西堂の下で3年,越前永平寺学寮で2年と本格的な修行をした。その後も中国筋の諸寺を転々とした末,尾道済法寺に永住,諸堂の整備をする傍ら不遷流武道の教授に精励した。抜群の力持ちの上,拳法・柔術・剣術・鎖鎌・槍術に達し,諸地に逸話を残した。また,かつて在京中から勤皇の志士と交わり国事に奔走,慶応3年京都からの帰途船中に没した。

 元吉 秀三郎 (もとよし ひでさぶろう)
 万延元年~明治43年(1860~1910)言論人・鹿児島新聞主筆。万延元年7月14日,江戸藩邸で宇和島藩士の長男に生まれた。5歳のとき父に従って宇和島に帰り,同地の南予変則中学校から大分中津の慶応義塾分校に学び,のち東京の慶応義塾に移った。在学中から鶴城の筆名で東都の新聞に投稿し,中江篤介(兆民)の知遇を得た。明治15年「鹿児島新聞」の創刊に当たり社長野村政明が上京して福沢諭吉に記者派遣を請い,福沢は23歳の愛弟子元吉を推挙した。以後,鹿児島新聞の記者として活躍したが,明治21年10月,山本盛信に懇願され,野村が愛媛県の第1部長に就任したこともあって「豫讃新報」(のち愛媛新報)の主筆として松山に滞在,4年間当地で論陣を張った。その後再び鹿児島新聞に帰り,同社の監督ついで理事として経営に参加し,同新聞の基礎を築いた。社用で沖縄に出張中発病,明治43年4月6日49歳で没した。社葬で千数百人の市民が参列,言論界の先駆者の死を惜しんだ。

 本部  泰 (もとべ やすし)
 天保14年~大正4年(1843~1915)明治期の県知事。天保14年7月,因幡国(鳥取県)邑美郡馬場町で士族の家に生まれた。旧名勇之助。明治3年鳥取藩大監察・大属に任ぜられ,8年鳥取県警部,12年郡長,14年少書記官を務めた。17年福井県に転じ少書記官,大書記官,書記官,25年宮城県書記官,28年京都府書記官を歴任して,30年退職した。退職後は郷里の鳥取県に帰り,32年7月に結成された帝国党に参加,明治33年4月27日愛媛県知事に就任した。本県知事任命は,第二次山県内閣の与党帝国党の拡張策によると評された。本部は県政方針を土木・教育・勧業の三本柱に置いた。土木では,施行中の6か年継続土木事業を2か年延長するとともに,明治35~44年度の新しい10か年継続土本事業を計画した。教育面では,西条中学今治分校,宇和島中学大洲分校,松山商業学校の開校,郡立実業学校の補助など中等教育の充実を図った。勧業面では,農事試験場と南予・東予分場,水産試験場,工業試験場など試験研究機関を相次いで新設した。本県知事に3年10か月在職して,明治37年1月25日に病気を理由に休職した。「愛媛新報」は,「氏は年正に56,7にして小形の痩身なり,頭に少しく白髪を載き面色薄黒く,言語は能弁にあらざれども談話は頗る明晰にして,其の語る所は世の所謂保守的な政見を懐抱するものとは氏を知るものの公評なり」と,その容姿及び思想を紹介している。大正4年3月,71歳で没した。

 本山 茂任 (もとやま しげとう)
 文政9年~明治20年(1826~1887)幕末土佐藩の志士で石鐡県参事。文政9年,高知城下永国寺町で藩士本山伊平の子に生まれた。通称只一郎,諱初め茂樹,のち茂任。少壮の時より文武に励み,嘉永6年山内容堂の側小姓,安政3年幡多郡奉行,5年安芸郡奉行になった。その間,佐々木高行らと練兵海防について尽力した。文久元年藩主豊範の御側物頭役になったが,土佐勤王党に加盟し,2年豊範上京に従い三条実美の勅使東下に奔走した。慶応2年大目付になり,3年坂本竜馬から情勢を聞き藩兵を率いて上洛した。戊辰戦争が起こると,高松・松山征討に当たって土佐藩に与えられた錦旗を出征軍に授与した。維新後,新政府に仕え,明治4年12月松山県(のち石鐡県)の参事になり,6年2月愛媛県の誕生まで県政を担当,大区小区制の設定や学校造り,県民融和に尽力した。しかし,甥の九等出仕植村徳昭が大林寺で暗殺され,た事件で松山士族に疑惑を抱き,県庁を松山から今治に移すなど政務混乱を自ら招いた。晩年は京都賀茂神社の宮司として余生を送った。明治20年8月28日,61歳で没した。

 物部 醒満 (もののべ すがまろ)
 天保11年~明治33年(1840~1900)幕末・維新宇和島藩の重臣で,特設県会議員に選ばれ郡長を歴任した。天保11年9月宇和島城下で剣道指南役鈴木和太夫の次男に生まれた。本名震吉。年少より文武両道を修め,のち江戸の千葉周作に剣道を学んだ。帰藩後,伊達宗城の側近にあって,京阪の間を往来して国事に奔走し,この間神官の家を継いで物部醒満と称した。維新後,大阪裁判所内国事務掛,藩政改革取調加番などを勤めて帰国,明治2年宇和島藩権少参事,権大参事,廃藩置県後宇和島県八等出仕を歴任して退官,6年宇和津神社,8年和霊神社の各祠官を務めた。 10年特設県会議員に選ばれた。 11年12月郡役所設置に伴い岩村県令の人材登用策の1人として南宇和郡長に任命され,13年北宇和郡長,14年東宇和郡長を歴任して17年9月退任した。その後神職に帰り,明治33年6月11日,59歳で没した。

 物部  薬 (もののべ くすり)
 生没年不詳 伊予国風早郡の人で自村江の戦い(663)に出兵し,唐軍に捕われ,30余年の長期間にわたって唐に抑留された。帰国した後,朝廷は彼の忠節を賞して持統天皇10年(696)に追大弐を授け,絁四匹・絲十絢・布二十端・鍬二十口・稲千束・水田四町を与えたといわれている。(日本書紀)ちなみにこの時与えられた追大弐の位階は大宝令以後の官位では八位にしか相当しない。このことから推察するに,彼は地方豪族として指導的立場にあった人物ではなく,おそらく一般の公民であったと思われる。

 物部首 広泉 (もののべのおびと ひろいずみ)
 延暦4年~貞観2年(785~860)風早郡の人。天長4年(827)医博士兼典薬允となり,承和6年(839)正月正六位上から外従五位下に叙された。この間侍医に遷り,伊予,讃岐掾を歴任した。承和12年12月には侍医兼内薬正となったが,この官職は卒時まで変わらなかった。その後仁寿元年(851)正月に伊予権掾(その4年前の承和14年に再び伊予掾に就いた可能性もある),4月に次侍従,斉衡4年(857)正月に肥前介,天安2年2月に参河権介,貞観2年(860)2月には参河権守と進んだ。また位階も承和14年に従五位下,仁寿4年(854)正月従五位上,貞観元年11月には正五位下と昇叙された。この間仁寿4年10月には朝臣を賜姓されたが,同時にこれ以前,おそらくは同族と推定される物部首広宗とその弟真宗らが左京2条4坊に貫附された承和4年ごろ,同様に左京に移貫されたものと考えられる。
 以上の経歴から明らかなように,広泉の律令官人としての歩みは典型的な医療系官人としてのそれである。若年にして医術を学び,多くの方書を読破,さらに独自に薬石の道を究め,世に広く流布した『摂養要決』なる医書20巻を撰修したと伝えられる。しかしこの点はむしろ,伊予国風早郡の物部氏自体の氏族的性格とも考えられている。持統天皇10年(696)4月条に物部薬なる人名のみえること,さらに9世紀に入ると典薬権允として物部首広宗(前掲),元慶8年(884)2月には典薬助物部朝臣内嗣などの人名が確認でき,これらがいずれも同族と推測されることなどがその根拠である。広泉もかかる氏族的環境の下で医学関係の素養を積んで育ち,おそらくは「医疾令医生条」の規定などを利用し,中央官人として出仕したものと考えられるのである。
 広泉は貞観2年10月3日,75歳で没したが,その卒伝によれば,老境に入って鬚眉皓白となっても皮膚にはなお光沢があり,身体気力とも強健であったという。

 物部 小鷹 (もののべ おだか)
 養老7年~没年不詳(723~)温泉郡橘樹郷戸主秦勝広庭の戸口。天平勝宝9年(757)4月,画工司未選として造東大寺司に送られ,大仏殿天井廂の彩色に従事した。この時35歳である。小鷹は,天平年間以降の造宮造寺事業の拡大の中で,画工司に所属する正規の画師のみでは必要な仕事量を消化できず,国家によって大量動員された民間技術者の1人であった。未選とは未だ考選の対象となっていない,正式な下級官人としての身分を与えられていない状態をさす。彼の画工としての技術的素地および貢進の背景については,渡来系の大族秦氏が,画工に関わるものとして赤色顔料となる朱砂の発掘技術を保有し,伊予国等で採掘を行っていた事実が確認できること,その供給関係から画工司内に同族の人脈を有したと考えられることから,小爪の戸主秦広庭との関係に注目する見解もある。

 森 薫花壇 (もり くんかだん)
 明治24年~昭和51年(1891~1976)俳人。明治24年11月14日,伊予郡余土村西余土(現松山市)に生まれる。本名福次郎。 18歳の時,地元の森且朝のすすめで句作をはじめ,のち河東碧梧桐門下として句作,また,荻原井泉水・森田雷死久の指導も受ける。大正15年,富安風生を知り「ホトトギス」に投句。昭和7年,野間叟柳のすすめと後援により「糸瓜」を創刊。選者に風生を迎え,終生,同誌を主宰,伝統に根ざした愛媛俳句の普及と向上に貢献した。作風は穏健で,同時に進取の気風がある。同44年,県教育文化賞受賞。句集に『蟹目』『凌霄花』がある。句碑4基。昭和51年3月6日死去,84歳。

 森  茂雄 (もり しげお)
 明治39年~昭和52年(1906~1977)プロ野球監督。明治39年3月18日松山市萱町生まれ。大正11年(1922)から松山商業野球部内野手,藤本定義の1年下,同13年に主将で遊撃手,四番打者として好機に適時打を放った。同14年早大入り。主軸打者として春秋4度リーグ優勝。昭和2年(1927)早大5次米国遠征軍に先輩藤本と共に選ばれる。藤本のアダ名が「土佐」森のそれは「ブル」。同10年夏の中等野球大会で松山商業が初優勝した時のコーチが森。同年秋,阪神初代監督に就任30歳の最年少。その後イーグルス監督。戦後22年母校早大監督となり同33年まで在任10年,優勝9度,同26年春から5連勝,蔭山和夫。荒川博,広岡達朗,岩本尭,石井藤吉郎ら好選手を育てた。『野球理論』の著書で早大助教授。同34年大洋球団代表に就任,後輩三原修を監督に迎え翌35年セ・リーグ優勝を果たし後,川崎球場社長,同顧問。同52年(1977)野球殿堂入り。昭和52年6月24日,71歳で死去。

 森 昇三郎 (もり しょうざぶろう)
 明治25年~昭和42年(1892~1967)実業家,衆議院議員。明治25年10月20日,新居郡中萩村(現新居浜市)で生まれた。大正7年明治大学法律科を卒業後,経済学研究のため欧米各国に留学した。十五銀行に入り,ついで東明銀行清算人となり,のち朝日土地会社取締役,千代田商事会社社長を経て日本肥料工業専務取締役になった。昭和7年2月第18回衆議院議員選挙に際し,第2区で候補者難に陥った政友会工藤養次郎らの要請で急拠出馬し,当選した。代議士1期だけを務めて実業界に戻り,帝国商事会社取締役社長や国際親善協会理事長などになった。勲三等瑞宝章を授与され,昭和42年4月21日, 74歳で没した。

 森  退堂 (もり たいどう)
 生年不詳~文政4年(~1821)古田藩儒官。名は時言,通称は俊蔵,俳号を雨外という。寛政5年吉田藩主伊達村芳にまねかれて仕官する。詩書・俳諧をよくし,文章は絶倫といわれた。はじめ儒官として十人扶持表給人席であったが,その後加増して,御記録方,御届方を歴任,文政元年5月太刀格,同3年小姓頭に昇進する。寛政6年村芳に従って入国し時観堂の創立に参画した。著作に『藤蔓延年譜』があるが,これは慶長19年の秀宗入国より文化13年七代宗翰襲封に至るまでの吉田藩編年史の唯一のものであり,今でも郷土史研究の重要な史料となっている。逸話のない人物としても知られ,それだけにいかに謹直・孤高の人であったかがわかる。退堂の子に森秋水がおり,孫には森余山・森蘭谷がいる。文政4年10月29日,死去した。

 森  達三 (もり たつぞう)
 明治22年~昭和41年(1889~1966)弁護士,衆議院議員・実業家。明治22年10月2日,新居郡氷見村(現西条市)で森広太郎の次男に生まれた。家は有名な旧家・素封家で,達三誕生時地租2,139円を納める県下第一の大地主であった。西条中学校,第三高等学校を経て東京帝国大学独法科を大正5年に卒業,三菱商事に入社したが,7年東京で弁護士を開業した。9年5月の第14回衆議院議員選挙に際し,憲政会の要請で郷里第4区から出馬,家の名声・財力もあって32歳の若さで当選して代議士になった。次の大正13年5月第15回衆議院議員選挙では小野寅吉に予想外の大差で敗れた。昭和3年2月の第16回選挙でも立候補が取沙汰されたが出馬せず,5年2月の第17回選挙に民政党から立って当選,国会に返り咲いた。この間,中外壁紙会社取締役,東京調味会社社長となり,実業界でも活躍した。昭和41年11月20日77歳で没した。

 森 恒太郎(盲天外) (もり こうたろう{もうてんがい})
 元治元年~昭和9年(1864~1934)余土村長・県会議員,社会運動家。模範村余土村の名を高めた盲目村長。元治元年8月13日,伊予郡西余上村(現松山市)で庄屋森謙蔵の長男に生まれた。本名恒太郎。明治3年7歳のとき父を失い母の手で育てられた。明治10年北予変則中学校(のち松山中学校)に入学,草間時福の教えを受けた。 13年上京して中村敬宇の同人社などに学んで19年帰郷した。 21年小林信近・高須峯造らと改進党系の政治結社予讃倶楽部を結成,機関誌「予讃新報」(翌年「愛媛新報」と改題)の編集に従事した。 23年2月県会議員になり,27年3月まで在職した。当初改進党に属したが,23年10月の民党協調機関である愛媛合同倶楽部の結成に参加したのち,自由党に転じた。 27年30歳のとき眼に異常をきたし上京して治療を受けるが,29年両眼とも失明,再三死を考えるが,食事中膝に落した一粒の米を手にして悟るところがあり,京都比叡山で修業した。 31年村民の懇請で郷里余土村の村長に就任。 10年間にわたり,小学教育の改善,青年教育の実施,耕地の改良,勤倹貯蓄,共同購入,小作保護,副業の奨励の「余土村是」を実践し,模範村余土村の盲目村長の名を高めた。その間,正岡子規に師事して「天外」の号を受けたが,自らは「盲天外」と称した。明治40年村長を勇退,退職金を愛媛教育協会の経営になる愛媛盲唖学校設立資金に寄付した。翌年上京,魂の記録『一粒米』を出版した。42年内務省嘱託となって地方自治・民育発展のため全国を巡回講演した。 45年松山に帰り,肋膜炎の療養生活を続けた。大正7年温泉郡嘱託となり,郡内町村の指導と研究を続け,『温泉郡勢』(大正12年刊)にまとめた。 13年朝鮮総督府嘱託として朝鮮各地で農業道徳を説いた。帰国後,道後湯之町郊外に「天心園」という公民塾を創立して青年教化に当たった。昭和2年『体談物語我が村』を発行した。昭和6年9月~9年県会議員,7~8年道後湯之町町長を務めた。昭和9年4月7日69歳で没した。昭和28年,余土公民館の庭(現在余土小学校)に「盲天外・森恒太郎頌徳碑」が建てられた。

 森   肇 (もり はじめ)
 元治元年~昭和2年(1864~1927)言論人,衆議院議員。元治元年6月,松山の柳井町で生まれた。松山中学校を経て明治23年英吉利法律学校(現中央大学)を卒業。弁護士・特許代理の業務に従事した。 31年3月,同年8月の衆議院議員選挙に立候補したが,いずれも落選した。 35年8月の第7回衆院選挙で初当選したが,36年3月の選挙で山本盛信に敗れて落選,37年3月の第9回選挙で政敵山本を破って雪辱を果たし国会に返り咲いた。 41年5月の第10回選挙では松山市部で加藤恒忠とせり合い大差で落選,選挙運動のもつれから政友会を脱会したが,郡部で次点であったため田坂初太郎の辞職で繰り上げ当選した。この間,政党の所属も愛国党・憲政本党・無所属・政友会・中央倶楽部と変え,長髪の風貌と相まって話題の主であった。 35年6月,政見発表の機関として「伊豫日々新聞」を創刊,赤色紙を使用して〝赤新聞〟の評をとったが,経営不振で39年柳原正之(極堂)に譲った。大正8年には高須峯造らと愛媛県普通選挙期成同盟会を結成して普選運動に従事した。昭和2年1月23日62歳で没し,松山市山越の墓地に葬られた。帝劇の女優森律子は娘である。

 森  光繁 (もり みつしげ)
 明治24年~昭和51年(1891~1976)教育者。野間郡波方村樋口(現越智郡波方町)で明治24年10月11日に生まれる。大正2年,愛媛県師範学校を卒業し,小学校の訓導となる。昭和4年,大三島の盛小学校長となり,郷土研究にとり組む。同7年『盛郷土読本』を発行して,当時の文部省,地理学会から激賞される。その後,波止浜小学校,波方国民学校の校長を務め,その間「我が郷土」『興亜読本』『越智郡地理読本』などを刊行して,一途に郷土教育に打ち込む。
 同21年,退職して,今治商工会議所理事,今治ロータリークラブ会長,今治経済クラブ会長を務める。その間も『伊予水軍物語』『伊予の今治』『波止浜塩業史』『なみかた誌』等を書く。県教育文化賞,愛媛新聞賞を受賞する。盛小学校の石碑に「郷土を愛することは,正しく郷土を知ることである」の銘文がある。昭和51年2月10日,84歳で死去。

 森  余山 (もり よざん)
 文化14年~明治10年(1817~1877)詩人。古田の藩儒森退堂の孫で,幼時より非凡で,江戸に出て,帆足万里,佐藤一斉,安積艮斉らに学ぶ。吉田に帰郷した時藩主が登用しようとしたが,応じないで家を出て儒者となり,僧となり,各地を放浪し続けた。経史百家に通じ,詩文書画をよくし,なかでも絵は気骨のある風格ふみえ,詩は仙骨奇人の作にふさわしい趣をもっていた。弟に藩儒をつとめた森蘭谷がいる。明治10年9月25日豊後の竹中村勝光寺において60歳で没す。

 森  蘭谷 (もり らんこく)
 天保6年~明治36年(1835~1903)教育者,古田蒲の儒者。森秋水の子として生まれ,名は時貞,はじめ藩校の時観堂に学んだのち,江戸に出て,大槻磐渓に師事し,さらに藩命によって阿波徳島で洋学を修める。帰藩して藩校の教授をつとめ,明治に入ってからは,宇摩郡川之江の二洲学舎で子弟の教育にあたる。数年後,北宇和郡岩松町より招かれて私塾を開き,漢学を教えた。彼は朱子派の学者であるのみならず,王陽明,老荘の学説にも詳しく,釈教,蘭学の研究にも手をのばし,また詩文,書道にも通じていた。権勢に媚びず,世辞を言わず,無欲恬淡で,名利は眼中になかった。晩年,吉田に帰ったが,書物ばかりで金がないので門人たちが町内東小路に居宅を求めて終焉の地にさせたという。後年吉田の三偉といわれる。山下亀三郎,村井保固,清家吉次郎もその門下である。明治36年2月,死去。 68歳。蘭谷の子に森光嶽(仏教大学教授)がおり,晩年は吉田に没し,立間尻の海蔵寺に葬られる。

 森  律子 (もり りつこ)
 明治23年~昭和36年(1890~1961)女優。松山出身の弁護士であり代議士であった森肇の次女として,明治23年11月11日,東京で生まれる。跡見女学校を卒業して,英語学校に学ぶなど新しい時代の生き方を求めていた。明治41年広告を見て女優になる決心をしたが,両親は許さなかった。しかし,その熱意に負けて同意し,日本初の女優養成所の第一期生になり3年間修業。同44年帝国劇場の初舞台を踏んだ。初演以来,美しい顔と,明るくはなやかな性格で,帝劇の看板女優となった。大正2年にはシベリア経由でヨーロッパへ演劇視察にも出かけた。昭和4年,帝劇が解散となり,松竹に移り,新派に参加し,井上正夫ともたびたび共演した。昭和の前半中堅女優として花形になり,同18年を最後に舞台を退いた。昭和36年7月22日,70歳で死去。

 森  連甫 (もり れんぽ)
 天保9年~明治42年(1838~1909)俳人。松山市三津の米屋の人で,通称は栄次郎。実名は重連という。生まれつき風雅を好み,嘯月斉と号し,未生流の華道にも通じていた。俳句は三津の俳匠大原其戎について学び,其戎門下きっての逸材といわれた。明治42年8月18日死去,71歳。

 森岡 天涯 (もりおか てんがい)
 明治12年~昭和9年(1879~1934)社会事業家。明治12年,日振島(現宇和島市)に生まれる。本名捨松。同32年,20歳でアメリカ航路の船員となりシアトルへ行く。ホテルの皿洗いや牛乳配達をしながら苦学をする。新聞記者として活躍するが,滞米23年,大正10年,帰国し,南予農漁村の経済,文化の貧困と後進性の打破のため故郷で後半を捨てようと決意する。禁酒,禁煙の敬けんなクリスチャンであった彼は故郷の日振島で禁酒運動をはじめた。漁村と酒は断ち切れないものがあり,難事業であったが一人一人とひざ詰め談判で説得し,酒に使うカネで立派な小学校をつくらせた。薬師寺岩太郎らの協力で月刊雑誌「南予之青年」を出したり,大正12年には財団法人南予文化協会を誕生させた。また昭和3年には南予文化会館を建てようと寝食を忘れて資金作りに奔走し,昭和5年完工する。これは昭和20年の空襲で灰じんに帰したが,夏季大学をはじめ各種の社会教育の行事等に活用された。後,この会館の敷地売却代金で南予青年の家が建設され,天涯のともした火は消えないで今に生きている。ここには天涯の精神を頌徳する碑がたっている。昭和9年,満鉄の招きで満州各地を講演旅行中病に倒れて同年8月帰国,まもなく死去した。 55歳。

 森川 津奈雄 (もりかわ つなお)
 大正元年~昭和8年(1912~1933)歌人。大正元年10月23日,現八幡浜市大黒町に生まれる。本名綱男。父は缶詰工場を経営。大正14年4月,八幡浜商業学校に入学。この年,軍事教練強化のため配属将校が着任。「たんぼに視線を散乱させて/薬莢捜索/ミリタリズムの泥濘は/余りにふかく」など批判の新短歌を作る。昭和5年,歌集『ひからびた生命』,翌年,同人雑誌「亜熱帯」(のち「笞荊」と改題)を発刊。同年,歌集『仔鳥の戦術』を刊行した。 18歳の歌集で,青春の感傷やニヒリズムを歌った。同6年,友人と共同歌集『動線』を出版。同8年8月9日,病のため20歳余で死去した。墓地は市内大谷口にある。

 森川 智徳 (もりかわ とものり)
 明治3年~大正13年(1870~1924)上宇和村長。宇和平野の耕地整理を進めた。明治3年7月21日,宇和郡永長村(現東宇和郡宇和町)で山伏の家に生まれた。 35年1月衆望を担って28歳で上宇和村長に就任,39年1月まで在任して,宇和平野の耕地整理に取り組んだ。明治末期の耕地整理は大半を人力に頼る末知の事業であったが,私費で鹿児島など先進地を視察,県の補助を頼りに村民を説得して永長の一部をモデル整理して収穫倍増・裏作可能の実績をあげた。以来近隣地区もこぞって耕地整理に踏み切り,三好春治らに受け継がれて2次にわたる耕地整理事業が実施され,1,000町歩に及ぶ広大な宇和の穀倉地帯が出現した。のち修行して山伏になり,大正13年10月1日54歳で没した。三好春治とともに郷里の若宮神社境内に頌徳碑が建てられた。

 森実 盛遠 (もりざね もりとう)
 明治14年~昭和17年(1881~1942)松柏村長・県会議員。銅山川疎水実現に尽力した。明治14年9月1日,宇摩郡松柏村(現伊予三島市)で素封家森実弘の四男に生まれた。東京の日比谷海軍予備校に入り,37年善通寺騎兵11連隊に志願,日露戦争後除隊して帰郷した。明治43年森実回漕店に勤め,その後米穀肥料店を開業した。大正8年村民に請われて松柏村長に就任,以来24年間在職した。村政担当のかたわら宇摩郡民の悲願である銅山川疎水事業実現を計り,大正14年山中義貞らとその期成同盟会を結成して懸命の努力を傾けた。昭和3年12月山中義貞の補欠として県会議員に当選,6年9月まで在職,15年8月にも県会議員に再度なり,疎水事業に政治面で奔走した。昭和11年1月徳島愛媛間の分水協定が成立,同年11月疎水組合長にも推され待望の隧道工事着工となったが,完工を見ずして昭和17年7月4日,60歳で没した。

 森田 恭平 (もりた きょうへい)
 実業家。森田家は小松の一柳藩の小さい城下町きっての資産家で、お納戸方として古くから出仕していた。森田五右衛門正憲の子保之助に跡継ぎがなかったので西条朔日市木村家(当時近江屋 古川呉服店)から迎えられた人である。慶応義塾で福沢諭吉に師事したが中退する。大正3年、大谷池の築造にとりかかり、苦心を重ねて大正5年に完成し、水田開発に大きく貢献した。その功績は大谷池堤に頌徳碑が建てられていることからも明らかである。その他土本事業の完成にともなう失業救済のため、西条市関西捺染の下請け工場小松製布を創設したりもした。また西条銀行の取締役になって複式簿記の採用を英断をもってやる。囲碁、将棋、茶、油絵など趣味も多かった。

 森田 義郎 (もりた ぎろう)
 明治14年~昭和15年(1881~1940)歌人。周桑郡小松町に森田富蔵の五男として明治14年4月6日生まれる。本名は義良。松山中学校に入学したが,校長排斥運動に関係して退学,20歳で上京,国学院等に学ぶかたわら,石榑千亦,また千亦の紹介で子規に短歌の指導を受けた。千亦の「心の花」の編集発行を手がけるとともに,子規の根岸短歌会に連り,子規の看病もした。明治36年『短歌小梯』を出版,伊藤左千夫と「馬酔木」を創刊した。日露戦争前後から国粋的な政治活動に赴くようになり,明治39年政教社の「日本及日本人」の創刊に加わり,その記者になる。子規門の五百木瓢亭の影響が大きかったと思われる。晩年に至るまで歌作を続け,明治39年『万葉私刪』同44年『女流短歌評釈』『万葉短歌評釈』等を出版している。政治活動に意を得ず,三度の結婚にも失敗し,昭和6年帰郷し,「石鎚百首」を詠んだ。故郷も安住の地ではなく,上京して「老の歯がみ」16首等を発表したが,昭和15年1月8日58歳で孤独な一生を終わった。墓は東京芝の瑞聖寺,後豊島区本浄寺鈴木家(三度目の妻の実家)に改葬された。多感激情の人であったようで,恋歌や石鎚詠に秀吟を遺した。

 森田  栄 (もりた さかえ)
 明治10年~昭和19年(1877~1944)ハワイ移住者にして著述家,郷里の村長。明治10年6月12日に栄治郎の長男として東宇和郡土居村(現東宇和郡城川町土居)に生まれる。同29年村書記を勤め,同32年10月4日露国船ダルニストック号にて渡哇。同35年ワイパフにて写真館を開業。支店の開設,弟子の養成に努力。著作活動にも熱心で,その著書『ハワイ日本人発展史』(大正5年), 『ハワイ五十年史』(同8年)は天覧の栄に浴した。また,社会事業等にも尽力。明治36年,日本人会創設に,同44年ワイパフ曹洞宗教場創設に努力。大正9・10・15年の3回日本観光訪問団を組織,初めて皇居を拝観した。同12年大震災救恤義損金募集ワイパフ委員長,同13年より昭和2年まで総領事館事務嘱託として請願届代書取次人をつとめた。昭和2年郷党の勧めにより帰国,同6年より同14年までの8年間村長を勤め,郷里の発展に寄与した。昭和19年9月17日,67歳で死去した。

 森田 樵眠 (もりた しょうみん)
 寛政7年~明治5年(1795~1872)絵師。松山市三津に生まれる。生涯についての具体的なことはほとんどわかっていない。養神斎,惺々翁,魯樵などを号す。京都四条派の祖,松村呉春の門人岡本豊彦(前前の人)に絵を学び,後三津に住んで,当地の商人らの知遇を受けながら描き続ける。松山,三津地方にはかなりの数の遺墨がある。特に中予地区の神社仏閣には,現在でも軒並というほどの絵馬が残っており,今治藩の絵師山本雲渓の絵馬と相対するほどの人気を示している。松山市平田町阿沼美神社に残る「黄忠射纓報閣公之図」や伊予郡中山町大興寺の「童子読書図」などの絵馬には,狩野派の筆法をとどめながらも,そこには清新な写実があり,緊密な構図から生ずる動的な緊迫感には,従来の作家にはみられない新鮮な感覚がみなぎっている。樵眠の絵画は,四条派の祖呉春のそれに学んで,円山派的写生。と文人画的詩情とが渾然一体となってとけ合ったもので,画面全体が清雅で瀟洒な趣をもっている。京都の商人町衆の嗜好に合致し風靡した四条派を三津の商人達を介していち早く伊予に伝えた功績は大きく,天野方壷,岡本熊眠,松浦巌暉等の優れた門弟の輩出により,以後の愛媛画壇に大きな影響を及ぼしている。彼は文政から幕末にかけて活躍し,77歳で没す。

 森田 南濤 (もりた なんとう)
 文化5年~明治5年(1808~1872)絵師。小松藩士森田森蔵の三男に生まれ,19歳で江戸に上り,春本南湖の門下で学ぶ。山水,花鳥を得意とする。 38歳で小松藩絵師となり,当地で64歳で没す。

 森田 僻惰 (もりた へきだ)
 天明2年~天保5年(1782~1834)絵師。讃岐の生まれで,通称は帯屋佐兵衛または佐蔵という。号は松樹山人といい,松長年・延年ともいう。松山へ来たのは不明だが,竹の鼻(現松山市千舟町)に住み,裁縫を業としながら画を描く。茶道もよくし磁目も巧みであったといわれている。大高坂南海,宇佐美淡斎,杉山熊台,井門九渓らと親交があった。変かったふるまいのある人で当時の松山四変人といわれた。晩年道後の円満寺に碑を建てて〝へきだのつか〟と書き,側面に自像を彫った。

 森田 雷死久 (もりた らいしきゅう)
 明治5年~大正3年(1872~1914)僧侶,俳人。明治5年1月26日伊予郡西高柳村(現松前町)の生まれ。本名愛五郎,僧名貫了。 11歳で寺に入り,京都に学んで少僧都となり,明治28年から真成寺(伊予市),36年から常福寺(松山市潮見)の住職を勤めた。28年頃から俳句を始め, 33年「ほとゝぎす」に投句,10月に4点句に人選した。34年に海南新聞俳壇の選者となり,また松風会復興俳句大会を主導したりした。42年頃河東碧梧桐を知り,43年荏原村(現松山市)での碧梧桐の俳夏行に通い,新傾向俳句に進行ようになる。しかし全体的には真言僧徒としての真面目な句風を示した。大正3年6月8日,42歳で没した。

 森田 六太郎 (もりた ろくたろう)
 安政元年~明治38年(1854~1905)温泉郡中島地方におけるミカン栽培の先駆者。風早郡大浦村に生まれる。明治20年ころ反物の行商に出て,和歌山県から温州ミカン苗100本を購入して2反歩(20 a)余りの自園地に植栽した。その後数年にして中島地方に栽培の広がりをみることになった。

 森永 富茂 (もりなが とみしげ)
 明治32年~昭和40年(1899~1965)県議会議員・議長,大洲市長。明治32年8月16日,喜多郡柳沢村(現大洲市)で生まれた。大正12年貨物自動車運送業を始め,昭和14年喜多貨物自動車運輸株式会社に発展させ,16年には予州自動車株式会社に改組した。昭和4年以来柳沢村会議員の任を重ねた。 22年4月県会議員に当選,37年9月辞任するまで4期連続県議会に在職した。 29年3月~30年4月副議長に選ばれ,35年5月議長になったが,自民同志会の結成で自民党県連が二派に分かれて2人議長問題が起こり,同年12月に辞任しなければならなかった。 37年10月大洲市長選挙に立候補して当選,市民憲章制定,帝京第五高等学校の誘致,健康都市づくりなどを推進した。昭和40年1月14日,市長現職のまま65歳で没した。

 森平 茂左衛 (もりひら もざえ)
 明治26年~昭和50年(1893~1975)農林業の指導者,地方自治功労者。明治26年1月11日伊予郡中山村大字中山酉(現中山町)に生まれ,大正2年3月愛媛県立松山農業学校を卒業,同年12月から翌3年3月まで中山尋常高等小学校で代用教員を勤める。同3年4月以降農会技手,産業調査会書記,産業主事補,愛媛県農林主事等を勤める。昭和16年から19年まで産業組合長で戦時下の農村経営を指導,同20年から23年中山町農業会長,同23年から24年にかけて同町農業協同組合長として,戦後の難しい農政の指導に卓越した識見と手腕でもって組合の育成に貢献し,昭和33年4月農協設立l0周年に中山町農協組合長より感謝状を受ける。なお,同22年4月から26年4月まで中山町長,同26年4月から30年4月まで愛媛県議会議員(農林委員)として,地方自治のために活躍する。また,地方文化の進展に意を用い,中山高等学校が昭和23年9月定時制課程として設立,さらに31年4月全日制として新発足するために尽力した功績も大きい。さらに,同22年5月から中山町森林組合長,同27年1月から33年12月まで愛媛県森林組合連合会理事,同33年2月から同町木炭生産組合長,愛媛県木炭生産組合連合会理事などを歴任し,林業の経済性と地域社会の発展並びに近代林業経営に努め,昭和41年には全国森林組合連合会長から感謝状を受けた。同45年4月には,勲五等瑞宝章を授与された。昭和50年8月29日,82歳で死没。