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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

3 水崎遺跡からの石錘

 急潮に耐える大型石錘

 波方町水崎遺跡からは、大量の石錘を始め叩石、石錐、礫器、砥石などの石器が採集されている。石錘は、水崎遺跡での石器の主体を成すもので、約七〇点もの数にのぼる。これらは、いずれも扁平な自然礫を素材とした、いわゆる礫石錘で、錘としての加工は礫の両端に簡単な打ち欠きを加えただけで完成とするいわば粗製品である。形態的には、大きくは楕円・円形・菱形の三つに分け得るが、楕円、円形を呈するものが大多数を占める。前者の楕円形タイプ(2―64)の((1)~(2)は、紐かけとする打ち欠きを長軸方向にもつのを通常とするが、中には短軸にそれをもつ資料((10)~(12))もある。また長軸、短軸の両端に打ち欠きをみるものも存在((8)・(9))する。これは多分、使用時の紐かけは十字くくりに結ばれていたであろうことが推知される。類例の少ない資料とし注目される。
 後者の円形タイプ((13)~(19))のものは、形がよく整った、しかも加工が鮮明で立派なものが多く礫石錘の典型といったもので全体を占めている。菱形を呈するもの((20))は、粗質の砂岩礫を素材としたもので、紐かけとする打ち欠きは長軸両端に強く鮮明に残されている。形態的にみて、本遺跡の石錘の中では後出的なタイプとして注目される。
 重量は六〇〇~六五〇グラム((11)など)を最大とし七〇グラム((17)など)を最小とするが、大体に二五〇~三〇〇グラムにわたるものが本遺跡の石錘のもつ一般的重量とし得る。全体的には、重量に多少のばらつきはあるにせよ、本遺跡の石錘は、その一般的重量からみる限り超大型石錘で全体を構成しているといえよう。まさに名だたる来島瀬戸の激流に耐え得る石錘として位置づけられるとともに、縄文中期を中心とする本遺跡において、漁網を駆使した海水面漁撈の存在を示唆する資料といえよう。なおその石材は、近傍の三縄層からの緑色片岩を主とし、砂質片岩、花崗閃緑岩、石英緑岩など遺跡周辺で入手できるものである。

 凹石・礫器・石錘

 (23)は凹石である。四辺形に近い砂岩礫を素材としたもので、使用痕は側面の随所に観察されるが、特に長軸両端にそれが激しい。強度な使用打痕はアバタ状で残り、深い部分で○・五ミリの凹みをつくっている。扁平な面の片面中央には円状の浅い凹みが残されている。縁辺にも磨痕が明確に認められる。磨石にも使用されたであろうが、その主は、打製石器とくに石錘製作に頻度の高い使用が推考し得る。最大長一四センチの完形品である。
 (22)は礫器で、部厚な剝片を素材とし、調整打を主として側面に集め、全体を打製で三角形状に作りあげている。この石器の機能は、細く尖頭状に作り出された先端部にあったと考えてよい。貝の身の取出しに、また岩についたカキなどを剝ぎとるのに用いられたのであろう。類似の資料は平城貝塚でも多量に認められ、弥生時代の宇和島市拝鷹山貝塚でも散見できる。
 (21)は姫島産黒曜石を原材とする石錐と考えられ、黒曜石を素材とする石器としては比較的大きい部類に属する。
 また、長さ一七センチ、最大幅六・五センチ、厚さ六・三センチの花崗岩製の砥石は、その表面にきわめて激しい使用痕をもつものであった。
 以上、縄文早期にすでに足跡を留め、中期全般を通じその盛行をみた水崎遺跡での生活基盤の一端を支えた漁撈具として、石錘を中心に一項を設けて説明を加えた。

2-64 水崎遺跡出土の石錘・叩石・凹石・礫器

2-64 水崎遺跡出土の石錘・叩石・凹石・礫器