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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

2 伊予国分尼寺

 立地

 県指定史跡の国分尼寺塔跡は今治市桜井郷の引地山山麓の水田地帯にある。塔跡は引地山を背に、前面には古代の南海道が通り、東南方約二〇〇メートルに予讃本線伊予桜井駅、東方約七六〇メートルに桜井河口港がある。そして、北西方約四〇〇メートルの引地山上に法華寺、さらに約一、六〇〇メートル北西に国分寺跡がある。国分僧寺跡と国分尼寺塔跡との距離は約二キロであるが、これは讃岐国のそれと同じ距離である。
 国分寺は、貞和四年(一三四八)の地頭橘資義寺領田畠避状(国分寺文書)に「伊予国桜井郷内国分寺并尼寺御領田畠事」とあり、僧寺・尼寺ともに桜井郷内にあったことは明らかである。また、年代不詳ではあるが、国分二寺領坪付断簡(国分寺文書)からは青木里が法華寺領であり、里に一二坪・一三坪・二四坪などの条里土地区画呼称があったことや法華寺が尼寺であったことを知る。断簡中の一二坪は桜井小学校の敷地に比定されている。
 法華寺は観音寺ともいい、本尊は十一面観世音菩薩である。寺伝によれば、もとは引地山山麓の小字、古寺と称された桜井小学校敷地にあったが、寛永二年(一六二五)に現在地に移されたという。これまた年代不詳ではあるが、中世以後のものと思われる法華寺古図によれば要害山、釣瓶山を背景に北から南へ金堂、僧房そして小さく五重塔が並び、伽藍の前面は海と川で入江をなしていた様子がわかる。五重塔は伽藍配置からみて別寺と思われるが、方角からみて、県指定史跡の国分尼寺塔跡をさしている可能性もあろう。
 県指定の国分尼寺塔跡はその所在地の小字、他中(塔頭か)から他中廃寺と称し、あるいは「日本霊異記」にある越智大領の祖先、越智直が建立した寺院跡とする説がある。「日本霊異記」によると、白村江の戦い(六六三)において百済救援軍に加わっていた越智大領の祖、越智直ら八人は唐兵につかまったが、舟をつくり、観音菩薩に祈ったところ西風が吹き帰ることができ、のち越智郡を立てることを許され、寺をつくったという。しかし、寺地、寺名については記載がなく、越智郡内の大三島なのか、県指定史跡の寺院(塔)跡などを指しているのかはっきりしない。塔跡の周囲から白鳳期の単弁・複弁蓮華文軒丸瓦が出土しているので、年代的には越智直が建立したという寺院に比定することも可能であるが確証がなく参考資料とすべきであろう。
 ところで、法華寺が国分尼寺であることはいうまでもないが、もとの寺地が桜井小学校敷地とする見方は妥当と思われる。桜井小学校の敷地からは平安時代初期の均整唐草文軒平瓦が出土しているが、これは国分僧寺跡出土瓦と同一手法のものであり傍証の一つとなろう。また、昭和五五年今治市教育委員会の発掘調査により一・三メートル等間の柱列も検出されている。県指定史跡の国分尼寺塔跡は白鳳期の建立と思われ、奈良時代の国分尼寺(法華寺)とはかなりの年代差がある。しかも、国分尼寺には塔のないのが定説であり問題が残る。しかし、他の国分寺には前身寺院の転用例があり、国分尼寺創建にさいして、本寺の別(子)寺である塔頭としたことも十分に想定できよう。
 
 塔跡

 発掘調査が行われていないので正確さに欠けるが、基壇は現存部が南北約三メートル、東西八メートルで、高さは〇・七メートル程度である。東西側がかなり削平されているようである。
 礎石は全部で六個残っているが、五個は側柱礎石で、一個は四天柱礎石と思われる。配石は北側柱が西から三個目まで、西側柱も北から三個目まで残り、その三個目の東側に四天柱一個が残存している。大きさは八〇×一二〇センチ前後で、その柱間は約二メートル等間と思われる。礎石は硬質砂岩で表面は水平であるが、特に柱座などの造り出しはない。なお、基壇は赤土と石灰土で交互につき固めた版築技法が認められるという。
 現存遺構から塔跡を復元すると、建物一辺長が三間の六メートル四方(二〇尺)、基壇の一辺長は、側柱心から基壇外面までの軒出し部が三メートル(一〇尺)とみて、一二メートル(四〇尺)四方と推定されるので、七重塔に必要とされている建物一辺長三三尺以上、基壇一辺長五七尺以上の数値をみたさない。おそらく五重塔であったと思われる。

 出土遺物

 軒丸瓦では白鳳期の単弁蓮華文瓦や複弁八葉蓮華文が出土している。複弁蓮華文軒丸瓦は周縁高く、そこに鋸歯文をめぐらし、花弁の弁端は円形で尖は反転し、子葉の上面は軽くほりくぼめられている。中房は大きく、圏線をめぐらし内に蓮子一七個を配している。かなり形式化しているが法隆寺式系の影響が認められる。
 軒平瓦は均整唐草文を主文とし、外区に連珠文を飾っている。奈良時代のものであろう。
 塔跡は国分尼寺跡とされているが、これまで塔跡のみの確認であり、他の金堂、講堂などは確認されていない。また、塔跡は山麓の北端に位置し、北側に他の堂宇を建立する寺地がほとんどないなど本来の伽藍形式に照らし合わせてみても不自然で、はたして七堂伽藍をなしていたのかどうか疑わしい。「出雲風土記」に記されている寺院は七堂伽藍などという壮大なものではなく、塔か金堂だけの伽藍があったことを暗示している。

5-27 伊予国分寺(1~8)・国分尼寺(9)出土瓦拓影

5-27 伊予国分寺(1~8)・国分尼寺(9)出土瓦拓影