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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

三 古代山城永納山

 古代山城

 古代山城永納山は昭和五二年、東予市で発見され、その当時から現在に至るまで多くの人々の関心を集めている。しかし、それにもかかわらず、不明な事があまりにも多い。いったい古代山城とはどういうものであろうか。
 古代山城は、一般に神籠石山城と朝鮮式山城とに分類されるが、両者を合わせると全国で二〇余城ある。それらはすべて近畿以西の西日本地域に集中して存在する。なかでも北九州地域には一三城があり、また、瀬戸内沿岸地域に九城があり、稠密な分布を示す。そして近畿地方に唯一の高安城がある。この分布からみれば、外圧を受けにくい地域に向かうにしたがって、稀薄となっているという特徴を確認することができる。永納山は分類上、神籠石山城に属する。神籠石とは、もともと自然の巨石で区画された聖域の意味があった。しかし、現在では、神籠石の主体をなす列石の上に土塁があり、また、列石の前面の柱穴から柵が設けられていたと推測される発掘例などより、山城であることが確実となった。
 一方、朝鮮式山城は、白村江の敗北の結果、唐・新羅連合軍の日本来襲が予想される緊迫した状況の下で防衛の意味をもって築城されたものである。具体的にみると、敗戦の翌年、対馬・壱岐に防と烽を置き、筑紫に水城を築いた。さらに、天智称制四年(六六五)には、百済からの亡命官人を派遣して長門城・大野城・椽城を築き、ついで同六年には、高安城・屋島城・金田城などが築かれた(日本書紀)。このように朝鮮式山城に関する記事は、わずか数年の間に集中しており、対外防備が朝廷にとって急務の課題であったことを示している。なお、朝鮮式という名称は、百済官人によって築城されたこと、及び、朝鮮に多くある山城と類似していることに由来するのである。
 以上のように、神籠石山城も朝鮮式山城もともに防衛的な城である。それゆえ、両者は土塁・水門・城門などの存在が共通し、山丘の利用も基本的に同様であるなど多くの類似点をもっている。しかし、一方で神籠石には土塁の基底面に列石があるが、朝鮮式にはない。あるいは逆に、朝鮮式には建物の礎石があるが神籠石にはないなどの相違点がみられる。しかし、それらは城の付帯施設に関するものであり、山城としてのあり方が類似していることは確かである。ただ、このようにいっても、神籠石と朝鮮式が築城時期や築城者まで同様ということではない。朝鮮式山城は七世紀後半、百済官人によって築城されたことは明らかであるが、神籠石の場合、永納山を含め、それらは全く不明である。それだけにさまざまな説があるが、しかし、現在に至るまで定説というべきものはない。永納山がいつ、誰によって築城されたか、これも謎である。

 位置・規模・構造

 朝鮮式山城、神籠石山城をとわず古代山城の立地する場所は、次のような特徴を備えている。第一に、城として必要不可欠な自然条件である天然要害の地にあり、第二に、古代の政治的中心地である国府に接近しているとともに、条里制遺構が広汎にみられる地域である。第三に、駅家・官道・船の停泊地などの海陸交通の要衝を占める地にも近接している。このように、古代山城は重要地域に近接して立地している。それでは、永納山の場合はどうであろうか。
 永納山は図1―4からわかるように、東予市の北端の河原津・六軒家にまたがり、今治市と境を接する位置にある。永納山の北側にある今治平野は、古代の全時期を通じて伊予国の中心地であった。古墳時代には伊予国最大の首長墓である相の谷古墳をはじめ、多くの有力首長墓があり、さらに、律令時代には国府をはじめ、国分寺・越智駅などがおかれ、政治・宗教・交通の中心となった。また、条里制の遺構も広汎にみられ、相当の農業生産力を有していたことが推測される。いっぽう、永納山の南側には、道前平野が広がる。この地にも古代の遺跡は数多くあり、周敷駅や条里制遺構などからみて重要地域の一つであったことは確かであろう。
 以上より、永納山の立地も古代山城の一般的特徴を備えていることは明らかである。ただ、この他に永納山に固有の特徴として、わずか一三三メートルの低い山に築城されており、しかも、海に近接していることをあげることができる。それゆえ、永納山は海上交通を考慮して築城されたものであろう。しかし、いっぽう古代の海上ルートの一つである北四国沿岸航路からやや内陸に位置しているという地理的状況からみれば、攻撃的な要素は薄く、防禦的な目的で築城された可能性が強いといえよう。
 次に、永納山の規模についてみると、城線は永納山とそれに隣接する医王山を取り込み、全長約二、六〇〇メートルである。朝鮮式山城は概して大規模であるが、神籠石山城の中では永納山は平均的な規模といえる。
神籠石山城の形態には二類型がある。一つは九州型(包谷式)とよばれ、城線が山頂を含みながら山裾にまで及ぶものであり、もう一つは瀬戸内型(鉢巻式)とよばれ、山頂周辺を取り込むだけで山裾には及ばないものである。このような類型によって永納山をみると、その形態は明らかに九州型に属するといえる。つまり、永納山は瀬戸内に多くみられる鉢巻式とは形態を異にしている。このように神籠石山城は一様ではない。
 永納山城内の遺構の中で最も重要なものは列石である。それは神籠石山城を特徴づけるものであると同時に、時代的な手がかりを与えるものである。永納山の列石はほとんど自然石に近いものを使用しており、加工されているとしてもその度合は少ない。そのため、列石間の接続は一部分にとどまり、面と面とが密着していない。ところが、九州の神籠石山城の場合、列石はほとんど切り石であり、しかもそれらが隙間なく配列されて外観を美しくすることに意を用いているように思われる。このことからみて永納山の列石は九州の神籠石の列石に比し、少なくとも技術的には未熟な形態を示すといえる。
 列石の他に永納山で普遍的にみられる遺構は土塁である。土塁は城の防衛にとってきわめて重要な機能を果たすものであるが、永納山の土塁は長年の風化によって、当時の状態とはかなり変化しているようである。まず、土塁の規模は場所や地形によって一定ではないが、土塁基底部の幅は二〇メートルから一〇メートルである。また、基底部から頂上部までの高さは一・ニメートルから三・八メートルの範囲であり、他の神籠石山城に比し、かなり大規模といえる。なお、この土塁は版築工法によって築造されている。版築とは土を層状につき固めたものであり、日本では古墳時代以後にその使用例がみられるものの、その明確な伝来時期は明らかでない。また、この工法は他の山城においてもみられ、永納山のみの特殊な工法ではない。それゆえ、版築工法の使用ということのみによって築城時期を推定することは困難である。
 今まで列石と土塁について述べてきたが、これ以外の城内遺構として水門・倉庫・城門・望楼などがあったと推測される。しかし、これらは現在、確定できるものではないため、ここでは触れないことにする。

 築城の時期と主体

 築城の時期を推定する有力な材料は考古学的遺物であろうが、永納山の場合、その手がかりとなるものは検出されていない。このような場合、築城にあたって使用された尺度を検討することが有効である。たとえば、佐賀県のおつぼ山神籠石の柱穴間の距離や朝鮮式山城の礎石間の距離などから時代推定をおこなっている例がある。永納山には柱穴や礎石はみられないが、列石が全て直線構造であるため、屈折点から屈折点までの距離を測定することは可能である。この列石間の距離では五・七メートルが最も多く使用されており、この距離が周尺の三〇尺、唐尺の一九尺とする見解などがある。また、測定値の多くが高麗尺に一致するとの説もある。これらのなかでいずれの尺度が使用されたかによって、築城の推定時期もかなり変動することになる。ただ、このように多様な見解があるが、尺度は時代によって多少の伸縮があり、また測定距離が長ければ誤差を生じやすい傾向がある。また、高麗尺と唐尺のように両者が併用されていた期間もあり、したがって、尺度による時代推定はかなりのあいまいさを伴うことは否定できない。築城時期の確実な推定は結局、今後の考古学的調査による他はないであろう。
 永納山を築城した勢力についても、考古学的調査の十分でない現在の時点で、軽々しくこれに言及することはできないが、主として文献によってその周辺をさぐってみることにする。文献のなかにも、この問題の直接手がかりとなるものはないが、古代山城が大和朝廷の国家的企画によったことは認めてよいであろう。そうした場合、永納山周辺の豪族が築城に無関係であったはずはない。永納山に近接していた古代豪族には今治平野の越智氏、道前平野の凡直氏などがいる。
 まず、越智氏に関する史料として延暦一〇年(七九一)に越智郡人越智直広川ら五人が言上した記事がある(続日本紀)。それによれば、紀博世は推古朝の時に伊予国に派遣され、そこで越智直の女をめとって在手をもうけた。以来、越智姓を名のったが、改めて紀氏の姓を賜わりたいというものである。これによって、紀氏と越智氏が古くより結びついていたことがわかる。それは紀氏系図や越智系図によっても確かめることができるところである。紀氏はもと新羅系の氏族である。この紀氏とその同族は瀬戸内海の重要な地を占拠していたと考えられている。『伊予国風土記』逸文には、野間郡の熊野の地名の由来として、かつてここで熊野という船を造ったということが伝えられている。この熊野は紀氏の本拠地である紀伊国の熊野に由来するものであろう。この記事の背景に紀氏の存在をみることも可能である。
 それでは渡来系氏族である紀氏と越智氏が密接な関係をもったのはいかなる理由によるのだろうか。その背景には推古朝の朝鮮半島をめぐる厳しい対外的緊張があった。この時期に紀氏と深いかかわりをもつ吉士が顕著な活躍をしているが、彼らの活動の背後に瀬戸内海の海上航路を地盤とする紀氏の存在があった。このような性格をもつ紀氏が伊予国で伝統的な水軍兵力を有したと考えられる越智氏と結びつくことは自然であったろう。結局、越智氏は渡来系氏族とつながり、同時に、海上にも勢力をもっていたということができる。このような状況から判断して、越智氏が永納山の築城にあたって何らかの関わりをもった可能性があると考えられる。
 つぎに、瀬戸内海の周辺に分布する凡直氏は、対外的緊張に対処するため、六世紀後半に設置された。伊予の凡直は奈良時代においてもなお強大な勢力を有し、同族の分布も永納山に近接する桑村郡を含め広範囲に及んでいる。また、宇摩郡の東宮山古墳は大陸や朝鮮半島と関わりをもつ遺物を多く出土するので、これを凡直の墳墓に比定する見解がある。このような事情からすれば、伊予国の大豪族であった凡直が永納山の築城に関与した可能性もまた否定できないと思われる。
 この他の豪族の検討も必要と思われるが、いずれにせよ、永納山の築城は大和朝廷の権力を背景として、在地の有力豪族や対外関係において活躍した氏族らとの協力によってなされたものであったと推測される。

 永納山の終焉

 永納山が古代山城としての意味をもちえたのは、対外的緊張の高揚していた時期およびそれにもかかわらず律令的な軍事制度が未成立であった時期であったろう。したがって、これらの要因の解消とともに、永納山も城としての役割を喪失することになったと考えられる。
 まず、白村江の戦い以後の対外関係は、天智年間には依然として緊張状態が続いていたが、天武・持統期以後、新羅との国交回復がなされ、ついで大宝二年(七〇二)遣唐使の派遣によって唐との関係も好転した。このようにして、八世紀初めに対外的緊張は、完全に解消された。つぎに、軍団制の成立する以前の軍事力の中心は国造軍であった。そして、このような国造軍を統轄したのが伊予国などに置かれた総領であった。この過渡的な軍制である総領が大宝元年(七〇一)に廃止され、律令的軍制である軍団制が成立するとともに、各地の朝鮮式山城も相ついで廃止されている。大宝律令成立以前、山城に関するものはすべて改修記事であり、廃止されたものはみあたらない。したがって、大宝律令の制定、軍団制の成立が山城廃止の画期であったということができよう。
 ところで、朝鮮式山城の廃止の経過を地域別にみると、河内→備後→筑紫の順となっており、大陸から直接的な影響を受けにくい地域から、順次廃されているようである。ただ、これらはすべて朝鮮式山城に関するものであり、神籠石山城については不明である。しかし、城としての役割が同様であったとすれば、永納山を含めた神籠石山城もまた八世紀前半頃に廃止されたのではなかろうか。たとえ廃止に至らぬまでも、城としての実質的機能はすでに喪失していたと推測することは可能であろう。

図1-3 古代山城の分布

図1-3 古代山城の分布


図1-4 永納山の位置

図1-4 永納山の位置