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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

1 古代寺院と分布状況

 仏教の伝来と氏寺

 日本への仏教伝来は、欽明天皇の五三八年(一説に五五二)、百済の聖明王が仏像や経典を献じたのに始まるという。伝来当初は大陸や朝鮮半島からの帰化人(渡来人)や蘇我氏らによって信仰されていたにすぎないが、やがて大和朝廷の仏教興隆策により発展し、宮都のあった飛鳥の地を中心に皇族や有力豪族により寺院が建立された。六世紀末の蘇我馬子建立の飛鳥寺、七世紀前期の聖徳太子の四天王寺・法隆寺(若草廃寺)などはその例である。こうした中で地方の有力豪族達も七世紀後半以後、古墳に代わる権威の象徴として、大陸風の寺院や仏像の造寺・造仏に努め、それぞれの氏寺とした。寺院はそれまでの直線的で簡素な神社建築と異なって、曲線美をほこり、異国情緒豊かで、雄大な七堂伽藍をもつ大陸文化の殿堂であった。
 地方豪族の仏教への帰依は先の「日本霊異記」にある越智直の寺院造立の説話集が示唆的である。七世紀の半ばすぎ越智直ら八人が白村江の戦いで捕えられ、窮地に陥った折、古来の祖先神である氏神に頼ることなく、観音菩薩に祈り無事帰国できたという物語は次のように解釈できよう。
 地方の有力豪族が主体となって仏教の地方受容に努めたこと、また、彼らの多くが郡司層であったことから推して、大化の改新後、国家が仏教興隆策に乗じて律令的中央集権国家体制の確立を意図していたのでである。「伊予国風土記」逸文に記載された久米寺もその政策の一つと解釈できる。「日本書紀」「扶桑略記」によれば推古天皇の三二年(六二四)には寺院数四六ヵ寺、持統天皇六年(六九二)に天下の諸寺およそ五四五ヵ寺を数えたという。白鳳期における地方への仏教文化の普及状況を如実に示している。また、地方への伝播経路は飛鳥時代から奈良時代前期にかけて、まず、山陽道沿いに西進したことが指摘されている。伊予の古代仏教文化も松山、今治地方を核に新居浜・小松など首長墓的古墳の分布地や有力豪族の居住圏に発展している。

 伊予の古代寺院跡

 発掘調査や礎石、古瓦などの残存によって知られている古代寺院跡は次の三二ヵ所を数えるが、このうち発掘調査の行われている寺院跡はわずか三ヵ所にすぎない。
(1)宝蔵寺跡 川之江市井地町 (2)西村廃寺 土居町西村金付面 (3)旧睍寿院跡 宇摩郡土居町中村 (4)河内廃寺 新居浜市高木町 (5)正法寺跡 新居浜市大生院 (6)薬師廃寺 西条市飯岡八幡原 (7)上野廃寺 西条市飯岡池ノ内 (8)真導廃寺 西条市中野 (9)香園寺跡 小松町南川大日 (10)法安寺跡 周桑郡小松町北川長丁 (11)安養寺跡 周桑郡丹原町明穂 (12)興隆寺跡 周桑郡丹原町古田 (13)貝田廃寺 東予市壬生川町 (14)道安寺跡 東予市楠 (15)伊予国国分尼寺跡 今治市桜井町郷 (16)伊予国国分寺跡 今治市国分 (17)他中廃寺 今治市桜井町郷 (18)中寺廃寺 今治市清水中寺 (19)法音寺跡 今治市宅間 (20)仁江廃寺 越智郡吉海町仁江 (21)湯之町廃寺 松山市道後祝谷 (22)内代廃寺 松山市道後上市 (23)朝生田廃寺 松山市朝生田町 (24)中村廃寺 松山市中村町 (25)千軒廃寺 松山市高井町土居之内 (26)上野廃寺 松山市上野町(27)中ノ子廃寺 松山市南土居町中ノ子 (28)来住廃寺 松山市来住町 (29)石手寺跡 松山市石手町 (30)拝志廃寺 温泉郡重信町下林 (31)覚王寺跡 八幡浜市松柏 (32)岩木廃寺 東宇和郡宇和町岩木
 図上からみた寺院分布の特質は次のように考えられる。
 一つは瀬戸内海の燧灘沿岸、斎灘沿岸や伊予灘に面していること、二つは古代の官道である南海道沿いに集中していること、三つには加茂川、中山川、頓田川、重信川、石手川などの河川流域の平野部や山麓に多くみられること、特に白鳳時代と推定されている寺院跡の大半が平野部や河川流域に立地していることである。河内廃寺、法安寺跡、他中廃寺、湯之町廃寺、内代廃寺、朝生田廃寺、中村廃寺、千軒廃寺、中ノ子廃寺、上野廃寺、来住廃寺などがその例である。四つには新居浜・小松・今治・松山など東・中予に集中しており、なかでも松山地方の分布密度が高いことである。

5-10 古代寺院跡及び古代瓦窯跡分布図

5-10 古代寺院跡及び古代瓦窯跡分布図