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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

三 住居跡

 竪穴住居から掘立柱住居へ

 飛鳥時代以後も一般に農村では竪穴住居が建てられていた。竪穴住居は縄文時代に出現した住居であり、その構造は地表を三〇~五〇センチ掘り下げ、その上に屋根をかけた家屋である。竪穴住居の平面形態は古墳時代の六世紀ごろにはほぼ方形に統一され、七~八世紀になっても存続した。
 古代竪穴住居の規模は一辺四~五メートル程度の方形の竪穴で、柱は屋内に四本配置するものが一般的であった。床面は土間で、間仕切りのないのが普通であった。炊事施設としては北壁などに造り付けのかまどが築かれていた。屋根は寄棟、入母屋風が考えられている。このような竪穴住居に五人前後の家族が居住していたものと推定されている。
 一方、七世紀前半ごろ西日本を中心にして竪穴住居と共存して掘立柱建物が存在していた。掘立柱建物は弥生時代の中・後期に起源をもつものであるが、その構造は礎石などの土台をおかず、直接に柱穴を掘って柱を建てる建物である。
 古代の掘立柱建物は一般には弥生時代に稲作とともに導入された高床倉庫と理解されていた。高床倉庫は板張りの床をもち、床下には遮へい物はなく角柱の主柱が丸見えである。しかし、今日では古代の掘立柱建物のすべてが高床の倉庫とは考えられておらず、高床住居と平地住居を含むものとみられている。
 平地住居は床面が土間ということになるが、この場合は高床倉庫と異なって建物の下部は梁間、桁行ともに縦板で完全に遮へいした切り上げ造りの可能性が指摘されている。
 弥生時代から古墳時代前期にかけての掘立柱建物は梁間一間、桁行一間~四間のものがほとんどであり、まれに梁間二間の例もあった。柱間は等距離にとられ、整然と配列されていることが多いので縄張りがおこなわれていたことも考えられている。
 飛鳥、奈良時代の宮殿、官衙は掘立柱建物が多いが、この場合でも板張りの高床ではなく、土間を床とする平地住居が多い。当然、一般の掘立柱建物の場合は土間が多く、板床(高床)は限られた例とみられる。板床とする場合、梁間が二間以上になれば床下に立てる束柱が必要であったろう。
 集落は以上のような竪穴住居や掘立柱建物を単位に構成されている。七~八世紀の三重県貝野遺跡は竪穴住居と掘立柱住居が共存する例の一つであるが、数戸の家屋が無計画に配置され、その中に多くの倉庫が分散している。このことは倉庫がある小グループによって管理されていることを示しており、弥生時代のように村が管理するものではなかったらしい。
 これに対し、条里集落では様相が異なっている。八~九世紀の大阪府高槻市郡家今城遺跡では住居の棟方向がほぼ統一され、各戸は主屋と付属屋一~二棟、さらに倉庫、井戸をもっている。このような住居の配置は集落が条里制水田の中にあって地割の影響をうけた例とされている。もっとも、この例をもって条里集落のすべてが同様であったとは考えられず、むしろ自然村落から形成された集落が多かったとみられている。

 松山平野の掘立柱建物跡

 県内の集落遺跡は明らかにされていない。しかし、松山平野において一部ではあるが、建物群跡が調査されているので、そのうち掘立柱建物跡についてその概要を述べておきたい。
 現在、ほぼ律令時代の、掘立柱建物跡と推定されている遺跡は松末五・六丁目遺跡(標高三〇メートル前後)、福音寺遺跡(三三メートル)、星ノ岡遺跡(三〇メートル)、今在家遺跡(三三メートル)、北久米遺跡(三五メートル)、前川Ⅰ・Ⅱ遺跡(三二メートル)、来住廃寺跡(四〇メートル)、来住Ⅳ・Ⅴ・Ⅵ遺跡(三八~四一メートル)遺跡、久米窪田Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ遺跡(四六~四七メートル)などである。これらの遺跡は石手川や小野川によって開析され、南に向かってゆるやかに傾斜する洪積台地上やその崖下の沖積平野の低地部に位置している。ほぼ、七世紀代から八世紀代の遺跡である。
 遺跡群中の掘立柱建物の柱間は梁間二間、桁行三間が基本であり、次いで梁間三間、桁行四間以上のものが多い。八世紀代になると松末遺跡のように梁間三間の掘立柱建物跡が多くなる傾向にある。
 柱間一間の距離は六尺(約一・八メートル)ないし七尺(約二・一メートル)前後にとるのが一般的である。面積は二〇平方メートル前後の建物が多い。柱穴の形は官衙、寺院、有力豪族関係の建物では方形柱穴が多く、一般の建物では円形柱穴が普通である。
 掘立柱建物の床面構造は、束柱のみられるものが少ないところから多くは土間であったと思われる。束柱をもつ掘立柱建物も来住Ⅳ・Ⅴ遺跡、北久米遺跡、福音寺遺跡などにみられ、その多くは高床倉庫と推定されるが、高床住居の可能性もあり詳らかでない。
 掘立柱建物跡の棟方向(主軸)は大別して南北棟と東西棟に分けられるが、前川Ⅰ・Ⅱ遺跡など一部を除き大半の遺跡では南北棟と東西棟の両者が混在している。これに、星ノ岡遺跡のように竪穴住居が共存していたと推測される例もある。
 掘立柱建物群の戸数は三~五戸を一単位とする数グループの存在が予想されるが、この場合、松末五・六丁目遺跡のように条里水田、水路に規制されて集中的に配置された可能性をもつ集落も存在していた。
 これまでみてきたように、松山平野にあっては七世紀代から八世紀代にかけて、特に八世紀代に掘立柱住居が一般化したと思われ、県内の他の地域でも同じ傾向にあったことであろう。
 各遺跡中の掘立柱建物群の性格については官衙(役所)関係(久米窪田Ⅰ・Ⅱ)、寺院関係(来住Ⅳ)、豪族関係(来住廃寺跡)、農民(庶民)関係(松末五・六丁目)などの集落に、一応関連づけることができよう。

5-49 掘立柱建物跡実測図(松末五、六丁目遺跡)

5-49 掘立柱建物跡実測図(松末五、六丁目遺跡)