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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

2 叶浦遺跡

 遺跡の概要

 叶浦B遺跡及び叶浦北遺跡と呼称されたものを、ここに叶浦遺跡と総称する。両遺跡は、その出土遺物から推してほぼ同様な性格をもち、小開析谷を挾んでともに海岸線までの距離約二〇〇メートル、海に臨む海岸段丘上に立地していた。海抜は、叶浦B遺跡が一四・二~一六・八メートル、北遺跡が一六~一九メートルを測った。
 行政的位置は、越智郡伯方町大字西側一二八―一から二番地にわたる叶浦北遺跡と、同じく西側四九一番地にある叶浦B遺跡であるが、両遺跡とも現状は本四連絡道路(一般国道三一七号)の道路敷となっている。
 叶浦遺跡からの出土遺物は、先土器と目されるナイフ形石器、縄文早期・後期・晩期、弥生前期・中期の土器や石器、さらには土師器、瓦器、陶器、磁器ときわめて多岐にわたっている。
 したがって、ここに縄文晩期の主要遺跡として把握することに若干の躊躇はある。しかし何よりも、好個の縄文晩期中・後半の土器の採集、さらには県下においてその始源的位置を占める弥生前期土器と縄文系土器との伴出も推定されるなど、縄文晩期をめぐる叶浦遺跡の評価は高く、あえてここに採りあげた。当然ながら県下での重要な弥生前期遺跡であるに論を待たない。
 叶浦遺跡において大量に遺物の出土をみたのは、大溝埋積土の中からであった。この大溝は、幅一五メートル、深さ一・八メートル、その長さ四〇メートルにわたるが、おそらく叶浦B・北の両遺跡にかかわったものと推定される。大溝生成の時期についてはやや明確さを欠くものの、完全に大溝部分が埋没されたのは、土師器出土状況から推してほぼ確認されている。大溝埋積土には縄文後期から弥生中期までの遺物が錯綜して包含されており、段丘側からの削平の際、おそらく遺構もろともこれらの遺物が一括して混入したものと考えられる。この大溝埋積土の表面からは、明確に中世のものとされる土坑状遺構、集石遺構、柱穴群が検出され、段丘上にも、土坑状遺構、集石遺構、列石遺構、柱穴群などが検出された。もとより縄文期の遺構とはし得ずこれらについては詳述を避けたい。
 遺物は、まず前述の遺構(段丘上)の底面、つまり遺構の旧の生活面上より縄文早期の土壇原式土器・穴神Ⅱ式土器が採集された。特に土壇原式土器では、中瀬戸内の蔦島貝塚でみられた土器組成が完全に出そろった形で検出されている。大溝埋積土中及び北遺跡側で確認された溝状遺構中からは、縄文後期の六軒屋Ⅰ式土器・小松川式土器、縄文晩期のⅡ期(船ヶ谷)・Ⅲ期(叶浦BⅠ)・Ⅳ期(叶浦BⅡ)に分類し得る土器及びこれらに伴う石器類が検出された。弥生期以降の遺物については後述に護りたい。
 発掘調査は、昭和五三(一九七八)年五月から九月にわたって実施された。