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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

1 中期の前方後円墳その他

(1)東予地方

 新居浜市金子山古墳

 新居浜市金子内一五番地にあり、市の西方部の独立丘陵金子山上に位する。当丘陵の東側に、金子城址があり、城址より東にのびる尾根の先端部を占地した標高約四七メートルに営造された円墳である。円墳の規模は直径二五メートルで、墳丘高約五メートルと記録されている。墳丘の裾部には円筒形埴輪と朝顔形埴輪が配置されていた。本墳は昭和二五年(一九五〇)に調査され、その後市指定史跡とされた。調査の結果、内部主体の構造は竪穴式石室であった。石室は主軸方向を北三三度西にとっており、石室全長は二・八三メートル、深さ〇・八メートルで中央部幅〇・八六メートルである。床面には横方向に四列の木棺を安置する棺台が設備されていた。副葬された遺物は豊富でしかも優美な金銅製の長鎖付耳飾一対をはじめ、碧玉製の勾玉十一個、同管玉五九個、同棗玉四個、ガラス製の玉類二、九〇二個、滑石製の臼玉二八個、水晶製の切子玉二個、平玉五個のほか、動物製の玉としては、めずらしい真珠玉一個、銅釧(腕輪)一個がある。これら装身具のほかに武具としては、鹿の角を柄に装備した鉄剣二口、直刀二口が被葬者の両体側から検出され、さらに足元付近から靭におさめられた鉄鏃が検出された。また胸部付近より二面の鏡が検出された。鏡の文様や配置からして一面は半円方形帯神獣鏡(画文帯六神四獣鏡)であった。いま一面は鏡縁部分に四個の鈴を付けた鈴鏡である。
 古墳の営造されている位置は、平野部との比高わずか三五メートル内外ではあるが、当地の集落をあまねく展望しうる位置にあり、また古墳の内部主体の構造は竪穴式石室という形態を取っていることから、古墳時代の中期に位置付けられる五世紀後半頃に造られた古墳である。また内部に遺存されていた副葬品からしても、他の古墳における出土遺物に比べ明らかに優れており、新居浜平野に君臨した最有力首長であったと推察される。その後金子山に数基の古墳が発見されている。新発見の古墳においても埴輪をめぐらすものもあり、今後はさらに当地方の発展を知る好資料が発見されるものと期待されているところである。

 小松町大日裏山古墳群

 小松町南川香園寺の裏山の稜線および丘陵上に営造された古墳である。かつては山麓部を含め、古墳群として一二基の古墳があったと伝えられるが、現存するものはわずかである。この最高所の古墳四基(円墳?)から明治四〇年頃(一九〇七)内行花文鏡が出土しており、昭和七年(一九三二)には四号墳から珠文鏡が出土している。『小松史談』三五号によれば、大日裏山古墳群は円墳ということになっているが内部構造については異なっており、内行花文鏡を出土した一号墳は大きく崩れてはいるものの壁面の石積み状況から竪穴式石室と見られ、他の古墳とは時期を異にした古墳であり、当古墳群における最初に営造された古墳といえる。その他の副葬品については不明であるが、石室の構造や、古墳の立地からして、また墳丘に樹立された埴輪から見て、古墳時代前期に近く比定される時期のものであろう。ちなみに現存する二号墳は円墳で、墳丘高約六メートルの直径は二六メートルを測る。古墳の内部主体は一号同様竪穴式石室が推測される。第三号墳は上水道施設の建設により、墳丘は破壊されているが円墳であろう。この墳丘では円筒・朝顔・形象埴輪片が採集されているが内部の副葬品は不明である。これら埴輪片からみる限りでは同技法は中期に比定されるものとみられる。
 一号・二号・三号と続く丘陵尾根上の東端部に円墳の四号墳がある。内部主体は竪穴式石室を構築するものと推測される。副葬品として珠文鏡一面が(小松町教育委員会蔵)出土している以外は不明である。これら一連の古墳は五世紀中葉を前後する時期に営造された古墳ではないかと推考される。いずれにせよ小松地方を総括した首長墳であろう。

 東予市片山古墳群

 東予市は、周桑平野を基盤として発展をとげている。この周桑平野において、かつて君臨したと推定される首長層の墳墓が、片山にある。片山の立地は、周桑平野を貫流する大明神川の右岸にある東予市上市片山で、標高一七二~三メートルの象ヶ森の山稜を占地しており、周桑平野が一望される標高一三〇メートルにある。
 眼下一帯に広がる扇状地は、大明神川の開析作用により造りだされた右岸地域一帯の国安扇状地形と呼称される所で、上市はこの扇状地の扇頂に位置しており、扇央部では桑村と国安・吉岡に接しており、扇端部では新市、高田へと広がり、一方左岸地域では大野、宮ノ内、三芳、六反地へと広がる明神川扇状地があり、この扇状地の扇頂部には旦之上の集落がある。これら大明神川の織りなす国安扇状地と、明神川扇状地を合せ統治したと見られる片山三号墳附近には、昭和三四年(一九五九)の調査によれば一~三号墳として三基の円墳が確認された。三号墳ではA・Bの二基の石室があった。これら円墳の主体部における棺槨はいずれも箱形石棺であるが、三号墳でのAは割石による竪穴式石室をともなうもので、石室の床面は粘土床であったが、全長二・五メートル、石室幅は中央部でやや膨みがみられ、北端部で五〇センチ、中央位置は五五センチ、南端部で四七センチ、深さ五五センチの主軸方向は北二一度東にとられていた。三号主体BはA槨と約二メートルの間隔を取って西側に併設された箱形石棺で主軸方向は北一八度東にとっており、いずれも北枕による埋葬が推測される。二号墳は三号墳の下方に営造された円墳であり、天井石二枚で覆被された箱形石棺墓であった。内部主体の計測値は石長一・五メートル、石室幅四〇センチ、深さ二五センチであった。二号墳では、壁面を一一個の石材でもって築造をする外に外槨遺構として、二重に外域を同様の花崗岩によって構築していた。副葬品は皆無であったが、石棺の主軸方位は北八八度東に取り、明らかに東西に向く伸展葬骨があった。二号墳の下方に位置する一号も同様な箱形石棺墓を内部主体とするもので、主軸方位は北五八度東にあり、二号同様東西方位による伸展葬である。一号墳箱形石棺はもとより、三号B石棺まですべて、埋葬施設に使用されている石材は、花崗岩で統一されていると共に、石室内部を朱でもって彩塗されている。
 ここでは三号墳においてのみ、一墳丘に二つの主体部を共に北位置に頭位を取る伸展葬として埋葬しているが、四基はいずれも粘土の地山を床面にしている点においては共通する。石室構造と副葬品という面から、一号、二号、三号と異なる特異性をもつものであった。三号Aの内には、銅鏃一・鉄剣三のほか、鉄鏃・のみ形鉄器・鉄斧一個が出土している。本県における銅鏃を出土した確実な古墳としては、今治市国分古墳の前方後円墳に次いでめずらしい。
 片山三号墳は銅鏡や玉類こそ出土していないが、銅鏃を副葬する他に竪穴式石室を外槨施設として設備し、しかも丘陵端部に占地するという点から見て、古墳の規模こそ円墳という小規模古墳ではあるが、大明神川のおりなす扇状地形全体を支配した首長層の墳墓として理解することが出来る。時期的には、新居浜市の金子山古墳や、小松町の大日裏山古墳等と相前後する時期であろうと推察される。さらに片山古墳にみられる一号から四号における各墳墓に対する相関関係は、少なくとも、三号の竪穴式石室を営造したのちに、四号墳を併置したものとみるべきで、しかも三号墳に対する陪塚的遺構とも判断される。いずれにせよさほど時間的なへだたりをみない時期に埋葬されたと見るべきであろう。この三号墳の営造に対して、二号墳では石棺の周囲に二重に自然石を配列している点より見て、明らかに主体部の保護という配慮がみられるが、墳丘部における調査がなされていないため確実とはいえないが、地山を削り出した円墳であり、天井石の構築による重圧をも大いに考慮した構築であるにしても珍しい。
 片山古墳の営造の時間的関係は、埋葬の立地及び外槨施設と副葬品からして、次のように考えられる。まず最初に一号墳を、続いて二号墳が作られた。その後に大明神川流域の両岸に形成された扇状地域全域を支配しうるまでに成長した時期が第三号墳Aの竪穴式石室をともなう古墳営造の時期であり、古墳時代中期も五世紀中葉以降の時期と推測される。前に述べたごとく片山古墳は一号~四号まで、石材及び、内部を朱による塗彩をほどこし、しかも床面は、地山層をもって床面形成をするという。明らかに一号より四号にいたる世襲化された踏襲がみられ、一族が国安と明神の扇状地を統括する発展過程を示すものである。扇状地形を生活舞台とした農耕集落とみることが出来るが、後続する甲賀八幡神社周辺の分離丘陵に群集する古墳群とは、明らかに時期を異にするとともに副葬品においても前者と異なるところが多く、周桑平野の農耕地の開発による進展の様相を示しているともいえよう。

 今治市久保山前方後円墳

 唐子台団地古墳墓群中の西北端近くにあり、お茶屋池上古墳ともいわれていた。全長四九メートル、後円部径二三メートル、高さ四メートル、前方部幅二〇メートル、高さ三・五メートル、主軸ほぼ東西で前方部を西に向け、主軸に平行して後円部に竪穴式石室を構築している。唐子古墳群中最大規模で、埴輪などから五世紀後半のものとも見られている。出土遺物には神獣鏡小片をはじめ、家形や朝顔形の埴輪片の朱塗りのものや、鉄剣破片などがあげられている。石室長約三・五メートル、墳丘の一部は多少往時の開墾で削られているが、周辺の多くの墳墓が唐子台団地開発の際崩されたのに、本墳だけは原位置に残されている。今治地域の五世紀中葉前後の重要な前方後円墳といえよう。また唐子地区では、さきの国分前方後円墳や雉之尾第一号前方後方墳などに次ぐ首長墓として考えられるであろうか。少し間があき過ぎるが。

 朝倉村樹之本古墳

 朝倉平野の北西のほぼ平地化した緩傾斜面にあって丈六寺古墳ともいわれた。約四〇〇メートル西北方に保田の平形銅剣出土地を控えている。水耕田に取り巻かれた中に巨木を擁した古墳跡があり、石仏と印塔がこの中心部に建てられている。当墳で発掘された遺物中、舶載品で「長楽未央…」の銘ある細線式獣帯鏡と勾玉・管玉類は東京国立博物館に送られているが、このほかにも衣蓋埴輪を出土し、また砥石・刀身・槍身・笄などの出土も伝えられている。墳丘はすでに崩され原型を失っているが、地籍図に従えば、その平面図から帆立貝式ではないかと言われている。現墳丘は東西三六メートル、南北三〇メートル、竪穴式石室であったろうとされており、出土遺物から中期後葉ではないかと考えられる。野々瀬古墳群と古谷古墳群が山間水源地帯に、後期群集墳を形成しているのに対し、当墳はこれに先行してそれらの下流域の水田地帯を抑えていた首長の威厳を示している。最近この北西約五〇〇メートルの根上松下からも四乳神獣鏡を出す古墳が見出された。しかしその墳丘も内部構造も不分明のままに終っているが、恐らく樹之本古墳に後続する首長墓かとも考えられる。

 今治市雉之尾粘土槨方墳

 さきの雉之尾第一号前方後方墳に接して崩された雉之尾第三号は粘土槨をもつ方墳(一辺約一七メートル)で墳丘ほぼ中央に南北方向をとり、頭部を北に向けた粘土槨A(半壊)と、中央よりやや東辺して同じく南北方向をとる粘土槨Bとの二基が見出された。B粘土槨内からは鉄斧と刀子状鉄器片とを、また崩壊土中から変形神獣鏡をえた。本墳は第一号前方後方墳より遅れることはもちろんであるが、雉之尾二号の箱形石棺で中に穿孔の鏡五片をもった墳丘不明墳との前後関係はなお明らかでない。いずれも一号に順次西に接して築かれており、第一号に何等かの深い関係にあることが察せられる。なお当第三号墳は墳形・内部構造・遺物などから一応五世紀半ば以後と考えたい。

 今治市治平谷粘土槨方墳

 今治市唐子台団地化した治平谷古墳群中の第七・八・九号墳は墳丘形体が明らかでないが、いずれも粘土槨を内部構造とし、第七号は標高三九メートルの丘陵尾根にあって三者中最北端を占め眺望もよいが、戦後の開墾で墳形をとどめず、若干の封土は認めえた。槨は長さ三五七センチ、幅三〇センチ、深さ三〇センチで、南北に方向をとり、床横断面半円形、南西隅に排水路が山石を埋めて作られていた。地山を二段に掘下げて粘土を敷き割竹形木棺をおいたものと思われるが覆いの粘土は認めえなかった。副葬品として内行花文鏡(径一三・二センチ)が五に割れ表を上に重ねて頭部位置にて出土。ほかに刀子が鏡の下に、鉄剣が脚部近い粘土槨側壁上に発見された。これら鏡などから
も雉之尾三号に先行するかもしれないが、五世紀前半にもなろうか。続く尾根上手約十数メートルおきに八・九号が何れも墳丘を失って、八号は勾玉二と多くの算盤玉を、九号墳は遺物を残さずに存していた。

(2)中予地方

 北条市小竹八号古墳

 北条市の浅海の小平野に突出する丘陵(海抜約八〇メートル)端に近く立地し、名石古墳とも言われている。墳丘としては丘径約二二メートル、高さ約四・五メートルをもち、盾形埴輪の出土がみられ、箱形石棺が三列に並んでおり、そのうちの一棺外から直刀・鉄鎌・鉄斧などが出土したと報ぜられている。墳丘は帆立貝式の前方後円墳とも見られ、埴輪や鎌や墳端で見られた古式須恵器などから五世紀後半とされている。いずれにしてもこの小平野に臨んだ首長墓として、周辺の小竹の横穴式石室群集墳に先行するものと考えられ、中期古墳の好例といえよう。

 松山市観音山古墳

 松山市平井町今吉に位置し、観音寺山古墳とも称されている。古墳は昭和初期に柳原多美雄によって埴輪が確認されたことを契機とする。その後、埴輪には楯、靭、短甲があり、帆立貝式の大古墳と考えられてきた。当古墳は、小野川により形成された扇状地右岸に突き出た丘陵端部に立地する。墳丘は現在果樹園になっており、丘陵を削平し整え、葺石に使用されたと思われる多量の河原石が石垣に転用されている。墳形は極端に短く低い前方部を南西にむけた三段築成の帆立貝式前方後円墳と考えられる。規模は正確な墳丘実測によらねばならないけれども、略測によれば全長一〇〇メートル以上、高さ二二メートルを測ることができる。周濠は不明である。副葬品として五鈴鏡が出土したとも伝えられるがさだかでなく、古墳の年代比定は困難を伴なう。しかし、出土した円筒埴輪の編年によれば、外面をタテハケののちヨコハケを施し、透孔は円形で、タガは台形である。焼成は黒斑がなく、窖窯焼成と考えられることから、五世紀中葉頃に比定できる。なお、形象埴輪には家形埴輪が加わる。以上のように考えてよければ、県下最大の全長八一メートルの今治市相の谷一号前方後円墳を凌駕する県下最大の古墳になる。また、帆立貝式前方後円墳としては奈良県乙女山古墳、群馬県女体山古墳などと比較しても全国的に有数の規模を誇ることになる。
 以上の事実をふまえ、観音山古墳出現の歴史的意義を、伊予市嶺昌寺古墳から前期の前方後円墳を中心とした首長墓系譜を含めた複数の首長墓のなかから、中期中葉に松山平野全体を支配した盟主的首長墓として考える。さらに、盟主的首長墓があたかも規制されたような帆立貝式前方後円墳で形成されることにより、「倭の五王の時代」の松山平野の政治構造や倭王権との政治的動向と密接に関連するとする試論もある。しかし、墳形や規模に関して異論もだされており、今後の調査研究に期待がかけられる。

 松山市経石山前方後円墳

 松山市桑原町西新開にある。東野台地の舌状台地端部を占地した全長四八・五メートルの前方後円墳である。前方部を西にとりわずかに北にふれている。後円部の径は約三〇メートルで、同高は前方部より二メートル高い五メートルの墳丘比高となっている。墳形はやや古い形態を残しており、未掘であることもあり時期は決めがたいが、おそくとも五世紀中頃には営造されていたと推測される。なお同墳の周辺には、かつては数基の小円墳がみられたが市街化による宅地として消滅しわずかに三基については小祠を祀っている。(県指定史跡)

 松山市永塚前方後円墳

 前期の第三期もしくは四期に比定される前方後円墳に、松山市衣山永塚五四番地に営造された永塚古墳がある。古墳の全長二三メートル、前方部全長八メートル、後円部径一二メートルであるが、墳丘上は果樹園に開かれ、石室は大戦中防空壕に利用され、荒廃の一途をたどっている。墳丘実測図による限りでは、前方後方墳とも見られる墳丘であるが、前方部と後方部の比高差もわずか五〇センチである。石室は露出しており、扁平な石材(緑泥片岩)を横積みにした四壁面はそれぞれ縮約した竪穴式石室を造り出している。床面には一面に玉砂利を敷き詰めてあったが、副葬品の出土状況や出土遺物はすでに散逸して不明である。
 本古墳と同時期かまたはやや下る時期の古墳には、次の岩子山古墳がある。

 松山市岩子山古墳

 松山市の中心部の西にある西山丘陵にさらに西接する丘陵上に位置し、かつて前方後円墳かとも言われた当墳は、人物埴輪や馬形埴輪片を出すことによって喧伝されたが、その他素環頭太刀などからおそらく五世紀後半に位するものかと見られる。墳形についてはなお究明の要はあるが、径一二~一四メートル程度の小円墳とも解され、南方に若干の造り出しをもっているかのようである。内部構造もやや不明な点もあるが、ほぼ木棺直葬とみられ、朝顔形や円筒埴輪も出しており、周辺数基の古墳を含む岩子山古墳群中最初に造られたものと推定される。

 松山市石風呂前方後円墳
 
 松山市港山駅の北方に主軸方向を南東に指向する全長約八〇メートルの前方後円墳が指摘された。本墳については未調査に属するが、墳丘上にみられる版築は明らかに古墳営造による盛り土であることから、前方部の狭長な柄鏡形であり、営造時期は五世紀末から六世紀初頭の墳墓と推定されている。
 これに先行する前方後円墳として認められるものに東雲神社境内における前方後円墳がある。本墳は小規模であるが、狭長な前方部は南を指向する全長約三四メートルの柄鏡形であり、後円部に二段の葺石と前方部に一段の葺石をめぐらし、後円部の中央部上には長方形に配石された遺構が主軸と直交して東西方向に確認されたが、同神社の宝物殿を予定地より移行させ現在馬場(広場)の下に埋蔵されている。また現在の宝物殿の前庭には埴輪をめぐらす円墳がある。主体部については確認されていないが、試験掘りによる総合的な見解は粘土槨が推定されている。

 谷町蓮華寺の舟形石棺

 墳丘ないしその遺構を確認しえないのが、松山市潮見地区の谷町に残る独立山丘を境内とする蓮華寺に舟形石棺の身部である。発見ののち放置されていたのが近年留意され、その石材は阿蘇凝灰岩とされている。この石棺が当寺におかれている経緯は全く不明で、わずかに当寺域の山丘内出土ではないかと伝えるにすぎない。出土環境としては別に差支えなさそうであるが、残片その他の追究を通して今後の検討にまちたい。ただこの片身の石棺を通して中期的古墳が当所近くにあったことだけは多分間違いなかろう。

(3)南予地方

 問題の諸古墳

 南予地方で中期古墳ないし前方後円墳は確認されてはいない。しかし、古くから県下考古学先覚者達は宇和盆地の小森古墳を前方後円墳と称し、その墳丘斜面付近で銅鏃の出土をも伝えている。その間昭和一三年(一九三八)の『愛媛県史跡名勝天然記念物調査報告書』によると「小森の瓢塚」として、前方後円式古墳、外円長五四間、幅二〇間、内円長四八間、幅一三間、高さは一二尺、前方一〇尺一個、陪塚四個…とある。その後電気探査その他実測図も作られているが、前方後円墳と判定するには資料が乏しいといわれ、しかも前方後円墳と推定すれば主軸長六一メートル、前方部幅二三メートル、高さ二・五メートル、後円部直径三〇メートル、高さ四メートル、くびれ部の高さ一・八メートルで、くびれ部が幾分幅せまい形とみられるとし、さらに後円部の封土約一メートル、その間に土師器片の散乱などと昭和三九年(一九六四)の『愛媛考古学』六号の中で調査団による現況観察が述べられている。以上から前方後円墳の可能性が考えられるとの見解もあるが、なお今後の調査研究にまちたい。
 なお、この他に清沢の長作森では内行花文鏡(径八・七センチ)を出土した古墳跡がある。ここには朱彩の箱形石棺の石材と思われるものが若干見られたが、須恵の平瓶の出土を伝えているなどで中期古墳とは決しがたい。以上見たように、当地方での古墳中期ころの埋葬形態は後期のきらびやかさに比し全く不明で検討を要する点が多い。

4-31 雉の尾3号墳出土の獣形鏡

4-31 雉の尾3号墳出土の獣形鏡


4-33 経石山古墳実測図

4-33 経石山古墳実測図