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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

1 生産の専業分化

 製塩の発達

 本県における製塩については、いまだに確実なる製塩跡を検出するまでには至っていないが、製塩に使用されたと見られる土器は意外に多く出土している。それらの土器の内で特に製塩に関係をもつものに松山市立津田中学校における弥生時代後期の土器をともなう製塩跡が発見されている。それ以外には製塩遺構を検出していない。ただ製塩に使用されたとみられる土器を出土する魚島の宮の前遺跡にみる土師器の粗製土器がある。
 これら粗製土器は今治市唐子浜付近においても採集されており、瀬戸内沿岸をはじめ、芸予諸島における製塩は十分に立地条件を有しているにもかかわらず現在ではまだ十分な遺跡の検出をみていない。このほかに、内陸部で出土する支脚形土器と呼ばれる一群の土器がある。これらの支脚は器種もすこぶる多く、しかも熱に対する考慮がはらわれている。器種には、有角のものから、筒状のもの、台状のもの、裾が大きく開き安定なもの、またこの逆のものなど多様である。これら一連の粗製土器は製塩に使用された製塩土器(師楽式土器)として利用されたものらしく、今後芸予諸島や忽那諸島をはじめとして、瀬戸内沿岸地方でその製塩跡が発見されると共に究明されるべきものである。

 須恵器の生産

 特に五世紀代より大いに日用の什器として広く普及を見たものに須恵器の生産があげられる。本県では、五世紀代の須恵器は出土しているが当時の須恵器の生産窯は発見されていない。
 県下での須恵器生産の窖窯はそのほとんどが歴史時代に使われたものである。ただ古墳時代の窖窯(登窯)として調査をみたものに県立運動公園内谷田2号窯跡がある。ここでは二基の窯とそれに関係する三基の竪穴住居跡が二基の窯の中間位置にあり、その内一基の竪穴住居跡には、多量の粘土塊を貯蔵しており、明らかに工房跡であった。他の二基の竪穴式住居では第三形式の須恵器を併出しており、しかもやや時間差を示す住居跡であることも判明した。またこの二期の竪穴式住居におけるカマドは北面する位置にあり、土師器を有する竪穴式住居におけるカマド位置と一致しており、時期的には鬼高期にみられるカマドの位置と符合し、須恵器の時期とも一致している。このほか現在確認されている遺跡は、時代はさらに下り歴史時代に及ぶが、松山市小野谷の駄場遺跡、重信町の伽藍窯跡・東予市北条の土器塚窯跡、断居浜市中萩のかつら山窯跡などがある。
 元来須恵器は外来の技術により生産が始められたものである。この外来の須恵器生産技術は、従来の土師器の生産技術をはるかにしのぐものであり、その技術水準は、すでに原料の選択という土師器にはみられない高度の技術であった。このことは土師器に比べて須恵器は高温の焼成度により処理されるために、原料そのものが耐火度の高い淡水成の粘土を必要としたことにある。古来の土師式土器における焼成温度はせいぜい八〇〇度内外であるため、原料となる粘土は、海成粘土でも又、淡水成粘土でも望む土器を焼成できたが、外来の技術による須恵器の焼成温度は一〇〇〇度以上という高温焼成によるため、海成粘土では器形がくずれ変形する。土師器の焼成は低温な、野窯(穴野窯)の焼成であるが、須恵器は、煙出しと焚口を除き完全に外気と遮断するという窯の構造から、酸素の少ない窖窯で焼成を行なったものである。土師器の焼成窯と須恵器の焼成窯では明らかに、窯の発想を異にするものであった。このことはとりもなおさず、弥生時代の土器生産の系統を伝承する技法ではなく、外から伝えられた新しい生産技法によるものであった。
 雄略紀七年(四六三)に新漢陶部高貴が、多くの工人と共に来朝したと伝えられており、この来朝により陶部が創設されたとしている。四六三年頃はちょうど古墳時代中期の後半にあたる時期であり、この高度な技術により生産された日常の什器類は、まず時の支配者層の間で珍重されながら次第に地域的な広がりとともに、やがて一般庶民の日常器物として普及するようになった。このことは六世紀代からなされている後期古墳の副葬品の一つの特色ともいえるほどに、須恵器を副葬することが普及していることでも明かである。
 それにしても松山市福音寺町竹の下遺跡では、五世紀頃とされる須恵器が実に多く出土しており、当地における須恵器の普及度は、かなり高かったことが偲ばれる。また同市星岡町旗立において検出された竪穴式住居(完掘されていない)では須恵器の杯と土師器を併出しており、すでに一部大衆化された日常の器物として活用されていたし、松前町出作遺跡における祭祀跡からは、須恵器の杯、高杯等を出土しているので、五世紀後半にはすでに多量の須恵器が用いられていることがわかる。これらの須恵器は他の地域から搬入された輸入品であるのか、または、すでに当地域のいずれかの地区で生産されているものであるのかは、現段階では五世紀代の窯は発見されておらず、搬入による公算の強い遺物である。だが前述したように須恵器工人の受入は、大和政権の関与のもとにおこなわれたと考えられる時、まず畿内地方において生産され、それが時代と共に周辺地域に広められたとみられる。いいかえれば、須恵器生産の技術導入は大和朝廷によりおこなわれ、畿内のいずれか(陶邑)でつくり出され、支配者階級の専有物として、須恵器生産の初期段階では独占されたが、生産の向上とともに、一般大衆への供給物として伝播し、五世紀以降では集落跡からも須恵器が豊富に発見されるようになり、六世紀ではもはや支配者階級の独占物ではなく、ひろく一般の民衆に日常の生活用具として、大量に供給されたものといえよう。

 須恵器の種類

 須恵器の器形には多くの種類がある。これを形の特徴から大別すれば、壷・甕・杯・高杯・盤・盌・はそう・瓶・平瓶・提瓶・横瓮、などに分けることができる。この分類を基本として、各種類について口頸部の変化や、台とか脚の有無から、蓋の有無、また器物の大きさなどにより、さらに細かく分けられる。
 中でも器種にとむものに壷や甕の口頸部の変化によって、広口、直口、長頸、短頸などに分類され、脚のある壷の場合には脚付壷と呼び、蓋のつく場合には有蓋壷などと呼ぶ。壷のなかで頸部が比較的細いものを瓶という。
 瓶の類はおもに器体の形によって分類されており、扁平な体部の上面に一方にかたよって口頭部がついた平瓶、壷の体部を扁平にして両肩に吊手を付けた提瓶・俵の形に成形した器体の上部に口頭部をつけた横瓶などがある。
 瓶とは逆に口頭部を広く大きくしたものが甕である。甕は形の上では変化が少ないが、器形の大きさから区別すれば、小型・中型・大型となり、大甕のなかには松山市松末町で出土をみた高さ一メートルのものもある。
 この他に壷の変形としてのはそうがある。はそうは大小の二種に分類されるが、いずれも体部に一孔をあけているのがこの器の特徴である。形からすれば漏斗状(ラッパ状)の口頸部をもつ壷に一孔を穿ったものである。はそうの大型のものには脚のつくものが川内町川上神社古墳出土品にみられる。
 この他に杯・盤・皿類にふくまれる器形があるが、これらはいままでにみられなかった須恵器特有の焼物といえる。杯は、蓋と身とで一対をなす器物であるが、よく似た蓋と身を合せた合子のものと、平底の杯身に、宝珠形のつまみをつけた蓋を合せるものとがある。
 杯身の底部に脚を付けたものが高杯とよばれ、高杯には蓋の付くものを有蓋高杯、蓋のかぶせ(受け部)をもたない無蓋高杯とがある。盤と皿類は浅くて大きく開いた器であり、盤は皿より大きなものをいい、盤の底部に脚の付くものを高盤ともいう。この器物は口縁部にわずかに変化がみられる以外は、形の変化の少ない器物である。また盤や皿よりも深くて上方へひらいた形のものを鉢といい、浅いもの浅鉢、深いもの深鉢のほか、すり鉢型のものもある。よくすり鉢としてみられているものに唐臼がある。唐臼はせんいなどの染色に用いられた植物より色素を取り出すための器物で松山市来住町で出土している。
 この他に須恵器に装飾付須恵器とされるものがある。高杯や脚付壷の肩などに色々な装飾をしたものがあり、これらの装飾には、小型の壷や、杯などをあしらうものから、鹿・馬などをはじめ人物を配置するものや、さらに人物の動作や状況を示すもの、器具や動物をあつかうものなどと多彩であるが、これらは古墳の石室内部や祭祀遺跡での発見が多いことから、祭祀や葬礼に用いられた葬祭の場で供献用としてもちいられた遺物であろう。
 さらに特殊な器物の須恵器は多く、たとえば家形はそう・俵形はそう・二重はそうのように多分に縁起をかついだかのような器物もあり、竹管をはめて注口を造り、酒を注いだとすれば、今日の銚子の原点とも合せ考えて、心の温まるものを感じる。皮袋形・角杯形・耳杯形・環状瓶・鳥形瓶などもあり、特に鳥形瓶については、伝松山市星ノ岡西山古墳出土とされるものがあり、鳥の羽根の部分に五個の小孔をうがち、熱を発散させるという心にくい程の器物がある。この器物(鳥形瓶)については特に狭少な地域性を持つともみられており、西瀬戸内地域にその分布の中心があるかに思われる。このように子持や装飾付の須恵器を年代と地域の二面より追求し検討することにより、地域をこえた共通の器形とか、年代や地域の特色を知る遺物であることに注意したい。
 またこれら須恵器の出土遺物の中に日本で製作された器物ではなく、少数ではあるが半島などから搬入されたものがある。これらの内には本県でもままみられるが、出土状況が明らかでないものが多い。

 須恵器の編年

 須恵器は巨大な窖窯を構築して土器の焼成を高温度でもって生産するため、土師器による野窯のような簡単な造りものでないことから、各地に須恵器窯が残されており(南は九州~北は岩手県)この窯跡から出土した資料により、つぎの時期に編年されている。Ⅰ期(前半・中期・後半)Ⅱ期・Ⅲ期(前半・中葉・後半)Ⅳ期(前半・後半)、Ⅴ期に分類されているが、この分類の内Ⅳ期の前半までが古墳時代に属する時期の須恵器である。
 この分類に対して最近における須恵窯の発掘調査も増加し、それにつれて出土遺物も増加しているのでこれらの編年方法については留保したい。

 野鍛冶の出現

 五世紀の須恵器や土師器を多量に出土した松山市福音寺町竹の下遺跡がある。この遺跡では特に木器類の出土も多く、中でも農耕具の類がある。この農耕具にナスビ形の鋤がある。この農耕具の木質部先端には、耕起部分として鉄製の刃部を着装するようにU字状にスキ先が意図的に先端をまるめており、鋤の中央部には両側縁からほぼ直角に抉り込んだ関があり、この関より下部に耕起効果を高めるためのスキ先が着装される。竹の下出土のナスビ形のスキの身部は三点あり、三点はともに身部の幅も異なるものであった。また各地の古墳より出土する鋤先は多いが、これまた一定する規格のものは少なく、その計測値はわずかずつ違っている。これと同様に平鎌においてもまた同様に異なりが見られる。このちがいはどうして生じるのであろうか。松山市内で調査された小坂釜の口・北久米前川・小坂三丁目遺跡から未完成の、製作途中の農耕具が検出されている。これら製作半の木器はいずれも対をなして作られており各遺跡とも共通した方法がみられ原始宗教的な要素を含むとみられるが、よく似てはいるが、まったく同一のものではなく、木質部の厚味や幅にわずかずつのちがいがみえる。この差が各地の古墳から出土する鋤先のちがいともみられるが、いま三つの遺跡で未完成の農耕具の出土をみていることとも合せ考えれば、鋤先の身部はそれぞれに各集団で製作しているところより、刃部のみ他の地で、身部に合せた刃部を製作したとみるべきであろう。とはいえあまり遠くない土地で作られたと考えられる。
 魚島の祭祀遺物の内に、鉄の素材である鉄鋌が供献されており、また昭和五二年(一九七七)に調査された松前町の出作祭祀遺跡からは、多量の供献遺物の内に、クワやスキの鉄製模造品(小形)が発見されており、畿内において発見される小形鉄製のクワやスキと同質のものであることが知られている。さらに昭和五四年(一九七九)に調査を見た猪窪古墳では、箱形石棺を内部主体とする古墳から多くの鉄剣の他に四世紀末~五世紀初頭とみられる時期の鋸が検出されており、その他にも鉄製の工具類が検出されている。これらの遺物の他に近くには延喜式内社の伊予神社・高忍日売神社・伊曽能神社の三社がある。これら三社の内で鉄に関係する神として伊曽能神社の祭神に天児屋根命がある。神話の世界では天命日置明神が鉄より鋳物を作ったといい、また「鋳物師由緒書」には天津児屋根命の御名の字を賜わり、天命藤原国家と名乗るべし……とみえ、鋳物師の最も崇拝する神である。古くより野鍛冶一族の祭神であったとみられる天児屋根命といい、出作・猪窪にて検出された鉄製品のようすからみて早くから大和政権との関係が開かれ、最も斬新な文化をつくりだした鍛冶職人の活躍が偲ばれる。