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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

2 鉄器の利用と生活様式の変化

 鉄器の出土地

 弥生中期においても県内からはあまり石鏃の出土は多くなかった。これは稲作農耕が主体を占めていたことから当然であるといえるが、後期になってもその数は多くなく、かえって少なくなっている。その反面、中期では石庖丁や扁平石斧・石のみなどの出土は多いが、後期になるとこれらの石器そのものも石庖丁を除いて少なくなる。これは中期に盛んに使用されはじめた鉄器がこれにとって変わったものであろう。この傾向は何も愛媛県だけの特色ではなく、全国的な傾向と一致するものである。県内の後期遺跡からの鉄器は西条市八堂山A号住居跡から鉇・刀子が、北条市椋ノ原山から鉄鏃が、松山市釜ノ口から鉄鏃がそれぞれ一個づつ出土している。鉄器の出土数そのものからすると中期の出土例の方が多いが、これは遺跡立地と密接な関係があるからであろう。中期から後期にかけて鉄器が出土することは、すでに鉄製の武器のみならず工具が盛んに使用され、各種の木製品が製作され使用に供されていたとみてよかろう。もちろん中期においても土居窪遺跡から木鍬や木鉾が出土しているが、より盛んになったのは後期であろう。釜ノ口遺跡において木鍬や各種木器類が出土していることがこれを物語っている。

 鉄器と農耕地の拡大

 鉄器はこの他農耕道具としても盛んに使用されていたものとみられる。これがなければ谷水田や低湿地の大規模な開発が考えられないからである。鉄器の使用が一段と普及するとともに農耕地も次第に拡大し、それに伴って農業生産も飛躍的に増大した。鉄器を多用し、農業生産物をより多く蓄積した集団は、その富を持って他の集団を統合して行ったことは当然であり、富の蓄積の差がその集団の属する位置をも決めたものであろう。低地における水田が拡大することは、灌漑・排水をより大規模にしなければならず、富の蓄積、すなわち経済的に優位に立った集団の人びとのなかから、これらを統括・指導する強力な指導者が出現した。このようにして新しく経済的なものを背景とし、身分的階級が次第に発生したものであろう。もちろんその初源的な姿は中期あたりであろうが、これが顕現化したのは後期初頭ではなかろうか。
 弥生中期の西野Ⅲ遺跡出土の鉄鏃は大形の鉄鏃であり、その重量から石鏃を着柄する矢を用いた弓では、その使用が無理である。恐らくそれが戦闘に係るものとしても、戦闘に伴う祭祀的要素が強いのに対して、北条市椋ノ原山や松山市釜ノ口遺跡出土の鉄鏃は小形で実用的である。この柳葉形の鉄鏃は狩猟用として使用されたことも考えられるが、当時の鉄の貴重性からいって、消耗品的な要素の強い矢に利用されたと考えるにはやや無理がある。恐らく戦闘用に使用するためのものではなかったろうか。なお、この時期に銅鏃の使用も当然考えられるが、県内では確かな出土例はない。ただ、東宇和郡宇和町小森と松山市祝谷土居ノ段から三角有柄式の銅鏃が一個ずつ発見されているが、この二つは弥生時代後期のものではなかろうか。このように考えると、村々の統一の過程で武力的な背景が作用したことも考えなければならない。この点については次の項で今少し触れたい。
 弥生後期は遺跡の特徴のところでも触れたように、低地ないしはそれに面する河岸段丘上に大規模な集落が形成されている。それは城北地区や天山北麓の釜ノ口・北天山周辺から西石井にかけての広大な範囲の遺跡群が、それぞれ同じ時期の遺跡であり、大きな広がりを持っていることからも理解できる。また土壇原Ⅻにみられるように、河岸段丘端に二〇数棟を越える住居跡と倉庫跡群、それに望楼的遺構に類似するものを持っていることからも理解できる。

3-114 椋ノ原山と釜ノ口遺跡出土の鉄鏃

3-114 椋ノ原山と釜ノ口遺跡出土の鉄鏃