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愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行)

 和気 貞規 (わけ さだのり)
 文化11年~明治35年(1814~1902)歌人。西宇和郡双岩の庄屋に生まれ,通称を権九郎とよぶ。幼時より非凡であり学を好み,二宮正禎,野田広足,清家堅庭らに国学を学び,和歌をよくした。また未生流自然斉について茶・華の道にも通じた。明治3年にこの地方に百姓一揆があり,百姓たちが庄屋を襲ったが,泰然として押し寄せた暴徒に対し,礼をもって応待し,その気概に呑まれて退散したという。老いても歌道に精進するとともに万葉集,古今集その他数十冊の歌書国典を筆写した。明治35年2月17日死去,88歳。

 和田 重次郎 (わだ じゅうじろう)
 明治8年~昭和15年(1875~1940)アラスカで大活躍した探検家。現周桑郡小松町出身,父は旧小松藩士。明治8年1月6日温泉郡枝松村(現松山市日の出町)の母の実家に生まれる。同23年16歳で渡米。捕鯨船に乗り組み,また犬ゾリにも習熟。後にアラスカ中部のタナナ地区で毛皮交易商を営んでいたが,同35年10月末同地区クリアクリークから20kmほどの所に砂金を発見。著名なフェリックス・ペドロと共に砂金発見者の一人としてゴールドラッシュをもたらし,フェアバンクス発展のもととなった。また,北極圏6千kmの探検に成功,未開地の地図作成にも活躍。大ゾリ競争にもしばしば優勝,「グレート和田」とたたえられた。昭和15年ロサンゼルスのホテルで死去。 65歳。彼については,マリー・リー・デービスの「アメリカの屋根裏・アラスカの内輪話」ほか古いアラスカ資料が多く,英雄的存在であったようである。国内では新田次郎が「犬橇使いの神様」でその活躍を紹介している。

 和田 清治 (わだ せいじ)
 明治18年~昭和24年(1885~1949)県会議員。明治18年11月14日,宇和郡津布里村(現西宇和郡三瓶町)で和田清治の三男に生まれた。宇和島中学校卒業後40年に酒造業を継ぎ,梅太郎を清治と改名した。村会・町会・郡会議員を経て,大正12年9月県会議員に選ばれ.14年2月まで在職,更に昭和2年9月~6年4月再度県会に列し,政友会に所属した。県会議員在任中,県道三瓶一宇和線の道路建設に尽力して完成に導き,人々はこの道路を和田道路と呼んだ。昭和24年6月18日,63歳で没した。

 和田 昌孝 (わだ まさたか)
 天保6年~明治43年(1835~1910)漢詩人・歌人。松山藩士の家に生まれた。通称は幾之進,字は子達,石潭と号した。「六稜吟社」同人。(六稜吟社は,近藤元脩主宰,明治10年11月~同22年1月。同人は武知五友ら20名。自筆月刊,当番幹事編集,回覧,相互批評記入,兼題詠詩,詩数自由)「香蘭吟社同人。(香蘭吟社は六稜吟社の改称,近藤元脩主宰。明治22年~大正2年。同人河東静渓ら10名,自筆月刊,当番幹事編集,相互批評記入,兼題詠詩,詩数自山。大正2年1月に「癸互吟社」となり現在に至る。)昌孝は特に詠史に長ず。多芸にして能・謡曲・詩歌・囲碁等通ぜざるはなし(近藤元脩評)といわれる。明治43年1月14日,享年76歳で死没した。墓碑は浄福寺にある。
 著書に『華稿』(明治20年~同31年の詩歌集)『備忘録』(明治41年詩稿集)がある。

 和田 通勝 (わだ みちかつ)
 生没年不詳 戦国時代末期の領主。久米郡志津川(現温泉郡重信町志津川)を支配領域とする。和旧氏(古くは志津川氏)は,鎌倉時代末期から断片的に諸書に姿を見せはじめ,戦国時代には河野氏の重臣として大きな勢威を有するに至った。天文23年(1554)に和田通興が河野氏に離反して討伐され,一時滅亡したが,その後,河野通宣(左京大兄)が牢浪していた通興の一族通勝を召出して和田氏の跡をつがせたという。通勝はまもなく河野家臣団の中に復帰して各地の合戦で数々の軍功をとげた。天正13年(1585),小早川隆景の伊予進攻によって河野通直が伊予を離れた際には,通勝も他の重巨とともにこれに従った。
 近世成立の『河野分限録』によると,河野氏の侍大将一八将のうちの1人で,渡辺・大西・日吉・木原・中など11氏を家臣として従えていたという。居城であった岩伽羅城は,重信町志津川の北方標高687mの山中に所在し,現在も3段にわたって削平された郭や数条の堀切の跡を確認することができる。

 和田 義綱 (わだ よしつな)
 天保15年~明治15年(1844~1882)学区取締として新居郡内の小学校造りに尽し,新居郡郡長として養蚕製糸の発展に努めた。天保15年西条藩士和田市太郎の長男に生まれた。通称東作。幼年時より文武を志し,藩命によって江戸で遊学,帰って藩学択善堂で教授した。維新後藩の少参事を務めた。学制が領布されると新居郡の学区取締を拝命して,小学校造りと就学勧誘に励んだ。明治11年12月郡役所開設に当たり県令岩村高俊の人材登用で初代新居郡長になり,郡治に尽力するかたわら自宅で製糸業を開始するなど殖産興業に努めた。14年郡長を辞任し30釜の製糸を経営して,この地方の士族授産事業の草分けであった。 14年12月地域民に推されて県会議員になったが,明治15年8月38歳の若さで病没した。西条福武村の常盤寺に葬られた。

 若林 賚蔵 (わかばやし らいぞう)
 慶応元年~昭和16年,(1865~1941)大正期の県知事。慶応元年11月28日越後国岩船郡村上本町の旧村上海士族の家に生まれた。明治22年9月帝国大学法科を卒業し, 11月警視庁属となった。 29年警視に昇進,以後,群馬県・沖縄県警察部長,警察監獄学校幹事兼内務書記官,山形県書記官・事務官,石川県内務部長を経,41年3月島根県知事になったが,同年8月韓国政府の要請に応じて同国警視総監に就任した。 43年6月奈良県知事,大正2年6月山梨県知事,3年6月佐賀県知事,4年1月香川県知事と地方長官を歴任,大正6年1月29日坂田幹太との交代人事で愛媛県知事に就任した。前任の坂田知事は,「若林君は所謂原案執行知事として有名な男で佐賀県を経て香川に来,一昨年通常臨時の両県会共に原案執行をやったらしい」と語っている。若林が県政1年目で取り組んだ重要課題は郡立学校整理問題であったが,東予の農学校新設問題が大いにこじれ,原案否決,再議指令,原案再否決を繰り返し,最後に知事が西条農業学校設置の原案執行を強行したため,県会との対立が高まった。県会は,県政2年目に勃発した米騒動・米価調節に対する県当局の不手際を厳しく糾弾するなど知事との対決が始終続いた。本県在任2年4か月で官立松山高等学校誘致を置き土産に大正8年4月18日広島県知事に転じ,10年7月京都府知事になった。広島・京都でも原案執行を行い,「原案執行知事」の異名をほしいままにして,「古武士の風格を備えた極めて頑固な人」と各県で評された。京都府会との紛争が長引き11年10月免官。同年12月貴族院議員に勅選され,2期在職して昭和16年11月27日,現職のままで75歳で没した。

 若松 総兵衛 (わかまつ そうべえ)
 文化11年ころ~没年不詳(1814ころ~)宇和島藩士で農政家。幼名堅治,実名常齢。札座下代伊作の三男として生まれ,文政5年若松常樹の養子となる。 15歳の時父の番代として勘定方出仕,天保2年家督を継ぎ扶持3人分9俵を受けた。その仕事柄や生活の苦しさ,あるいは父の友人であった和気書望の影響をうけ,早くから経済学に興味を持つようになる。この間,須合田よりの為登米引受方などを勤め,度々の褒賞を受けている。天保7年江戸詰となり,同8年か9年頃佐藤信淵に師事して経済学を学ぶようになる。天保9年には,同藩の小池九蔵も藩命で入門している。同12年小池とともに帰国しており,この時信淵の門を辞したものと思われる。信淵に「少壮なれども老実温厚,此もまた用に足」ると評された総兵衛は,その後経済学書物の調筆を仰せ付けられ,天保13年には津島組代官に,嘉永5年には野村組代官に抜擢されている。津島組では「人参代官」と呼ばれた程その栽培を奨励し,藩主宗城よりその功績を讃えられた。安政3年藩の物産方創設に尽力,翌年には物産方引受となり,万延元年には寒天製造の成績が良好であるとして,紋付 裃を賞与されるなど,殖産全般にわたり幅広い活動を示している。また安政3年には,『宇藩経済辨』を著述している。その内容は,間引きと紙生産のこと,物産取締りのこと,農民教化の必要性,田地の利用法,土方普請の改革案,旅米のこと,稲の品種利用のことなど多方面にわたる農政を論じており,さらに下上層貧窮の救済法にまでおよんでいる。ほかに『改正秘策』の著あり。墓は大超寺(現宇和島市)にある。

 若宮 養德 (わかみや ようとく)
 宝暦4年~天保5年(1754~1834)絵師。大洲若宮村(現大洲市)紺屋幸右衛門の次男として生まれ,文流斎と号す。幼少より画才を発揮し,父の勧めで長州狩野派の画家林美彦(文流斎洞玉)に絵を学ぶ。文流斎の号はそれに由来するという。大洲十代藩主加藤泰済(文龍)に認められ藩絵師となり,藩命により江戸木挽町狩野惟信(養川院)に師事し,花鳥・人物・獣魚を得意とする。小林西台・大橋英信(文養斎)ら多くの門弟を育成し,伊予各藩の画流に大きい影響を及ぼし,藩内の社寺に多くの障壁画など力作・大作を残す。天保5年5月6日死去,養德の嗣子若宮晴德は分江,蝸牛斎とも号し,狩野栄信の門下に学び,父のあとを継ぎ藩絵師となる。晴德の門人玉井勝流(閑林斎)は一時晴德の養子となり藩絵師を継ぐ。その子勝岳も絵が巧である。晴德の子勝鵾も父のあとを承け木挽町狩野門下で絵を学ぶが維新の混迷で同門は離散,塾長狩野邦崖,橋本雅邦らと各地を流浪。明治40年7月2日大阪で没す。 80歳。勝鵾には嗣子なく,若宮家はここで断絶。

 脇坂 安治 (わきざか やすはる)
 天文23年~寛永3年(1554~1626)大津(洲)5万3,500石脇坂家初代藩主。近江国浅井郡脇坂の庄に生まれる。16歳で初陣。秀吉に謁見して食禄3石を与えられ,以後秀吉に従って転戦,天正11年近江国賤が嶽で,柴田勝家との合戦に7本槍の1人として功を立て,軍功により3,000石の領地を与えられた。ついで伊賀上野を陥れ,特命により伊賀一国の経営に当たった。天正13年摂津国能勢郡内で1万石の地を与えられ,つづいて大和国高取城2万石へ転封,さらに淡路国須(洲)本城へ転封した。天正18年には,小田原城攻撃に船手の将としで活躍した。文禄元年朝鮮の役には,船手の将として,須本の兵1,500人を率いて出陣し,熊川を中心に敵と交戦。慶長2年朝鮮再征の際にも船手の将として出陣,加藤清正を蔚山に包囲した敵の背後を衝き,清正救援に成功した。功により帰国後3,000石を加増された。慶長5年の関が原の戦いでは,かねて徳川家に内応の密約をしていた小早川秀秋の隊に属し,石田三成方を破り,佐和山城を陥れた。慶長14年,伊予国喜多郡・浮穴郡・風早郡において5万3,500石の領地を与えられ,大津城に入った。慶長19年大坂冬の陣に当たっては,豊臣家の旧恩を思ったが参陣せず,翌元和元年隠居を願って許された。子安元の大津襲封とともに,大津を去り,入道して臨松院と号し,京都西洞院に住み,寛永3年72歳で没した。京都妙心寺に葬る。

 脇坂 安元 (わきざか やすもと)
 天正12年~承応2年(1584~1653)大津(洲)脇坂家第二代藩主。大津初代藩主安治の嫡子。慶長5年従5位下淡路守に叙任。同年の関が原の戦いで,父安治と行動をともにし,徳川方の勝利に貢献した。慶長14年父安治に従って大津入城。慶長19年徳川家康から大坂方追討令が発せられたが,豊臣家の旧恩を思い出陣しなかった父安治の身代りとして,先鋒藤堂高虎の組に参加して大坂表へ出動,生玉付近に布陣して大坂方を攻撃した。元和元年父の隠居に伴い襲封したが,この年大坂夏の陣が起こり,天王寺表に出動して,大坂方と激戦を交えた。その功により,元和3年5万5,000石に加増。信州飯田城を与えられた。 70歳で没。脇坂家2代の大洲領支配は満8年の短期間であったが,慶長15年には給地支配の法度を発して,給人の専横を抑え,庄屋体制を創始して,郷村制の基礎づくりをし,大津城とその城下町を建設したこととならんで,大洲藩体制成立への政治をしいた点が注目される。

 脇屋 義助 (わきや よしすけ)
 徳治元年~興国3年(1306~1342)鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。次郎。新田義貞の弟。上野国新田郡脇屋(現群馬県太田市脇屋)を本拠とし,脇屋と称す。元弘3年(1333)義貞の鎌倉攻めに従い,建武政権下では,武者所・駿河守に任じられた。足利尊氏が反旗をひるがえしたのちは,義貞と協力して武家方の討伐に各地を転戦。義貞とともに北国に赴くが,義貞の戦死後,越前・尾張国などで苦闘のすえ,吉野に帰る。興国3年4月,懐良親王が九州へ渡海した後の四国の宮方統率のため,伊予に下向してきたが,同年5月国府(現今治市)で病没した。

 鷲尾 勘解治 (わしお かげはる)
 明治14年~昭和56年(1881~1981)実業家。兵庫県武庫郡須磨村(現神戸市)で明治14年5月10日生まれる。神戸一中・五高・京都帝大法学部卒業。京都大学時代に大徳寺広州の下で禅の修業を積み,師広州と鈴木馬左也との関係から住友別子鉱業所に入社。鷲尾の入社は,明治40年(1907)の別子銅山の坑夫暴動の直後であり,彼は一介の坑夫として3年間坑内で働き,その体験をもとに坑夫教育に当たった。明治45年,鈴木総理事の支持を受けて私塾「自彊舎」の塾長となり,坑夫との労使関係の融和に努め,大正11年,別子鉱業所労働課初代課長。昭和2年(1927),別子鉱業所支配人,昭和5年,住友合資会社理事。彼は,昭和初年,白石誉二郎新居浜町長を資金的に援助して新居浜港の築港と海岸部の埋立てに力を貸し,都市計画道路を完成して昭和通りと命名した。住友機械の創設,住友化学の拡張など鉱山に代わる産業振興策など四国一の工業都市新居浜発展の基礎を築いた。住友退職後は大日本航空輸送,五反田クレーンを経営していたが,昭和28年旧知の人々に招かねて,新居浜市で晩年を送る。昭和56年4月13日死没,99歳。

 鷲野 南村 (わしの なんそん)
 文化2年~明治10年(1805~1877)庄屋,漢学者・教育者。伊予郡南黒田村庄屋梅三郎の長男として文化2年7月25日生まれた。幼名は富貴太,長じて蕗太郎,諱は翰,字は子由または子羽。南邨,松隠とも号し,また鷲惟清とも号した。幼時より博覧強記「神童」と称された。親友陶惟貞と共に沖荘助,宮内桂山に素読を受け,ついで大阪に出て篠崎小竹の新梅花社に入塾した。頼山陽一家らの研学と親交を結び,学業大いにあかって塾頭を務めるまでになったが,父病弱のため帰郷,庄屋職をついた。職務に精励する傍ら私塾橙黄園をおこして子弟を教授し,自室を雪月楼と名づけ,京阪より直接書籍を購入して萬巻の書を読み,詩作に励んだ。南村の処世観は朱子学の基本「修己」にあった。済の国子鑑祭酒(大学総長)江亀の箴言を座右に置いてその実践に精励した。庄屋職として誠実無比,謙譲真摯少しも怠ることはなかった。また,生涯を通じて学間に励み,旧師小竹を敬慕して道後温泉への来遊をしきりに勧めている。
 下三谷庄屋宮内幾右衛門と共に小松に近藤篤山を訪ね,教えを受けている。
 南村がのこした膨大な庄屋文言,蔵書をみる時,いかに誠実に生涯をおくったかがわかる。遺墨も多数あり,門弟らが編さんした『南村翁遺稿(1)』がある。続刊の予定はあったのであろうが編さんされていない。自筆日記に『鷲氏日乗』がある。弘化3年(1846)元旦から同年11月9日までの私的な日記である。
 門弟は相原賢ら俊英多数,昌農内庄屋窪田節二郎(後の県会議員,松山市会議長)らは10年にわたって教えを乞うている。明治10年8月15日没,享年72歳。郡中五色浜に頌徳碑がある。

 鷲谷 石斎 (わしや せきさい)
 文政12年。~明治32年(1829~1899)画家。松山に生まれる。本名を横山五平,幼名を久次郎といい,石巒の甥に当たる。染物業を営みながら絵をよくし,松山周辺の社寺に多くの絵馬を残している。伊予郡松前町,高忍日売神社の「霊峰石鎚神社図」や温泉郡川内町,金毘羅寺の「東征将軍御謀叛人生捕図」などが代表作で,強烈な色彩と筆刀によって生々しい現実感を表出している。70歳で没す。

 鷲谷 石巒 (わしや せきらん)
 天明8年~明治4年(1788~1871) 幕末の彫刻家。広島県長浜に生まれる。通称を三十郎といい,楠谷,道楽山人,我楽等の号がある。松山松前町の酒屋に奉公の折,浅海村(北条市)の染物業横山家の鷲屋五兵衛に画技を見出され,家督を継ぐが,家業に励まず,彫り物に熱中したため,松山城下萱町に別家となる。天保3年(1832)当時明教派教授の目下伯巌に連れられて江戸に出て彫刻の腕を磨く。江戸高輪泉岳寺住職にその技量を認められ,赤穂浪士47体の木彫像の制作を依頼され,大石良雄父子ら主たるもの10体を彫る。当義士館には現在四十七士に関する遺品と共に全員の木像が陳列されていて,その偉容を誇っている。他に茨城県笠間稲荷神社楼門の二体の随身像があり,豪放な面取りと単純化されたフォルムの中に江戸細工師としての高度な技術が随所に示されている。これによる名声から,松平侯の命で印籠に千羽鶴を,水戸家では桜田烈士木像を彫ったと伝えられている。晩年は松山に帰り,83歳で没している。

 渡辺  修 (わたなべ おさむ)
 安政6年~昭和7年(1859~1932)衆議院議員,実業家。宇和水力電気会社を創業した。安政6年12月,宇和郡泉村岩谷(現広見町)の庄屋の家に生まれたが,明治3年11歳のとき家財を失った。勉学の志消えず,宇和島の南予中学校(現宇和島東高校川こまで歩いて通学,毎日米麦を担いで運びその利ざやを学資にしたという。豊前中津の慶応義塾分校から慶応義塾に進んだ。明治15年以来農商務省・外務省・逓信省の官吏や愛媛県内務部長・佐世保市長を歴任,役人生活を20年経験した。明治35年8月政友会に所属して衆議院議員選挙に立候補当選したのを最初に,大正13年1月まで連続7期当選して,22年間代議士の地位を維持した。 43年宇和水力電気会社を創立して社長になり,南予に電気をともした。その後,大阪電灯会社社長,大阪三品取引所理事長,日本電気協会会長などを歴任した。昭和7年10月15日大阪で没した。72歳。ほとんど東京・大阪で暮らしていたが,郷里のことも忘れず,昭和5年の農村恐慌時には泉村に5千円を寄付して貧民救済の助けとした。死後の昭和9年2月1日泉村役場横に胸像が建てられた。太平洋戦争時の金属回収で供出されたが,現在広見町就業改善センター前庭に再建されている。

 渡辺 勘兵衛 (わたなべ かんべえ)
 永禄5年~寛永17年(1562~1640)今治築城奉行。近江国浅井郡速水庄(滋賀県湖北町)に永禄5年に生まれる。戦国末期の武将,兵法家。幼名源之助,名一雄,諱は了又は直,号推庵。名利を求めず武辺一徹,信義に篤い不世出の勇将といわれる。天正6年阿閉万五郎に属して摂津の荒木村重を攻め,同10年秀吉に召出されて百人扶持を得,ついで羽柴秀勝に仕えた。天正13年四国征伐のため阿波国一の宮を攻めたが秀勝が没して浪人となり,同17年中村一氏に招かれ1,000石を領した。翌年北条征伐の伊豆山中城攻めでは秀吉に軍略を賞せられ,懇望によって増田長盛に仕えた。関ヶ原の戦では主君出陣の後の大和郡山城の留守を預り,その采配や開城の手際の良さは藤堂高虎の感じるところとなり,慶長9年11月2万石の高禄で召し抱えられた。今治築城では築城奉行として縄張に才を発揮し,今日も勘兵衛石を伝えている。大坂の陣では高虎の先鋒として出陣し,八尾・平野辺で藤堂家第一の戦功をあげたが,譜代の老臣を失ったことや作戦上で高虎と意見が合わず,戦功は認められず,暇をもらって大津に引退した。その後召し抱えんとする大名も多く,酒井忠清・土井利勝らも勘兵衛の知勇を惜しんで高虎との和解を図ったがならず,寛永のころは京都大仏ノ馬町に隠棲しており,寛永17年7月24日同地に78歳で没した。墓所は京都誓願寺。真性院一雄推庵大居士。

 渡辺 祐常 (わたなべ すけつね)
 安政4年~昭和17年(1857~1942)成妙村長・県会議員。安政4年1月23日,宇和郡国遠村(現北宇和郡広見町)で今西権四郎の四男に生まれた。好藤村長・県会議員の今西幹一郎,衆議院議員・阪神電鉄専務の今西林三郎は実兄である。明治28年1月北宇和郡成妙村戸雁(現三間町)の渡辺家に養子入籍した。30年3月成妙村長に就任したが,31年4月病気のため辞任した。 40年9月~44年9月県会議員に在職,政友会に所属した。その後,南予製糸会社の常務取締役などを務めた。昭和17年2月23日,85歳で没した。

 渡辺 静一郎 (わたなべ せいいちろう)
 明治10年~昭和17年(1877~1942)三芳村長・県会議員。明治10年4月7日,桑村郡三芳村(現東予市)で渡辺健蔵の長男に生まれた。東京の郁文館中学校を卒業して,38年5月父の後を受けて22歳で三芳村長に就任,以来大正12年11月まで19年間村政を担当,四阪島煙害賠償問題,小学校建築,国鉄三芳駅開通などに尽力した。大正4年9月県会議員になったが,周桑農蚕学校の県立移管を無視しての県立西条農業学校設立に抗議して7年10月議員を辞職した。同年11月再び県会議員に選ばれ8年9月まで在職した。昭和17年2月3日,64歳で没した。

 渡辺 唯一 (わたなべ ただいち)
 嘉永4年~大正13年(1851~1924)教育者。嘉永4年3月15日大洲に生まれる。号は遂軒,また四勿ともいう。明治5年神山県小学校教官となり明治7年まで務める。明治8年広島県師範学校を卒業し,秋成小学校在勤のまま小学連区監視を兼務する。明治11年共済中学,喜多学校(現大洲高校)の校長となり同24年まで13年間勤務し,中等教育の拡充発展に努め,幾多の俊秀を輩出した。大正13年2月16日死去,72歳。大洲市寿永寺に墓所があり。

 渡辺 成寿 (わたなべ なるひさ)
 明治6年~昭和7年(1873~1932)広田村長。村道改修事業に尽くした。明治6年2月9日,下浮穴郡玉谷村(現広田村)で旧里正渡辺景成の長男に生まれた。41年広田村長に就任,以来大正9年まで12年,間にわたり村政を担当,砥部村境一田渡村境の10kmに及ぶ林道改修を8年間の苦闘を続けて完成した。また造林事業の振興や蓄産の奨励にも努めた。昭和7年6月12日,59歳で没し,同30年2月その頌徳碑が建立された。

 渡辺 秀雄 (わたなべ ひでお)
 慶応元年~昭和18年(1865~1943)地方自治功労者。慶応元年11月10日越智郡朝倉上村(現朝倉村)に生まれる。渡辺忠蔵の長男。明治23年25歳の時,上朝倉村の助役に就任,同34年村長となり,2期勤める。周桑郡と境界をなす世田山,実報寺山,椎本山等は藩政時代は入り会い山で,廃藩置県後は国有地となり荒廃のまま放置され,度々洪水をおこした。
 渡辺秀雄は,治山治水することによって村興しを考えた。単身上京,農林省を訪れ,国有地を民有林に無償払い下げを懇請,上京は回を重ね,その間私財を出して奔走数年に及び,ついに悲願を達成することができ,朝倉側71ha,実報寺側36ha計107haの山林を共有山として,農林省より無償払い下げを達成した。これらの山地に砂防・植林計画を,白石太平・越智玉助・武田半次郎ら有志の援助を受けて,完遂することができた。朝倉村をめぐる山々は立派に緑の木が成長した。第二次世界大戦中これら山々の木材は伐採されたが,戦後再び植林され,以前どおり立派な造林がなされた。
 また,立花村(現今治市)の小学校の建設敷地問題で内紛がおこり,収拾に困っていた。明治42年彼が村長に迎えられ,円満解決をした。大正4年上朝倉村村長に就任同12年職を辞した。晩年三か所にため池を造成,このように,村や町の人々のため働くことを人生の喜びとした。昭和18年3月19日,77歳で死没した。昭和30年3月頌徳碑が建てられた。

 渡辺 満三 (わたなべ まんぞう)
 明治25年~大正14年(1892~1925)労働運動家・日本共産党創立者の1人。明治25年1月7日温泉郡湯山村河申(現松山市)で生まれた。本名万蔵。小学校卒業後松山の時計店を経て大正4年上京,精工舎に就職した。9年3月巣鴨のナポルツ時計工場で時計工連合会を結成,翌年組合幹部の解雇反対阻争を指導して労働運動界に頭角を現わした。9年日本社会主義同盟結成の発起人となり, 11年共産党の創立と同時に入党,12年第1次共産党事件に連座して収監された。 13年時計工組合を総同盟に加盟させ,14年治安維持法案の議会上程阻止デモを指揮中に検束され,宿痾の結核が悪化して大正14年5月11日,33歳で没した。

 渡辺 百三 (わたなべ ももぞう)
 明治30年~昭和53年(1897~1978)実業家,野村町長・県議会議員・議長。明治30年5月16日大分県大野郡大野町で渡辺高二郎の次男に生まれた。大正3年農機具商を始め製材業に手を広げ,昭和3年野村町中屋敷に製材工場を建設して移転,その後,卯之町や遊子川村に製材工場を設けた。昭和10年県木材代表として北支・満州に木材事情の視察を行い,満州石油会社に石油箱納入を開始した。 13年野村自動車運輸会社社長,14年野村商工会長,18年予州自動車会社社長にそれぞれ就任,20年12月野村町長になり,終戦直後の一時期町政を担当した。22年4月戦後初の県会議員選挙に当選,地方自治法に基づく初代県議会議長に選ばれ,1年間在任した。 23年12月県議会議員を辞職して24年1月の第24回衆議院議員選挙に第3区より立候補したが落選した。 26年4月~30年4月再び県議会議員に在職した。昭和53年5月2日,80歳で没した。

 渡辺 義久 (わたなべ よしひさ)
 明治17年~昭和43年(1884~1968)横林村長・県会議員。明治17年8月10日,東宇和郡予子林村(現喜多郡肱川町)で生まれた。 43年横林村収入役を経て大正7年同村長に就任,昭和14年10月まで村政を担当した。昭和2年9月~6年9月県会議員に在職した。昭和43年1月11日,83歳で没した。

 渡部 明綱 (わたなべ あきつな)
 嘉永7年~大正15年(1854~1926)私立愛媛県高等女学校創立者の1人で,初代校長。嘉永7年5月4日松山の湊町で生まれ,明治10年愛媛県師範学校を卒業した。伊予・下浮穴郡役所の書記を務め,第一中学校などで教鞭をとった後,松山高等小学校長中村一義らと明治24年4月私立愛媛県高等女学校を開校した。開校当初は志望者が少なく経営難に陥ったが,渡部らの努力と県・政財界の援助で次第に学校経営は軌道に乗り,明治31年校長に就任した。同34年県に移管され,県立松山高等女学校に改称後も引き継ぎ校長に任じ,大正2年退職するまで女子教育の代表者として活躍,松山高等女学校を県立高女の中心校に発展させた。その教育方針は,「まず良娘淑女たることを期せしめ,ついで良妻賢母となり,ついには慈母となって有終の美をなさしめるよう,終始軌道をひとつにして,日本の婦人として恥じない女性を育成する」ことを主眼とした。大正15年10月9日,72歳で没した。

 渡部 箕田 (わたなべ きでん)
 明治12年~大正7年(1879~1918)政治家,俳人。明治12年10月9日下浮穴郡東方村(現松山市)に生まれた。名は綱興。父操長綱は天保15年(1844),君命により南方八幡より入庄屋として分家して来た人で,「因阿」と号し,「因是」と号した兄渡部治郎兵衛長裕とともに俳諧を好み,地方に聞こえた。その長綱の三男が綱興で,村会議員・県会議員・同設長(昭和6年12月より昭和7年11月)まで勤めた名士である。はじめ「海鴎」,のち「箕田」と号して俳句をたしなみ,地元の俳句結社,「金平会」の中心となって活躍した。明治39年から明治44年にかけて,河東碧梧桐が全国大旅行の途中,明治43年(1910)8月3日から10日までの8日間,温泉郡荏原村の大蓮寺で,この「金平会」主催の俳夏行に参加してこの地の俳人を指導した。その時の箕田の句に,
  神農の嘗め初めしより蕗苦し 箕田
      (碧梧桐『続三千里』より)
 又,大蓮寺の俳夏行に,温泉郡潮見村平田(現松山市平田町)から遠路参加した俳僧森田雷死久(宝珠院常福寺住職)と,果樹園芸研究会を興し,梨栽培にもつとめた。その大蓮寺の道路を隔てたすぐ北側が渡部邸で,敷地2400平方m,4棟からなる豪農の建物。慶応2年(1866)上棟。国の重要文化財である。箕田こと綱興の長男が,伊豫銀行の頭取・会長をつとめた渡部七郎である。大正7年(1918)11月26日,享年40歳で没した。

 渡部 好五郎 (わたなべ こうごろう)
 明治元年~昭和19年(1868~1944)県会議員,銀行頭取。明治元年10月27日,風早郡別府村(現北条市)で生まれた。 34年村会議員,36年・郡会議員を経て40年9月県会議員になり,政友会に所属して人正4年9月まで2期在職した。 41年には北条勝山銀行頭取に推され,大正元年~5年河野村助役を務めた。昭和19年6月3日,75歳で没した。

 渡部 善次郎 (わたなべ ぜんじろう)
 明治10年~昭和14年(1877~1939)松山高等商業学校校長。明治10年下浮穴郡田窪村(現温泉郡重信町)で生まれ,明治30年松山巾学校を卒業,文部省中等教員検定試験に合格して,山中学校に迎えられたが,自学の志厚く,36年早稲田大学に編入して翌37年卒業した。同年アメリカのエール大学に留学して政治経済学を修め,文学士の学位を得た。帰国後は東洋大学・拓殖大学など数校で教鞭をとり,大正12年松山高等商業学校(現松山商科大学)創立とともに赴任して校長加藤彰廉の補佐役教頭の職に就き,松山高等学校の講師を兼ねた。大正13年衆議院議員選挙に際し大正デモクラシーの風潮の下,学者候補として松山高校・松山高商の教官・学生に要請されて立ったが,落選した。昭和6年脳溢血で倒れ健康の回復はかばかしくなく松山高等商業学校教授を辞任したが,同年11月加藤校長死去の後を受け,理事井上要の強い推挙で松山高商二代目校長に就任した。しかし教職員の中には言語障害の病状から校長就任を不本意とする空気かあり,風紀取締規則の強化や教授解職開題などで学生間にも校長排斥の動きが生じ,昭和9年5月卒業生数人による睦月島監禁・校長退任要求事件が起こって校長を辞職した。昭和14年62歳で没した。

 渡部 高太郎 (わたなべ たかたろう)
 明治44年~昭和58年(1911~1983)県議会議員・議長,農政指導者。明治44年9月8日,周桑郡徳田村徳能(現丹原町)で生まれた。昭和4年西条中学校を卒業,家業の製薬業を継ぎ,心臓薬などを製造した。徳田村会議員になり,戦時中には周桑郡在郷軍人会連合会長などにあげられた。戦後,徳田村教育委員長を経て昭和30年4月県議会議員に当選,以来58年1月死去するまで迪続7期在職,民主党一県政クラブー自由党に所属し,39年3月~40年3月議長に就任した。自民党県連幹部の1人で,昭和55年12月~57年3月再度議長の重責を担った。32年以来,東予養蚕連合会長,道前平野土地改良区理事長・県農業協同組合中央会副会長などを歴任,43年6月~55年5月県農業協同組合中央会会長として,専門・総合農協紛争の調整,県農業基本構想の発表,日米農産物交渉の対応などで活躍した。 48年藍綬褒章,56年勲三等瑞宝章を受けた。文人としても書画をたしなんだ。昭和58年1月4日,71歳で県議会議員現職のまま没した。