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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

2 後期の中予地方

 北条地域

 北条地方では中期後半の高地性集落が後期まで継続されている。特に北条平野北部の丘陵地帯はその感が特に強い。東部から南部の丘陵は後期になってはじめて神田・椋ノ原山・片山などで高地性集落が成立する。その反面、北条平野の山麓に開析された小開析谷沿いに点々と遺跡が立地するようになる。そのなかでも、老僧奥の開析谷は比較的広いため、大規模な遺跡が分布している。開析谷の東部には集落跡とみられるものがあり、その前面の少し離れた場所には、松山市土壇原Ⅴ遺跡で出土しているような華麗な刺突文のある高坏や器台が多数出土しているので、同様な墓域が形成されているとみてよい。北条地方では後期の遺跡は多く分布し、遺物の出土も他地域に比べると多い。しかし、そのほとんどが戦後の開墾の際に出土したものや、最近の柑橘園造成の際に偶然出土したものが多く、その出土状況や遺構などは椋ノ原山遺跡を除いては不明である。このような点から、弥生時代の研究では先進地域とされ、当地方から出土した土器がしばしば土器編年に利用されていたが、以上のようなことから現在ではその土器を編年に使用することにはいささか問題があると思われる。

 松山地域

 松山地域では後期の遺跡はほぼ中期の遺跡の立地を踏襲するものの、より低湿地へ進出することはすでに述べた。さらに松山市道後祝谷の谷水田沿いにも北代・丸山などの遺跡が分布するようになる。これは城北地域の開発が進み、農耕地の拡大が谷に沿って奥地まで進んだことをあらわしている。松山市の天山西部に位置する西石井荒神堂では、集落に近接して墓域が形成されていたが、これが砥部町水満田でみられるように乳児・幼児のみの墓域であったかどうかが不明である。他方、天山の天王ヶ森にみられるように、沖積平野中に存在する分離独立丘陵上に墓地が営まれている場合もあり、その立地に違いが認められる。丘陵上の頂上部に墓地を営んだ集団は、家族単位であることから、すでに選ばれた人びと、すなわち指導者階級に属していた人びとであったとみてよかろう。
 天山天王ヶ森では方形台状墓が発見されているが、これが方形台状墓であるとすると、岡山県を中心とした地域の影響が強く作用しているとみてよい。ただ、出土する土器には岡山県の上東式土器ならびにそれに続くような土器は発見されていない。松山平野南部の釈迦面山では方形周溝墓群が発見されているが、これらとの関係がどのようになっているのか、将来検討すべき問題であろう。
 この時期に最も発展した地域は、石手川左岸の川附川・小野川・堀越川を中心とした低湿地一帯であろう。ここには釜ノ口遺跡群・北天山・福音寺・束本・北久米・高畑・来住廃寺跡の各遺跡が広がっており、これが古墳時代前期から奈良時代にまで引き継がれている。中期前半から中期後半にかけて城北地域を中心にして発展した文化が、後期になるとこの地に移った観さえある。もちろん、小野川の流域にはすでに前期後半から中期前半の遺跡が若干分布していたこともあるが……。
 松山市平野南部では重信川の形成した河岸段丘の崖上に、土壇原Ⅻや拾町のような規模の大きな集落が分布するようになる。しかし中期後半に多くの集落が形成されていた西野や釈迦面山丘陵には、何故か集落が分布しないようになる。立地しても西野Ⅰ遺跡のごとく一棟のみが独立的に存在するだけである。同じ河岸段丘上でありながら、松山平野南部では中期と後期の集落の立地に大きな差があることは事実であるが、その直接的な理由は現段階では不明である。低位の河岸段丘上に立地する土壇原Ⅻ遺跡は、現在までの県内で調査した集落では最大の規模を誇るものであって、この集落についての正しい報告が行われれば、後期の集落形態がほぼ判明するといっても過言ではなかろう。これが明らかになれば西野遺跡群や釈迦面山を中心とした中期後半の集落形態との関係もより鮮明となろう。土壇原Ⅻ集落の墳墓は、集落内には形成されておらず不明であるが、距離的にみると土壇原Ⅴ遺跡の土壙墓群がこれに相当するのかも知れない。拾町遺跡では集落の南側に大きな沼状の遺構が発見されているが、河岸段丘端であることから、自然の沼の存在は考えられず、集落を取り囲む境界的意味を持った環濠的遺構の可能性が考えられる。
 重信川右岸の微高地にも、浮穴小学校から南井門にかけて後期の遺跡が列状に分布している。浮穴小学校では壷棺墓が三基発見されているのみであるが、これらに関係する集落跡が近くに必ず存在するはずである。重信川右岸に分布する遺跡は重信川の自然堤防背後に存在する後背湿地を利用した水田経営を行っていたものであろう。
 伊予市では行道山の北麓下の上野兎渡護や今岡御所周辺、それに大谷川の扇頂部から後期前半の土器とともに石斧や石庖丁・石鏃などを出土する遺跡が多く分布している。このうち大谷下遺跡ではサヌカイトの石鏃が比較的多く出土しており、周辺地域の石鏃の在り方とは若干相違している。松前町出作からは大形の壷が出土しているが、胴部に円孔が意識的に穿たれているので、祭祀に関係するのではないかともいわれているが、その出土状況も伴出遺物も不明であるので、現段階では何ともいえない。この出作遺跡はかつての重信川の氾濫原に面しており、周辺には湧水池が多く分布していることから、これらを利用した水田経営が行われていたものであろう。したがって松山平野のほとんどは、弥生後期になると生活の場となっていたと想像してもよかろう。