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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

2 古墳の祭り

 奥津城への道

 古墳時代の前期・中期にみられる葬送思想に対して、後期に営造をみた古墳には、大きく葬送思想の上からの変化がみられる。前・中期にみられた盟主的な隔絶的埋葬方法に対して、家族墓的な立場に立つ埋葬方法への変化がみられ、これにともない追葬可能な石室構造へと発展した。この石室構造を横穴式石室という、羨道を有するものから、無羨道の横口式石室等の石室が構築され、しかも羨道と玄室との取り付け方法により、両袖・片袖と呼称されるものがあり、また玄室内部に彩色をほどこすものや極彩色の壁画をえがくものなどもあって、実に多彩である。
 さてこれらの墳墓は追葬可能な家族墓としての奥津城であり、死者に対する彼岸の地(黄泉の国)である。ここに高塚の営造当初にみられた葬送観念とは一八〇度の転換があるといえよう。
 このことから、きそって家族墓を営造する風潮が高まり、各地の先進的な地域に群集する墳墓がみられるにいたった。この家族墓への風潮には仏教的な埋葬観念が不十分ながらも浸透し、やがて石室そのものへの方位決定へと発展したが、集落の自然環境に左右されるようになり、(集落の立地条件によりそれぞれに墓域が決定されて)羨道が南に開口するという条件は満たしがたく、たとえ東に開口、また西に開口する構築においても、奥津城自身の方位は南北位置を取るものと共通理解されるにいたった。このような奥津城の増加は自然発生的に奥津城への道が開かれ、墓道を設置するに至ったと同時に家としての確立がより強く高まったことはいうまでもなく、墓道も幹道から支道へ、支道はさらにのびて小支道へと発展をとげた。
 墓道の広がりは群集墳の営造経過を見るうえで重要な意味があり、集落よりの幹道の端には、群集墳での中心的な墳墓が、その扇央位置を占有する。このような状況は各地域の群集古墳に共通してみられる。

 奥津城での祭り

 松山市衣山町において検出された遺構は、羨道部で石室の閉鎖後に須恵器の破砕遺物と、奥壁面前方の墳袖部に一メートル平方の造り出し部があり、ここに土師器の高杯・杯・浅鉢形土器と須恵器の高杯・杯が供献されていた。また同市鶴ヶ峠で検出された遺構では、羨道口の墳袖部に四基の土師器の焼成窯があり、いずれも高杯と杯が数個発見された。この焼成窯での検出遺物と、同時期に比定される土師器の高杯・杯を同石室内より出土している。また川之江市住吉古墳の奥壁前方部には円形の焼土と土師器片を多量に包蔵する遺構が見られる。これら一連の遺構はいずれも奥津城に対する供献土器をはじめ、古墳への祭りが取りおこなわれていたことを物語っている。
 松山市鷹ノ子での五郎兵衛谷古墳では、梁間二間・桁行間三間の東西棟の掘立柱建物跡が検出された。入口部と出口と仮定される。桁行間の南側柱列の東隅一間と北側柱列の西隅一間がともに等間隔であり、他の柱間はこれまた等間隔となっている。建物の床面中央部の北側柱列寄りに平行して、短辺一メートル、長辺一・八メートルの杭穴が計八本分検出され、長方形の棚状遺構が推測された。これらから、建物と内部設備と、周辺部の群集墳とを合せ考察する時、野辺の送りともみられる遺構としての機能をもつものといえる。以上のように、後期古墳の裾部や周辺には、これら古墳すなわち奥津城を中心に種々の祭儀が種々の形式をふんで行われていたのではないかと考えられる。