データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)
二 国家仏教と国分寺
国分寺と尼寺の創建
国分寺は天平一三年(七四一)、聖武天皇の発願により各国府の所在地に建立された。聖武天皇発願の背景は、当時、疾病の流行と飢饉による国内の社会不安、また、遠の朝廷といわれた大宰府において、政敵の僧玄昉と吉備真備の排除を要求して謀反した藤原広嗣の乱や対新羅関係の悪化などによる内外の危機感があった。
国分寺には僧寺と尼寺があり、正式には僧寺を金光明四天王護国之寺、尼寺を法華滅罪之寺と称する官寺であった。
七世紀後半以後の律令時代にあっては、鎮護国家、鎮災致福を説く仏教は、中央集権化や民衆支配強化のための精神的支柱として国家の保護をうけた。天平一三年、僧寺には僧、二〇僧、金光明最勝王経一部、尼寺には尼、一〇尼、妙法蓮華経一部がおかれ、その経済的基盤として、僧寺には封戸五〇戸、水田一〇町、尼寺には水田一〇町が施入された(続日本紀)。
国分寺建立の場所は、国府に近く、人家の雑踏から離れていて、しかも人の集まるに交通便利な、南向きの高台地が求められた。僧寺と尼寺の距離関係は相互に三、四町ないし五、六町を隔てて建てられることが多かった。僧寺の広さはだいたい二町四方(七二〇尺=二一八メートル)が普通で、尼寺はほぼ方一・五町(五四〇尺=一六四メートル)程度とみられている。寺地内には興福寺や総国分寺である東大寺式伽藍配置にもとづいた建物配置が多くおこなわれた。これは七世紀代の塔中心から本尊仏を安置する金堂中心へと伽藍様式が変化したことを示している。東大寺式伽藍配置とは南から北へ、南大門、中門、金堂、講堂、僧房を伽藍中軸線上に一直線に並べ、中門から金堂へ回廊をめぐらす。そして、塔は回廊外にあって南大門と中門の中軸線を境に東西に配置する型式である。もっとも地方によっては法起寺式や法隆寺式伽藍配置などもみられた。
寺地の周囲には土塁をめぐらすもの(伯耆国分寺)、濠をめぐらすもの(武蔵国分寺)、築地を作るもの(出雲国分寺)などがあったが、地方では土塁や濠が多いらしい。
条里制との関係では、国分寺は南面することを原則とするので、条里にのることもあり、のらぬ場合もあり、一概にはいえない状態である。