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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

1 縄文前期・中期における生活立地と生活

 生活立地

 縄文前期全般にわたる生活立地については、いわゆる縄文海進とのからみからも一元的に把握し難い。ほぼ縄文早期中葉ごろから始まる海進的様相は、この期の前半ないしは中葉にその最頂期を迎え、このとき現海面比高プラス五~一五メートルにも達したとみられている。しかしながら、最頂海進時の海岸線を比定する作業は、その後の沖積の様相や地殼変動、さらには領家花崗岩帯に顕著に現出するずり落ちなどに左右され、現実にはなかなか困難である。
 比較的安定した様相をもつ立地に形成されたものとし得る前期前半の遺跡として、標高七〇メートルの西条市市倉、八〇メートル前後の松山市谷田Ⅱ(上野)、川内町宝泉、一五メートルの御荘町深泥遺跡、五〇メートルの一本松町茶道、五二メートルの一本松町広見、一〇〇メートル前後の城辺町梶郷駄馬、それに内陸部の上黒岩岩陰、中津川洞、津島町影平遺跡、池の岡遺跡などがあげられ、この中には早期からの系譜をもつものが多い。
 一方、海浜に強くかかわりをもったと想定し得る遺跡は、御荘湾の南岸に突出する恰好の海岸段丘上に占地する前述の深泥遺跡を始め、宇和島市三浦の無月遺跡、波方町水崎遺跡、伯方町熊口遺跡、大三島町大見遺跡などがある。これらには、この期を始源とし縄文中期さらには縄文後期にわたる定着化をみた、熊口、水崎なども含まれる。
 しかし、これら島嶼部・臨海部の遺跡は、すでに触れたように、海浜に接する破砕度のきわめて高い領家花崗岩帯上に、かつ湧水源ないしは小河川に沿って占地したため、急激なずり落ち現象を受け、現状は二次堆積された海面下に遺物が発見されることが多い。熊口、水崎では海底面下の比較的安定した単一文化層に、各期の縄文土器が一括して包含されていた。したがって同伴する漁撈具がどの期に比定し得るかの問題が残るものの、この時期、何らかの漁撈的生活を目途に海辺に進出しはじめたと考えてよい。
 縄文前期は、かならずしも均衡のとれた採集技術を軸にして順調には進展し得ない環境下にあったとされる。水崎Z式土器期(中瀬戸内の里木Ⅰ式に比定―縄文前期後半)以降、安定した生活相の観取できる水崎遺跡などは、海進最頂期後の安定した環境の成立を前提とするものであり、ほぼ採集生活の転換期とされる縄文前期中葉ころは、立地の選択も含めて多様にわたらざるを得ないものであった。そこではより広範な集団移動や環境適応、採集技術への新たな試みも行われたに相違あるまい。
 前述した海辺部に立地した遺跡は、中津川洞第二層、深泥遺跡などの、石鏃製造跡的性格をも想定されるほどの伝統的狩猟手段の拡大の様相に対し、何らかの漁撈的生活への模索が存在したものと考えてよい。しかも水崎Z式以降水崎Ⅰ式~水崎Ⅵ式(中瀬戸内の船元Ⅰ式~Ⅳ式、里木Ⅱ・Ⅲ式に対比し得る)と定着化をみる遺跡できわめてわずかながら、縄文前期前半の土器が検出されることは、この期にその模索を開始した集団の系譜につながることを示唆している。
 ここで内陸部における様相を若干みておこう。まず、前期前半と目される梶郷駄馬、影平、池の岡、中津川洞などの遺跡で、石鏃の出土数の相対的な優位が指摘し得る。その石材は従来からのチャート、頁岩に加え、姫島産黒曜石、サヌカイトという優秀な素材の増加が注目される。すでにみたように、県下における前期前半の標式土器である中津川式土器は、明らかに九州側からの轟B式土器、中瀬戸からの羽島下層式土器という二つの強力な文化波及のもとで形成されたが、この姫島産黒曜石とサヌカイトは、その媒体たり得るとの指摘もある。いずれにせよ、豊後水道での南北方向に流向する潮流を利用しての九州との海上交通路は、すでに確立していたことは確実で、さらに内陸部での通路の存在も否定できない。すなわち、西条市市倉―川内町宝泉―谷田Ⅱ―上黒岩―中津川―池の丘―梶郷駄馬―深泥を主とし、宇和島市無月―中津川―穴神洞を経て高知県梼原町影野地など高知県西部内陸部への通路も存在した。中津川洞第四層での海産のマサバや、この時期に急激に増加する姫島産黒曜石などの内陸部への搬入は、このような通路を想定しない限り理解し得ない。
 このうち御荘町深泥遺跡は、姫島産黒曜石製の各種の石器、剥片、石材核の出土量においては県下随一で、強力な姫島産黒曜石の搬入地であったことが想定され、中津川洞周辺でのチャートなどとともに、この時期の石鏃素材の需要をみたしていたのであろう。これら内陸部につながる遺跡は、強く狩猟・採集手段に依存した生活実相がうかがえる。狩猟・採集手段を知り得る資料のうち、一見剥離が粗離とも思える握斧状石器、荒い操作で鋸歯状に整形された刃部をもつ大形スクレイパーなどは、この期に伴う特異なものとし得るがこれらについては後述する。

 生活実相を物語る遺跡

 中津川遺跡は、この時期、内陸部における中核的遺跡としての位置を占めるが、この時期の女性の埋葬骨が検出されている。その埋葬は丁重で粘土(槨状)床を伴うもので、これについても後述したい。また松山市谷田Ⅰ遺跡で検出された四メートル程度の方形プランをもったと想定される住居跡は、若干不明確とされるが前期初頭のものともされている。
 縄文前期中葉における伝統的な採集生活からの脱皮の様相を如実に示す遺跡が県下では恵まれない。そのことは、縄文海進の最頂期とかかわる環境に起因するかも知れない。いずれにせよ、山深い中津川洞穴内に、丁重に埋葬された女性の姿を最後に山間部の遺跡は縄文前期後半、中期にわたり全く欠落する。約千年の年月を経たのち、河川端漁撈と新しい採集手段を保持した縄文後期の人々によって、その再生のページが開かれることになる。
 一方で、縄文中期の海辺に面する遺跡は、水崎・熊ロにみられる如く、きわめて定住的性格を示すものが多い。ほぼ編年的に網羅できる中期土器の継続的な出土を始め、後期・晩期にわたるものもみられる。しかし、その生活実相は、偏に海水面漁撈によったのではない。
 ほぼこの期に始源をもつかと目される上浦町萩の岡貝塚採集の豊富な狩猟的遺物からも、まさに漁撈と狩猟に基盤を置き、さらに採集をも加えた生活手段を軸にして順調に進展した様相がうかがえる。
 一方、若干内陸的傾向をもち縄文中期土器を伴った袋状の土坑七を検出した谷田Ⅱ遺跡を始め、久米窪田、一松町広見・茶道遺跡などでの生活実相の究明は今後に残されている。

2-60 縄文前・中期の主要遺跡

2-60 縄文前・中期の主要遺跡