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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

10 祭   祀

 祭祀用儀器類

 弥生前期にはじまった稲作にともなって、その豊作を祈る農耕儀礼が行われるようになったが、それがより顕現化したのは中期であり、その代表的祭祀が銅鐸・銅鉾・銅剣を祭器とした祭りであった。だが、これ以外にも祭り、すなわち祭祀が行われていたことをあらわす資料が若干出土している。その一つが手捏土器であり、その二が分銅形土製品である。

 手捏土器

 手捏土器は日常使用されている土器の製作手法と全く異なった手法、すなわち、土を手の掌で窪めながら作った非実用的な小形の土製品である。器形そのものは日常使用している土器に類似はしているが、その目的が全く違っている。
 この手捏土器は中期になると特にその出土例は多くなる。中期後半前葉の西野Ⅰ・西野Ⅱ・西野Ⅲや文京・姫塚・拾町の各遺跡の住居跡内の一定の場所から出土している。このような出土状況からみると、家屋内祭祀が行われていたことをあらわしているといえる。銅鐸・銅鉾・銅剣を中心とする青銅器祭器は村落共同体が行う祭祀であるのに対して、手捏土器を祭器とする祭祀は家族単位で行ったとみてよい。だが、その祭祀の対象が何であったかは明らかでない。祭祀が家族単位であることは、そこに祖先崇拝や家内の安寧祈願に類似する要素が含まれていたことは容易に想像される。
 このように弥生中期になると手捏土器を儀器ないしは仮器とした屋内祭祀が行われるようになったが、その社会的・政治的背景が何であったのかは不明である。稲作の発展による人口増加と、それに伴う村落ないしは集団内の紐帯が弛んでくるとともに、青銅器祭祀がより大きい集団で行われるようになったからではなかろうか。すなわち、祭祀がより強力なものとそうでないものとに分化した結果であろう。村落の統一が進めば進むほど一般の農民は青銅器祭祀から取り残され、それが再び血縁を中心とする家族ないしは血縁集団祭祀に向かわせたのかもしれない。いずれにしても手捏土器を祭器とする祭祀の隆盛は、祭祀、すなわち宗教の二重構造の成立を物語るものである。

 分銅形土製品

 分銅形土製品は分銅形をした人面形土器である。したがってその形態からするならば人面形土製品と理解するのが最も妥当である。この分銅形土製品は、銅鐸・銅鉾・銅剣・手捏土器と同様、直接生産とは結びつかず、かといって日常の生活道具とも結びつかない当時の人びとの精神面をあらわす遺物である。
 分銅形土製品は瀬戸内海周辺部の大阪府・兵庫県・岡山県・広島県・山口県・香川県・本県と一部島根県に約一五〇個分布しているが、その中心は中部瀬戸内海から西部瀬戸内海沿岸にあり、この地域の特徴的性格を示すものである。
 県内で分銅形土製品を出土する遺跡は越智郡玉川町別所中園、北条市女夫池、松山市御幸寺山東南麓・同市文京・同市谷田Ⅲ・同市西野Ⅰ・砥部町高尾田・同町水満田の各遺跡からそれぞれ一個ずつ発見されている。各遺跡から発見された分銅形土製品は御幸寺山麓の完形品一個を除いて、他はすべて破損品であるが、同じ形・姿を示すものは全く存在しない。これは土器製作に従事した工人集団に属する専門的な人びとの手によって製作されたものでなく、どちらかというと手捏土器を製作したような祭祀を直接司った人が製作したものと推定することができる。よしんば一般の人が製作したとしても、これに精神的な神秘性を与えるためには何らかの呪術的行為が行われたとみてよい。
 この分銅形土製品に類似するものとしては縄文時代の土偶や土版があり、県内からも縄文晩期の船ヶ谷遺跡から出土しているが、中部瀬戸内海沿岸における縄文晩期の土偶の発見例は少ない。また、弥生前期においてこのような遺物の出土が知られていないことから、直接縄文晩期の土偶や土版の流れを受けついだものでないことは確かであろう。
 さて、県内出土の分銅形土製品であるが、これを形態的に分類しその前後関係を明らかにしてみたい。発見された八例のうち、他の遺物との共伴関係が明らかなものは文京・谷田Ⅲ・西野Ⅰ・高尾田・水満田のみであって、古くから全国的に有名な御幸寺山麓出土のものと、北条市女夫池出土のものは、どのような遺物が共伴したのか、またどのような遺構に伴って出土したのかさえ不明である。県内の分銅形土製品は具象化して人面をそなえていないものが先行して古いとする説があるが、現状ではこれを肯定するには今一つ資料不足である。あえて共伴関係から前後関係を明らかにするならば、西野Ⅰ・谷田Ⅲ出土のものが先行する。これに並行ないしはわずかに遅れて後続するものが水満田出土のものであり、これらに文京・高尾田出土のものが続くとみてよい。これらのうち水満田出土の分銅形土製品はその形態が他の七例と大きく異なり、上下とも分銅形を呈せず角ばった形をしている。このような分銅形土製品は山口県出土のものと類似性が強く意識される。
 分銅形土製品の具象化されたモチーフは、前述のとおり人の顔面であるが、これを神の具象化したものとする考えも存在する。だが、県内出土の分銅形土製品をみる限りにおいては、明らかに人の顔であり、神の顔をこのような姿であらわしたとは思えない。いずれにしても分銅形土製品にあらわれた人面は呪術的性格を持っていることはほぼ間違いないが、それが何を意味しているのかは具体的には明らかにされていない。一般的には呪術的ないしは護符的な役割を持っていたのではないかといわれている。そこでこれを出土状態、すなわち遺跡内での在り方からみてみたい。
 県内では八例のうちその出土状態が明らかなのは谷田Ⅲと水満田の二例である。文京では住居跡内からの出土であるが、一括遺物として取りあげ、整理段階で発見したものであるため、どのような場所にあり、どのような状態で出土したのかは不明である。西野Ⅰ・高尾田も文京とほぼ同じである。文京ではこの分銅形土製品とともに土玉が一個と手捏土器が二個、それに土製紡錘車が一個出土している。このうち土玉と手捏土器は分銅形土製品と有機的な関係を持っていたのではなかろうか。土製紡錘車も本来的なものではなく、呪術的なものに利用された可能性が多分に認められ、将来検討すべき遺物である。
 谷田Ⅲでは2号住居跡より約八メートルほど離れた土坑内から発見されている。谷田Ⅲは北突する舌状台地上に立地するが、分銅形土製品の出土した土坑以外はすべてほぼ南北に走る稜線の東斜面上にあるにもかかわらず、この土坑のみが稜線より西側にあり、明らかに特殊な位置を占めている。この土坑に南接して直径八〇センチ、深さ三五センチの円形土坑があり、その床面から甕の破砕されたものが、その上部に川石を持って発見されている。この配石のある土坑は明らかに土壙墓ではなく、祭祀的色彩の濃厚な遺構である。分銅形土製品の出土した土坑は直径約一・三メートル、深さ三五センチで、そのほぼ中央部の床面より約一五センチ上から弥生式土器とともに出土している。
 水満田では二六〇×二〇〇センチ、深さ二五センチの長方形の竪穴内から発見されている。この竪穴は法面付近に四本の柱穴を持っており、床面上には壷・甕が多量にあり、その上部に五個の石が乗っていた。この川石下の土器群中から分銅形土製品が発見された。この分銅形土製品も上部半分のみであった。竪穴は物置小屋的な建造物であったとみられるが、のち廃棄され、土器溜めとして利用されたものであろう。ただ、土器の上に川石が置かれていたのは何らかの理由で使用していたものを意図的に破壊したものとみるべきである。それは復元の可能な壷・甕を含んでいるからである。
 以上のごとく出土場所、出土状態の明瞭なものはいずれも顔面の上半分であり、それも住居跡内にあるものもあれば土坑や竪穴から出土したものもある。集落内からの出土である点、日常生活に密接な関係を持っていたものであろうし、破棄されたものであることは間違いないが、破損したから単に破棄したものではないようである。それはどれも顔面の上部だけを出土し、下半分が存在しないからである。このように考えると意図的にこれを破損し、その上部のみを特定の場所に破棄したことに何か目的を持っていたものであろう。これら分銅形土製品に通常の人びとの個人の所有ではな
く、集落内の特定の個人、すなわち集団内での特殊な身分を有した人、例えば集落内で祭祀を司どる巫女的な人のみが所有を許されていたのではなかろうか。そしてそのような呪術上の人柱的な意味を持っていたか、あるいは巫女が死亡したためそれを打ち欠き、埋納したとするのがより自然である。御幸寺山麓出土の完形の分銅形土製品はそれ以前のものであったともいえよう

 岩偶

 分銅形土製品に類似するものとして砥部町拾町遺跡から岩偶が出土している。この岩偶は県内では現在までのところ唯一の発見例であり、西日本でもあまり例をみないものである。この岩偶も分銅形土製品と同様縄文時代の岩偶と直接係わりを持つものではなく、弥生時代特有のものである。この岩偶も一辺が約三メートルの方形の竪穴から出土している。竪穴は二本の柱穴を持っていることから、作業小屋ないしは物置小屋として構築されたものであり、中央部に焼土が認められることから、生活をしていたことがうかがえる。この竪穴内から弥生式土器とともに岩偶が一個と未成品が一個、それに鉄器片が出土している。出土品や遺構からすると、この竪穴は岩偶製作用の一種の工房跡であったと理解できる。そして、岩偶に施されている線刻は明らかに鉄器で刻まれたものである。この岩偶のモチーフは分銅形のごとく人面をあらわしているとはいえず不明である。しかし、分銅形土製品と同様、呪術的な目的のために製作されたとみてまず間違いあるまい。
 このような分銅形土製品や岩偶の分布は平形銅剣や凹線文土器、それに脚部に三角透し孔を有する高杯の分布圏と一致し、さらにそれが弥生中期後半の高地性遺跡の分布とも一致することは、きわめて中部ならびに西部瀬戸内的であって、畿内とは若干異なった文化的要素を秘めているといえる。また広義には、これらの祭祀的遺物は稲作農耕文化のなかではぐくみ育ったものであるが、これらが地域によって分化・発展するのは当然である。その過程で地域的特色も生まれてくる。これらがさらに政治的に統一化・画一化されて行くことを明らかにすれば、国家統一への過程も明らかになろう。そういう意味ではこのような地域的特徴を持った祭祀ないしは精神的生活は注目に値する現象であるといえよう。

3-80 弥生中期の手捏土器

3-80 弥生中期の手捏土器


3-83 分銅形土製品・岩偶の出土分布図

3-83 分銅形土製品・岩偶の出土分布図


3-84 分銅形土製品実測図

3-84 分銅形土製品実測図