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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

一 古代貴族の来浴

 記紀と伊予

 記紀にあらわれた伊予国に関する記事はきわめて少ない。そして、両書の性格上、大和朝廷の勢力伸張が中心的な内容であり、地方はそれに服属する対象として描かれている。それゆえ、伊予国の記事もすべて中央の歴史の動向を述べる必要から記されている。したがって、記紀のみによって、古代の伊予を明らかにすることは困難であり、他の文献との比較・検討が必要であろう。
 まず、伊予・エヒメの起源についてみていこう。『日本書紀』神代の国生み神話によれば、伊弉諾尊・伊弉冉尊が淡路島・豊秋津島を生んだあとに伊予二名洲を生んだことが記されている。また『古事記』にも同様の記事がみえ、ここでは伊予二名洲について「此の島は、身一つにして面四つ有り、面毎に名あり、故、伊豫国は愛比賣と謂ひ」とある。これらの記事から伊予二名島は四国全体を総称するものであり、そこに「伊予」の名を冠せられていることは、大和朝廷が伊予国を四国の最も重要な地として認識していたことを示す。また、伊予二名洲の出生を三番目にあげていることは、伊予国が比較的早く朝廷の支配下に組み込まれたことを反映するものであろう。

 軽太子と軽皇女の配流

 『日本書紀』允恭二三年条に軽太子に関する次のような記事がみえる。木梨軽皇子の同母妹軽大娘皇女は容姿端麗であった、太子は、皇女と結婚したいと思っていたが、罪になるため黙していた、しかし、その情を抑えることができず、ついに相姦の罪をおかした、のち、このことが発覚し、太子は罪を免れたが、軽皇女は伊予に配流された、という。ところが、同書允恭四二年に再び軽太子に関する記事がみえる。そこには、軽太子は暴虐で、軽皇女を姦したため群臣たちはこれに従わず、穴穂皇子に従った、そこで太子は、穴穂皇子を討とうとしたが敗れて自決した、また、伊予国に配されたともいう、とあり、軽太子の配流は皇位継承をめぐる問題からおこったとされている。次に、『古事記』は、先の允恭四二年条とほぼ同様の内容を記しているが、ここでは太子は捕えられて伊予の湯に流され、軽皇女は皇子を慕って伊予にきて心中したとあり、自決したとはみえない。
 これらの記事にもとづいて二人の配流先を比定しようとする考えもあるが(松山市姫原の比翼塚と川之江市東宮山古墳が比定地としてあげられている)、はたしてこの記事は史実なのであろうか。軽太子が皇位継承争いの犠牲者であったことは疑いないとしても、記紀の内容が伝聞の形式で記され、しかも時代的にも全てが一致しない。さらに、それら相互の内容に多くの矛盾がみられることなどからみれば、太子の伊予への配流は疑問としておくのが妥当と思われる。
 なお、時代はやや遡るが、『伊予国風土記』逸文には、景行天皇・仲哀天皇・神功皇后の伊予行幸が記されている。しかし、これらも正史である記紀に記されていないことからしても、容易に事実とは信じがたい。

 聖徳太子の来湯

 聖徳太子の来湯に関する記事は、『伊予国風土記』逸文にある。これによれば、太子は推古三年(五九五)に来朝した高句麗僧恵慈と寵臣の葛城臣らとともに道後の湯に来られた、太子は温泉の効能に感嘆してその湯の側に碑文を建てられた、その場所は温泉の南側の伊佐邇波の岡である。という。ただ、太子の来湯については同書以外にこれを傍証する史料は残されていない。それだけにその真偽について様々な見解が生まれることになった。
 まず、太子の来湯を肯定する説からみていこう。その理由は、温泉付近から奈良時代以前のものと推定される寺院の礎石や百済式単弁蓮華文瓦・複弁式蓮華文瓦などが出土していることである。これから直接に太子の来湯を証明できないが、少なくとも太子の時代に、この地が大和朝廷と密接な関係をもっていたことは確かであるから、太子来湯の可能性もあると推測するのである。
 いっぽうこれを疑問とする説は次のようなものである。まず、温泉碑文には法興六年一〇月歳在丙辰と記してあるが、古代の一般的な形式は年号のあとに干支・月日の順に書くのが普通であり、形式上疑問の余地がある。また、「法興」の年号についても疑問があるとされている。つまり、大化前に年号の使用例はないが、『上宮聖徳法王帝説』や法隆寺金堂釈迦三尊造像記に「法興」の年号がみえることから、一般に私年号と考えられている。この年号は、法興寺に由来するが、寺名としての「法興」は大化以後に使用されたとする見解もある。それゆえ、太子が来湯した当時に存在した年号であると断定できない。
 さらに、推古四年(五九六)一一月に法興寺が完成したが、そのおり住職として当然同寺にいたはずの高句麗僧恵慈が『伊予国風土記』逸文では、同年一〇月に伊予の湯に来られたとある。したがって、もし太子らの来湯が事実であったとすればその一行は、わずか一か月で大和から伊予を往復したことになる。当時、伊予への行程は海路で一一日であり、往復二〇日余であった。したがって時間的に決して不可能ではないが、皇族の行幸としてはあまりにも慌しく不自然であるとも考えることができる。また、太子を「法王大王」としているが、これも太子の年齢(当時二四歳)から考えて不自然であるとする見解もある。
 このように、太子の来湯には多くの疑問があり、にわかに事実であると断定することはできず、むしろ近年は否定的な見方が有力になりつつある。

 温泉碑文をめぐって

 太子の来湯そのものに疑問があることから、太子が道後の地に温泉硬文を建立したとすることにも当然慎重でなければならないだろう。ともあれ、『風土記』逸文に記された温泉碑文は一四九文字に及び、和歌山県隅田八幡宮所蔵の鏡の銘文とともに日本最古の金石文として知られる。そして、この碑文は太子の思想を反映したものと考えられ、きわめて歴史的価値の高い文章であることは確かである。
 ところで、この温泉碑文がもし事実でないとすれば、なぜこのような伝承が発生したのかが問題となろう。その理由について、一つの見解がある。すなわち、松山平野を中心とする地域には、来住廃寺(松山市来住町)や湯ノ町廃寺(松山市祝谷)から法隆寺式軒丸瓦が出土し、また、その伽藍配置が法隆寺式であるなど、法隆寺の勢力が早くから存在したと考えられ、このような事情を反映して太子の来湯伝承や温泉碑文が生まれたのではないかとするのである。確かに、伊予国には、法隆寺の荘園が一四か所と多く存在し、そのほとんどが松山平野に集中している。それらの点からすればひとつの興味深い見解ではあろう。いずれにせよ、今後、太子伝承を理解する場合、このような伊予国の法隆寺勢力の動向と結びつけて考えることが必要であると思われる。(なお、両廃寺の遺構等については『原始・古代I』第五章第二節参照)。

 太子来湯の背景

 太子来湯(あるいはその伝承)の背景として、さきに述べた法隆寺勢力の影響のほかに、今一つ朝鮮半島をめぐる緊迫した情勢があったことが考えられる。推古朝の前半、大和朝廷と新羅との間に厳しい緊張関係が生じていた。すなわち、崇峻四年(五九一)一一月、紀男麻呂宿禰・巨勢猿臣・大伴囓連・葛城烏奈良臣らを大将軍とし、二万余の軍を派遣し、推古三年(五九五)に帰国している。なお、葛城烏奈良臣は、太子が伊予の湯に行幸した際に随行したとされる太子の寵臣である。さらに、同八年(六〇〇)にも万余の軍をもって新羅を討つとあり、次いで同一〇年には、太子の同母弟の来目皇子を征新羅大将軍とし、二万五千人の軍を動員している(日本書紀)。
 このように、太子が伊予の湯に来られたとされる推古四年前後の対外情勢はきわめて緊迫していた。なかでも推古一〇年の新羅征討計画は、来目皇子を大将軍とし、他の中央豪族の名がみえないことから、太子の主導によったと思われる。そして、この時の兵は「諸の神部及び国造・伴造等」とあり、地方豪族も多く含まれていたようである。この征討軍に伊予の豪族が含まれていたかどうかは不明であるが、一般に外征軍には西日本の地方豪族が多く動員されたと考えられており、伊予の豪族が参加した可能性は否定できない。このように、伊予の豪族の動員や水軍の編成などがおこなわれたと推測すれば、ここに太子の外征計画と伊予とが結びつくことになる。このような情勢が太子の来湯(あるいはその伝承の発生)の背景のひとつとなったと思われる。

 舒明天皇の行幸

 聖徳太子が来湯したと伝えられる推古三年(五九五)から四〇余年後の舒明一一年(六三九)一二月一四日、舒明天皇は伊予の湯に行幸し、翌一二年四月に伊子から厩坂宮に帰還している(日本書紀)。この舒明天皇の行幸は、『伊予国風土記』逸文にも天皇と皇后が共に来浴したことがみえることから、かなりの信頼性をおくことができる。ただ、これを事実とすれば、天皇の伊予国への滞在が四か月の長期にわたることになり、単なる保養以外の目的があったのではないかという憶測も成り立つ。しかし、舒明天皇は、舒明三年(六三一)九月から一二月にかけて有馬温泉に行幸しており、同一〇年(六三八)にも再び同温泉を訪れるなど、しばしば保養地へ行幸している。この場合も長期滞在であるが、保養以外の目的があったとは記されていない。
 また、舒明朝の対外関係は、緊張状態が解消されており、この前後の時代を通じて最も安定していた。これらの事情から考えれば、舒明天皇の伊予の湯への行幸に、保養以外の目的があったとは、今のところ考えられない。