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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

4 縄文晩期を物語る遺物

 晩期の石器を中心に

 縄文晩期を特色づける遺物は、すでに述べたところからもきわめて多岐にわたっているが、ここでは、これらのうち石器類を中心に以下述べることとする。
 縄文晩期の石器は、粗雑化の傾向と新しい機能を保持した石器の出現で特色づけられる。粗雑化の傾向は、石器製作の過程に存在したにちがいない呪術的行為や、石器を神聖視する伝統的な意識からの脱却ととれなくはない。すくなくとも、機能的側面を強調した一種の簡略化の傾向や、簡単に放棄し必要に応じ自由に製作するという状況に強く結びついたものにちがいない。また、新しい機能をもつ石器の出現は、それを用いて行われる作業がこの時期に正規の労働部門として独立定着したことを意味すると考えられる。
 (2―83・84)に示したものは、県下での晩期遺跡からのものである。そのまま資料の比率を示すものではないものの、一応県下における現時点でのこの期を評価し得る石器をすべて網羅した。
 図示したものの(3)(4)(9)(10)(16)は叶浦遺跡、(15)は長田遺跡、その他は船ヶ谷遺跡からのものである。石質は硅質砂岩・サヌカイトによるものが多い。
 まず、石錘・叩石・石鏃((1)~(4))などの存在は、前代につづく狩猟・漁撈・採集という生産形態を、依然として無視し得ない状況を物語る。しかしその一方、扁平な短冊形((5)(7))ないし撥形を呈する打製石斧さらにこれと伴出する台形の削器と呼ぶべき石器が存在する。この打製石斧は、岩谷遺跡第三上層出土の打製石斧に比べて、腹部からの剥離がやや微細であり、かつ扁平な石材の採用などで異なっている。しかし、その重量と形態から推して柄を着装する土掘り具と限定してよい。
 また平坦形削器と呼ぶべきものは、不定形な大形のフレイク(剥片)の一側縁ないし両側縁に二次加工を施すもので、大剥離方向からの打力によるフルーテング(剥離)痕、長軸約一〇センチ、かつ扁平な石材の採用とで、ほぼ定形化し得るもので、打製石斧とのセット関係から、一種の収穫具と想定し得る可能性が強い。これらは新しい生産形態の存在を予想させるものである。
 (11)(13)(14)(16)は、磨製石斧で伐採、打割などの加工にふさわしい機能はそなえているが、ほとんど欠損し、素材と
しての限界を示すものといわざるを得ない。
 また(12)は、船ヶ谷遺跡での岩偶のひとつである。(15)(17)は、石鑿としての用途をもつ石器とさるべきで、ともに器の両面に研磨痕を有している。船ヶ谷遺跡での椀形木器・釧状木器に対応して考えられるものである。
 (2―85)に示したものは、広く独鈷状石器と呼ばれるが、もとより、形状に付された名称であり、その機能を示すものではない。
県下での出土は二点を数え、ともに単独出土とされている。(1)は温泉郡中島町粟井向山の出土であり(2)は北宇和郡三間町土居中からの出土である。(1)は小形品とされるが(2)はその長さ二二・一センチを測り、その類例からみて大形品とされる。ともに全体にわたってよく研磨されるが、(1)は上縁中央に僅かに抉りをもち(2)は器表とさるべき面の中央部の縦部全体に抉りをもつ。その用途は木の実などの粉砕に用いた実用品との指摘もあるが、使用痕をもたぬものも存在し、縄文晩期社会のなかにおいてのみ機能した遺物とされてもおり、前者は中国方面に後者は九州方面に分布が見られる型である。十字型石器などと共に、もって当時の文化伝播の動きをも知りえようか。
 石器以外の特異な遺物としては、西野Ⅰ遺跡第四号土坑から採集された土玉があげられる。土玉は、その大半を破損するが、径三・三センチ、中央部に円孔が穿たれ、焼成はよく堅固なものであった。この期の垂飾品として貴重である。
 また叶浦遺跡出土の土製品では、縄文早期(土壇原式)に比定し得る有孔円版(二個)のほか、縄文晩期土器片を再生した紡錘車と目されるものも出土しており今後に究明の余地を残している。

2-83 縄文晩期の石器(1)

2-83 縄文晩期の石器(1)


2-84 縄文晩期の石器(2)

2-84 縄文晩期の石器(2)


2-85 独鈷状石器

2-85 独鈷状石器