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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

1 住居の様子

 竪穴式住居

 この時代における住居は、弥生時代の竪穴式住居を踏襲した住居が以前同様存続するが、一方では農耕地の移転拡大にともない、住居地も沖積平野へ進出をみるようになった。しかしすでにふれたように、沖積平野におけるわずかな微高地を求めて集落が形成されたことはいうまでもないところである。
特にこの時代においては、沖積地への進出という新田の開発にともない、農耕生産の中心が水田耕作であり、生産条件に制約されるものがあった。このために集落の立地に微高地を選ぶと共に、住居そのものにおいても変化をみるに至った。特に低湿地への耕地の拡大化にともない、従来のような地面を掘り下げて住居を構築することの困難性が生じたことはいうまでもないことである。とはいえ本県における平地遺跡の発掘調査は、全県的視野に立って見るならば決して、いまだ充分な調査結果を得るにいたっておらず、わずかに松山平野においてのみ調査が進められている状態である。この調査結果でもって全県的な把握は困難というべきである。しかし、これら松山平野における調査結果をもって、本県における古墳時代のおおよその住居の一面をうかがうことも、若干可能な面もありうると思われる。
 住居そのものの変遷は前代以来の竪穴式住居をはじめ、この時期では僅かながらも家屋内における空間の利用が考案工夫される時期とみられる。いいかえれば竪穴式住居という同一な建築構想は踏襲されてはいるものの、漸次局部的な変化を見るようになった。このもっとも大きな変化としては、前時代における竪穴式住居における主柱(家屋の中心的な柱)の位置が、弥生時代においては竪穴式の壁面距離に対して、柱と柱の間における距離(柱の心心間距離)での広がりがみられるようになり、前時代における柱間の心心間距離が、壁面距離における二分の一の対比数値以内にあったのが、古墳時代においての柱間の距離は二分の一を越える数値をしめすという共通的な、家屋内における空間的位置の広がりがみられる。
 古式土師器といわれる時期における竪穴式住居では、現在までの調査結果においてのみふれるところではあるが、主柱が四本柱を持つ場合の住居での心心間距離は、壁面(掘り方における竪穴一辺の長さ)距離との比は二分の一から三分の一以内にとどまるという共通した主柱間の数値が指摘されるようである。また住居への入口の位置においてもやや共通するものがあり、南面に入口を取るものが最も多く、ついで東南する入口を有するものが多く、わずかではあるが北面する側に入口を有するものも見られるが、北面する家屋はごくわずかである。またこの時期における家屋の面積は大小様々ではあるが、そうじて一辺が五~六メートルをなすものが多く、また方形の平面をなすものが多い。さらにこの時期における住居の床面の様相は、特に変化の見られるものが多く、それぞれに工夫をこらした床面の利用がうかがわれるが、共通しているものには、いずれの家屋においても半尋という共通した入口の状態であるが、入口の位置については、桁行間の中央部に配置されるものが多く、この時期においての一つの特徴として理解される。

 住居の構造と工程

 竪穴式住居の柱及び屋根葺きにいたる工程については、堀口克己の建築手順にしたがえば、主柱四本をまず垂直に掘立てるが、これに用いられる用材は末口の直径(指渡)で七~八センチ、高さ約二メートル程度のものが使用される。用材の材質は松・杉・桧等が用いられる。第二工程では転び抜首を竪穴上面の盛土部よりイ字形に取り付ける。用材には主柱と同様の太さのものを長さ五メートル余のものを、それぞれ交叉させて抜首形を作る。第三工程として頭繋ぎの部分を取り付け、これを足場にして、抜首の上を結ぶ。用材は三メートル内外の末口六センチ内外のものが使用される。第四工程では棟木の取り付けであるので、用材は末口の指渡八センチ位の長さ五メートル位とされる。第五工程として頬杖の取り付けがおこなわれる。用材は太さは棟木程度で、扠首のものにするか、また扠首でなくともよく棟木に取り付ける。第六工程では中扠首をそれぞれ両竪穴盛土側面より棟木に取り付ける。第七工程では樋貫を扠首のそれぞれに取り付けA字型の組み立を作り、またこれらには、それぞれ適当な添木を取り付ける。第八工程では木舞掛である。木舞掛は扠首と頬杖に従って、小枝かまたは細竹でもってあみ、この上に藁を結び付ける。第九工程は棟押えである。棟押えは藤か、篠か、柳でしめつける。第一の工程で入口の取り付けがあり、小枝の枠を作り、これに木の皮か、獣皮を張り、家屋への出入りするには、これを突き上げて出入をした。これの外に屋根を四方より寄せ組みにする四注造や、寄棟造等も、造られたと思われるが、松山市福音寺遺跡の筋違A地区で検出された住居では、一辺五メートルの方形住居である。主柱の柱間距離において、梁間に対する柱間は二メートルと二・三メートルであり、桁行での柱間は二・五メートルとなっており、桁行面での壁面距離に対して二分の一の比をつくり出している。また床面の中央部に炉跡をもっており、入口部をのぞく三壁面には、ベッド状の遺構をつくり、壁面とベッド状遺構との間には、排水を目的とした浅い溝が周囲を一周している。入口部中央付近に、大きく掘り凹められた部分があり、そのかたわらに胴部以外は検出できなかったが、土師器の口頸部のみの壷形土器を検出した。また一面の丸底の壷形土器が入口から室内に入ってすぐ右手のベッド状遺構の床面を掘り凹めた場所に、ほとんど完形に近い状態で検出された。
 いま住居内の器物の配置(出土状況)についてやや詳細にのべてみよう。土師器の器種は、高杯・坩・杯・椀形甕形・コップ形等を出土したが、器種の総数は一一点をかぞえるにすぎず、また器物のほとんどは、桁行面の北側面につくり出された幅一メートルと長径約二メートルの間を、ベッド状遺構より高い位置で地山面を掘り込み、この造り出し部の隅には支柱がたてられてあった。この造り出し部から遺物のほとんどが出土した。ただ二個の椀形土器の内一個は西壁面の隅のベッド状遺構と壁面との間の周溝から出土した。他の一個は西壁面のやや中央部より南壁面に寄った位置より出土をみた。また中央につくられた炉跡付近で土製の紡錘車一個を検出した。その他には明らかに作業石と見られる四角に調整された台状の砂岩が上面を水平に保って置かれ、この作業石と主柱穴との間は五〇センチの間隔がたもたれた状態で出土した。これらが住居内での主たる出土遺物であった。家屋における生活什器として実に少量であったが、火災による痕跡もないところから、まず常時住居内においていた土器の類であろうと思われる。これら一括出土をみた土器は、壷形土器における器形としては、岡山県における酒津遺跡出土の土器や、奈良県布留遺跡に出土する土器に類似しており、いずれも古式土師器とみられる古墳時代前期の住居跡として取り扱うことができよう。このA区における住居跡は五基と掘立柱建物跡四基が検出されたが、内一基の竪穴式住居跡と掘立柱建物跡とは時期的にやや下った時代のものであった。同時期の住居跡四基の内一基はやや小規模な床面積を示めしたが、他の二基とほとんど同床面積を取り、ベッド状遺構をいずれか一方の壁面に配した造りとなっている。一基の住居と住居との間隔は意外と近い位置にありいずれも五メートル以内に構築されていた。
 松山市桑原町にある桑原高井遺跡では、竪穴式住居跡は調査区域内で五基検出されたが、内一基は調査区域外に住居の主たる遺構があり完全な調査ができなかったが、他の四基については、調査により住居跡内の出土遺物からみて、弥生時代終末から古墳時代にかけての生活跡であることが判明した。ここでの遺構は方形の竪穴式住居跡の主柱は四柱であるが、柱間の距離は極度に狭く、しかも方形の掘方に対して、主柱は各掘方の隅に対して垂直線上(直角)に配置された柱穴となっている。従来の竪穴式住居の柱位置のそのほとんどが、壁面に平行しているのが普通であった。なぜこのような柱位置を取ったかについては、四注造り(寄棟)とすることにすればこの柱の位置は、もっとも理想的な配置となる。家屋の工程は、第一工程に主柱三・五メートル内外の高さのものに、それぞれ鳥居状に頭繋ぎとその下方に後に足場となる梁を渡し固定した後、柱穴に二本組された鳥居状の柱の元口を柱穴に押入する。この作業を今一度片側の主柱でも同様の作業を行った後に、以前と同様に柱穴に押入して直立させて固定する。第二工程として一と二、三と四の足場に立って、それぞれ一と四、二と三の柱の頭繋ぎを行ない主柱の固定が完了する。第三工程では各四隅より通長尾をそれぞれの頭繋ぎの中央位置に固定する。この固定はおそらく対角線にある角が第一に固定され通長尾の頂上部でたがいに扠首を作って再び固定されたのちに、次の対角線より同様に通長尾(通しタルキ)を頭繋ぎの中央位置で固定し、さらに頂上部の扠首の固定を行なう。第四工程で長尾(タルキ)の固定をそれぞれ頭繋でおこなったのち、第五工程では木舞掛けを行なう。第六の工程で棟押えがある。この棟は小規模の造りでもって、室外の通気をかねるために造られたと推定される。主柱の頭繋の固定位置より、通長尾の頂上部の固定位置から横架した棟木を、それぞれ扠首をもって固定した後に棟押えをおこなう。最後に入口であるが、両側よりの通長尾に中扠首を取り付けたのち、入口部の支柱をもとめてこれに枝材を渡し付けて入口部を作り出したと見るべきであろう。これで木組が完了し、あとは屋根葺きをもって出来あがりである。
 この住居での出土遺物は、壷形土器をはじめ甕形土器及び擂鉢形の浅鉢形土器がある。これらには平行叩きしめ工具による叩きしめの調整が胴部より基底部にのこされており、底部はわずかな平底の底部を作りだすものとやや基底部周辺をつまみ出すことによって、若干の高台的な底部を示めすものも多くみられる。各器種の胎土としての粘土は精製されており粘土中に粗粒子を含むようなものは認められない。いずれも砂質気味のよく精選された粘土である。焼成もよく一見弥生式土器として理解されるほどに類似した土器で、弥生終末期に入れるべきか、それとも土師器として取り扱うべきか考慮しなければならない程に類似する。生活器物の時期については前述の福音寺遺跡筋違A地区で検出された遺物よりやや先行するか、もしくは同時期と見るべきであろう。住居はA地区と同様に南面する入口を中央部地点に造り出しているが、入口部の床面にやや異った状況がみられた。桑原高井三号住居跡での入口部は明らかに二段の高低を示めす階段状の入口を造り、その段差の生じた階段壁面下には、いずれも溝状の遺構をもち、室内への雨水の流入を防止したと推察されるものが具備されていた。また屋内での空間及び床面についての工夫も新たなものがあり、単に壁面を一周する周溝のほかに南面する入口部に対し、東壁の壁面を細分した利用がみられた。住居内を一周する溝は東壁の中央部で、室内中央部に向って折れて、壁面部に幅一・五メートルのベッド状の床面を造りだしている。このベッド状の床面より生活用具である土器類が集中して出土し、明らかに室内における器材置場として占地した場所であった。また残る半分の壁面は、逆に外に向って同様な造り出しがみられ、特に造り出し部の一方の片隅には粘土の堆積があり、多量の木炭と土器片の混入した部分が検出された。この場所は十分にカマドとして理解され、このカマドから屋外に小規模な溝が検出された。この溝は煙道とみられることから、屋内におけるカマドの配置では当地方での初見の竪穴式住居であった。

 古照の堰材による高床式建物

 四世紀初頭ないし中頃に造くられたとみられる古照遺跡の堰材の内に、かつて使用されていた建築用材が堰の構築材として再利用されていた。これらの再利用された用材を転用材と呼んでいるが、これらの転用材からして、高床式の建物が復元された。この復元家屋の現存資料となった用材名についてみれば、末口径一〇・三センチの長さ六・五メートルの棟木材をはじめ桁材・梁材から、これらを支え持つ棟持柱と、板壁の抉込部を作りだした角柱と桁材を支える平柱もあり、さらには樽木材が一〇数本検出され、しかも桁行面において入口部をなすとびら(観音開)のつくりをもつ物の一部が発見された。また高床式倉庫への鼡の侵入を防止するために造りつけられた鼡返しが、わずか五〇〇メートル離れた朝美一丁目での河川工事中に、壁面に平行な叩きしめをもつ甕形土器と壷形土器の完形品と共に出た。これらの用材をもとに復元図が作成された。この復元図でみられるように、かつては登呂遺跡において復元された高床式建物との相異点として、建物内への入口は、登呂遺跡での復元家屋では、切妻に入口を取った復元であるが、これに対して古照遺跡出土の転用材からの復元では、桁行側に入口を取った平屋入となっている点で大きく今迄不明とされていた問題が解消された。(4―15)
 これ等の建物は、いずれの柱もそれぞれ地山面に深く八〇~一〇〇センチ程度に掘り込み、その後で柱を粘土や小石でもって突き固めて固定するという工法が取られている。このような建物の建方を掘立柱建物と呼んでいる。この建方による柱位置の掘り方は、使用される柱材よりはるかに広い掘方が見られる。この掘り方の内に柱位置を決定した場所には、柱穴がみられることが普通である。この柱穴には柱位置に人頭大の石を根石としておくものから、板材(礎板)を敷くもの等がある。同一の掘立柱建物の内でも異なった柱位置での作りをとる建物の掘方をなすこともある。
 以上のように掘立様式の高床式建物は、この時期の建物の用途としては倉庫としての性格が強く、登呂やその他の遺跡で発見されている。この高床式の倉庫を囲むような型で集落がつくられている。松山地方の高床式倉庫は、古照の転用材の復元により、これら高床式倉庫の数値を割出すことが容易にえられることになり、各地域において検出された遣構から、松末・福音寺・北久米・前川・久米窪田遺跡等で梁間二間、桁行間三間の同規模の独立した建物及び二~三棟の連立した遺跡等もあり、松山平野における往時の盛行ぶりをしのぶことができる。
 今一つの形を取るものに、掘立柱建物跡に束柱跡を検出することの出来ない遺構がある。この建物跡は土間形式による掘立柱建物跡での遺構であり。この時期よりやや下った時代における平地式住居跡である。時期的には五世紀末から六世紀に盛行するが、七世紀中頃以後では、掘立柱建物の一側面か二側面に庇をつくり作けるものが盛行してくる。

4-15 高床建物復元図(古照遺跡)

4-15 高床建物復元図(古照遺跡)