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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

2 窯跡と出土遺物

 窯跡

 県内の古代窯跡はあまり調査がおこなわれておらず、その構造、歴史的、社会的意義などは十分に把握されていない。将来、重点的に調査を要する分野である。

 カメ谷窯跡

 新居浜市船木町上原に所在する須恵器窯である。昭和三七年八月に調査がおこなわれたが、窯本体の発掘までにはいたらず、窯の構造も登り窯(穴窯)と推定されるにとどまった。
 カメ谷窯跡は下兜山北麓に客谷川によって形成された扇状地上、標高約一〇三メートルの地点に位置し、その北西約一五〇メートルのところに池田の大池がある。
 窯跡からは蓋杯、高台のついた杯、盤、皿、鉢、椀などの食器類を中心に肩のはった平安時代の壷・把手をもつ平瓶・長頸瓶、内外面に叩き目をもっ甕、円面硯などの須恵器が発見された。ほかに、「庄」・「加」などの文字を刻んだ須恵器の破片や瓦片が確認されているが、特に文字の意義が注目される。

 蓋 
 中央には扁平な、まだ宝珠形の面影をのこすつまみをもつ。口縁部にかえりはない。口径二〇~二六センチ、一四センチ、八センチ前後の三種類に分けられる。八世紀前半の器形である。(図面番号 1~18)

 杯
 無高台のものと高台つきの両者がある。前者は体部、口縁部が外反し、底部と体部の境界は屈曲するものが多い。後者の高台は比較的高く、わずかに外方にふんばっている。椀と称してもよい器高の高い杯は高台が体部の真下についている。口径二二センチ以上の大型杯もある。八世紀の中葉前後に比定できよう。(24~33)

 皿
 口径一四センチ前後の小型皿と二〇センチ前後の大型皿の二種類ある。いずれも口縁部の外傾度は大きい。底部と体部の境界は屈曲するものと丸いものがある。八世紀後半の器形であろう。(19~23、34、35)

 盤
 一応、皿状土器に高台のついたものとした。二五センチ大から四五センチ大のものまである。口縁部は大きく外反し、底部が下方へたれさがるものもある。体部と底部の境界は丸味をもち、高台は細くふんばり気味である。八世紀後半のものであろう。(36~41)

 カメ谷窯跡出土の須恵器は八世紀中葉から一〇世紀ごろに比定できるが、その盛期は奈良時代の後半であったと思われる。後の伽藍窯跡にやや先行する窯跡と推定される。
 このころ、当地域には東大寺領の新居庄があった。天平勝宝八年(七五六)の新居庄の四至(荘域)は、東は継山(関ノ戸)、西は多豆河(国領川)、北は小野山(郷山)、南は山麓の官道内に限定されているので、ほぼ現在の船木地区にあてはまる(東大寺諸荘文書并絵図等目録)。したがって、カメ谷窯跡は地理的にも、時期的にもこの新居庄内にあることになり、荘園領主の東大寺の支配下にあったと思われる。窯出しされた製品のうち、円面硯、平瓶など須恵器の大半は新居(神野)郡衙や荘官に、そしてその一部は市場を通して荘民にも供給されたであろう。天平勝宝八年ごろの初期荘園である新居庄は、野八十町、池地三町六段余の庄地を領していたが、そのほとんどが野、すなわち未開墾地であり、生産地としてよりも林野的資源としての価値が高かったことであろう。しかし、この後は開墾が進展したことを示す記録があり、カメ谷窯もそれに応じた生産体制を確立したことと推測される。
 新居庄は長徳四年(九九八)ごろ衰退し、東大寺領荘園としての実を失ったが、カメ谷窯跡も時を同じくして放棄されたと考えられるのである(東南院文書「東大寺領諸国荘家田地目録」)。

 伽藍窯跡

 窯跡の所在地は温泉郡重信町下林伽藍であり、重信川による河岸段丘地形の傾斜面(標高約一一〇メートル)に数基の窯が築かれている。周辺は原料の粘土や燃料の薪のえやすい所である。伽藍窯跡に隣接して助兼、天王谷、定力などにもほぼ同時代の古窯跡が分布しており、この一群を総称して拝志窯群と称している。古代にあっては浮穴郡拝志郷に属していたからであろう。
 伽藍窯跡は丘陵斜面に上方に向かって窯の床から天井部までの高さを掘り取り、天井と側壁をスサを混ぜた粘土で固め、外観は天井部が地上に露出するように築かれた半地下式登り窯である。
 一般に窯の構造はまず、焚き口からはじまって、燃焼室、焼成室と続き、奥壁には煙道部および煙出しが設けられている。焚き口外方の平坦地は作業場であり、さらにその外側の傾斜面は窯の灰や不良製品の廃棄場となる灰原(物原)である。伽藍窯跡は天井や床の中央部が破壊、流出しており、細かな所は明らかでないが、恐らく同形式のものであろう。
 伽藍窯の規模は全長約九メートル、幅約一・三メートル、床面の傾斜角度は約二〇度である。この窯跡は昭和四三年の発掘調査により、二回修築されたことが判明している。(5―35)
 伽藍窯は須恵器焼成用の窯であるが、一部瓦も焼いている。
 焼かれた須恵器は杯、高杯、椀、皿、短頸壷、甕、土錘、硯などであるが、なかでも杯、皿、盤が多い。焼成技法の面では七世紀末から八世紀代にかけて出現し、大量生産を可能にした点で技術革新とも称された「かさね焼き」もみられる。各器種の概要は次のとおりである。(5―36)

 蓋
 天井部は中央から上方にゆるやかに上り、中には天井部の端で乙字状にカーブを描き口縁部との境界は段をなすものがある。口縁内面にはかえりはないが、口縁端は下方へ短く屈曲し、先端はにぶい稜をつくる。天井中央部の宝珠形つまみは扁平である。八世紀の後半、それも末期に近いものであろう。(1~7)

 杯
 高台を伴うものとそうでないものの両者がある。高台を伴う杯は体部、口縁部が外反し、底部にはその端、または近くに高台を張りつけている。
 無高台の杯は口縁部がほぼ直線的に上方にのびている。焼成は何枚も重ねて焼くかさね焼技法によっている。八世紀後半の器形である。(8)
 高台を伴う杯は、口縁部がやや外反気味で口縁部と底部の境は丸い。口縁中央部ににぶい稜がみられる。八世紀前半から継続して多くみられる器形である。(9~11)

 盤
 口縁部は大きく外反し、高台は底部の端近くにつけられている。底部と口縁部の境界はまるい。カメ谷窯跡出土のそれよりやや口縁部の外傾度は大きい。八世紀中葉以降のものと思われる。(図面番号14~15)

 高杯
 杯部は器高の低い皿状器形である。脚は高く、細くゆるやかに外反している。八世紀代に比定できよう。(図面番号17)

 甕
 口頸部は短いが、大きく外反するものと、外方に短く直線状にのびるものの二者がある。口縁部の端は上下に短くのび、口縁端の内面には稜ないし段ができている。肩部はほぼ水平状にのび、肩の張りは大きい。八世紀後半代から九世紀前半代の器形であろう。(図面番号19~21)

 壷
 有蓋短頸壷である。薬壷とも称される骨壷である。口縁部は直立し、肩部は水平で張っている。九世紀以降の器形である。(図面番号18)

 椀
 一応、椀としたが、鉢との区別は明らかでない。体部、口縁部はほぼ直線状に外傾している。九世紀代の器形であろうか。(図面番号12・13)
 
 ほかには、長頸壷、瓶、円面硯(16)、瓦、土錘などが出土しているが、年代的には奈良時代の八世紀後半から平安時代の九世紀代の器形に比定できる。
 瓦類では複弁四弁蓮華文軒丸瓦、布目の丸瓦・平瓦がある。複弁軒丸瓦は蓮華文を間弁で四面に分割し、その周囲の外区には鋸歯文が飾られている。周縁は無文で厚く高い。これと類似の瓦が来住廃寺跡、朝生田廃寺跡から出土している。
 伽藍窯跡は出土遺物から判断する限り、八世紀の後半から九世紀中ごろまで生産を続けていたものと思われる。ところで、伽藍窯の生産体制や焼成した製品の供給先等について興味深い問題が多いが、伽藍廃寺跡の実態さえ明確でない現状では詳らかでない。

 衣山瓦窯跡

 瓦窯跡は大正四年に鈴木栄一郎により一応の調査がおこなわれている。所在地は松山市衣山である。伊予鉄衣山駅から約二〇〇メートル西の線路の北側にあたり、さらに窯跡の北側に接して市道が西走している。市道との比高差は約一メートルである。当時は蓮根畑であったが、現在は住宅地となり、窯跡は存在しない。
 瓦窯跡の北西の小丘陵には永塚古墳群があり、南方の大峰ヶ台には岩子山古墳を含む大峰ヶ台古墳群がある。古代には温泉郡味酒郷に属していたと思われる。
 窯は焚き口、燃焼部、焼成部からなる平窯である。焼成部には畦部の三つのロストル(置台)と溝部の四本の火焔道がある。ロストルの長さは一三五~一六八センチ、幅一三〇センチ、火焔道の長さ一三五~一五〇センチ、幅約二二・五センチほどで、北端は階段状になっている。(5―37)
 窯部の規模は平面が方形で、間口約一・八メートル、奥行約一・七〇メートルであり、北から南に軽く傾斜していたらしい。焚き口は平面三角状で間口約一・一四メートル、奥行一・四四メートルである。側壁は全て破壊され、窯床を残すだけであった。焚き口の天井部は軽く弧状をなしていたという。(5―38)
 窯内や周辺からは軒丸瓦、軒平瓦、丸瓦などが出土している。
 軒丸瓦は複弁六弁蓮華文瓦(1)である。弁端は反転度が小さく、花弁には複数の子葉をつけている。間弁は退化し焼成もよくない。平安時代初期から中期までの瓦である。同種の瓦が湯之町廃寺、内代廃寺から出土している。他の軒丸瓦は重圏文軒丸瓦である。平坦な瓦当面に圏線を二重にめぐらし、外区には連珠文を配している。奈良時代後半の様式瓦である。軒平瓦は破片のため細部ははっきりしないが、唐草文瓦(2)である。重圏文軒丸瓦とセットになるものであろう。唐草文軒平瓦は来住廃寺や千軒廃寺出土瓦に類似しているので、均整唐草文軒平瓦と思われる。来住廃寺出土のそれは菱形状の中心飾りから唐草文が三回反転するもので顎は曲線顎である。平安時代初期から中期ごろまでの様式と思われる。ほかには玉縁式の丸瓦、平瓦がある。瓦の様式から推定すると衣山瓦窯跡は奈良時代後半から平安時代中期ごろまで存続していたと考えられよう。当瓦窯跡に類似する平窯に悪社窯(松山市北梅本町)があるが、構造、遺物ともに明らかでない。
 なお、造瓦用の窯は畿内にあってはそのほとんどが官営の平窯であることに注目すると、衣山瓦窯の性格も等閑視することのできない問題点を含んでいる。

 かわらがはな窯跡

 伊予市市場かわらがはなに所在する県指定史跡の瓦窯跡である。窯跡は伊予市の南部に位置し、南北に走る国道五六号線が平野部から犬寄峠に入る手前の東側山麓、標高約三六メートルの急斜面上に築造されている。律令時代の伊予市は伊予郡に属し、郡には神崎、吾川、石田、崗田、神戸、余戸の六郷があった(和名抄)。このうち、当市域は吾川、石田の二郷に比定されている。律令時代の財政的基盤であった条里制は伊予市を含む道後平野に施行され、今だに四反地、九反地、北十四、南十四、十合(十五)、市の坪などの条里地名が残存している。当時、道後平野には和気、温泉、久米、浮穴、伊予の五郡があり、条里制はその五郡を一区画とした大条里制(正距方位条里)が施行された。この大条里制は畿内及びその周辺を除くとあまり例をみないものであり、ここに伊予市を含む道後平野の政治、経済上の卓越性を知ることができよう。
 伊予郡は大化の改新以前には伊余国であり、改新後に伊予郡に改編されたが、その時点では越智郡の中郡よりも下位の下郡に位置づけられた。
 伊予郡の豪族には伴造である伊予部連がおり(懐風藻)、おそらくその一族が伊予郡の郡司に任ぜられたものと思われる。郡家の所在地は不明であるが伊予市宮ノ下か、松前町の神崎、徳丸付近に比定する見解もある。
 律令体制を支えていた軍事力は軍団制にあった。軍団は平均して四郡に一団の割合で設置されたと推定されており、その名称は白河団(陸奥)、高市団(大和)のように何々団とよばれていた。伊予市宮ノ下のホノギに段の上があり、これを軍団跡とする説もある。付近には名神大社の伊予神社(松前町神崎ほか諸説あり)ほか伊曽能神社(伊予市宮ノ下)、高忍日売神社(松前町徳丸)などの延喜式内社があり、こうした歴史的遺産を背景に伊予郡家の所在地をこの周辺に求めても不思議ではない。
 以上のような律令的遺制とかわらがはな瓦窯跡の存在は無関係とは思われず、将来、古代寺院跡、須恵器窯跡など資料の発掘をまってその背景の解明に努める必要があろう。
 かわらがはな窯跡は山麓の急斜面を利用した半地下式登り窯群で、現在七基確認されている。そのうちの三基が昭和四一年に愛媛県教育委員会によって発掘調査されている。
 三基のうち北端にある一号窯跡は全長一二メートルで、前庭部、燃焼部、焼成部、煙道部の四部分からなっている。燃焼部は奥行全長一・五メートル、幅一・三二メートル、天井までの高さが一・五メートルである。瓦を焼く焼成部は約四八度の傾斜面に八段の階段を設け、その一段目の横幅は一・五五メートル、八段目は〇・七五メートルをはかる。天井部までの高さは上部にいくほど低くなるが、〇・五一メートルから〇・八〇メートルである。
 煙道部は直径〇・四五メートルで燃焼部床面と煙道部までの比高差は六・四〇メートルである。側壁には粘土を張りつけているが高温焼成のためガラス状となっている。中央部の二号窯跡、南端の三号窯跡もほぼ同じ形態であるが二号窯跡は階段が一三段と多い。
 瓦窯が須恵器窯と異なるところは高温焼成をはかるため焼成部床面の傾斜角度を四〇度以上の急勾配にしていることである。須恵器窯は約四〇度くらいまでである。
 当瓦窯から出土した瓦は軒丸瓦、軒平瓦、丸瓦である。軒丸瓦は複弁六弁蓮華文瓦で平安時代中期までのものとみられる。軒平瓦は版型の四重弧文瓦である。深い顎をもち、瓦当の両端は三角状である。白鳳時代末期ごろの様式であろう。これと類似の瓦が湯之町廃寺から出土している。
 丸瓦は尻の部分に段をつけた玉縁式瓦と頭から尻に向かってしだいに細くなる行基葺式瓦の二種類の、いわゆる布目瓦がみられる。瓦以外では須恵器片や土師器片も出土しているという。
 なお、道後平野で瓦を焼いた窯跡として確認されているものは先の伽藍窯跡、衣山窯跡のほか平井駄馬窯跡(松山市北梅本町)などがある。古代の行政区分では伽藍窯跡は浮穴郡、衣山窯跡は温泉郡、平井駄馬窯跡は久米郡に所属していたと考えられる。

5-34 カメ谷窯跡出土の須恵器実測図

5-34 カメ谷窯跡出土の須恵器実測図


5-35 伽藍窯跡実測図

5-35 伽藍窯跡実測図


5-36 伽藍窯跡出土の須恵器実測図

5-36 伽藍窯跡出土の須恵器実測図


5-37 衣山瓦窯跡見取図

5-37 衣山瓦窯跡見取図


5-38 衣山瓦窯跡出土瓦拓影

5-38 衣山瓦窯跡出土瓦拓影


5-40 かわらがはな窯跡出土重孤文軒平瓦拓影

5-40 かわらがはな窯跡出土重孤文軒平瓦拓影