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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

7 食 生 活

 食生活をあらわす遺物

 弥生中期の遺跡から多く発見される石庖丁、あるいは松山市土居窪遺跡から発見された木鍬を中心とする木製農具などは、この時期における農耕生産の進展の姿をよく示している。さらに炭化米・土器に付着した籾痕・煮沸用土器類の発見は、稲作農耕を母胎とした食生活の一端をよく物語っている。県内では発見されていないが、銅鐸にあらわされた絵画には農耕生活に結びついた食生活の在り方や、その過程がよくあらわされている。このようにわが国あるいは県内の弥生中期の遺跡で発見される遺物のなかに、米に依存した生活の様子が数多く示されている。しかし、この時期の人びとの米に対する依存度が増大したからといって、他の食糧獲得の手段や食糧そのものを放棄したのでは決してないことは、同じく銅鐸にあらわされた狩猟図からも理解できる。県内からもこの時期に前後するといわれている鹿の狩猟を表現した線刻のある土器片が松山市から出土したと紹介されているが、線刻の状態からすると後世の作為が感じられ、ここで紹介することはできない。
 県内からは弓矢類は出土していないが、中期の遺跡からは鉄鏃や石鏃が発見されているので、それらが使用されていたことは事実である。このうち高地性遺跡から発見される石鏃は戦闘用に使用されたとする説が強いが、県内出土の石鏃は動物性の食糧を獲得するために使用されたとみなければなるまい。特に台地や高地性遺跡ではなおさらである。ただ、本県は他県に比べると中期遺跡から出土する石鏃の量が少ない。これはすでに鉄鏃が多く使用されていたからではなかろうか。住居跡の炉跡中から焼けたイノシシや鳥などの獣骨が発見されていることはこれを物語っている。さらに農耕においても稲作のみであったわけではなく、水利の不便な地域では麦類の栽培も行われていたであろうし、丘陵地では陸稲やアワ・ヒエなどの雑穀類や根菜類などの採取、栽培も行われていたとみなければなるまい。さらに遺跡からシイ・ドングリ・クリなどの堅果類が発見されることから、秋から冬にかけてはこれら自然の恵みである植物性の採取食糧の獲得も行われたものであろう。もちろん堅果類でなく、果肉を持つ桃などの果樹栽培も台地や丘陵地で行われていたことは、西野Ⅱ遺跡などから桃の炭化した種子が発見されていることからも理解できる。
 前期には阿方や片山貝塚のように貝塚が形成されるほど海に依存する割合も多かったが、中期になると貝塚は形成されなくなる。ただこのことで海からの食糧獲得が全く行われなかったというのではない。わずかではあるが越智郡生名村立石山や西条市大谷山遺跡のごとく、山頂に位置する遺跡からも貝類が出土していることから、食糧として利用されていたことは明らかである。さらに川之江市大江遺跡や今治市桜井浜遺跡、それに海岸や海底に眠る多くの遺跡では当然貝類の採取や漁撈を行っていたとみるのが自然である。
 この他、われわれが想像する以上に漁撈が行われていたといえる遺物が発見されている。というのは中期の遺跡から網そのものの出土は確認されていないが、土錘・石錘が多量に出土していることである。海岸に面する遺跡はむろんであるが、松山平野内陸部の砥部町拾町、水満田や、標高四一〇メートルの伊予市の行道山遺跡からも石錘や土錘が発見されている。これらの遺跡はその位置からして海浜漁撈は考えられず、重信川や砥部川における河川漁撈が行われたのであろう。特に行道山遺跡は沖積平野を流れる重信川からの比高差は三八〇メートルもある。にもかかわらず多くの土錘・石錘が発見されることは、重信川まで下りてきていたのであろう。これら河川漁撈用の錘はいずれも大形で重量も重いのは水の流れが速いことと密接な関係があるといえる。
 食糧そのものではないが、中期になると高坏が多く出土するようになる。高坏は供献的性格の強い土器であり、祭祀に伴うものであるが、その量が多いということは、これらがすべて供献用のみに利用されたのではなかろう。日常生活の食事の場でも食器として利用されるようになったものであろう。谷田Ⅲ遺跡で明らかになったごとく、屋外炉跡が発見されたことは季節・時間などにより屋外で食料加工を行い、かつ食事が行われたことを物語っている。このことは屋内での煮沸は常に火災の発生と隣り合わせであった点から考えると、その中心は屋外であったものとも思われる。