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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

3 住   居

 住居の形態

 弥生中期後半の松山地方の住居跡は、円形プランの竪穴式住居跡が中心となるが、後期初頭頃から西野Ⅰ遺跡3号住居跡のように隅丸方形になったり、八堂山遺跡F号住居のごとく小判形を呈するものが出てくる。もちろん、八堂山A号住居跡や釜ノ口3号住居跡にみられるごとく、中期後半の円形プランを踏襲しているものもある。松山平野では隅丸方形が主流となっているが、平面プランのみで時代を云々することはできない。ただ、後期も中葉以降になるとそのほとんどが隅丸方形や方形プランの竪穴式住居跡に移行したことは、福音寺や釜ノ口・拾町で発見された住居跡で明らかとなっているとおりである。このほか、後期末になると松山市束本遺跡にみられる長方形プランで六本柱の竪穴式住居跡や、六角形プランの竪穴式住居跡もあらわれる。概して隅丸方形や方形プランは四本柱で規模は比較的小さい。
 中期の住居跡にみられるベッド状遺構は後期の住居跡でもみられるが、中期同様すべての住居跡に存在するものではない。それゆえ、ベッド状遺構を有する住居跡は集落内で何か特殊な機能を持っていたのではなかろうか。釜ノ口遺跡の3号住居跡では、住居跡中央部にある炉跡の北側にのみ緑泥片岩の小指大の川石が敷きつめられていた。これは屋内の炉跡を中心とする座の発生を考えるうえで一つの資料を提供しているといえる。炉を中心とした生活は、その座る場所も家族構成によって決まっていた可能性が考えられる。恐らく砂利を敷きつめていた場所は家長の座であったものであろう。
 低湿地に立地する北久米遺跡の1号住居跡や釜ノ口遺跡の1号~3号住居跡のごとく、住居跡近くに大きく深い土坑を持ち、そのなかに灰が堆積しているのは、炉跡中に堆積した木灰などを捨てる場所として利用したものではなかろうか。

 装身具と食生活

 住居跡は後期になると多様性を有するようになるが、衣類に伴う装飾品は中期同様あまり発達していず、わずかに釜ノ口からガラス小玉が発見されているのみである。
 食生活においてもそれほど中期とは変化がない。稲作が普及し、食生活が米食や一部麦中心になっていたことは事実であるが、量的には少ないといっても石鏃や石錘・土錘が出土することから、季節的に狩猟や漁撈が行われていたことは当然である。また八堂山F号住居跡からは桃核の炭化遺体が、同じく円形倉庫跡からは多量のシイ科植物の種子の炭化遺体が出土していることは、樹木作物の栽培や堅果類の採集も行われていたことを物語っている。このほか、釜ノ口からは瓢箪も発見されている。瓢箪は食料とするとともに容器としても利用されたものであろう。瓢箪は低湿地以外では残りにくいので発見される機会が少ないだけであり、われわれが想像する以上に多用されていたとみてよい。

3-116 弥生後期の住居跡プラン

3-116 弥生後期の住居跡プラン