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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

3 前期の南予地方

 南予の地域区分

 南予地方のうち伊予灘に流入する肱川水系には、中流で大洲盆地、上流で宇和盆地の二つの比較的広い沖積平野を形成している。この二つの盆地は同じ肱川水系に属しているものの、大洲盆地は標高一〇メートル前後であって伊予灘から肱川を伝っての交通が中心である。宇和盆地は肱川の最上流にあって標高二二〇メートル前後で、大洲盆地とは鳥坂峠を越えなくてはならず、直接の交通路は宇和海に面する三瓶や八幡浜であろう。

 大洲地域

 大洲盆地は肱川の氾濫原から形成されているため、最近まで洪水の際に冠水を余儀なくされていたところであり、盆地底には集落は形成されず、すべて盆地周辺の山麓の微高地上に成立していた。弥生遺跡の発見もほぼ現在の集落分布と一致していたため、遺跡は盆地底にはほとんどないものと理解されていた。しかし、最近の発見によって少なくとも弥生前期から中期中葉までは、主として盆地底の低湿地中か低湿地に接する微高地上に立地することが明らかとなった。
 大洲地方の弥生前期初頭の遺跡としては慶雲寺遺跡をあげることができる。慶雲寺は肱川が五郎で大きく蛇行する付近の左岸の小さな低位の河岸段丘面上にあって、現在の肱川の水面との比高差はわずか三メートルである。慶雲寺からは縄文晩期末の影響を色濃く残す深鉢とともに板付Ⅰ式併行の壷と甕が出土している。深鉢が縄文式土器で、壷・甕が弥生式土器であることは、愛媛県において縄文晩期末に弥生式土器が出現する過程をよくあらわしている。慶雲寺西方約七〇〇メートルの大又から重弧文を有する壷が発見されているが、その施文手法が櫛描きである点、中期初頭に位置づけるのが無難である。
 慶雲寺の対岸の矢落川の川底にある都遺跡出土の中期の都式土器のなかには、箆描きによる文様を持った土器が含まれており、前期にさかのぼる可能性がある。

 宇和盆地

 宇和盆地の前期前半は、金比羅山や狭間里から重弧文や有段のある壷が出土しているが、工事中に偶然発見されたものであるため詳細は不明である。金比羅山からは壷のみが発見されており、どのような甕が伴うのかわからない。しかし、至近距離に所在する狭間里から口縁下に多条の箆描きによる重弧文を持つ甕が出土しているので、これらが伴ったとみるのが自然である。なお、金比羅山からはこれら前期前半の土器とともに東・中予地方の第Ⅱ様式第1型式とみられる土器も出土しているといわれている。
 金比羅山の南の深ヶ川の川底や、深ヶ川に沿う上柳田池・横田からは、「F」字状の口縁を持ち、口縁下に指圧痕を有する凸帯を持つ甕と、胴部が極度に張り出し、ソロバン玉形を呈する壷が出土している。壷の頸部には箆描きによる平行沈線文と、連続する刺突文を持っている。これらの第Ⅰ様式第3型式の土器は、東・中予地方にはほとんど認められず南予地方特有の土器である。恐らく宇和海を隔てた東九州の下城式土器の影響を受けたものとみてよかろう。この下城式土器は八幡浜市の徳雲坊Ⅱからも発見されており、その分布の中心は宇和海に面するかそれに続く地域である。

 八幡浜と南宇和

 八幡浜地方には大きな沖積平野は形成されていないが、新川を中心とする八幡浜湾頭には若干の低湿地が形成されている。この低湿地に面する山麓の地形変換地帯に二つの前期の遺跡が知られているが、遺構などは全く不明である。ただ、徳雲坊Ⅱには支石墓ではないかとみられる遺構があるので、今後の解明に期待したい。松柏覚王寺からは口縁がゆるやかに外反するとともに肥厚し、頸部下に段を持った壷の破片が出土している。土器の内面には織物の圧痕の残るものも認められたが、これは県内の弥生遺跡では南宇和郡城辺町天嶬鼻と本遺跡のみである。覚王寺出土の土器は慶雲寺出土の土器に若干後続していたものであろう。徳雲坊Ⅱからは第Ⅰ様式第4型式の阿方式に類似する甕が発見されているが、なかには口縁が立ち上がりぎみに外反し、上胴部に刻目を有する二~三条の三角凸帯を持っているものもあって、他地域ではみられない様相を持っている。これも三崎半島から八西地方にみられる地方色の強い土器群であるのかもしれない。
 南予地方における第Ⅰ様式第4型式の土器は、地理的理由から東九州の影響を受けるとともに、東・中予地方を中心に発達した文化が新しく伝播してくる時期であったといえる。このことは徳雲坊Ⅱのみならず宇和町の上柳田池や金毘羅山の周辺、それに南宇和郡御荘町法華寺からも東・中予地方の第Ⅰ様式第4型式や後続する第5型式の土器が出土していることからも理解できる。南予地方の阿方式と呼ばれている土器は、高知県の大篠式を経由したものであるとする考え方もあるが、文化の伝播の性質からも、出土している土器からも、中予地方の阿方式といわれているものが直接伝播流入したとするのがより自然である。
 前期終末の第Ⅰ様式第5型式の土器は、東九州の影響が若干残ってはいるものの、その主体は阿方式の影響の及んだ第4型式の土器を母胎として発達したものとみなすべきではなかろうか。東九州の下城式にも甕に貼付け凸帯を持っているが、愛媛県の第Ⅰ様式第4型式にも第5型式にもそれぞれ極度に発達する貼付け凸帯を持っている。このように考えると、御荘町法華寺出土の土器は両地方の影響下に発達した南予地方特有の土器であるといえるし、かつ南予地方の特色を最もよくあらわした土器であるともいえる。