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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

1 古墳時代各地域の様相 ①

 水田農耕の発展と古墳の地域性

 県下では、まだまだ各時代における、遺跡の発見はもとより、遺跡として理解されながらもいまだ遺跡の範囲の確認もおこなわれないままに今日に至っているものが多く、各地で採集されている遺物等についても、偶然に発見されたものが多く、採集された後に連絡をうけるものがそのほとんどである。このような状態でかろうじて採集された遺物であるため、出土状況の詳細などは望むべくもない状態である。
 かような採集過程に難点はあるものの採集保管された文化遺物からして、各地域における、各時代的な文化の広がりを求めてみたい。特に四世紀中葉から四世紀末にかけて、とりわけ前期の古墳を営造するまでに至った各地域での政治的にまた経済的に発展した、権力者の出現をみるまでの、さらに言い換えればこれら古墳を営造し得るまでに成長をなした在地権力者の胎動を各地に求め、またこれらの在地勢力者間でどのような在地勢力の結集がおこなわれ小国家的な首長層の台頭という経緯をわずかな資料を手掛かりとして地域別に取りまとめつつ、ある時は他の地域との関連に立って、それぞれの地域性を重視しながら、また社会的な時の流れとも大いに関係をもたせながら、各地域における古墳営造への背景・立地ないし様相をながめてみよう。他方水田農耕の不可能な地域(農耕集落を形成した地域周辺の未形成地域、もしくは未開発地域を含む)の様相にもふれ、大きく互いに関わり合いをもつ社会構造の変容を、少しずつではあるが解明させる糸口を求めてゆきたい。この間には水系における堰堤の歴史的永続性と重要性や、これを補う溜池についてもふれたい。

 川之江市の様相

 宇摩郡地域における集落=愛媛県の東端、旧宇摩郡の東北部に位置する川之江市には、川滝町下山に発源した金生川が市内を貫流し(現在の川之江町において)燧灘に注ぐ。この金生川には早苗下池に発源した山田井川が西流した後に合流する。この山田井川流域は古くより開けたとみえ、鈴元古墳三基(現消滅)をはじめ二天山古墳がある。金見山(五九六・〇メートル)分水を合わせ金生川に合流する柴生川の河口より約一キロ上流の柴生町北柴生字垣添に平形銅剣二口出土の北柴生遺跡があり、農耕を中心とした祭祀共同体が成立していたことがうかがわれる。
 法皇山脈の平石山(八二五・六メートル)の分水に源流する金川(三角寺川、もと加奈川)はまた、八戸・金川・正地の集落を出て金生川に注ぐ。この金川流域もまた早くより開かれた山間部として原峰の丘陵頂に朝日山古墳(原峰一号古墳)をもつ。他に城塚古墳や陵宮と呼称される古墳などが数基あり、共に金川流域における古墳時代の開発がすでに進み、族長的集落形成をなしていたことがしのばれる。金生川と上分川による平野部西に貫流する二大河川の水流は、平野部を大きく二分する程の生産活力として利用されたことはいうまでもなく、金生川をはさみ北部(右岸)を下分に、左岸地帯を上分としてより大きな集落の連合体を形成したものと推察され、これらの両地域には、またそれぞれに古墳時代の営みが競われたことはいうまでもない。金生川左岸には、上分川を含みもつ水量の豊かなことも相まって、川之江市妻鳥町山口に営造されている東宮山古墳(陵墓参考地)を筆頭に数基の古墳がある。
 一方右岸における発展もめざましく、特に海岸地域に点在する独立丘陵の城山・井地山・瓢箪山における箱形石棺を主体とする円墳群をはじめ、金生川に臨む向山には県指定の向山古墳としての雌塚・雄塚をはじめ、山田井川を含めた古墳の外に、お姫山・宝洞山を合わせもつ古墳時代後期の巨石墳が群集しあるいは連立して、往時の川之江の発展がしのばれる。

 伊予三島市の様相

 旧宇摩郡の中央部を占める位置にあり、市域は大きく法皇山脈により二分され、法皇山脈の北側の平野部と南側の銅山川に臨む山間部からなっている。銅山川に臨む嶺南の山間部の各地は平家の落人伝説に彩られている地域であるが、法皇山脈の北麓をはじめ平野部における地域については古墳時代の文化があり、特にこの展開は、下柏を中心とした経ヶ岡古墳をはじめ、上柏における横岡山箱形石棺群をはじめ、横岡山の学校園古墳・岡ノ上古墳などにもうかがえる。他方中曽根の横地山にも箱形石棺等があり、古くより当地方にも開発が進められていたことが、これらの古墳により明らかである。伊予三島市は、経ヶ岡古墳と横岡山古墳、及び横地山古墳を中心とする、大きく三つの勢力下になる古墳時代においての隆盛がしのばれる。さらに一方三島市の西部大町・五良野地域では、土居町と軌を一にするところが多いと考えられる。

 土居町の様相

 宇摩郡の西部に位置する土居町は、法皇山脈の北側斜面と平野からなり、町のやや中央部を西から東北に流れる関川は、東赤石山(一六三四・三メートル)に源を発し、法皇山脈を横断して北流した後、井の上で右折した後東北に流路を取り、下畑野で西谷川を合わせた後、浦山川とも合流して再び北流した後大谷付近で北の山の南麓を浸蝕して燧灘に注ぐ。土居町の平野部のうち、ほとんどが関川により運搬され堆積をみた扇状地形と沖積平野からなっている西部地域の土居・天満・中村に対して、東部に広がる沖積平野では町境をなす大地川をはじめ、東山川と西山川の小規模な河川が並んで流れ、しかも水害の恐れも少なく適度な水量に恵まれ早くより開発されたものと推察される。なお当地域の開発への足跡は、土居町津根字西森における銅矛出土の津根立石遺跡からも察せられる。
 津根町の東部土居町の東端に位置する土居町野田地区は、面白川と三島町の町境をなしている大地川とにはさまれた肥沃な水の豊かな土地で、古くは上野田、下野田として開発が進められた土地であろう。このことは赤星山と豊受山の裾部にあたる高原や大空の斜面に広がる古墳からも立証され、数多くの横穴式石室を構築しており、古墳時代後期でもやや遅れて営造された円墳群で七世紀前後と推定され、野田地域における発展の様子を示す重要な遺跡として県指定史跡にされている。この地区と時を同じくするものに土居町小林地区があげられ、「和名抄」では近井郷に属していたとされる。近井郷には律令時代には官道も通り、伊予の国府に通じる道であり、近井駅もおかれた地域とされており、古くより開発が進められ、特に野田の外に小林地域では桧川・古子川にはさまれた山麓の微高地形の谷間を開発した。田地は水にも恵まれ、田地に比例した小規模集団の集落が形成され、これらの集落は村長的権力者により率いられた共同体として営農にいそしみ、これら村長的権力者ないし族長とも目される人々の墳墓がここに営造されたことであろう。
 また一方関川の開析作用により、扇状地形の形成とそれを回春してさらに下流地域における沖積平野を形成することにより古代人は、順次肥沃な土地を求めて、下流地域へと開発の手を伸ばしたことはいうまでもないが、かつては土居町土居をはじめ畑野地区における開発が進み、やがてより肥沃な土地と水を求めて、中村地区の低湿地へと新開地を求めた。この地域での発展と相呼応して、関川の左岸にあたる地域を占める天満でも開発が急速に進み、上天満から下天満へ、さらには東天満地域へと集落の形成が急速に進められたものと推測される。
 だが土居町における農業共同体の形成は、大きく三区分されての発達経緯がうかがわれる。その一つは、天満字仏崎にある天満仏崎古墳と西山(三四四・四)と北ノ山(二〇四・四)の東山麓に営造された大地山古墳群とがあり、広く中村地区においては小林丑山と小林神ノ木群を中心に古墳の形成がみられ、次に野田地区では土居町最大の古墳群が高原と大空に密集しており、津根地区にも小規模ではあるがみられる。これらを合わせ土居町古墳群と呼ぶとすれば、各支群にはまた地域性がしのばれ、それぞれが発展の様相を微妙に異にしており、殊に各集落の拠って立つ発展的経過を物語るかにも思われる。

 新居浜市の様相

 新居浜平野における生活の根拠地として古くより発展した地域は、主に南部脊梁山地の山麓地帯であったが、稲作中心の農耕生活の発展に伴い、国領川・東川・尻無川により形成された扇状地・沖積平野に、生活の根拠地へと大きく変化をなした。特に南部に連なる石鎚連峰は、いずれも一二〇○~一六〇〇メートルの山岳が連なり、三河川もまたこの南部の山岳地に源を発し、いずれの河川も流路は短く急流である。これらそれぞれにⅤ字谷を刻んで流れだした河流は、山麓地帯に扇状地を形成した後、燧灘に注ぎ、海岸線に沖積平野を形成している。
 この流れにより形成された平野部の内、開発の鍬が入れられた地域としては、金子山独立丘陵の東部に広がる低湿地に他ならない。とはいえこの地域は、一雨冠水の地域でもあり、集落形成は金子山丘陵の山麓地域であり、先進的な部落としての形成が考えられる。それに対し、新居浜平野の東部・国領川の右岸地帯と、三河川による扇状地形の形成地である中村付近は、金子山丘陵の東部地域に比べてより早く発展した地域で、ことに横山丘陵周辺は、この平野における古墳時代においても発展(開発)をみた地域として指摘される。水田耕作地に最も適した沖積地の大いなる建設者的な役割を国領川が演じ、沖積平野に適度な水量と配分水する尻無川の活用が、この地域における生産規模の拡大と生産量の確保という、生活基盤の安定を成就させたと見るべきであり、当平野における伝統的な発展の経緯をもつ南部丘陵及び台地地域をしのぐ経済力を持つに至った地域である。このことはとりもなおさず、新居浜平野周辺地域に営造された数多くの古墳が、何よりもその発展の様子を物語っているといえよう。
 なお金子地域における古墳時代の生活地としては、近接の土居町に求めることが妥当といえようか。この西の土居町一丁目に所在する金栄小学校付近一帯が他地域と比べ微高地であることによって示される。それは、同校庭より出土した土師器が四世紀中頃にかけての坩・甕・甑などであることからも証されよう。

 西条市と小松町の様相

 周桑平野を南西部から北東に貫流する中山川は、西条市氷見で燧灘に注ぐ。この周桑郡中の一大河川の右岸に広がる細長の山麓平野と石鎚山系の北斜面を形成する山間部からなる小松町においては、前述したように山麓部における縄文・弥生遺跡もみられるが、古墳時代ではこれら山なみのうち通称大日裏山の御手洗山山頂に、数基の円墳が営造されており、小松地域では、当所の古墳が少なくとも当地の初頭を代表するものと推察できる。
 この古墳群からは二面の青銅鏡が出土しており、この地に葬られたかつての被葬者と大和政権との関係が早くより成立していたことをほのめかすようでもあるが、その他の遺物については全く不明であり詳細を知るすべもない。しかし、少くとも新居浜における金子山古墳、東予市における片山古墳における被葬者とは、共に相前後する時期における首長的な役割を果たしていたと考えられる。ただ小松の地は一見平野に乏しく、農耕生活によってのみ経済的安定を期し得たかと案ぜられるが、山麓平野部に広がる水田は実によく開発されてはいる。それにしても面積的にはわずかな範囲であり、主に海に幸を求めたものと見るべきであろうか。
 なお西条市では西方の中山川流域と東北方の渦井・室川両流域の開発による古墳をかなり見うるが、中央の加茂川は山間部を削って流出したせいか河口付近に後世の開発を見るのみであり、中流域に接してはわずかに堂山や芳ヶ内に若干の古墳を見るにとどまる。

 東予市と丹原町の様相

 周桑平野における各河川流域に広がる扇状地形及び沖積平野において、古代人が早くより彼等の生活舞台としての条件整備という一大土木工事が展開したことは、単にこの地方に限られた事象とはいいがたいが、特に当地は河川に恵まれてはいるものの、扇状地形を主とする平野部であるだけに、特に農耕生活を進めるうえで他地域にみられるがごとき水田農耕地としての開発には、開発当初よりさいなまれた地域であったと推測される。とはいえ水田農耕地としての開発への歩みは古く、弥生時代から間断なく繰り広げられ、古墳時代の後期の時期では、ほぼ現在の干拓地を除く周桑平野一円に水田が開かれ、ほぼ今日と変わらない程に開発が進められていたものといえる。
 周桑平野の南部を西から東へ貫流する中山川に、同平野の西端部の関屋・田滝より東流して合する田滝川と関屋川は共に平常は枯川であるが、大雨ともなれば両河川は氾濫し、両河川の開析作用により谷口大扇状地形を回春した後西長野付近で中山川と合流するが、この位置に釜ノ口井堰がある。井堰は谷口大扇状地形の扇端部を北へ導くことにより扇央に内川を設けた。この内川は地域への灌水が可能となるため大川溝と呼ばれる灌漑用水路であり、新出・天皇・北野・土居を貫流した後、北田野の兼久で高松川と合流し古河川となる。
 一方高松川は川根谷口で、西川根より南流した大谷川と合流するがかつては芦ヶ谷山に源流をなす荒川で一雨あればこの河川も又谷口大扇状地を横断する流路と化して氾濫し洪水が多発したと記録されている。大谷川の谷口より、愛ノ山の南斜面一帯の分水を受けて源流する高松川の左岸に位置する愛ノ山の山麓一帯には古墳も多く早くより開かれていたことがわかる。この高松川は愛ノ山南山麓を迂回した後兼久で内川と合流して古河川となる。「田野村誌」に記録されるかつての古墳は現存しないまでも愛ノ山南麓地帯に営造された一連の古墳群は、田野地域における水利権を掌握したことにより可能ならしめる政治的経済的な原因があった。
 また一方に周桑平野の西部山麓に位置する古田地域がある。古田は「和名抄」に記載される寵田郷の中心であり、また弥生時代の遺跡でもある。特に当地の松の木から出土した平形銅剣からしても、早くより農耕を中心とする農業共同体が形成されたことを考古学的に立証している。この地は西山(四五七メートル)に水源を発した西山川があり、西山川の流路は関屋川や田滝川・大谷川のごとき激しい荒川ではなく、小規模工事により灌漑が容易な河川であり、この河川にも『三ノ井』があり、古くより西山川の分水がおこなわれたものと思われる。三ノ井はそれぞれ古田村・久妙寺村・徳能村の三村で分水している。これらの地域はいずれも「和名抄」の七郷の内にあり、遅くとも古墳時代には水田農耕地帯として開発されていたことになる。さらに西山川の水量を分水配分したのみでなく東川根より北流して西山川に合流する川根川においても同様に、一ノ瀬・二ノ瀬・三ノ瀬がつくられており、分水の起源は同様の時期に共同体における約束された分配水の起源とも推測され、久妙寺地域ではさらに下流の泉で関を作り取水をしている。また権現山・常石山に源流する徳能川や小嶋川においても井関がつくられ活用されたことはいうまでもない。
 さらに周桑平野の北部を流れる大明神川と世田山の南山麓の水を合わせ流れる北川がある。これら河川の上流地域からもそれぞれ弥生時代における共同体祭器とみられる青銅器が発見されている。これらを通しても当地域の開発の状況が察せられる。

 今治市と周辺の様相

 越智郡は高縄半島の大部分と、瀬戸内海に浮かぶ芸予諸島の島々よりなり、行政区分名では朝倉村・玉川町・吉海町・宮窪町・伯方町・魚島村・弓削町・生名村・岩城村・大三島町・上浦町・関前村・波方町・大西町・菊間町を含む範囲である。陸地部では、北部は安芸灘(斎灘)に面し、備後灘を隔てて広島県に相対し、東部は燧灘に面しており、燧灘沿岸には南北に細長い今治平野が広がり、平野の中央部を東方へ貫流する蒼社川は郡南にそびえ立つ東三方ヶ森の五丈が滝に水源を発して後木地川をはじめ畑寺川の支流を集めて北流し、桂川・長曽川・重茂川・イキ川の支流を合わせて玉川町内を東流して今治市を経て燧灘に注ぐ。一方今治平野南部には五葉ヶ森に水源を発した頓田川は大きく蛇行をしながら白地を経て上朝倉に出る。上朝倉で北流する黒谷川と合流した後、大きく湾流しながら朝倉村のやや中央部を貫流した後、進路を霊仙山西方で北進して多伎川と合流して今治平野の南部を東北に流れ唐子山独立丘陵の北山麓部を巡り燧灘に注ぎ唐子浜なる砂浜海岸を形成している。
 だが現在の頓田川は宝永四年(一七〇七)に河道の付替工事を行っており、幕府領である登畑村・宮崎村への許可願いが出されていることでも明らかなごとく、河川の増水によりしばしば氾濫し町谷・本郷・高井・徳森・久積は頓田川による扇状地で形成された地域と推定される。これら扇状端部に伏流水を集め流れる竜登川及び銅川はかつては、頓田川の旧河道と見るべきであり、頓田川の開析作用で大きく自然堤防を造りだしたと見られる町谷の堤防があり、ちなみにこの自然堤防上には弥生前期から古墳時代に及ぶ文化層が確認されている。
 頓田川はかつては、霊仙山の西山麓宮崎より直進して楠谷山(六八・六メートル)の東山麓をうがって流れた後、水力は衰え扇状地を形成したが、今治平野のやや中央部を流れる蒼社川の開析作用と相まって、沖積平野や扇状地形の進行とともに頓田川の流路は次第に変化縮約されて東北へと流路を取りながら、今治平野南部での堆積作用はなされたものと見られ、これらによる旧河道が、前述の銅川、竜登川である。
 蒼社川の流水もまた、玉川町大野で右折した後は天神原で釈迦堂山(三九九・三メートル)や重茂山(二九四・五メートル)の分水を合わせた後今治平野に流れ扇状地形を形成しながら河口には肥沃な沖積平野を造り出したが、この河川においても頓田川同様に、しばしば河川の氾濫が繰り返し発生したことはいうまでもない。ここに、この両河川の水と闘う古代人の活躍があり、それをうけての歴史時代での営みがしのばれる。
 これら二大河川における営みの外に小河川による自然の恵みに育まれて早くより水田農耕の成功をみた谷間部及びその周辺地域においての開発がみられるものに、近見山の山麓における放射状に並ぶ小規模な溜池をはじめ、作礼山の東山麓部の土居・新田における溜池と北山麓の別所にみられるものをはじめ、頓田川上流地域に広がる朝倉村における高大寺川及び多伎川をはさむ一帯で、高取山東山麓にみられる溜池群には、頓田川流域に広がる洪積台地の開発の様子がうかがわれる。また水田耕作を中心とした古代人の歩みは、保田平形銅剣の出土地と合わせて考えられる古くからの共同体の成立と農耕共同連合体とも見るべき村落形態が水利の確保という共通する理念に立って成立していたものと推測される。この歩みは今治市新谷においても玉川町小鴨部同様であり、周桑平野や土居町にもみられ共に灌漑用水のえがたい地域に共通するかのようである。
 一方で小河川流による灌漑工事の成功をみた河川流域での様相は、宇摩郡及び新居郡・周桑郡と同様に越智郡においてもみられる所であり、頓田川の上流の山越川をはじめ高大寺川・多伎川における開発、蒼社川における営みをはじめ、谷山川・浅川・日吉川の各流域にみられる古墳群の営造が、よくこの開発による発展のさまを示しているといえよう。
 これら内陸部における開発と同じく海運を業とする集団の存在を見逃すことはできないところである。これら越智郡は高縄半島に立地し、しかも来島海峡を経て島嶼部に至る間にあって、斎灘をはじめ潮流激しき難所である。このことは、とりもなおさず船泊りとして古代より大いに利用されたところであり、また難所として今日にみられる様相からもうかがい知りうる。この潮流を見ての船出がこの難所を渡航する唯一の安全な道であったとすれば、第一に波止浜における航海の難所は即安全を求めるものであったことはいうまでもない。これらの航海技術を有する一集団の活躍した寄港地として古くから桜井があり、また波止浜港や大井浜などが要地とされたのではなかろうか。

 北条市の様相

 北条市の中央部を東より西流して斎灘に注ぐ立岩川は、高縄山(九八六・〇〇メートル)をはじめ陣ヶ森(五三七・八メートル)岩ケ森(四一二・六メートル)高萩山(三五五・五メートル)の分水をうけて比較的水量の多い河川である。山間部の谷間では大きく蛇行して渓流をなしている。門前付近で大門川の支流を合わせ、猿川・小山田川・重川の支流を才之原付近で合わせた後平野部に出る。神田で大きく左折して南西に流路を変じ、残丘である正岡の丘陵の北斜面を開析して、再び流路を北西にとり斎灘に出る。平野部での流路が正岡の丘陵によりさえぎられたことは、下流地域における平野部での沖積作用が比較的安定して形成され、残丘である正岡の丘陵の東部及び南部では院内川の水資源により、早くより開発も進められた。一方の北側には、立岩川の流勢による氾濫がみられ、その氾濫による肥沃な土地が形成され、恵良山の南麓に広がる庄・八反地・中通地域には早くより水田農耕生活が発達し、集落も形成されたと思われるが、海にも近く海浜における幸とも合わせ豊かな生活を展開していたものと推測される。一方南部に広がる平野でも、高縄山に源流する河野川と高山川による開析作用も大きく風速平野の南部地位の平野を形成するが、内でも中西外村(外村)は立岩川と河野川にはさまれた地域をさし、現在も集落の密集地は外村上(中西外上)と外村下(中西外下)とにみられ、村落形成への過程を物語っている。外村上集落が早くより開発されたことはいうまでもなく、院内川の水をはじめ八反地・椋原(現ゴルフ場)の西山麓一帯での農耕は谷間の小河川を利用しての水田耕作が、中西内村における農耕生活の安定をもとに南面一帯に広がる中西外村の上地域に開発の手が広げられたものと見るべきであろう。この発展は既に立岩川流域における農耕生産の政治的統合の見られた後の開発で、風速における盟主的な権力者はいうまでもなく正岡郷にあり、その指揮の下での開発と考えられる。
 この地域における開発と発展の様子は、周辺部における古墳の分布状況にもよく表れている。特に風速地域を代表する盟主的な首長墓としては、正岡の丘陵上に営造されている前方後円墳二基がそれを物語っており、平野部における安全と豊穣をとり持った現人神的な存在者として君臨した首長が、国津比古命であり、櫛玉比売命であった。両社の建立は早く式内社と呼ばれる古社である。正岡は祭りの丘として、農民にくまなく愛され心の結合体として村勢の中核をなしたことはいうまでもないが、これらの力の結集は、やがて富を得た各集落形成への胎動ともなり、やがて各集落単位に村長的な墳墓への営造がみられるに至った。これらの古墳は主に横穴式石室を構築するという古墳時代後期に属するものであり、各村落内での村長的な人物をまず中心に配置しての営造である。これら各古墳群の形成はただ正岡周辺のみならず、立岩川の支流に位置する才之谷をはじめ、小山田・庄谷・新城・高田・院内にはそれぞれ集落と相対しての古墳群が群集して営造されている。いずれも集落とは密接な関係を保ちつつ、しかも集落における社会的地位を十分に配慮した家族墓的な古墳営造であることはいうまでもない。古墳群における古墳の占地は、単独的な、また断片的な営造意志ではなく、地域集団における十分な配慮による営造立地の決定によるものと考えるべきであろう。
 これら古墳は後期に営造されたものが多く、家族墓としての追葬を構築時において既に考慮しての営造であるだけに、黄泉国への墓道が必要であり、一見無造作に見えるこれらの円墳群も、一方では整然とした墓道をもち築造されている。この時期における古墳群の形成は、河野川の下流地域にも大いに発展し高縄山の西山麓一帯には辻ノ内古墳群をはじめ、高縄神社周辺部にも一群をなして営造されている。また高山川と粟井川の流域をはじめ夏目・苞木・常竹・磯河内等にも高縄山の分岐低位丘陵上に一、二基及び、数基を単位とする古墳が営造されている。

 松山市の様相

 松山平野の開発は、古墳時代においてはおおよそ今日とほとんど変わりない程に開発の手が広げられていたものといえよう。弥生時代に見られた各河川流域における扇状地形及び洪積台地での開発は、この時期においては特に灌漑用水路及び溜池の設備等も順次小規模ながら建設されるようになり、農耕生産における特に水田耕作地の拡張という画期的な発展を見た。
 さて松山平野の北部における農耕生活の様子について眺めてみよう。北部を代表する河川は石手川本流である。石手川(湯ノ川)は伊之子山(水が峠)に水源を発した後、福見川・青波谷川・五明川の各支流を合わせながら渓谷を蛇行して湧ヶ渕では流れは渕となり、また急流となる。この湧ヶ渕を過ぎると谷間も広まり、食場町で伊台川を合わせた後山麓部に石手川大扇状地を形成する。石手川の堆積活動は激しく、しばしば扇状地形を回春しての氾濫が繰り返された後、流路を幾度か変えて伊予灘へ注いだ荒れ川である。この川は近世における加藤嘉明の松山城下町建設にあたって足立重信に命じて改修がなされ、この改修工事により流域における灌漑用水として広く利用されるに至った。
 だがこの一連の改修工事以前は、文字通りの荒れ川として扇状地を回春しての氾濫は激しく、氾濫のたびに流路を変えて流れたことが現在地質調査により明らかである。また旧河道として城北地域に数条の河道が認められ、これらの河道を基本河川とした灌漑用水路が発展したと見られる。中でも湧ヶ渕より石手寺前に通じる寺井川(湯ノ川)は、道後湯之町の中央部を流れ、祝谷川の水を合わせて山越に至り志津川となり山越一帯の灌漑用水として利用された。また寺井川は道後樋又において分水がなされ、一方は祝谷川へ、一方は西流して旧一万村(中一万町・東一万町・勝山町・道後一万・道後今市)や味酒村(味酒町一~三丁目・萱町・木屋町・高砂町・清水町・文京町・大手町)をうるおした後北江戸村(朝美一~二丁目・宮西一~三丁目・辻町・六軒家町・宮田町)で南流して斎院樋川(中ノ川)と合流して高岡村へ流れる上流一帯が南江戸村(南江戸一~六丁目)である。この南江戸四丁目より昭和四七年(一九七二)一一月に市の下水処理施設工事をしていたところ、地下四~五メートルから構築遺物とみられる植物遺体が軒垂木状に並列して検出されたことにより、一時は弥生時代における住居跡とみる向きもあり大いなる関心を集めたが、昭和四八年八月以降の調査により、古墳時代前期(四世紀)の水路に構築された水田灌漑用の堰堤であったことが立証され、同四九年の第二次調査により、堰とそれに続く水の取入口が検出されたことにより、古墳時代における松山平野での灌漑施設の解明はもとより、水田農耕を中心とするわが国の農耕文化への実態を知る貴重な発見ともなった。
 古照遺跡の発見が、農耕用の灌漑用井堰であったことにより、松山平野における開発の手は、平野部全面においての利用が古墳時代の終わる頃には実現していたものと推察されるようになった。
 石手川の分流は多く寺井川(湯ノ川)・佐古川(南ノ川)・江戸川(中溝川)・斎院樋川(中ノ川)・佐古川の分流立渕川(富久川)が現在の石手川の北側に流れ、南側では中村川や橘川・徳力川・土居川が石手川の下流地域の灌漑用水に利用されている。さらに上流地域では、石手川の水利用は遅れ、永禄年間(一五五八~七〇)の市ノ井手堰を作り、その流路を東野・桑原・畑寺地区に構築したことにより水田地帯として急速な発展を遂げた。近世における新田開発地帯として洪積台地の開発が進められた地域である。
 洪積台地の広がりは高縄山系の分岐丘陵の南麓地帯に広がる、北久米・南久米・鷹子・窪田(久米窪田)・来住町は早くより古代人の生活舞台として開発され、これらの地域にはそれぞれ地名にそくした弥生時代から古墳時代を経て歴史時代までの遺跡があり、早くより開発の進められた地域として注目される所であるが、これらの地域はいずれも水量の少ない小河川による地域であり、川付川・堀越川・小野川・悪社川・内川の水量は乏しく、水田耕作地帯は主に小河川の流域をはじめ、小野川・悪社川による扇状地形の形成による扇状地端部における湧水を利用しての水田耕作が進められたが、洪積台地状における水田耕作については、旱魃の際には用水の不足に悩まされた地域であったと推察される。このことは重信川南岸地域においても同様であり、四国山地の分岐丘陵より搬出された土砂は山麓地帯に小規模な扇状地を形成することもなく重信川の河岸段丘をうがってわずかに西流した後、砥部川と高尾田で合流して再び重信川に合流する御坂川の外は、これという河川もなく水量には恵まれない地域として、津吉町をはじめ東方町・西野町・上野町が洪積台地を主な生活舞台として開発が進められた。
 これらの地域では窪野川と久谷川の支流を合わせた御坂川の水量を上関屋から広瀬堰に至る数基に及ぶ井堰による灌漑用水の確保の他に、尉之城・大友山の分水による溜池が山麓部に築造され、この溜池による灌漑用水の確保により台地での水田化を可能とした。ちなみに『久谷村史』に記録された溜池の数は、東方町六・津吉町一一・中野町三・上野町七・浄瑠璃寺町一〇・久谷町五・窪野町一一・恵原町六・西野町七の計六六の溜池が分布しており、これらの溜池はいずれも明確な記録は溜池の改修と拡張のみであり新設についての記録は数基であり、そのほとんどが構築年は不明であるが川に構えられた井堰の内溜池専用井堰と灌漑と溜池を兼用するもの、夏季の水田耕作時のみ使用する灌漑専用の井堰とがあり、これらの内溜池専用の井堰については、一村ないし二、三村による掛り井堰として、溜池への配水を具備しておりまた大規模な溜池群をなしている処から中世ないし近世の溜池として完備したものと考えられる。しかし、その他の小規模な皿池や井堰による開溝・治水事業は、ごく小規模な共同体の力による用水工事として理解される御坂川流域の発展に対して、前述の久米町や来住町・久米窪田町をはじめ、桑原町・東野町・束本町・福音寺町における洪積台地における旱魃時の水の確保という共同体の運命をかけての事業として溜池の築造が、当地域では特に早くより実施されたと推察され、特に『久米村誌』に記録された溜池の数は二三個であるが、この内七〇%に当たる一六個の溜池が明和八年(一七七一)の「久米郡手鑑」に収録されていることからも古い時代に既に築造されていたことがうかがえる。最近における小坂釜ノ口をはじめ久米窪田・来住・北久米・松末・福音寺・束本Ⅰ・Ⅱ・桑原高井等の各遺跡の調査により、これら洪積台地及び小野川流域において、明らかにされた弥生時代から古墳時代にかけての遺跡はその当時の様相を明確にすると共に、来住廃寺の調査によりさらに古代における久米郷の把握に資するものがあり、少なくとも水田耕作地としての熟田化が進行していたことを立証するに足る資料が出土した。

 沖積地における開発

 松山平野の沖積地における開発は、特に古墳時代に発達した農業土木工事の技術的開発が進行することにより発展したものといえよう。四世紀の古照遺跡の堰堤の構築物は、当時の堰の構築技術を知る最大の遺構であると同時に、今日もなお小河川にかけられた井堰における構築方法と同様の方法であり、この井堰を構える位置をさして、関・堰・轟・井関・関屋・井手・堀等の呼称されるものの外に鬮目とも呼ぶ個所も地名として残されている。これらはいずれも用水に対する機能的な用語として古くより伝承された地名であると共に農業共同体における用水権(水利権)として確立したものが踏襲され今日に至っていることに他ならない。また分配水の利権を表す用語としては、樋・樋又・樋口・溝・井手・堀等がありこれまた古代人の営みによるものであろう。この他に扇状地の端部や氾濫原の伏流水の活用も沖積地における水利権として早くより開発されたことはいうまでもない。松山平野における湧き水の利用は、久万の台の低位丘陵の東山麓部を北流する久万川は、亀ノ子泉の湧き水による灌漑用水として古くより活用された。

 重信川上流での開発

 重信川の上流の大畑から平野部にかけての大扇状地形は、古くから開かれ、特に弥生中期頃においては既に集落が形成されていたが、中でも左岸の下海上や宝泉地域は肥沃な土地と伏流水とを利用しての水田耕作地が開かれていたと推測される。宝泉出土の中細形銅矛一口が農耕用祭祀の祭器としてよくそれを物語っている。
 だが田地の開発と共に農業用水の不足がおこり、渋谷川や添谷川の利用の外に、最も配水の便を自然立地としてもつ上海上や下海上における、重信川での取水が、北方・中村・上川地域における扇央部灌漑用水としての死活的な水利権として古くより重信川右岸地域との水利権争いが展開されていたものと推察される。
 だが開発の歴史から見れば左岸地域での発展が先んじていたことは、扇状地形の扇端部に開けた森・竹ノ鼻・茶道・八幡の集落を有する南方一帯では、重信川の灌漑用水の外に表川の水を利用しての農業共同体があり、右岸地帯の横河原・見奈良地域より早く農耕地が開発されていたことが、曲星や竹ノ鼻に転在する円墳によっても立証されるところである。このことは重信川の扇状地形の形成と氾濫が時代と共に東方より西方、左岸への攻撃面が右岸方向に転位しつつ氾濫を繰り返していったことによる。流路の変更が扇状端部における右岸と左岸に見られる開発の遅れが、田畑の熟田化の差として現れたものであり、近世においてすら右岸地帯における新田開発が盛んに進められている記録からしても、明らかでありしかも新田開発地は旱魃には弱く、その上に乏水地帯であり、またそれにまして増水時には冠水地帯としての記録が示すところである。
 だが右岸地帯の西岡・志津川地帯は、早くより開かれ、農業共同体としての集落形成は古墳時代には成立していたと推察されるが、地域一帯への水田開発については内川の水量不足による乏水地帯でやや遅れての熟田化がなされたのではと左岸地帯の開発に比べて推測するところである。このことはとりもなおさず、樋口における菖蒲堰の水利権の確立によってはじめて円滑な灌漑用水を得たことにある。

 伊予市と砥部町の様相

 重信川の河口に近い左岸地帯に広がる沖積平野を中心とする松前町をはじめ、四国山地の分岐山陵である黒森山・水梨山・障子山・明神山を分水峯とする山間部及び北側山麓地に広がる一帯が伊予郡にあたる。行政区としては砥部町・松前町・伊予市(中山、広田、双海町を省く)である。
 主たる河川は重信川を境界河川にして、南部(左岸)の沖積平野に重信川の旧河川としての国近川・長尾谷川が西流し、松前町における重要な水資源となっている。この松前町に対して伊予市では、そのほとんどがかつての重信川の河岸段丘上に広がる。山麓(裾野)地帯であり、低平な分岐丘陵の谷水を利用しての水田地帯が広がり、水掛りの悪い地形は果樹園として利用されている。
 この地域は松山平野における大和朝廷との関係を最初に持ち得た地域として発展した地方で、早くより開発も進み、松山平野における開発の近代化をもたらした地域とも目される処である。それを物語る四座の式内社に、「延喜式」神名帳に記帳された、高忍日売神社・伊曽能神社・伊予神社・伊予豆比古命神社があてられるが、この内松山市居相町の伊予豆比古命神社以外は、伊予郡の北東部にあたる伊予市と松前町に集中していることからも、当地域がいち早く大和朝廷との関係にいかに緊密であったかが立証される。
 松山平野全域から見れば、立地条件は悪く、松前町はそのほとんど全域が重信川の氾濫原であり、またしばしば氾濫も河道周辺で起きたことであろう。伊予市は四国山脈の山麓地帯に帯状に広がる起伏の大きい山裾の平野部である。この地に大和朝廷(畿内勢力)との関係を最も早く持ち得たと推測される三角縁神獣鏡が出土したことにより、遅くとも三世紀中頃か三世紀末ころから何らかの関係があったことが推測される。その後当地域における発展の様子は、低平な丘陵帯に営造された古墳においても、松山平野にみられる古墳営造の時期的な差がみられるところからも、松山平野における古墳文化時代の幕開けを告げた地域として理解されるところであるが、松山平野における開発の進行と政治的な平野部の掌握の関係から、政治権力の中心は移動をみたものと推察されもする。ともあれ、この地に伊予の国造が配置されたとすれば、この地域がすでに経済的にもまた政治的にも大きく成長をし、既に農業(水田)共同体としての連合体を作りあげていたことに他ならない。三世紀末か四世紀初め頃には長尾谷川はもとより国近川においても既に、重信川の旧河道として安定した農耕地帯を形成していたとみられるが、まだ海岸地帯には低湿地帯が残され農耕には不適地であったとも考えられる筒井・宗意原・原を除く上流地域での農耕地帯と、上三谷・下三谷の山麓地帯を中心とした水田農耕地域が母胎となった盟主的な首長権力者が既に重信川左岸地域に君臨し、重信川のデルタ地帯を含めた三角形の緑地帯を小国家的なまでに支配体制を作り出した社会組織が発生したものと考えられ、その組織をもって大和朝廷支配下に属したと見るべきであろう。このことは、当地方への水利権の拡張という井堰の設置が意外と遅れて実施されていたことにも、独立性に立った政策からくる立ち遅れにもみることができ、徳丸・出作地域における乏水地帯での水利確保を、砥部川水系の利用という画期的な方法でしたことでも、かなり遅れがあったと推測される。このことは矢取川の急流と遮断が、当地域を保護しまた発展の要因ともなりながら、ひいては飛躍的発展に対する障害ともなり、より発展した政治的統合の立地条件を充たすためには、地理的条件に制約されることが大きかった。このことがやがて伊予の三山と記録される天山・東山・星ノ岡を有する肥沃な、しかも広大な平野部での発展をして当地域をしのぐまでに成長せしめたものとも考えられる。
 障子山・谷上山・行道山の分岐山稜により遮られた砥部町は、東方には塩ヶ森・大友山の山陵に狭まれた山間部で中央に砥部川が北流して高尾田で御坂川と合流した後、水満田で重信川と合流する砥部川の中流地域から下流地域にわたり、河岸段丘が発達し、中流地域の河岸段丘上の低平な地域が砥部町の中心部をなしている。
 この地の地名に比定される和名抄による出部(いずべ)は、陶部によるものとも推察されている。この陶部と推察しうる考古学的資料は、六世紀後半から七世紀にかけての須恵器の窖窯が、県営運動公園の建設用地をはじめ、松山市西野町の大友山東山麓地帯や砥部町の中下流地域における柑橘園の開墾時に傾斜面での須恵器片の出土がみられた処から推測される。他方またこの窯業の繁栄によるものともみられる後期群集墳が、砥部川を狭む河岸段丘をはじめ、低平な丘陵に群がって営造されており、後期から終末期にかけて数を増しており、しかも埴輪の中に須恵質のものも含まれるという特質が、現に運動公園内での登窯(窖窯)から検出されていることなどからも、当所の地名との深い関わりを考えさせられる。

 宇和盆地と周辺の様相

 南予地方における古墳時代での開発は、部分的には各地で独自の動きが進められていたが、特に古墳時代のシンボルともいえる高塚墳を営造しうるまでに経済的な発展を遂げた地域としては、宇和盆地が代表的にとりあげられる。
 伊予国には「伊余(後に伊予郡)、怒麻(野間郡)、久味(久米郡)、小市(越智郡)、風速(風早郡)」の五国造が設置された。これは『先代旧事本紀』等の伝える処である。このことはつまり豪族支配下にあった伊予の各地域の小国家的な集団が、大和政権に組み入れられたことを意味するものである。ところが、宇和地域(南予全域に広がる地域)にこれが見えぬのは開発の遅れによるか、もしくは辺地という立地により中央ではあまり注目される地域でなかったためとも考えられ、国造の配置も、また式内社の記録もない地域でもある。しかし前述の『先代旧事本紀』に「国乳別皇子を宇和別とした。」という宇和の地名が記録されている。このことは当地域が大和朝廷に帰属したことを意味するものであり、地方豪族者に与えた「姓」が「別」であった。これら記録が事実とすれば、国造は配置(任命)されなかったが、伊予五国造のころに大和政権にくみしていたことに他ならない。しかし中央政権への帰属は別にして、南予地域における開発が、この時期(四世紀)に稲作を中心にして農耕生活が活発に展開していたことは、記録にこそみられないが、各地域で検出されている考古的な資料により明確である。ただ今日考古学的調査が遅れていることによる結果から、時間的立ち遅れを感じさせるにすぎない。宇和盆地における銅鉾・銅剣の出土は、東・中予における出土とあまり遜色なく、かえって銅鉾においては当地域の出土数が勝っていることはとりもなおさず、これらの儀器が農耕生活における農業祭祀の儀器とみられることにより、明らかに稲作を中心とした地域における開発が既に前時代において大いに進められていたと解すべきであろう。ここに宇和盆地周辺の古墳群存在の事実が肯かれる。
 今南予地域で濃密な溜池の分布を示す地域に三間盆地と宇和盆地があげられる。三間は美沼とも記録される地名が示すごとく盆地で、三間町の中央部を三間川が東流して広見川と合流した後吉野川となり松野町を経て高知県に流れ、宇和島線終着駅江川崎で四万十川(渡川)に合流して土佐湾に注ぐ。この四万十川の支流である。三間川流域(一部広見町を含む)における溜池の分布は、南予地域では他に見られない築造数値である。ちなみに三間町における溜池は大小とりまぜて一〇六基が築造されている。
 これらの溜池がすべて古墳時代に築造されたものでない事は明らかであるが、築造の記録をみない小規模な溜池が多く、最大規模の中山池は寛永四(一六二七)年から三年の歳月をかけて宇和島藩による築造の記録がある。なぜこの地域に溜池が多く造られたのか、その大きな原因は、三間川の川底が低く灌漑用水として利用できず、そのために各三間川の支流及びその水源地帯に溜池を築造し旱魃に備えた歴史的な所産である。三間町は、昭和二九(一九五四)年成妙町・三間村・二名村による合併で町制となっている。これら成妙村(則・大藤・黒井地・成家・曽根・能寿寺・是房・戸雁)三間村(宮ノ下・増田・小沢川・川之内・元宗・増穂・土居中・迫目・務田)二名村(中野中・波岡・田川・金銅・古藤田・丈内・土居垣内・兼近・中間・黒川・音地)の各村が行政上の合併をなしているが、前述の中山池による給水は、黒井地村・宮ノ下村・戸雁村・務田村・迫目村となっている。迫目村は三間川の右岸にあり、左岸の務田とは低平な丘陵をはさんでの隣村である。とはいえ三間川に樋を架けての迫目村への灌漑は余り水の給水が考えられる。いまの中山池築造前の灌漑は小規模な溜池の活用はもとより各支流の水利権が成立していたことがさらに考えられる。それはこの池の給水により熟田化が進められた務田村の呼名が無田村に通じる音韻からも云えようか。言い換えれば中山池が築造される以前は水田化の出来ない水かかりの悪い土地であったことを物語っている。黒井地を流れる内平ヶ谷川の水利権は下流の戸雁・宮ノ下地域における灌漑用水利権が確立していたことを立証している。このことは戸雁・宮ノ下から弥生時代後期の土器片及び古墳時代の土師器片を出土していることからも、当地は既に水田化の開発は進んでいたが、日損な土地を記録される土地だけに、水の確保が溜池の築造へと拍車をかけたことはいうまでもないが、他地域との共存関係を求めることにあったと推察される。このことは千本松峠(長沢)を越えて立間(多知万)郷との共存が思考される。吉田町立間にある宮の脇遺跡や喜佐八幡神社付近、内川の左岸中央部の丘陵から弥生時代の土器の外に土師器の出土があり、明らかに古墳時代の生活が偲ばれる。
 なかでも宇和盆地は南予最大の平地を有する地域であり、また古代文化の中心地でもある。特に古墳時代においてはこの宇和盆地は古墳営造の南限地域でもあり南予地域における支配者層としての豪族の出現を示している。平地は肥沃な湿田が多く、地質学では宇和盆地はかつては湖であったが、土砂の堆積により平地が形成されたとされている。低湿地の周辺に弥生・古墳時代の集落が形成され、早くから水田農耕生活が定着したと見られる。また盆地なるがため、他地域からの干渉も少なく独自の文化を作り出すことに成功したとも考えられる一方、三瓶町を玄関とする後背地として発展した地域であったことも見逃すことはできない。
 四方を山に囲まれしかも宇和に通じる道は肱川を上る以外は全て峠を越えての道しかなく、安全な立地にある。とはいえひとつ峠を越えれば海に出ることの出来る安全でかつ便利な立地にあったことは、宇和盆地が特に他の地域より秀れた地位を保ち得た最大の要因であったことと共に大いなる意味がある。
 宇和海での活躍はやがて伊予灘・斎灘への進出も十分に考えられるし、三崎半島による内海と外海との遮蔽は宇和町における過量の防御的天恵ともいえる程の立地条件にあったことに他ならない。
 このことはとりもなおさず、宇和盆地における古墳の営造時期が全く爆発的な築造をみて、またたくまに築造を停止するという、一時期に集中すると同時に低地域に波及する時間的経過を見ない内に停止をし、火葬という新時代へと突入するという東・中予地方にはみられない程の変身ぶりもあり、それは南予の中心的(主導的)な立場における一大変容ともうかがわれる変身である。この変身ぶりは、またやや時代は下るが八世紀における天平勝宝元(七四九)年の宇和郡の豪族凡直鎌足の外大初位下から外従五位下への一四階級上位の昇叙(昇進)であり、これは明らかに中央政権への単なる帰属を超越した地位を与えられたものであり、この地位は伊予国分寺への資材寄進の功により貴族として推挙されたことを意味するものであったのであろうか。
 さてこれら経済的な背景をなした宇和盆地における開発は、三間町同様に支流に井堰を設けての灌漑用水はもとより、不足する水利についての共同体の土木工事が溜池の築造に向けられた。その努力が今日では三七ヶ所(久保地区を除く)で内、嘉永二年の築池自分池元帳では三一ヶ所が記録され、その記録によれば元和二(一六一六)年から文久元年までに八七ケ所の築池の記録がある。してみれば築造の記録をもたない二四ヶ所の溜池がそれ以前に築かれたことになり、約一千年の間に二四ヶ所に築池されたことになる。井堰についての記録はないが、深川に四ヶ所、宇和川に一六ヶ所、岩瀬川に九ヶ所と設置されている。この内下松原から下流にかかる宇和川での堰三ヶ所が最も新しい堰とみられる以外は、かなり歴史を有する井堰の位置と推察されるが、井堰がかけられ水田が開かれた地域と古墳の分布は必ずしも一致しないという点は宇和町の特異性というべきか、それともわれわれの研究不足によるものというべきであろうか。

4-1 川之江市・伊予三島市の水系と古墳分布

4-1 川之江市・伊予三島市の水系と古墳分布


4-2 伊予三島市西部と土居町の水系と古墳分布

4-2 伊予三島市西部と土居町の水系と古墳分布


4-3 新居浜市の水系と古墳分布

4-3 新居浜市の水系と古墳分布


4-4 西条市・小松町の水系と古墳分布

4-4 西条市・小松町の水系と古墳分布


4-5 周桑平野の水系と古墳分布

4-5 周桑平野の水系と古墳分布


4-6 今治平野の水系と古墳分布

4-6 今治平野の水系と古墳分布


4-7 北条市の水系と古墳分布

4-7 北条市の水系と古墳分布


4-8 松山平野北部の水系と古墳分布

4-8 松山平野北部の水系と古墳分布


4-9 松山平野東部の水系と古墳分布

4-9 松山平野東部の水系と古墳分布


4-10 松山平野南部の水系と古墳分布

4-10 松山平野南部の水系と古墳分布