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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

1 縄文後期における生活立地と生活

 生活立地

 県下における縄文後期初頭の遺跡は九〇を数える現状にある。しかしこれらのうち、明確に前史からの系譜のたどれる遺跡はきわめて少なく、わずかに熊口・萩ノ岡・水崎・茶道など数個所があげられるに過ぎない。したがって、この期に始源をもつ遺跡は、その前史からの系譜にある遺跡からの集落分化とするのみでは理解し得ず、中瀬戸内を中核とする集団の大規模な移動を想定せざるを得まい。県下に広がる六軒家Ⅰ式土器にみる土器文様などの変容の少なさは、このことを裏付けてもいよう。まさに縄文後期社会の拡大の側面として把握し得る。
 縄文前期後半に確立した漁撈手段を軸に、複合的な採集手段をも加え、安定した生活基盤の確立していた中瀬戸内の縄文社会に一体何が起きたのであろうか。
 まず、そこでの採集生活が極限にあったとは想定し得ない。中瀬戸内では縄文中期を通じ、沖積作用は海面の昇降とは関係なく進展し、泥海、あるいは浅海が形成されている。こうした海岸での変化は、周辺の樹相にも影響をあたえたにちがいない。このような沖積作用による地形の変化がもたらす自然的条件が、内湾的漁撈の盛行をきたし、さらにそこでの技術的側面が、河川端漁撈への開眼をもたらす契機となり得たのではあるまいか。狩猟・漁撈などの採集生活の分化という視点で、この期の集落の発展と拡大を把握し得る。

 生活実相を物語る遺構と遺物

 県下でのこの期に始源をもつ遺跡では、河川端漁撈をその生活基盤の重要な柱として占地したと推定し得るものが数多く、事実、そこでは河川端漁撈に適した小型石錘の出土が必ずみられる。しかし、ここでは、その立地の様相から推してあくまでも、バランスのある複合的な採集生活を目途とし、その採集生活も協業化、多様化の方向にむかわざるを得ないものであったにちがいない。用途による精製土器、粗製土器の区分、注口土器、把手をもつ土器、多孔底をもつ土器、扁平な打製石器、十字形石器などの出現、やや粗雑さを感じさせる多量な石鏃の様相、さらには何らかの貯蔵を目途に造られた土坑などは、そのような背景をぬきにしては考えられない。採集生活の分化は、多様化の方向にむかわざるを得ないものであった。しかしたとえば土器にみられた形態的多様化は、万能的な用途からの機能的統一化を反映したものとの指摘もある。多様化と統一化、拡大とその規制、縄文後期社会をみるカギがここに秘められている。
 当然ながら、採集生活の多様化は集落拡散になりかねまい。かつまた、限定された採集生活のなかでの人口増は、そこでのバランスを崩す要因となり得る。
 この間の様相を、久万盆地を中心とする遺跡でみておきたい。ここでの中核的遺跡は、その出土遺物の様相から笛ヶ滝遺跡とされ、周辺の菅生台、落合、橋詰、父二峰、生姜駄馬、千本原Ⅰ、芋坂などの遺跡は、集落分化したものとして把握されている(2―43)。笛ケ滝遺跡は久万川に面し、フナ・カニ・ハヤ・アユなどを対象とする漁撈、シカ・イノシシを中心とした狩猟、クリ・シイ・ドングリなどを含むブナ林帯とそこに群落するトチノキ・クルミなどの採集と、豊かな生活実相がうかがえた。しかしその要因を推測し得ないものの、共同体の急速な分化の方向がそこに存在したことに疑いない。この笛ケ滝遺跡からは丁字頭勾玉・臼玉などの装身具的遺物の採集がめだっている。即断できないまでも、分化した集落をも含む集団規制的な呪術の存在を示唆するものではあるまいか。いずれにしても、分化集落の領域を越えていない立地選択が観取される。むしろ領域を越すことのできない要因が存在したとみる方が、正鵠を得たものとし得るかも知れない。
 これら中核的遺跡とし得るものからの同類の出土として、岩谷遺跡の配石遺構群からの有孔垂飾品と谷田Ⅱ(上野)遺跡からの滑車型耳飾(2―71)があげられる。
 この滑車型耳飾は、直径三・五センチ、幅一・五センチ、円周端はわずかな凹みをもち、また中央部には直径一・ニセンチの円形の突出部があり、そこに十字の刻目をもっている。凹部に紐をかけ装身具として使用されたと思われる。時期は上野Ⅲ式土器期のものである。また、岩谷遺跡からの有孔垂飾品は、全長三・四三センチ、最大幅一・八センチ、最大厚〇・三八センチで、緑色の蛇紋岩を用いている。上部に径〇・二センチの孔が両面からあけられ、紐ずれと思われる磨耗がみられる。表面、裏面、両側面ともよく研磨されている。所属時期は、伊吹町式土器とされている。
 さて、谷田Ⅱ(上野)遺跡からは縄文後期の住居跡が二基検出された。一号住居跡は、方形プランを有する堅穴式住居跡である。ほぼ東西を指向する長軸とし得る長さは四・一メートル、短軸長は三・七メートル、住居跡中央部の長軸方向に二個の柱穴を残す。柱穴の間隔は一・六メートル、住居跡北西部には、長く続く土坑状遺構が存在した。二号住居跡は、南北三・七メートル、東西三・ニメートルの長方形プランの堅穴式住居跡で、東法面の中央部に小さな柱穴群が存在することから、中央部の一本の主柱に組み合わせる様式をもつものと考えられる。久米窪田Ⅰ遺跡からも、長方形プランをもつ縄文後期の竪穴住居跡が検出されている。

2-70 縄文後期の主要遺跡

2-70 縄文後期の主要遺跡


2-43 久万盆地周辺の遺跡分布図

2-43 久万盆地周辺の遺跡分布図


2-71 岩谷遺跡出土の有孔垂飾品・谷田Ⅱ遺跡出土の滑車型耳飾

2-71 岩谷遺跡出土の有孔垂飾品・谷田Ⅱ遺跡出土の滑車型耳飾


2-72 上野遺跡の竪穴住居跡

2-72 上野遺跡の竪穴住居跡